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第四章 家族の絆
第19話 感情 émotion
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ひたすらソノコが恐縮していたけれど、引き連れてグラス侯爵家の所有ホテルへ移動した。隣りへ立ったときに小声で「じゃあ、どっちがいい? 自分の手料理を振る舞うのと、ここでの食事」って聞いてみたら、目を見開いて「たしかに……!」って言っていた。
用意された広い個室。食卓の中央には、銀の燭台に立つろうそくの火がゆらゆらと揺れている。その光が、テーブルを囲むみんなの顔へちらちらと影を落としている。ソノコは周囲をそっと見回していた。緊張しているのが手元の仕草からわかる。普段の気さくな彼女とは少し違っていた。
「今朝、これを持って来てもらったの」
母さんはそう言って、テーブルの上の花へ手を差し伸べた。紫の花が一輪飾られている。僕が「キレイだね」と言うと、母は「でしょう?」とほほ笑んだ。でも、その笑顔はどこかぎこちない。
取り分けられる皿。ソノコはこうやって、一枚ずつやってくる料理が得意じゃないって前に言っていた。今どき食事作法とか、うるさいこと言うのは高齢者だけなんだけど。それでも僕が見る限りキレイな食べ方だと思ったよ。
「スープはどうかしら?」
母さんが女主人の顔で尋ねた。ソノコは背筋を伸ばして「はいっ、おいしいですっ」と言う。父さんは短く「うまい」と言った。その声は、どこか遠くから響いてくるように低かった。
オリヴィエ兄さんは様子を見ているのか、ワインを口に運び黙っている。父さんはスプーンを持つ手をわずかに震わせている。みんなそれに気づいていないふりをしている。悲しみは静かに、けれど確実に僕たちを飲み込んでいた。それは、ろうそくの炎が揺らぐたび、僕らの影を長く引きずらせるように。だれもこの静けさを拭うことができない。
僕はわかってたから、言ってみたんだ。
「このスープ、ブリアック兄さんが好きだったやつだよね?」
僕が口にした瞬間、部屋全体の空気が凍りついた。銀の燭台の炎すら、その言葉の重さに揺らぐのを忘れたかのようだった。誰も動かず、誰も声を発さない。静寂が、耳の奥でじんじんと響いていた。食器が触れる音すら消えて、この世が無に還ってしまったようだ。痛いくらいの静けさの中、オリヴィエ兄さんが「そうだよ」と言った。
「――その紫の花も、ブリアックが、よく母さんへ贈っていた花だ」
母さんは、オリヴィエ兄さんをじっと見てから紫の花にそっと目を向け、伏せた。
「……そう。ブリアックが、庭から摘んでくれたのよ。毎年、この時期になるとね。今年最後の花だって」
母さんの声は震えていた。けれど、どこか微笑むような口調だった。父さんはスプーンをスープ皿の上に置いて、重い息を吐き「そんなことを……もう思い出させるな」と言った。その声は低くかすれていて、怒りとも悲しみともとれなかった。
それに対してオリヴィエ兄さんは、グラスをテーブルに置きながら静かに口を開いた。ゆっくりと柔らかい声で言う。
「思い出さない方がいいことなんて、本当にあるのかな」
それは、この場にいる全員が驚くセリフだったよ。
だって、オリヴィエ兄さんは、ブリアック兄さんから一番苦しめられた人なんだから。僕は兄さんの言葉の続きを待った。
「……先週、テオフィルとブリアックのことを話したんだ。彼が生きていたときだって、そんな話はしたことがないのに。――それで、改めてわかったんだよ。私は、まだブリアックを愛していると」
母さんがちょっと顎を上げて、天井のあたりを見た。父さんとソノコは、じっとオリヴィエ兄さんを見た。僕は、ここではないどこかを見て、ブリアック兄さんを悼んで泣いたオリヴィエ兄さんのことを思っていた。知ってる。知ってるよ。でもそれを口にするのは、とても勇気がいることなんだ。忘れたくないってずっと思っている僕だって、それを言っていいのかわからなくなるんだ。
「父さん。自分を縛る必要なんかないと私は思います。たしかにブリアックの最期は不名誉な死でした。けれど、彼が私たちの家族であることには変わりない」
オリヴィエ兄さんは、ちょっとだけ僕を見て、ほほ笑んだ。そして続ける。
「やっと……そう思えるようになりました。ずっと、ブリアックを悼んではいけないと思っていた。それは国を侮ることだと。……でも違うんです。ブリアックの罪は、彼が死を持って清算しました」
泣きたくなった。泣けなかった。涙は喉の奥で止まって、言葉にもならないまま胸に滞った。代わりに母さんが泣いてくれた。父さんは、唇を震わせている。ソノコは、会話に入らずじっと皿を見つめていた。僕たちの新しい家族の彼女は、僕たちの抱える気持ちを理解しようとしているようだった。
「――だから、私たちは悲しんでいいんだ。ブリアックの家族として。私たちは、なにも罪を負ってはいないのだから」
僕はうなずいて、小さな声で「そうだね」とつぶやいた。
みんな、それぞれの顔で悲しんでいる。それ見て、僕は思った。これが僕たちの、今のありのままの形なんだ、と。
その後は、しんみりとはしていたけれど和やかな食事会だったよ。みんなちょっとずつ、ブリアック兄さんについて話せた。最初は気を張っていたけれど、みんなの声を聞いているうちに、僕も自然と口を開くことができた。みんなそれぞれの視点で話すから、同じ出来事を語っても印象がぜんぜん違うのはおもしろかった。
正直に言って、僕はほっとした。オリヴィエ兄さんが、両親にはっきりと言ってくれたことを感謝した。そうだ、僕たちは無理にブリアック兄さんを忘れる必要はない。――悼んだっていいんだ。ブリアック兄さんのことを受け入れられた僕らは、ひとつ前進できた。
僕の中にわだかまっていたなにかが、肯定されたように思う。だから、きっとこれからはだいじょうぶだ。……そう信じたい。
父さんたちが帰る前に一度、ソノコの手料理が食べたいって話になって、この世の終わりみたいな表情で「承知しました……」ってソノコが言った。僕は「毒見の従者二人連れて行ってね」って言った。
本当はそのままホテルに泊まってしまえばよかったんだろうけど、僕は学校の寮へ戻った。ずっと考えている『普通の生活』ができるだろうっていう、展望が見えたから。父さんも母さんも、そのことを望んでいる。みんな前進できたんだから。ここで、うずくまるわけには行かないんだ。
歯を磨いて寝間着に着替えて、布団に入ると、体の緊張が解けていく。しかし、心の奥にはまだ拭いきれないなにか。目を閉じると、それが静かに浮かび上がり――眠りの中へ引き込まれていった。
夢の中で最初、僕は教室の端の席で解けない問題に取り組んでいた。そして。
「――おまえはなぜ、なにもしなかった?」
声が響いた。ブリアック兄さんの声だ。夢の中なのに、すぐそこで、耳元でささやかれるような現実感。
顔を上げると、ブリアック兄さんが立っている。目の下に影を落としながらほほ笑んでいる。でも、少しずつ崩れていく。肌が灰のように剥がれ落ち、最後には紫の花を握った手だけが残る。
その手がふいに動き、僕の肩を掴む。
「私たちの家族だ」
オリヴィエ兄さんの言葉が遠くで反響する。僕の目の前のブリアック兄さんの口はこう動いた。
『家族なら、守れたはずだろう?』
僕の足場が崩れる。僕はあがいて空中で手を振り回す。するとなにかが手に触れて、すがるように僕はそれをつかんだ。それは、僕の黒いクラヴァット・リボン。
その先は、ブリアック兄さんの、首元に――
僕は、僕の悲鳴で目が覚めた。転げ落ちるようにベッドから這い出て、洗面台に向かって吐いた。吐瀉物はブリアック兄さんの好物だったスープの味がした。
僕の体は震えていたけど、それ以上に心がひどく揺れていた――ブリアック兄さんが、また僕の中のなにかを、崩して行く。
朝の鐘が鳴り響いても、僕の頭の中ではまだ夢の残響が渦巻いていた。あの崩れていくブリアック兄さんの顔。そして、僕を非難する声。夢の中の言葉が刺さったままだった。
「……守れたはずだろう?」
僕には何もできなかった――いや、今も、なにもできていない。そんな自覚が胸を締め付ける。夢の中の兄さんの声が耳に残っていた。鋭く突き刺さるように。
『おまえはなぜ、なにもしなかった?』
その言葉が、僕を苛む。
崩れ落ちるブリアック兄さんの姿は、僕が抱える罪悪感そのもののようだ。なにもしなかった――その事実が、僕を責め立てる。
僕は風呂場にも朝食にも向かわず、ただぐるぐると同じ場所をさ迷い続けていた。なにも前進していないと嫌というほど自覚して、でもそのことが受け入れがたくて、どうしたらいいのかわからない。
廊下のざわめきに紛れてしまえば『普通の生活』の軌道に乗れるのかな。そう思ってのろのろと制服へと着替えた。
冷たい水で顔を洗い、鏡を見た。悪夢が胸に刺さったままだけれど、今日も学校へ行く。普通の生活を取り戻すんだ――ブリアック兄さんがいつか、僕の中で微笑んでくれる日を信じて。
教室に向かう途中、階段を登っているとき。二階から三階の踊り場付近で、いつものようにレオンが僕に声をかけて来て僕に並んだ。少し僕の顔を伺うように。
「おはよう、テオ! 昨夜はちゃんと寝られたかい?」
その屈託のない笑顔が、今の僕には耐えられなかった。どうして君はそんなに変わらずいられるんだ。僕の中で苛立ちがふくらむ。
「……寝られたよ。君には関係ないだろうけど」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。レオンの笑顔が一瞬そのまま止まった。けれど、彼は戸惑いを隠すようにいつもの調子で続けた。
「――そっか。今朝の数学の課題、ちょっと手伝ってくれない?」
「僕が君の面倒を見てやる義理なんてないよ」
僕のひどい言葉は止まらなくて、どうしてそんな風に言えるのか、自分でもふしぎだった。レオンはさすがに目を見開いて、でも僕を責めない。
それが、本当にしゃくで、でもそう感じる自分が嫌で、どうしようもなくて。
「えっ、テオ、大丈夫? 何かあった?」
こんなときでも、彼は真っ先に僕を心配するのか。
「――なんでそんな普通でいられるんだよ」
怒りとも、羨望ともつかない感情が胸を締め付ける。やりきれなくて、どうしたらいいのかわからなくて、レオンの声がやけに優しくて、僕は逃げ出したくなった。
鞄から数学のノートを無言で引っ張り出し、レオンに押し付ける。
「え、あっ、ありがとう」
「――早退する」
まだ、教室に着いてすらいないのに。これ以上ここにいたら、もっとひどいことを言ってしまう。僕は二階へ降りた。そして、なにも考えられない頭のままレヴィ氏の部屋へと向かう。どこにも行き場がない僕の気持ちをわかってくれるかもしれない、ただそのわずかな希望へすがるように。
レヴィ氏は、ちょうど出勤してきたところみたいだった。部屋の鍵を開けているところへ僕が行き会う。
「あらあ、おはようー。顔色悪いわねえ、入ってー。暖房入れるわね」
僕がなにも言わなくてもよかった。レヴィ氏は、まるで僕の中にあるすべて――今朝、目が覚めたときの最悪な気分や、悪夢の残り香まで――見透かしているみたいだ。僕はいつものソファに座って、彼が一日を始める様子を見るともなしに見ていた。レヴィ氏のいつもの茶の香りが部屋に広がったとき、やっと僕は、今は悪夢の中じゃなくて現実にいるんだと実感する。
でも、現実が悪夢みたいなもんだ。
笑おうと思ったけれど、笑えなかった。
レヴィ氏はいつも、むりやり僕になにかを語らせようなんてしない。点数稼ぎのためだって僕へ豪語している心理相談のときだって、僕が自分で自分の気持ちを言い表すのを待っている。茶のカップを手渡される。もうこれは僕専用みたいになってしまった。
レヴィ氏は「冷えるわねえ、初雪もそろそろかしらねえ」と言いながら茶に口をつけた。いつもは気にならないそれが、苛立ちを呼び起こす。どうしてこの人は、こんなに平然としていられるんだろう。
「――ねえ、なんでそんな普通にしていられるの」
レオンにも叩きつけた言葉を、また口にしてしまった。茶の甘い香りと苦い味が、僕の輪郭をはっきりさせて行く。
「僕が普通に見える?」
レヴィ氏は小さく笑った。それから「そんな風に見えるなら、よかったわ」とつぶやいた。
「テオくんは、自分が普通じゃないって思うんだ?」
穏やかな声でそう言われる。僕はまだ寒い部屋の中で、茶の湯気が白く上り立つのを見ている。そして「どうしたら普通になれるのかな」とつぶやいた。
「今、どんな感情がある?」
レヴィ氏がぜんぜん関係ないことを聞いてきた。関係あるのかもしれないけど。集中暖房がごうん、と一声鳴いた。
「感情って、どういうこと」
「んー、悲しいとか、たのしいとか。つらいとか苦しいも、まあ、そうかな?」
考えて、僕は言葉を探した。そして「僕は、自分が」と言って、違う気がしてやめた。
「ん? 言ってみて。べつに授業じゃないんだもの、正解とかないんだから」
「自分が、憎い」
言葉にした瞬間、その響きが胸に重く落ちた。自分の声で聞くと、本当になってしまいそうで逃げ場がなくなる。それでもレヴィ氏は否定も肯定もせず「そうなんだー」とだけ返した。その何気なさが、少しだけ肩の力を抜かせる。
「それは、自分自身への怒りだと思う?」
「なんで」
「名前をつけることで、感情は形を持つのよ」
なんだよそれ、と思う。レヴィ氏の言うことはいちいち胡散臭い。でもだからこそ僕は、ちょっと斜に構えたふりで聞けるんだろうと思う。レヴィ氏は「怒りや悲しみは、悪いものではないわよ。ただ、名前がなければ、体の中で暴れて、悪さするのよ」と言った。
「テオくん、剣の練習するんだって言ってたじゃない」
「はい」
「鞘から抜いて、やみくもに振り回したらどうなる?」
「――周りを壊しますね」
僕が言うと、レヴィ氏はほほ笑んだ。
「そう。振り回す剣は、もし誰かに当たれば血が流れる。感情もそれと同じ。無闇に振り回せば心に傷ができる。他人も、自分も。でも剣と同じで、正しく扱えれば力になる。だから、まずは名前をつけてあげるの」
「――名前をつける……」
茶の苦味が舌に残る。心の中の何かが、ゆっくりと形を持ち始めた気がした。でも、それが何なのかは、まだ言葉にできなかった。本当に形になるのは、まだ先のことかもしれない。それでも今は、それでいい。
用意された広い個室。食卓の中央には、銀の燭台に立つろうそくの火がゆらゆらと揺れている。その光が、テーブルを囲むみんなの顔へちらちらと影を落としている。ソノコは周囲をそっと見回していた。緊張しているのが手元の仕草からわかる。普段の気さくな彼女とは少し違っていた。
「今朝、これを持って来てもらったの」
母さんはそう言って、テーブルの上の花へ手を差し伸べた。紫の花が一輪飾られている。僕が「キレイだね」と言うと、母は「でしょう?」とほほ笑んだ。でも、その笑顔はどこかぎこちない。
取り分けられる皿。ソノコはこうやって、一枚ずつやってくる料理が得意じゃないって前に言っていた。今どき食事作法とか、うるさいこと言うのは高齢者だけなんだけど。それでも僕が見る限りキレイな食べ方だと思ったよ。
「スープはどうかしら?」
母さんが女主人の顔で尋ねた。ソノコは背筋を伸ばして「はいっ、おいしいですっ」と言う。父さんは短く「うまい」と言った。その声は、どこか遠くから響いてくるように低かった。
オリヴィエ兄さんは様子を見ているのか、ワインを口に運び黙っている。父さんはスプーンを持つ手をわずかに震わせている。みんなそれに気づいていないふりをしている。悲しみは静かに、けれど確実に僕たちを飲み込んでいた。それは、ろうそくの炎が揺らぐたび、僕らの影を長く引きずらせるように。だれもこの静けさを拭うことができない。
僕はわかってたから、言ってみたんだ。
「このスープ、ブリアック兄さんが好きだったやつだよね?」
僕が口にした瞬間、部屋全体の空気が凍りついた。銀の燭台の炎すら、その言葉の重さに揺らぐのを忘れたかのようだった。誰も動かず、誰も声を発さない。静寂が、耳の奥でじんじんと響いていた。食器が触れる音すら消えて、この世が無に還ってしまったようだ。痛いくらいの静けさの中、オリヴィエ兄さんが「そうだよ」と言った。
「――その紫の花も、ブリアックが、よく母さんへ贈っていた花だ」
母さんは、オリヴィエ兄さんをじっと見てから紫の花にそっと目を向け、伏せた。
「……そう。ブリアックが、庭から摘んでくれたのよ。毎年、この時期になるとね。今年最後の花だって」
母さんの声は震えていた。けれど、どこか微笑むような口調だった。父さんはスプーンをスープ皿の上に置いて、重い息を吐き「そんなことを……もう思い出させるな」と言った。その声は低くかすれていて、怒りとも悲しみともとれなかった。
それに対してオリヴィエ兄さんは、グラスをテーブルに置きながら静かに口を開いた。ゆっくりと柔らかい声で言う。
「思い出さない方がいいことなんて、本当にあるのかな」
それは、この場にいる全員が驚くセリフだったよ。
だって、オリヴィエ兄さんは、ブリアック兄さんから一番苦しめられた人なんだから。僕は兄さんの言葉の続きを待った。
「……先週、テオフィルとブリアックのことを話したんだ。彼が生きていたときだって、そんな話はしたことがないのに。――それで、改めてわかったんだよ。私は、まだブリアックを愛していると」
母さんがちょっと顎を上げて、天井のあたりを見た。父さんとソノコは、じっとオリヴィエ兄さんを見た。僕は、ここではないどこかを見て、ブリアック兄さんを悼んで泣いたオリヴィエ兄さんのことを思っていた。知ってる。知ってるよ。でもそれを口にするのは、とても勇気がいることなんだ。忘れたくないってずっと思っている僕だって、それを言っていいのかわからなくなるんだ。
「父さん。自分を縛る必要なんかないと私は思います。たしかにブリアックの最期は不名誉な死でした。けれど、彼が私たちの家族であることには変わりない」
オリヴィエ兄さんは、ちょっとだけ僕を見て、ほほ笑んだ。そして続ける。
「やっと……そう思えるようになりました。ずっと、ブリアックを悼んではいけないと思っていた。それは国を侮ることだと。……でも違うんです。ブリアックの罪は、彼が死を持って清算しました」
泣きたくなった。泣けなかった。涙は喉の奥で止まって、言葉にもならないまま胸に滞った。代わりに母さんが泣いてくれた。父さんは、唇を震わせている。ソノコは、会話に入らずじっと皿を見つめていた。僕たちの新しい家族の彼女は、僕たちの抱える気持ちを理解しようとしているようだった。
「――だから、私たちは悲しんでいいんだ。ブリアックの家族として。私たちは、なにも罪を負ってはいないのだから」
僕はうなずいて、小さな声で「そうだね」とつぶやいた。
みんな、それぞれの顔で悲しんでいる。それ見て、僕は思った。これが僕たちの、今のありのままの形なんだ、と。
その後は、しんみりとはしていたけれど和やかな食事会だったよ。みんなちょっとずつ、ブリアック兄さんについて話せた。最初は気を張っていたけれど、みんなの声を聞いているうちに、僕も自然と口を開くことができた。みんなそれぞれの視点で話すから、同じ出来事を語っても印象がぜんぜん違うのはおもしろかった。
正直に言って、僕はほっとした。オリヴィエ兄さんが、両親にはっきりと言ってくれたことを感謝した。そうだ、僕たちは無理にブリアック兄さんを忘れる必要はない。――悼んだっていいんだ。ブリアック兄さんのことを受け入れられた僕らは、ひとつ前進できた。
僕の中にわだかまっていたなにかが、肯定されたように思う。だから、きっとこれからはだいじょうぶだ。……そう信じたい。
父さんたちが帰る前に一度、ソノコの手料理が食べたいって話になって、この世の終わりみたいな表情で「承知しました……」ってソノコが言った。僕は「毒見の従者二人連れて行ってね」って言った。
本当はそのままホテルに泊まってしまえばよかったんだろうけど、僕は学校の寮へ戻った。ずっと考えている『普通の生活』ができるだろうっていう、展望が見えたから。父さんも母さんも、そのことを望んでいる。みんな前進できたんだから。ここで、うずくまるわけには行かないんだ。
歯を磨いて寝間着に着替えて、布団に入ると、体の緊張が解けていく。しかし、心の奥にはまだ拭いきれないなにか。目を閉じると、それが静かに浮かび上がり――眠りの中へ引き込まれていった。
夢の中で最初、僕は教室の端の席で解けない問題に取り組んでいた。そして。
「――おまえはなぜ、なにもしなかった?」
声が響いた。ブリアック兄さんの声だ。夢の中なのに、すぐそこで、耳元でささやかれるような現実感。
顔を上げると、ブリアック兄さんが立っている。目の下に影を落としながらほほ笑んでいる。でも、少しずつ崩れていく。肌が灰のように剥がれ落ち、最後には紫の花を握った手だけが残る。
その手がふいに動き、僕の肩を掴む。
「私たちの家族だ」
オリヴィエ兄さんの言葉が遠くで反響する。僕の目の前のブリアック兄さんの口はこう動いた。
『家族なら、守れたはずだろう?』
僕の足場が崩れる。僕はあがいて空中で手を振り回す。するとなにかが手に触れて、すがるように僕はそれをつかんだ。それは、僕の黒いクラヴァット・リボン。
その先は、ブリアック兄さんの、首元に――
僕は、僕の悲鳴で目が覚めた。転げ落ちるようにベッドから這い出て、洗面台に向かって吐いた。吐瀉物はブリアック兄さんの好物だったスープの味がした。
僕の体は震えていたけど、それ以上に心がひどく揺れていた――ブリアック兄さんが、また僕の中のなにかを、崩して行く。
朝の鐘が鳴り響いても、僕の頭の中ではまだ夢の残響が渦巻いていた。あの崩れていくブリアック兄さんの顔。そして、僕を非難する声。夢の中の言葉が刺さったままだった。
「……守れたはずだろう?」
僕には何もできなかった――いや、今も、なにもできていない。そんな自覚が胸を締め付ける。夢の中の兄さんの声が耳に残っていた。鋭く突き刺さるように。
『おまえはなぜ、なにもしなかった?』
その言葉が、僕を苛む。
崩れ落ちるブリアック兄さんの姿は、僕が抱える罪悪感そのもののようだ。なにもしなかった――その事実が、僕を責め立てる。
僕は風呂場にも朝食にも向かわず、ただぐるぐると同じ場所をさ迷い続けていた。なにも前進していないと嫌というほど自覚して、でもそのことが受け入れがたくて、どうしたらいいのかわからない。
廊下のざわめきに紛れてしまえば『普通の生活』の軌道に乗れるのかな。そう思ってのろのろと制服へと着替えた。
冷たい水で顔を洗い、鏡を見た。悪夢が胸に刺さったままだけれど、今日も学校へ行く。普通の生活を取り戻すんだ――ブリアック兄さんがいつか、僕の中で微笑んでくれる日を信じて。
教室に向かう途中、階段を登っているとき。二階から三階の踊り場付近で、いつものようにレオンが僕に声をかけて来て僕に並んだ。少し僕の顔を伺うように。
「おはよう、テオ! 昨夜はちゃんと寝られたかい?」
その屈託のない笑顔が、今の僕には耐えられなかった。どうして君はそんなに変わらずいられるんだ。僕の中で苛立ちがふくらむ。
「……寝られたよ。君には関係ないだろうけど」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。レオンの笑顔が一瞬そのまま止まった。けれど、彼は戸惑いを隠すようにいつもの調子で続けた。
「――そっか。今朝の数学の課題、ちょっと手伝ってくれない?」
「僕が君の面倒を見てやる義理なんてないよ」
僕のひどい言葉は止まらなくて、どうしてそんな風に言えるのか、自分でもふしぎだった。レオンはさすがに目を見開いて、でも僕を責めない。
それが、本当にしゃくで、でもそう感じる自分が嫌で、どうしようもなくて。
「えっ、テオ、大丈夫? 何かあった?」
こんなときでも、彼は真っ先に僕を心配するのか。
「――なんでそんな普通でいられるんだよ」
怒りとも、羨望ともつかない感情が胸を締め付ける。やりきれなくて、どうしたらいいのかわからなくて、レオンの声がやけに優しくて、僕は逃げ出したくなった。
鞄から数学のノートを無言で引っ張り出し、レオンに押し付ける。
「え、あっ、ありがとう」
「――早退する」
まだ、教室に着いてすらいないのに。これ以上ここにいたら、もっとひどいことを言ってしまう。僕は二階へ降りた。そして、なにも考えられない頭のままレヴィ氏の部屋へと向かう。どこにも行き場がない僕の気持ちをわかってくれるかもしれない、ただそのわずかな希望へすがるように。
レヴィ氏は、ちょうど出勤してきたところみたいだった。部屋の鍵を開けているところへ僕が行き会う。
「あらあ、おはようー。顔色悪いわねえ、入ってー。暖房入れるわね」
僕がなにも言わなくてもよかった。レヴィ氏は、まるで僕の中にあるすべて――今朝、目が覚めたときの最悪な気分や、悪夢の残り香まで――見透かしているみたいだ。僕はいつものソファに座って、彼が一日を始める様子を見るともなしに見ていた。レヴィ氏のいつもの茶の香りが部屋に広がったとき、やっと僕は、今は悪夢の中じゃなくて現実にいるんだと実感する。
でも、現実が悪夢みたいなもんだ。
笑おうと思ったけれど、笑えなかった。
レヴィ氏はいつも、むりやり僕になにかを語らせようなんてしない。点数稼ぎのためだって僕へ豪語している心理相談のときだって、僕が自分で自分の気持ちを言い表すのを待っている。茶のカップを手渡される。もうこれは僕専用みたいになってしまった。
レヴィ氏は「冷えるわねえ、初雪もそろそろかしらねえ」と言いながら茶に口をつけた。いつもは気にならないそれが、苛立ちを呼び起こす。どうしてこの人は、こんなに平然としていられるんだろう。
「――ねえ、なんでそんな普通にしていられるの」
レオンにも叩きつけた言葉を、また口にしてしまった。茶の甘い香りと苦い味が、僕の輪郭をはっきりさせて行く。
「僕が普通に見える?」
レヴィ氏は小さく笑った。それから「そんな風に見えるなら、よかったわ」とつぶやいた。
「テオくんは、自分が普通じゃないって思うんだ?」
穏やかな声でそう言われる。僕はまだ寒い部屋の中で、茶の湯気が白く上り立つのを見ている。そして「どうしたら普通になれるのかな」とつぶやいた。
「今、どんな感情がある?」
レヴィ氏がぜんぜん関係ないことを聞いてきた。関係あるのかもしれないけど。集中暖房がごうん、と一声鳴いた。
「感情って、どういうこと」
「んー、悲しいとか、たのしいとか。つらいとか苦しいも、まあ、そうかな?」
考えて、僕は言葉を探した。そして「僕は、自分が」と言って、違う気がしてやめた。
「ん? 言ってみて。べつに授業じゃないんだもの、正解とかないんだから」
「自分が、憎い」
言葉にした瞬間、その響きが胸に重く落ちた。自分の声で聞くと、本当になってしまいそうで逃げ場がなくなる。それでもレヴィ氏は否定も肯定もせず「そうなんだー」とだけ返した。その何気なさが、少しだけ肩の力を抜かせる。
「それは、自分自身への怒りだと思う?」
「なんで」
「名前をつけることで、感情は形を持つのよ」
なんだよそれ、と思う。レヴィ氏の言うことはいちいち胡散臭い。でもだからこそ僕は、ちょっと斜に構えたふりで聞けるんだろうと思う。レヴィ氏は「怒りや悲しみは、悪いものではないわよ。ただ、名前がなければ、体の中で暴れて、悪さするのよ」と言った。
「テオくん、剣の練習するんだって言ってたじゃない」
「はい」
「鞘から抜いて、やみくもに振り回したらどうなる?」
「――周りを壊しますね」
僕が言うと、レヴィ氏はほほ笑んだ。
「そう。振り回す剣は、もし誰かに当たれば血が流れる。感情もそれと同じ。無闇に振り回せば心に傷ができる。他人も、自分も。でも剣と同じで、正しく扱えれば力になる。だから、まずは名前をつけてあげるの」
「――名前をつける……」
茶の苦味が舌に残る。心の中の何かが、ゆっくりと形を持ち始めた気がした。でも、それが何なのかは、まだ言葉にできなかった。本当に形になるのは、まだ先のことかもしれない。それでも今は、それでいい。
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