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第一章 過去の影
序幕 Prologue
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兄さんが、死んだ。
それが現実だと、当初僕は信じられなかった。でも、もう一人の兄、オリヴィエ兄さんの結婚式の日に、すべてがはっきりとわかったんだ。ブリアック兄さんはもう、戻ってこないって。
それは九月の始まりの残暑日で。午前中は暑すぎて午後の式が心配だった。でも通り雨が降ったおかげで気温が落ち着いて、外での式にはちょうどいい天気になった。
義姉さんになるのがあの人なのは不思議だったけれど、その花嫁姿は綺麗だった。みんな祝福していたし、僕も幸せそうな空気を肌で感じていた。
ただ、兄さんがひとり、いない。それだけ。
たくさんの人に会った。僕は上手いこと笑った。それがその場ではふさわしいのだと思ったから。
父さんと母さんは、必死に忘れようとしている。笑顔をかぶって、まるで仮面舞踏会だ。僕たちはみんな、幸せなふりをしている。でも、僕はその空気に馴染めない。そこにいない兄さんのことばかりを考えて、同じくらい暑い夏の日を思い出していた。
あのころ僕はまだ小さくて、それでもブリアック兄さんは目線を合わせて、いっしょに泥遊びをしてくれた。
バカみたいに笑い合った。いっしょに怒られた。
あの時は、こんなことになるなんて思いもしなかった。
「佳き日に与ります」
「ありがとうございます」
そんなやり取りが、僕の唇を上滑りしていく。
花嫁のソノコは世界で一番愛されている顔をしている。その手を握っている花婿のオリヴィエ兄さんは微笑んでいる。ソノコは綺麗だった。とても。
僕の笑顔もみんなの祝福も、掴もうとすればするほど遠ざかっていく。それらは僕にとって、まるで逃げ水のようだった。あるように見えて、実体がないんだ。
けれど、みんな笑っている。みんな、みんな。
だから、もしかして、僕だけなのかとふと思ってしまうんだ。
忘れたくないのは。
ブリアック兄さん。
どうしてあんな事をしたの。
「びしょ……テオフィルくん。お兄さんを、わたしにください。がんばって……幸せにします!」
式の前日、ソノコは僕へそう言って頭を下げた。真っ赤な顔で。なにを今さらだと思った。オリヴィエ兄さんは、ソノコに心底惚れていて、もうすでに幸せの絶頂にいる。
ソノコは、すごいよ。
僕たち家族に起こった事を知っていて、それでもオリヴィエ兄さんの手を握ったままだった。振り払わなかったんだ。すごい人だよ。
ブリアック兄さんがしたことを、全部知っているのに。それで死んだことも、知っているのに。
僕の目を真っ直ぐに見るんだ。
だから僕は「オリヴィエ兄さんをよろしくお願いします」って言って、頭を下げた。
忘れられない、今年の七月中旬の週末。少しだけ小雨が降った。ブリアック兄さんが、棺に入っているのを僕が見たその日は。
オリヴィエ兄さんの判断でソノコには会わせなかった。お別れらしいことはなにも言えずに、僕はふたが閉まって行くのを見ていた。お墓の場所は知らない。聞かなかったから。ただ、静かに埋葬場所へと去って行く自動車を見送った。母さんの手を握って。
父さんと母さんは、どうにか平静を保つ努力をしている。なにも動揺していない風な顔を作る。哀悼期間でさえそうで、まるで二人は罪人みたいだった。どうしてだよ。二人は悪くないだろ。
じゃあ、誰が悪いかなんてわかりきっているけれど、だから僕は思うんだ。なんでだよって。
兄さん、ブリアック兄さん。なんでだよ。
見せてもらった通知書には、謀議罪って言葉と、刑を執行された日時が書かれていたんだ。
棺の中で眠っていたその姿は、綺麗に整っていた。せめて生まれ育ったグラス侯爵領の土に馴染めるよう、土地色である緑のクラヴァットをしていた。知っている。その下には、刑の縄痕があったんだろ。苦しかったかな。すぐに死ねたのかな。最後に、なにを考えていたのかな。
兄さん。なんでだよ。
ブリアック兄さん。
訪れたなんの変哲もない、その数日後の週明け。とても暑かった。
僕の部屋にもそっと朝刊が届いた。そうお願いしていたから。一面広告の哀悼期間告知。僕はそのページを切り取って、机の引き出しに入れた。
そのページを最後に、その名前はどこにも記されなくなるんだ。ブリアック・ボーヴォワール。十七歳離れた、僕の上の兄。
葬儀は家族のみの密葬にて終了って書かれていたんだ。終わってないよ。僕の中では何も終わっていない。
どうしてみんな、過去にしてしまえるんだろう。僕には、そのやり方がわからない。
忘れたくないって言っちゃだめかな。
だめなのかな。
どうしてかな。
そして、今は九月。今年の夏は長いだろうと肌で感じる毎日だった。僕はブリアック兄さんが埋葬された、七月の小雨の日を考えている。ずっと。
あの日は小雨だったんだ。だから、僕の気持ちや母さんがひとりで拭った涙を、それに例えるなんてできなかったよ。だって、とても爽やかで、上がれば虹が出るって思えそうだったんだ。
でも、見えたのは逃げ水だった。
そこにはなにもなかったんだ。
なにも。
ブリアック兄さん。
せめて最後に、僕になにか言うことはなかった? 僕は兄さんが、なんであんな事をしたのかを知りたい。怒ったっていい。笑ったっていい。泣いてくれたってかまわなかったんだ。なんでなにも言ってくれなかったの? ずっと考えていた何かがあるなら、どうしてそれを誰にも言ってくれなかったの? だから僕は、僕たちは、言い訳も弁護もできなかったんだ。兄さんを。
なんでこんな、茶番みたいな死に方したんだよ。
生きててよ兄さん。生きててよ兄さん。
なんでだよ。
それでも、そんな中で学んだことがあるよ。記憶はまるで逃げ水のようだって。近づくたびに遠ざかり、手を伸ばせば消えてしまう。はっきりと見えていたはずなのに。忘れたくないって思っているのに。
上書きされてしまったんだ。
ブリアック兄さん。あのね。
僕はもう、兄さんの笑顔を思い出せないんだ。
どんなに思い出そうとしても、浮かんでくるのはあの日の、冷たくなった死に顔だけ。忘れたくないはずなのに。
僕の記憶はまるで、逃げ水のように消えていく。
それが現実だと、当初僕は信じられなかった。でも、もう一人の兄、オリヴィエ兄さんの結婚式の日に、すべてがはっきりとわかったんだ。ブリアック兄さんはもう、戻ってこないって。
それは九月の始まりの残暑日で。午前中は暑すぎて午後の式が心配だった。でも通り雨が降ったおかげで気温が落ち着いて、外での式にはちょうどいい天気になった。
義姉さんになるのがあの人なのは不思議だったけれど、その花嫁姿は綺麗だった。みんな祝福していたし、僕も幸せそうな空気を肌で感じていた。
ただ、兄さんがひとり、いない。それだけ。
たくさんの人に会った。僕は上手いこと笑った。それがその場ではふさわしいのだと思ったから。
父さんと母さんは、必死に忘れようとしている。笑顔をかぶって、まるで仮面舞踏会だ。僕たちはみんな、幸せなふりをしている。でも、僕はその空気に馴染めない。そこにいない兄さんのことばかりを考えて、同じくらい暑い夏の日を思い出していた。
あのころ僕はまだ小さくて、それでもブリアック兄さんは目線を合わせて、いっしょに泥遊びをしてくれた。
バカみたいに笑い合った。いっしょに怒られた。
あの時は、こんなことになるなんて思いもしなかった。
「佳き日に与ります」
「ありがとうございます」
そんなやり取りが、僕の唇を上滑りしていく。
花嫁のソノコは世界で一番愛されている顔をしている。その手を握っている花婿のオリヴィエ兄さんは微笑んでいる。ソノコは綺麗だった。とても。
僕の笑顔もみんなの祝福も、掴もうとすればするほど遠ざかっていく。それらは僕にとって、まるで逃げ水のようだった。あるように見えて、実体がないんだ。
けれど、みんな笑っている。みんな、みんな。
だから、もしかして、僕だけなのかとふと思ってしまうんだ。
忘れたくないのは。
ブリアック兄さん。
どうしてあんな事をしたの。
「びしょ……テオフィルくん。お兄さんを、わたしにください。がんばって……幸せにします!」
式の前日、ソノコは僕へそう言って頭を下げた。真っ赤な顔で。なにを今さらだと思った。オリヴィエ兄さんは、ソノコに心底惚れていて、もうすでに幸せの絶頂にいる。
ソノコは、すごいよ。
僕たち家族に起こった事を知っていて、それでもオリヴィエ兄さんの手を握ったままだった。振り払わなかったんだ。すごい人だよ。
ブリアック兄さんがしたことを、全部知っているのに。それで死んだことも、知っているのに。
僕の目を真っ直ぐに見るんだ。
だから僕は「オリヴィエ兄さんをよろしくお願いします」って言って、頭を下げた。
忘れられない、今年の七月中旬の週末。少しだけ小雨が降った。ブリアック兄さんが、棺に入っているのを僕が見たその日は。
オリヴィエ兄さんの判断でソノコには会わせなかった。お別れらしいことはなにも言えずに、僕はふたが閉まって行くのを見ていた。お墓の場所は知らない。聞かなかったから。ただ、静かに埋葬場所へと去って行く自動車を見送った。母さんの手を握って。
父さんと母さんは、どうにか平静を保つ努力をしている。なにも動揺していない風な顔を作る。哀悼期間でさえそうで、まるで二人は罪人みたいだった。どうしてだよ。二人は悪くないだろ。
じゃあ、誰が悪いかなんてわかりきっているけれど、だから僕は思うんだ。なんでだよって。
兄さん、ブリアック兄さん。なんでだよ。
見せてもらった通知書には、謀議罪って言葉と、刑を執行された日時が書かれていたんだ。
棺の中で眠っていたその姿は、綺麗に整っていた。せめて生まれ育ったグラス侯爵領の土に馴染めるよう、土地色である緑のクラヴァットをしていた。知っている。その下には、刑の縄痕があったんだろ。苦しかったかな。すぐに死ねたのかな。最後に、なにを考えていたのかな。
兄さん。なんでだよ。
ブリアック兄さん。
訪れたなんの変哲もない、その数日後の週明け。とても暑かった。
僕の部屋にもそっと朝刊が届いた。そうお願いしていたから。一面広告の哀悼期間告知。僕はそのページを切り取って、机の引き出しに入れた。
そのページを最後に、その名前はどこにも記されなくなるんだ。ブリアック・ボーヴォワール。十七歳離れた、僕の上の兄。
葬儀は家族のみの密葬にて終了って書かれていたんだ。終わってないよ。僕の中では何も終わっていない。
どうしてみんな、過去にしてしまえるんだろう。僕には、そのやり方がわからない。
忘れたくないって言っちゃだめかな。
だめなのかな。
どうしてかな。
そして、今は九月。今年の夏は長いだろうと肌で感じる毎日だった。僕はブリアック兄さんが埋葬された、七月の小雨の日を考えている。ずっと。
あの日は小雨だったんだ。だから、僕の気持ちや母さんがひとりで拭った涙を、それに例えるなんてできなかったよ。だって、とても爽やかで、上がれば虹が出るって思えそうだったんだ。
でも、見えたのは逃げ水だった。
そこにはなにもなかったんだ。
なにも。
ブリアック兄さん。
せめて最後に、僕になにか言うことはなかった? 僕は兄さんが、なんであんな事をしたのかを知りたい。怒ったっていい。笑ったっていい。泣いてくれたってかまわなかったんだ。なんでなにも言ってくれなかったの? ずっと考えていた何かがあるなら、どうしてそれを誰にも言ってくれなかったの? だから僕は、僕たちは、言い訳も弁護もできなかったんだ。兄さんを。
なんでこんな、茶番みたいな死に方したんだよ。
生きててよ兄さん。生きててよ兄さん。
なんでだよ。
それでも、そんな中で学んだことがあるよ。記憶はまるで逃げ水のようだって。近づくたびに遠ざかり、手を伸ばせば消えてしまう。はっきりと見えていたはずなのに。忘れたくないって思っているのに。
上書きされてしまったんだ。
ブリアック兄さん。あのね。
僕はもう、兄さんの笑顔を思い出せないんだ。
どんなに思い出そうとしても、浮かんでくるのはあの日の、冷たくなった死に顔だけ。忘れたくないはずなのに。
僕の記憶はまるで、逃げ水のように消えていく。
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