真冬の逃げ水 Mirage d'hiver

つこさん。

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第一章 過去の影

第3話 不協和音 dissonance

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 音楽室での授業は初めてだ。だから音楽担任教師とも初顔合わせだった。
 僕は校内の教室の配置を記憶しているので、自分の教室である十学年の三階、七組から二階へと向かった。なぜか僕が先頭で他のやつらがぞろぞろ着いてくる形になる。

 階段を降りたところで、すでに他のやつらにも音楽室の場所は知れただろう。かき鳴らされるピアノの音が聴こえたから。古典曲でその格調の高さと演奏の難しさで有名な曲だ。レオンが口笛でも吹きそうな表情で「すごいな」と言った。僕は『いかにも』な弾き方だと思ったけれど、口にはしなかったよ。野暮だからね。

 後方の扉から教室の中へ入る。演奏を邪魔するつもりはないし、目立ちたくもないから。と言っても、最初のひとりだから目立つんだけれど。窓際の、一番後ろの席に着いた。レオンがなにも言わずに隣りへ座る。
 演奏は最後まで続いた。その間に生徒たちは各々好きな席へ着く。僕はどこか白けてしまって、その音を聞き流していた。ピアノを弾いていたのは若い女性の教師で、これは僕の偏見かもしれないけれど、生徒を圧倒するための演出だろう。それが見え見えだったんだ。実際に教室内では傾聴の姿勢だったし、それに尊敬の空気感もあったんじゃないかな。
 音楽室の空気は重々しく、ピアノの音が壁に反響して、冷たい静けさを作り出していた。きちんと整頓された楽譜の棚。それに並べられた譜面台。それらはこの教室が、この教師の縄張りだと主張するためにあるように思えた。
 数分後に第一楽章が弾き終えられる。教室内が静まり返って、そのうちぱらぱらと拍手が出て、それが大きくなった。僕はそれに加わらなかったけれど、レオンは熱心に手を叩いていたよ。そして先生は立ち上がって、僕たちの方へ体を向けた。その上まるで発表会みたいな礼をしたんだ。白けるよね。

「――ちょっと。その、後ろの席の子。立ちなさい」

 少し風が強い窓の外を見ていた。だからその言葉も聞き流していたんだけれど、僕の袖が引っ張られる。そちらを見たらレオンが心配そうな顔で僕を見ていた。その表情には、戸惑いとどう助ければいいのかわからない不安が浮かんでいる。そして教室の前方には、僕を睨んでいる音楽教師。

「――こちらへいらっしゃい」

 明確に僕へ言っていたから、席から立ち上がって僕は横長の教室の前へ出た。他の生徒たちの視線が突き刺さる。ピアノの隣に立つ教師は僕より少し背が低い。そのせいで自然と見下ろす形になったが、それが気に入らなかったのかもしれない。それに、だらしない格好を見て、気に食わない僕を罰する理由を見つけたと思ったんじゃないかな。
 彼女は、すごい形相のまま僕の首元の襟をつかんだんだ。とっさに反応できなかった僕は、されるがままになる。喉元の違和感に加えて、首が締まるような感覚に襲われた。呼吸が浅くなり、頭がくらくらする。
 
「どうしてボタンをきちんと留めていないの⁉ それに、リボンはどうしたの⁉」

 無理矢理にボタンを留めようとされる。その瞬間、全身が固まった。喉に詰まったものが息を遮るようで、頭が真っ白になった。
 僕は片手を大きく振ってそれを阻止しようとした。けれど腕を動かすことすらできなくて、平衡感覚すら失い鍵盤をなぞるようにピアノへと倒れ込む。めちゃくちゃな音が鳴り響き、僕の鼓膜を揺らす。

「ちょ、ちょっと、なにするのよ!」

 動揺した声が振ってきた。首元からその手は外れている。けれど僕はまだその感触を引きずっている。めまいがする。床に手をつく。
 視界がぼやけ、音が遠のいていく。周りのざわめきがかすかに聞こえるが、それもどこか遠くに感じる。息を吸っても、肺が膨らまない。

 ――苦しい。
 ――苦しい。
 ――苦しい。

 喉から何かがせり上がる。口の中に嫌な苦味が広がった。吐き出す。それでも苦しい。ざわめきが聞こえる。名前を呼ばれても、肩に置かれた手を振り払う。もう一度吐く。苦しい。嫌な匂いがする。気分が悪い。
 頭の中が真っ白なままで、何も考えられない。ただ『苦しい』という感覚だけが残る。

「――だいじょうぶ。テオフィルくん。深呼吸をして」

 どこからともなく聞き覚えのある落ち着いた男声が聴こえた。これは誰だろう。教師や他の生徒たちのざわめきが遠ざかる中、その声だけが静かに、しかし確実に僕の耳に届く。もう一度喉元の違和感を吐き出す。深呼吸ってなんだっけ。

「そう。ゆっくり。息をして。――だいじょうぶ。だいじょうぶ」

 その言葉が、僕の混乱した心に触れ、少しずつ現実へと引き戻してくれる。
 急かすような声色じゃなかった。息を吸うこと。息を吐くこと。指示されるままに僕はそれに従う。肺に空気が入るのを自覚できた。

「立てる? 静かなところへ行こうか」

 目の前に、静かに左手が差し出された。人差し指には金の指輪。あの人だ――その手を、僕はすがるようにつかんだ。
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