3 / 38
第一章 過去の影
第3話 不協和音 dissonance
しおりを挟む
音楽室での授業は初めてだ。だから音楽担任教師とも初顔合わせだった。
僕は校内の教室の配置を記憶しているので、自分の教室である十学年の三階、七組から二階へと向かった。なぜか僕が先頭で他のやつらがぞろぞろ着いてくる形になる。
階段を降りたところで、すでに他のやつらにも音楽室の場所は知れただろう。かき鳴らされるピアノの音が聴こえたから。古典曲でその格調の高さと演奏の難しさで有名な曲だ。レオンが口笛でも吹きそうな表情で「すごいな」と言った。僕は『いかにも』な弾き方だと思ったけれど、口にはしなかったよ。野暮だからね。
後方の扉から教室の中へ入る。演奏を邪魔するつもりはないし、目立ちたくもないから。と言っても、最初のひとりだから目立つんだけれど。窓際の、一番後ろの席に着いた。レオンがなにも言わずに隣りへ座る。
演奏は最後まで続いた。その間に生徒たちは各々好きな席へ着く。僕はどこか白けてしまって、その音を聞き流していた。ピアノを弾いていたのは若い女性の教師で、これは僕の偏見かもしれないけれど、生徒を圧倒するための演出だろう。それが見え見えだったんだ。実際に教室内では傾聴の姿勢だったし、それに尊敬の空気感もあったんじゃないかな。
音楽室の空気は重々しく、ピアノの音が壁に反響して、冷たい静けさを作り出していた。きちんと整頓された楽譜の棚。それに並べられた譜面台。それらはこの教室が、この教師の縄張りだと主張するためにあるように思えた。
数分後に第一楽章が弾き終えられる。教室内が静まり返って、そのうちぱらぱらと拍手が出て、それが大きくなった。僕はそれに加わらなかったけれど、レオンは熱心に手を叩いていたよ。そして先生は立ち上がって、僕たちの方へ体を向けた。その上まるで発表会みたいな礼をしたんだ。白けるよね。
「――ちょっと。その、後ろの席の子。立ちなさい」
少し風が強い窓の外を見ていた。だからその言葉も聞き流していたんだけれど、僕の袖が引っ張られる。そちらを見たらレオンが心配そうな顔で僕を見ていた。その表情には、戸惑いとどう助ければいいのかわからない不安が浮かんでいる。そして教室の前方には、僕を睨んでいる音楽教師。
「――こちらへいらっしゃい」
明確に僕へ言っていたから、席から立ち上がって僕は横長の教室の前へ出た。他の生徒たちの視線が突き刺さる。ピアノの隣に立つ教師は僕より少し背が低い。そのせいで自然と見下ろす形になったが、それが気に入らなかったのかもしれない。それに、だらしない格好を見て、気に食わない僕を罰する理由を見つけたと思ったんじゃないかな。
彼女は、すごい形相のまま僕の首元の襟をつかんだんだ。とっさに反応できなかった僕は、されるがままになる。喉元の違和感に加えて、首が締まるような感覚に襲われた。呼吸が浅くなり、頭がくらくらする。
「どうしてボタンをきちんと留めていないの⁉ それに、リボンはどうしたの⁉」
無理矢理にボタンを留めようとされる。その瞬間、全身が固まった。喉に詰まったものが息を遮るようで、頭が真っ白になった。
僕は片手を大きく振ってそれを阻止しようとした。けれど腕を動かすことすらできなくて、平衡感覚すら失い鍵盤をなぞるようにピアノへと倒れ込む。めちゃくちゃな音が鳴り響き、僕の鼓膜を揺らす。
「ちょ、ちょっと、なにするのよ!」
動揺した声が振ってきた。首元からその手は外れている。けれど僕はまだその感触を引きずっている。めまいがする。床に手をつく。
視界がぼやけ、音が遠のいていく。周りのざわめきがかすかに聞こえるが、それもどこか遠くに感じる。息を吸っても、肺が膨らまない。
――苦しい。
――苦しい。
――苦しい。
喉から何かがせり上がる。口の中に嫌な苦味が広がった。吐き出す。それでも苦しい。ざわめきが聞こえる。名前を呼ばれても、肩に置かれた手を振り払う。もう一度吐く。苦しい。嫌な匂いがする。気分が悪い。
頭の中が真っ白なままで、何も考えられない。ただ『苦しい』という感覚だけが残る。
「――だいじょうぶ。テオフィルくん。深呼吸をして」
どこからともなく聞き覚えのある落ち着いた男声が聴こえた。これは誰だろう。教師や他の生徒たちのざわめきが遠ざかる中、その声だけが静かに、しかし確実に僕の耳に届く。もう一度喉元の違和感を吐き出す。深呼吸ってなんだっけ。
「そう。ゆっくり。息をして。――だいじょうぶ。だいじょうぶ」
その言葉が、僕の混乱した心に触れ、少しずつ現実へと引き戻してくれる。
急かすような声色じゃなかった。息を吸うこと。息を吐くこと。指示されるままに僕はそれに従う。肺に空気が入るのを自覚できた。
「立てる? 静かなところへ行こうか」
目の前に、静かに左手が差し出された。人差し指には金の指輪。あの人だ――その手を、僕はすがるようにつかんだ。
僕は校内の教室の配置を記憶しているので、自分の教室である十学年の三階、七組から二階へと向かった。なぜか僕が先頭で他のやつらがぞろぞろ着いてくる形になる。
階段を降りたところで、すでに他のやつらにも音楽室の場所は知れただろう。かき鳴らされるピアノの音が聴こえたから。古典曲でその格調の高さと演奏の難しさで有名な曲だ。レオンが口笛でも吹きそうな表情で「すごいな」と言った。僕は『いかにも』な弾き方だと思ったけれど、口にはしなかったよ。野暮だからね。
後方の扉から教室の中へ入る。演奏を邪魔するつもりはないし、目立ちたくもないから。と言っても、最初のひとりだから目立つんだけれど。窓際の、一番後ろの席に着いた。レオンがなにも言わずに隣りへ座る。
演奏は最後まで続いた。その間に生徒たちは各々好きな席へ着く。僕はどこか白けてしまって、その音を聞き流していた。ピアノを弾いていたのは若い女性の教師で、これは僕の偏見かもしれないけれど、生徒を圧倒するための演出だろう。それが見え見えだったんだ。実際に教室内では傾聴の姿勢だったし、それに尊敬の空気感もあったんじゃないかな。
音楽室の空気は重々しく、ピアノの音が壁に反響して、冷たい静けさを作り出していた。きちんと整頓された楽譜の棚。それに並べられた譜面台。それらはこの教室が、この教師の縄張りだと主張するためにあるように思えた。
数分後に第一楽章が弾き終えられる。教室内が静まり返って、そのうちぱらぱらと拍手が出て、それが大きくなった。僕はそれに加わらなかったけれど、レオンは熱心に手を叩いていたよ。そして先生は立ち上がって、僕たちの方へ体を向けた。その上まるで発表会みたいな礼をしたんだ。白けるよね。
「――ちょっと。その、後ろの席の子。立ちなさい」
少し風が強い窓の外を見ていた。だからその言葉も聞き流していたんだけれど、僕の袖が引っ張られる。そちらを見たらレオンが心配そうな顔で僕を見ていた。その表情には、戸惑いとどう助ければいいのかわからない不安が浮かんでいる。そして教室の前方には、僕を睨んでいる音楽教師。
「――こちらへいらっしゃい」
明確に僕へ言っていたから、席から立ち上がって僕は横長の教室の前へ出た。他の生徒たちの視線が突き刺さる。ピアノの隣に立つ教師は僕より少し背が低い。そのせいで自然と見下ろす形になったが、それが気に入らなかったのかもしれない。それに、だらしない格好を見て、気に食わない僕を罰する理由を見つけたと思ったんじゃないかな。
彼女は、すごい形相のまま僕の首元の襟をつかんだんだ。とっさに反応できなかった僕は、されるがままになる。喉元の違和感に加えて、首が締まるような感覚に襲われた。呼吸が浅くなり、頭がくらくらする。
「どうしてボタンをきちんと留めていないの⁉ それに、リボンはどうしたの⁉」
無理矢理にボタンを留めようとされる。その瞬間、全身が固まった。喉に詰まったものが息を遮るようで、頭が真っ白になった。
僕は片手を大きく振ってそれを阻止しようとした。けれど腕を動かすことすらできなくて、平衡感覚すら失い鍵盤をなぞるようにピアノへと倒れ込む。めちゃくちゃな音が鳴り響き、僕の鼓膜を揺らす。
「ちょ、ちょっと、なにするのよ!」
動揺した声が振ってきた。首元からその手は外れている。けれど僕はまだその感触を引きずっている。めまいがする。床に手をつく。
視界がぼやけ、音が遠のいていく。周りのざわめきがかすかに聞こえるが、それもどこか遠くに感じる。息を吸っても、肺が膨らまない。
――苦しい。
――苦しい。
――苦しい。
喉から何かがせり上がる。口の中に嫌な苦味が広がった。吐き出す。それでも苦しい。ざわめきが聞こえる。名前を呼ばれても、肩に置かれた手を振り払う。もう一度吐く。苦しい。嫌な匂いがする。気分が悪い。
頭の中が真っ白なままで、何も考えられない。ただ『苦しい』という感覚だけが残る。
「――だいじょうぶ。テオフィルくん。深呼吸をして」
どこからともなく聞き覚えのある落ち着いた男声が聴こえた。これは誰だろう。教師や他の生徒たちのざわめきが遠ざかる中、その声だけが静かに、しかし確実に僕の耳に届く。もう一度喉元の違和感を吐き出す。深呼吸ってなんだっけ。
「そう。ゆっくり。息をして。――だいじょうぶ。だいじょうぶ」
その言葉が、僕の混乱した心に触れ、少しずつ現実へと引き戻してくれる。
急かすような声色じゃなかった。息を吸うこと。息を吐くこと。指示されるままに僕はそれに従う。肺に空気が入るのを自覚できた。
「立てる? 静かなところへ行こうか」
目の前に、静かに左手が差し出された。人差し指には金の指輪。あの人だ――その手を、僕はすがるようにつかんだ。
34
あなたにおすすめの小説
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
思いを込めてあなたに贈る
あんど もあ
ファンタジー
ファナの母が亡くなった二ヶ月後に、父は新しい妻とその妻との間に生まれた赤ん坊を家に連れて来た。義母は、お前はもうこの家の後継者では無いと母から受け継いだ家宝のネックレスを奪うが、そのネックレスは……。
はじめまして、私の知らない婚約者様
有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。
見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。
けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。
ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。
けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。
この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。
悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに?
※他サイトにも掲載しています。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる