真冬の逃げ水 Mirage d'hiver

つこさん。

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第四章 家族の絆

第18話 普通 vie normale

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 理想的な『普通の生活』っていうものを考えている。それがどんなものか。朝起きて、朝食を摂って、登校して。だれとも衝突せず朗らかに一日を終えて、眠りに就く。
 きっと僕にとって必要なことなんだと思う。解答はわかっていても、それが正解ではないと感じるのは、ここ数日それをやってみたから。むなしい気持ちだけが募って、僕はまたバラバラになりそうだ。叫びたくなるときはレヴィ氏のところへ行ってオルガンを弾いた。僕の代わりに叫んでくれた。自分では、なにを叫びたいのかもわからないのに、音は僕に僕自身を知らせてくれる。
 週末にオリヴィエ兄さんの家へ行った。冬囲いの手伝いをするために。外の空気はすっかり寒くなって、あの長かった夏を一瞬で忘れてしまったみたいだった。毛糸の帽子をかぶって手袋もしたけど、首巻きは、やっぱりムリだった。
 オリヴィエ兄さんは仕事を終えたらすぐに帰って来るって言ったらしいけど、きっと夜になるんだと思う。だからいつも通り僕を迎え入れたのは兄さんの妻のソノコと、その警護のカミーユ。ソノコは僕の首元が寒々しいのを見て、ちょっとはっとした顔をして、そしてなにも言わなかった。
 庭師は資材を運び入れて、いつでも作業できるように準備していた。僕とソノコは、来年は自分たちだけでできるように冬囲いの仕方を覚えるつもり。だから庭師の説明を熱心に聞いた。初めて見る道具ばかりだった。とくに、冬囲いに最適だからと近年使われている、バンブーという東方の植物を初めて触った。冷たい感触と、木と違うしなやかさが新鮮だった。水を吸って膨張しないらしい。木組みでやっていた時は、新しい物ではなくて一年風雨にさらした古い木の枝をつなぎ合わせて使っていたそう。それも数年で使えなくなるけれど、バンブーだと折れるまでずっと使える。すごく勝手がいいと庭師が言っていた。
 六本のバンブーを組み合わせて縄で縛って、三角錐みたいにして、庭木をひとつずつ囲って行く。その上からわらむしろを巻いて行く。実家のグラス領に住んでいたときは、庭師の仕事だからぜんぜん興味がなかったのに。ソノコが自分でやってみたいって言ってくれてよかったよ。僕もいい経験になったと思う。
 やり方を覚えて、庭師から及第点をもらった。全員で取り掛かったら、三時間くらいで終わった。庭師はお茶も飲まないでそそくさと帰ってしまったよ。こんな寒い中だっていうのに。

「テオくん、ありがとうですー。おかげさまでさくっと終わりましたね!」

 家の中で待機させられていたアシモフは、僕たちだけ外に出ていたのが許せないみたいだった。一杯だけ温かいミルクをもらって、そのまま僕はアシモフの散歩に出た。
 いつもの国立公園も、半分くらい冬囲いがされていた。さすがに背の高い樹まではしてないけど。息が白くて、いったい今年の秋はどこに行ってしまったんだろうと思う。首都ルミエラは四季がはっきりとした土地柄で、とくに夏から秋にかけての彩りが美しいんだけれど、紅葉も一瞬で終わって散ってしまった。僕は冬の白さも好きだからいいけど。
 一時間くらい遊んでから戻った。街はすっかり冬を迎える雰囲気だった。週明けには初雪かもしれない。
 家の敷地内に自動車が停まっていた。それを見て、僕の両親が到着したんだとわかった。きっと中ではソノコが右往左往していることだろう。僕は冷たい空気を吸って吐いて、それから「ただいま」と中へ入った。

「あっ、テオくん、おかえりなさい! あの、あの、ご両親がみえています!」

 案の定ソノコが玄関まですっ飛んできた。それに母さんも着いてきた。オリヴィエ兄さんとソノコの結婚式で会ったきりだから、一カ月半ぶりくらい。でも、十年は会ってなかったかみたいに老け込んでいて、僕はちょっと言葉を失う。母さんは「テオ、元気でしたか」と笑った。

「うん。どうしたのさ、いきなり来るって。びっくりしたよ」
「あなたのことが、気になって」

 そう言うと、言葉が他にみつからないのか、母さんは黙った。僕も黙ったまま居間へ入った。
 父さんがソファに座っている。壁側には運転手兼護衛の従者が控えている。僕は帽子と手袋を取って、外套も脱いで外套掛けに引っ掛けた。そして僕をじっと見ている父さんの対面に座る。

「いらっしゃい、父さん。いきなり来たら、ソノコが怯えちゃうじゃないか。どうしたんだよ、一体」

 台所方面から「おっ、おびえてないです!」と声が上がった。父さんは僕と同じ青い瞳でじっと僕を見てから、言葉を選ぶように「最近、どうしている?」と聞いてきた。その目の回りが黒ずみ落ちくぼんでいて、父さんの様子もおかしいとすぐに気づく。母さんが父さんの隣りに座った。

「べつに。なにも変わらない。寝て、起きて。学校行って。その繰り返し」
「授業に参加できていないと聞いた」

 やっぱりそのことだよな、と僕は内心笑う。でも顔では笑えない。オリヴィエ兄さんがなんか言ったんだろう。僕は「まあまあ。最近は出てるよ」と言った。父さんは僕をじっと見ていた。

「なにか、心に病んでいることがあるのではないか」

 切り込むように聞いてくる。父さんは、昔から回りくどい話し方とかができないんだ。あえてしてないのかもしれないけど。僕はなんて答えようかってずっと考えていたから、すらすらと優等生の言葉を出せた。

「べつに。季節の変わり目だし、体調が変化しやすかったのは認めるよ。でも、そんなたいしたことじゃない。学校が変わって環境も変化したし、もしかしたらその反動が出たかもね。無理しないようにしてただけ」

 父さんも母さんも押し黙って、なにか言うべき言葉を探していた。ソノコがそっとやって来て、息を殺しながら茶を出した。花の香りがした。僕がそれを受け取って口に運んで、母さんもそうした。苦みの少ない紅茶。美味しかったけれど、今はレヴィ氏の苦い茶が飲みたい気分だった。
 そのままソノコが従者にまで茶を出してから下がろうとしたから、僕は僕の隣りを叩いて座るように促した。逃さないよ。観念した表情で、小さくなって彼女は座った。

「――おまえが、ブリアックのことを気に病んでいるのではないかと、心配している」

 父さんが、またまっすぐに聞いてきた。僕じゃなくてソノコの背筋が伸びた。聞かれることは百も承知で、あきらめもついている。たくさん考えたけれど、なにが正解の返答なのかはまだわからない。だから、僕は思ったままのことを言った。

「忘れないよ。忘れたくないよ。父さんたちはどうなの」

 僕が隠さずに述べたことが意外だったのかもしれない。父さんは目を見張って、母さんはたじろいだ。
 沈黙が落ちた。ソノコは空気になる努力を惜しんでいなかった。僕は茶を干してしまって、もう一杯もらおうと立ち上がりかけたらソノコが台所へ飛んでいった。湯を沸かす音が聞こえる。父さんは口を開いて、閉じて、そして言った。

「……忘れられない、が私の状況だろうな。努力はしているが。ずっと眠りが浅く、ふと気づいたら考えている」

 本音を言われて僕も驚いた。母さんも、かすかにうなずいた。二人がめっきり老け込んで見えるのは、きっとそんな理由からなんだとわかった。僕は少しの同情と、わりと多くの反発を覚えて、湯が湧き上がる音を聞きながら言った。

「なんで、忘れようとするの? 意味なくない? そもそも忘れる必要ある? 二人の息子のことでしょ?」

 母さんは部屋で歌劇の音源を聴きながらひとりで泣いた。父さんはひさしぶりに登山へ行ってひとりで泣いた。知ってる。オリヴィエ兄さんだって、先日僕と話していたときに、ブリアック兄さんのことを想って泣いたんだ。
 僕だけが、泣けていない。それは、忘れたくないって思っているからなのかな。思っちゃだめかな。

「わたくしたちは、もう『普通の生活』に戻らなければ」

 母さんが言った。湯が沸騰した。なんだよそれ。朝起きて、朝食を摂って、登校して。だれとも衝突せず朗らかに一日を終えて、眠りに就く。それがどうしたって? 僕にとって必要なことでも、僕にとって正解ではない。だってむなしいんだ。ただひたすらむなしいんだ。なにかをやり過ごしているだけの時間が、僕にはすごくむなしいんだ。

「……以前の、あなたに戻ってほしいと思っているのよ、テオ。そのためならどんなことでもしたいと思っているわ」

 以前の僕ってなんだよ。目の下に隈を作って、気をつけていたほうれい線くっきりさせて、そんな姿でなんで僕にだけ前に戻れって言うんだよ。
 戻れるわけないじゃないか。ブリアック兄さんは死んだ。死んだんだよ。それは僕たちにはっきりと傷跡を残す出来事で、だれひとりそこから立ち直れてないじゃないか。僕にだけどうしてそんなこと言うんだよ。ずっとブリアック兄さんのことを考えているから? 忘れようとしていないから? なんで忘れる必要あるの? 兄さんは、僕の兄さんだった。生きていたんだ。僕といっしょに。
 母さんの言葉には悲しみが滲んでいるけれど、それが僕に届く気がしなかった。
 そんな風に考えてしまったから、僕は少しいじわるなことを言ってしまったと思う。母さんが泣きそうな顔になった。父さんが眉間に力を入れた。

「それで? 僕になにをしろと言うの? 普通の生活ってなに? 授業に皆勤で出て、成績も上位だったらいいの? やるよ。それがお望みなら」

 普通に生きろなんて言葉に、僕は思ってしまう。それがどれほど無意味で、傷つけるかを。僕たちの『普通』は、もう壊れているのに。
 母さんは「違うの、違うのよ」と言った。父さんはなにも言わなかった。恐る恐るやって来たソノコが、僕の前のカップに茶を注いだ。
 冷めてしまった父さんの茶を取り替えようとソノコが手を伸ばすと、父さんはそれを断ってぬるい茶を口に運んだ。たぶんカミーユに捕縛されているアシモフが、奥の部屋で鳴いたのが聞こえた。
 僕はカップの中の茶の色を見ていた。紅茶にしては珍しく、薄い緑に近い色だった。レヴィ氏の茶が飲みたいなと思った。もうこの時間は、きっと学校へ戻っても、彼はいないけど。今、彼と話せたら、少しはなにか変わるのかな。彼のオルガンの音が、きっと僕の中をほどいてくれると思った。
 居間の入口にだれかがやってきて、僕はふとそちらを見た。そして息を呑む。

「にいさ……」

 思わず立ち上がりかけた。ブリアック兄さんがそこにいたから。でも次の瞬間、勘違いだってわかった。オリヴィエ兄さんだった。ブリアック兄さんにそっくりな、もうひとりの僕の兄。

「父さん、母さん、迎えられなくて申し訳ありませんでした。こちらへの滞在は、ゆっくりできそうですか?」

 外套をソノコへ預けながらオリヴィエ兄さんは言う。僕は泣きそうな気持ちになる。オリヴィエ兄さんは僕の隣りに座って、今日の夕食をみんなで、どこで食べるかなんて話しをし始めた。母さんはあからさまにほっとした表情でその話題に乗っかった。父さんは、じっと僕を見ていた。ずっと。
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