真冬の逃げ水 Mirage d'hiver

つこさん。

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第三章 内なる葛藤

第11話 夜景 vue de nuit

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「……なんでこの自動車がここにあんの」
「ああ、レヴィ氏が来ているのだろう。呼ぶとソノコが言っていた」

 オリヴィエ兄さんと歩いて家へ着いたら、庭先に清潔だけどオンボロの二人乗り自動車が停まっていて、思わずつぶやいたら兄さんがそう言ったんだ。じゃあなんでさっき学校で別れたのさ、と思った。アシモフが見たことのない物体に興味津々で匂いをかぎに行く。まあべつに変な匂いとかはしない。
 玄関を開けたら美味しそうな香りがした。焦げた匂いはしないから、今日はもろもろ成功したんだろう。アシモフは早々に自分の場所で夕食の待機姿勢に入る。その頭をひとなでしてから僕は手を洗いに行った。

「あっ、おかえりなさい! お散歩ありがとう!」
「おかえりー、待ってたわよお」

 ソノコとレヴィ氏が台所に並んでなにかしていた。カミーユは食卓テーブルへ食器類を並べている。なんとなく、マディア公爵領の公使館で過ごした慌ただしい日々のことを思い出した。あのときは大所帯で、台所は一日中戦争だったな。もうすでに懐かしい記憶で、その記憶の中の僕は今と同じように無力だった。
 オリヴィエ兄さんはくつろいだ服装へ着替えて来て、食事を運ぶのを手伝った。僕はアシモフの餌を用意しながら、ちょっと少なくした方がいいか考えつつ、いつも通りの量で渡す。アシモフは自分が人間だと思っている節があって、僕たちが食事を始めるまで口を着けない。せつない瞳で僕を見るから、僕は席に着いて食べ始めるふりをした。途端にがっついた。

 夕食の席はとても穏やかだった。張り切ったソノコの暴走を阻止したカミーユのおかげで美味しい食事だったよ。なかなか見ない顔ぶれ。だから、カミーユがレヴィ氏にけっこう質問とかしていて、会話も途切れることはない。でもそれらは全部僕の上をすり抜けて行くようだった。あいづちを打つふりで、僕は馴染めない気持ちのままスープを口に運んだ。

「テオくん、新しい学校はどうですか?」

 何気ない質問の形で、ソノコが言った。その声だけはっきりと僕へ届いてどきりとする。カミーユも、オリヴィエ兄さんも、僕の答えを待っているみたいに黙った。レヴィ氏は「これ美味しいわあ、おかわりある?」と言って立った。
 ちょっとの間、レヴィ氏がスープをすくう音だけになった。そして手が伸びて来て「テオフィルくんも、もうちょっと食べなさいよ」と皿を持って行かれる。まあいいけど。僕は戻ってきた皿をみつめながら、質問への回答を探して「べつに」と言った。

「……前の学校と、そんなに変わらないよ。共学だから、ちょっと気を遣うくらい」
「どんな?」
「男しかいない場所とは、やっぱ違うだろ。それに、生活環境が違うやつらも多いし」
「そうなんだー。わたし、共学しか知らないんですよねえ」

 あんまり僕が質問されたくないのを察したのか、ソノコがそう言った。レヴィ氏が「ソノコちゃんが通っていたのはどんな学校? 気になるわあ」とのんきな声で言う。僕から話題が逸れて、僕はほっとする。

「んーと、十五歳まで、義務教育って呼ばれていて。その後、定時制高校っていう、いろんな背景の人が通う高等教育へ進みました。級友におじいちゃんとかいて。仕事をしながら通っている人もいた。たのしかったです」

 カミーユが感心したような声で「ご高齢者も共に学んでいたのですか?」と言った。オリヴィエ兄さんも初耳だったみたいで、ソノコの言動へ釘付けになっている。僕はスープを口に運ぶ。

「すごく、いろんな人が居ました。なにかしら皆さん表にしていない事情をお持ちの方が多かったかな。だからいろんな価値観があって、基準はそれぞれで、今考えるとすごくわたしへいい影響をくれた環境だったと思います」

 ソノコは懐かしむように遠くを見ていた。その目が、そのほほ笑みが、僕には痛くて……痛くてしかたない。
 すべてを手放してアウスリゼへやって来た、ソノコの強さから目を背けたくなる。
 僕はなにも手放せない。なにも。

「だから、わたしなんとなく、テオくんの状況を想像できる気がします」
 
 もう一度僕の名前が出て、僕は顔を上げた。ソノコはにっこり笑って「わたしの友だちの、トビくんっていう子が、テオくんと同じ学校へ通っているんです。学年違うけど」と言う。

「あの子、初等教育を受けられなくて、十二歳まで家のためにずっと働いていたんです。でも今はお勉強がんばってるって。たのしいって。わたしといっしょに学んでいたおじいちゃんも同じでした。状況が許さなくて学べなかった人」

 違うよ、ソノコと僕は違う。僕はそんなふうに、他人のことに目を向けたりできない。自分のことに精いっぱいで、そんなやつらのことはどうでもいい。

「――いろんな学びがありました。自分の持っている問題を、過小評価するわけではないですけれど、平衡を持って見るようになれたと思います。きっとテオくんも、いろんなことを学べると思いますよ」

 ソノコ、僕はね、あなたと違うんだ。自分の置かれた状況、抱えた問題、どちらも肯定的に見ることなんてできない。そんなできた人間じゃない。他人から学ぼうなんて気持ちはさらさらないし、ずっと同じ場所にうずくまっている。違うんだよ。僕は、僕のことしか考えていない。考えられない。あなたとは違う。

 どこにも居場所がないように感じた。学校にも、ここにも。スープの味がしなくなって、飲み干して僕は「ごちそうさま」って席を立った。どこに行くこともできなくて、食器を台所へ下げて居間へ向かう。アシモフが平らげた餌の皿をくわえておかわりをねだって来たけど、頭をなでて「おわりだよ」と言った。僕の声が僕の声じゃないみたいだった。

「僕もごちそうさまあ! 美味しかったあ!」

 脳天気な声が響いて、レヴィ氏が居間にやってきた。僕が座ったソファの隣りに座ってきて、にやっと笑った。

「テオくん。いっしょに夜の自動車散策して来ない? 美味しすぎて食べすぎちゃったからー」

 ここから抜け出せるならいいやと思って、僕はうなずいた。自動車で散策なら、運動にならないと思ったけど。アシモフが着いて来ようとしたけど、オリヴィエ兄さんが引き留める。
 兄さんは僕を見て、それからレヴィ氏を見てから「よろしくお願いいたします」と丁重に言った。

 レヴィ氏の二人乗り自動車は、今回は叩かなくても駆動した。僕はでかいクッションを抱きしめて助手席に座る。後写鏡の中のソノコとオリヴィエ兄さんが、心配そうな顔で僕たちを見送った。
 もう真っ暗で、街道沿いのガス燈が並んで橙色の光を落としている。自動車の前照灯も同じ色で辺りを照らした。僕はなにも言わなくて、レヴィ氏はいつもの曲を口ずさんで、そろそろ僕は歌詞を覚えてしまう。そういえば、曲の名前を知らなかったな、とぼんやりと考えた。
 ちょっとだけ郊外に来て、自動車が坂を登って行く。小さい山の頂上まで来て停車した。レヴィ氏が「僕のお気に入りの場所ー。だれにも教えてないから、ないしょよ?」と言いながら降車した。
 眼下は、ガス燈の柔らかな光が点々と見えてキレイだった。ルミエラ市内にこんな場所があるなんて知らなかった。秋の半ばの山頂は少し肌寒いけれど、空気が澄んでいてとても心地よかった。ここには、街の喧騒が届かない。

「テオくん。さっき緊張した?」

 夜景を見ながらレヴィ氏がつぶやいた。僕はちょっと言葉を探してから、結局「べつに」と答えた。
 レヴィ氏が大きく伸びをし、深呼吸をする。そして僕を見て言った。

「自分とだれかを比べる必要はないからね。みんな違う。ソノコちゃんが言いたかったのは、そういうこと」

 僕もまた、肺に新鮮な空気を満たした。よくわかんないなと思った。わかんないなりに、ここまで連れ出してくれたことは感謝して、僕は「わかんないです」と思ったままのことを告げた。

「そうよねえ。そういうもんよ。ソノコちゃんもきっと、おじいちゃんといっしょに勉強してたときは、自分をおじいちゃんと比べたりしたんだと思うわよ」

 そして、自分の問題は小さいと思ったんだろうか。思ったら、それで慰められたんだろうか。それって僕にはムリな話で、僕はなにも言えない。
 レヴィ氏はちょっと沈黙してから「人それぞれってこと、彼女が理解したのは、きっともっと後だと思うわ」と言った。

「他人と自分を比べて、自分をダメだなーって思うことは、だれだって経験するわよ。でもねー僕みたいにおっさんになると、他人の問題とかどうでもよくなるのよねえ」

 それっておっさん関係あるんだろうか。僕だって他人のことをソノコみたいに思い遣れない。自分のことしか考えていない。それとどう違うんだろう。
 僕の考えていることを見透かすようにレヴィ氏は言った。

「自分の問題は、自分の問題。他人の問題は、他人の問題。あのねー、人間生きていたら、それぞれ自分の問題を背負うの! それで十分! それはどっちがどうってことじゃなくて、それぞれ大小とか形で比べられるようなもんじゃない。相手の問題を背負う必要はまるでない」

 僕はちょっと考えて「わかんないです」と言った。レヴィ氏は「そういうもんよ」と答えた。

 ガス燈の光が街全体を覆っている。地平線まで続いているんじゃないかってくらい、眼下は優しい色がキラキラしている。ところどころ点滅しているそれを眺めながら、僕はもう一度「わかんないです」と言った。

「僕が言いたいのは、自分とだれかを比べて凹む必要はないっていうこと。それぞれで違うんだから、それでいいのよ」

 僕はレヴィ氏の横顔を見つめた。相変わらず、掴みどころがない人だと思った。彼が話す言葉は、なんだか大きな意味がありそうでなさそうで、心が少し揺らめく。比べることが無意味だと言われたところで、僕にとっては難しい。
 いつか変わるんだろうか。おっさんになるまでムリなんだろうか。

「ほら、また歌でも歌って戻りましょうか」

 レヴィ氏は僕へ自動車に乗り込むよう促し、またあのいつもの鼻歌を歌い出した。
 夜の街へ戻る間、僕は彼の口ずさむ歌をじっと聞いていた。歌の意味も、彼の言葉の意味も、よくわからないけど。街の明かりが近づくまで、少しだけ眠ってしまいそうだった。
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