真冬の逃げ水 Mirage d'hiver

つこさん。

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第二章 カウンセリングの始まり

第9話 心理相談 consultation psychologique

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「わたし、そろそろ失礼しますね。カミーユさんが、外で待っていらっしゃるので」

 カミーユはソノコの身辺警護を担当する女性だ。警護って言うよりは、ソノコの友達みたいな感じかな。オリヴィエ兄さんが雇ってるんだけど、まあ過保護だ。たしかにオリヴィエ兄さんの立場を考えたら、そのくらいの用心は必要かもしれない。なんだかんだ僕も、気安い人だった。もう数カ月顔馴染みだしね。

「カミーユ、中に入らなかったの?」
「なんだか、遠慮して入ってくれなかったんですー。新しい校舎とか、探検できるいい機会なのにー」

 カミーユがいれば一緒に歩き回るつもりだったみたいだ。ソノコは時々図太い。学校内で何か起こることもないだろうし、いっしょでなくてよかったかもしれない。
 では、とまた手刀を額に当ててから、嵐のようにソノコが去って行った。
 
 ちょうど、午前の授業が終わった。校舎に囲まれた中庭の中心にある、時計塔の鐘が鳴り響く。レヴィ氏の部屋は完全防音って言っていたから、それでも小さく聞こえるっていうことは、音の質が違うのかな。まあ、聞こえなかったら時報の用を成さないからこれでいい。

「お昼ねえ。なんか食べに行く?」

 レヴィ氏がたのしそうに言った。僕は特に楽しくもない。
 寮では気を回した寮長が部屋へ届くように手配してくれていたんだけれど、今後は食堂で摂るからいいって、今朝方断った。昼はどうしたって校舎側の食堂へ行かなければならない。嫌だな。それに、たいしてお腹も空いていない。僕は「いらない。食べて来たらどうですか」と促した。僕は本棚に読みたい本をみつけたから、しばらくここにいるつもりだ。

「あらあ、育ち盛りなんだからちゃんと栄養摂らなきゃだめよお。じゃあ、僕がなにか見繕ってくるわね」

 僕が授業へ戻る様子もないことをなにひとつ咎めずにレヴィ氏は部屋を出ていった。教師としてだめだと思う。僕は楽だけど。立ち上がって、目当ての本棚へ向かった。そして分厚い精神医療に関する本を取り出す。
 何回も読み込んで厚みを増した本だった。新品でまだ読まれていない本は、頭のところが袋綴じ状態で、最初はページを切り離しながら読むものだから。マディア公爵領レテソルで一時期ソノコと同居していたとき、僕がナイフ片手に読書をしていたら、すごく驚かれたな。ソノコの故郷では新品の本でもページがバラバラらしい。
 ソファに戻って僕は索引を開いた。つらつらと項目を眺める。たくさんの症例があって、その詳細ページの数字を示している。あてずっぽうにいくつか開いて流し読みしたら、目当てのものとぜんぜん違った。そして読み込んでいるうちに、みつけたんだ。

『精神的外傷後における記憶の瞬間的照り返し。また逆行再現。およびそれに伴う激しい心理的緊張と身体症状。』

 どくどくと、心臓が指先にあるみたいだった。ページをめくる手が不器用になる。まだ研究中の分野らしかった。二ページに渡っている項目だったけれど、症例がたくさんあったわけじゃない。それでも僕の視線はそこへ釘付けになって、目を離せなかった。あげられていた例は。

『症例一:二十代。男性。知人の死を直接目撃したことによる深い精神的動揺。また目撃した事案に類する事柄・要素への激しい身体的拒否反応。思い出そうとしていない状況での強制的な記憶の揺り起こしがある。多くの場合手足の震えや冷や汗を伴い、嘔吐感を覚える。焦燥感や怒り、悲しみといった否定的な感情を表す。場合により恐慌状態に陥り、他者や周囲を認識できなくなる。』

 ああ、僕はこれだ。きっとこれと同じだ。

 項目の最後に書かれている論文の題名を小声で諳んじて覚えた。本棚へ目を向けて、それが載っていそうな本がないかじっと見る。そしたらノックがあって、レヴィ氏が戻ってきた。両手に紙袋を抱えていた。

「あらあ、勉強熱心ね、テオフィルくん!」
「勉強熱心だったら、こんなところにいないですよ。おもしろいですね、この本」

 僕が手に持っていた本を閉じながら言うと、レヴィ氏はちょっとうれしそうな顔をして「えっ、興味ある⁉ どう、将来僕の研究室とか来ない?」と言った。嫌すぎて「嫌です」と即答した。露骨に眉尻を下げて「ええぇー!」とレヴィ氏が言う。
 本棚へ本を戻した。そして他の本の背表紙を指でなぞる。論文が載っていそうな本を取り出して「これ、よかったら貸してくれませんか」と頼んだ。レヴィ氏は「いいよ!」とソファに座りながら言った。

「……あのね、テオフィルくん。そんな本大学生でも読みたがらないわよ。やっぱ資質があるわ。うちの研究室へ」
「行きません」

 レヴィ氏が持ってきたのはクーペだった。棒パンにソーセージを挟んだものだ。懐かしい味がする。マディア領にいたとき何度か食べた。こんな行儀よく食べられないもの、そうそう普段の生活ではお目にかかれない。この学校はこういうのを日常的に摂取している一般層の生徒が約半数だ。それできっと食堂にも置いてあるんだろう。
 僕が忌避感なくかぶりついていると、レヴィ氏は多少キリッとした顔で「テオフィルくん。たぶんここに来るまでに七百回は聞かれたと思うけれど、いちおう職務だから改めて聞くよ。体調どう?」と言った。僕は飲み下すまでに時間がかかって、しばらくしてから「だいじょうぶです」と答えた。

「そう、よかった! 喉の調子が悪いの? たまに気にしてるように見えるけど」

 どきっとした。でもそれを気取られないように茶を口に運んで、レヴィ氏を見た。クーペにかぶりついて肉汁が飛び「あちっ」と言っている。僕の口は「なんでもないです。問題ありません」と言う。
 レヴィ氏はもぐもぐしながらうなずいて、しばらくしてから「成長期だしねえ。声変わりとかかも」と言った。それはもう終わったんだけど。十三のときに。でも言わなかった。

「あのね、僕、ここに引きこもっているけれど、いちおうこの学校の校医なのよ。非常勤の」
「知ってます。自覚ないんだと思ってました」
「給料泥棒だって言われないために働かなきゃいけないのよ」

 真顔でレヴィ氏が言ったので、僕も真顔で「もう言われてると思います」と言った。また眉尻を下げて「そんなこと言わないでよおー」とレヴィ氏は情けない声を出した。

「でね、モノは相談なんだけれど」
「嫌です」
「なにも聞いてないのに⁉」

 必死に頼み込んで来るので、レヴィ氏の話を聞いた。僕はさっき見た本の症例と、論文の題名が書かれていた部分をぼんやりと思い出した。

「いちおうね、なにか実績みたいのは捏ぞ……作らなくちゃいけなくて。登校したときだけでも、ちょっと話をしてもらえると助かるんだけど。もちろん、テオフィルくんのためにもなるかもしれないし、どうかな? 一時間! 一時間だけ!」

 乗せられているのはわかっていたし、人助けをさせる体なのもわかっている。でも僕はなんとなくうなずいた。ソノコみたいに、心理相談を定期的に受ける約束をした。なんとなく。
 ずっと忘れないように頭の中で繰り返している。題名。論文の。

『逆境体験における心的外傷性悲嘆とその回復へ向けて』

 筆者の名前は覚えるまでもなかったよ。

『ジョズエ・レヴィ』
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