真冬の逃げ水 Mirage d'hiver

つこさん。

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第五章 自分自身の未来

第23話 苦味 un goût amer

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 あいまいな形で僕の心は支配されている。過去の記憶に。どこまでも終わりなく。
 きっとレヴィ氏の指輪は、そういうことなんだ。そして僕と同じように『もし、こうしていたら』という言葉を刻んでいるんだろう。毎時間、毎時間。毎秒、毎秒。吐息はそのリズムで、今。僕を突き動かすのは、その衝動。
 けれど、それは緩やかなものでも軽やかなものでもない。だから、時々息苦しくなってしまう。そこにあるように思えて、つかめない。握りしめた拳には、なにもない。
 レヴィ氏はどうやってその時間をやり過ごしてきたんだろう。そして、それはどれくらいの長さだったんだろう。僕はただ、この一年を、まばたきするだけの成果しか出せずに存えてしまった。

「――逃げ水? どんなことを?」

 僕の質問に、レヴィ氏は一般的な答えを用意しなかった。夏に見えるやつ、とか、そんなのを。僕の望むものがそうじゃないって、きっとわかっているから。
 僕はてらてらと光っているモンブランの栗を見ながら、じゃあ、たとえばどんなことだろうと思う。

「――たとえば、そこには居ない人が見えたり。見えたと思ったら、居なかったり。……記憶になかったのに思い出したり。思い出したのに、すぐに忘れてしまったり」

 僕はいつでも同じ場所にいる。進んでは舞い戻り、舞い戻っては落ち込んで。その繰り返しの中で、自分だけが止まっている気がする。前を向かなければと何度も思う。けれど進めない。どこにも行けない。

「そうねえ」

 外套を脱いで丸めて隣りに置いて、レヴィ氏は何かを見出そうとするように店内を眺めた。僕もその視線の先を追った。落ち着いた色の革のソファ。似たような色の木目の壁とテーブル。敷煉瓦の床。その他に、暖房の熱気とカフェの香り。なんの変哲もない、老舗の喫茶店。
 僕には、なにも見えない。レヴィ氏はどうなんだろう。苦みの強いやつが運ばれてきて、レヴィ氏はカップを口に運んだ。

「……もうずっと前だけれど。そんなことがあったわ」

 懐かしむような笑顔で、レヴィ氏は言った。今は? 僕は、同じように笑えるようになる? あなたと同じように。
 懐かしむことすら、できるようになる?

「――頻繁に。たぶんねえ、テオフィルくんが生まれたくらいのときから。うーん、立っちできて、走れるようになるくらいまで?」
「子どものこと、よくわかんないです」
「そりゃそうよね」

 見た目は若いけど、レヴィ氏はそれなりにおっさんなんだった。子育てもしたことあるのかな。ちょっとそう思ったけど、ありそうでなさそうだなって思った。

 レヴィ氏の『逃げ水』は、死なせてしまった女性についてなんだろうか。十五年前から、ずっと指輪をしたままなんだろうか。
 それは、苦しくないんだろうか。

「テオフィルくんは? いつだった?」

 レヴィ氏は穏やかな表情で僕を見た。僕は、問われることはわかっていたはずなのに、それでも言葉に困った。思い出そうとしなくても思い出せる。ブリアック兄さんを見た。レヴィ氏と出掛けた先で、ブリアック兄さんの友人に会って、それで。
 僕は「先月です」と答えた。それ以上言葉を続けられなかった。レヴィ氏は、僕の答えはぜんぶ知っているみたいに、ただ「そっか」と言った。

「どうだった? 僕は――つど、空しかった。」

 レヴィ氏は少しだけ視線を落として、ふっと息をついた。カップを口に運んだ彼は、カフェでごまかすみたいに、ちょっとだけ苦そうな表情をした。

「テオフィルくんがね、生まれるちょっと前……僕、第一線でたくさんの患者さんを診ていたのよ」

 慎重に、言葉を選ぶように。落ち着いた声色は、とても透き通っていた。

「彼女は――繊細で、感受性が豊かな人だった」

 僕は言葉を挟まず、ただうなずいてその続きを待った。レヴィ氏は少しだけためらうような表情をする。でも僕は聞きたかった。僕と同じように、レヴィ氏が苦しんでいるなら。それを知りたかったんだ。

「……僕は、彼女を治療するための『正しい言葉』を選ぶことに集中していた。必要以上に感情を交えず、冷静であろうと努めた」

 レヴィ氏がしているように、僕も両手でカップを包んだ。じんわりと指先が温かくなる。手つかずのままのモンブランが、じっと僕を見上げている。

「――医師として正しくあろうと……それで、救えると信じていたんだ。……でも、結果的に、それが彼女を追い詰めてしまった」

 その結果を僕は知っている。この前、釣りをして、帰りの自動車の中で彼は教えてくれた。知りはしないのに、頭の中にその情景が鮮明に思い浮かびそうで、僕は息を詰める。

「そのとき見たことが、何度も目の前へ広がったわ。かなりの期間。それに、今でも夢に見るわよ」

 レヴィ氏の述べたことは、とてもではないけれど優しい内容ではなかった。それなのに彼は、こんなにも穏やかな表情で、落ち着いた声色で、僕に伝えてくれる。

「――彼女が落ちて来るときの表情、地面と触れた音――すべてが鮮明すぎて、逃れられない。もうそこにはないのに。……まるで、逃げ水のようにね」

 僕はなにも言えなかった。僕が、棺の中に横たわるブリアック兄さんの姿をわすれられないように。
 レヴィ氏もまた、だれかの死を負っている。

「今でも考える。――『もしあのとき、もう少し優しい言葉をかけていたら』『もしもっと早く気づけていたら』とかね」

 レヴィ氏はわずかに笑った。それは、自嘲するような苦い笑みに見えたけれど、それはすぐに消えてしまった。代わりに浮かんだのはいつもの彼の笑顔で、それは、無理をして出したものではないと思えた。
 それは、彼の強さだ。
 僕には、ないものだ。

「――でも、現実は変わらない。それが僕の選んだ言葉と行動の結果なのよ。どんなに後悔しても、彼女は戻らない」

 僕は黙って彼を見ていた。なにも言えなかった。なにを言うべきなのかもわからなかった。
 レヴィ氏はカップを持ち上げ、ふっと静かに息をついた。

「本当は、あなたにこの話をするつもりはなかったのよ? でも、なんか言っちゃったわね。ごめんね」

 僕は首を振った。そして「僕が、聞きたかったから」とつぶやいた。
 まだ、聞きたいことがたくさんあった。どうやったら強くなれるの。まだつらいの。どうして笑えるの。どうして普通にしているように見えるの。もっと、たくさん。

「――ねえ? マスター。ひどかったわよね、僕」

 突然、笑顔を含んだ声色で、レヴィ氏が店の奥へ言った。そっちから「あー?」と店主の声が聞こえて、次いで笑い声がする。

「――ひょろっひょろの、真っ白い兄ちゃんだったねえ。なんか食わせないと、死んじまうと思ってたよ」
「おかげさまで? ベルトの穴が二つはズレたわよ?」
「でも、まだ細すぎるって思ってたけどね。あの頃のアンタは、自分より影の方が濃いって感じだった」

 レヴィ氏が笑いながら「どんな比喩よ、それ!」と返した。
 僕はちょっとびっくりして、そんなレヴィ氏を見た。レヴィ氏も僕を見て、やっぱり笑っていた。目を細めて、彼は言った。

「――あのね、僕、この店に救われたの。勤めていた病院を辞めて、逃げるように都会へ来て。食事とかどうでもよくて。むしろ、食べたら吐いちゃって。でもカフェなら飲めるだろうって、転がり込んで」

 店主が奥から「懐かしいなあ」と、しみじみと言った。レヴィ氏が「マスターも、なかなか育ったわよね」と言った。それは気のおけない者同士のやり取りで、僕みたいな若者では持てない友情だと思った。

「……美味しかったわあ、あのときの、一杯。すごく苦くて。目が覚めるようだった。自分はどれだけひどい状況か、そのときわかった」
「……今、飲んでるやつですか」
「うん、そう。飲む?」

 僕がうなずくと、レヴィ氏が店主へと頼んでくれた。僕は自分が頼んだ、酸味が強いやつを飲み干した。僕のその姿を見ながら、レヴィ氏は言った。

「――僕にできたのは、過去を無理に忘れたり消し去ったりすることじゃなくて、それを抱えながらどうやって生きていくかを見つけることだった」

 一瞬、レヴィ氏は視線をカップに落とした。まるで言葉を選び直すように。
 カタン、と、僕がカップを置く音が店内に響く。湯の沸く音がして、少しの間、沈黙。僕は言われたことにびっくりしてしまって、レヴィ氏の方を向けなくて、どうしたらいいのかわからない。

「最初は苦しかったけど、少しずつね、それが『僕の一部』だと思うようになったのよ」
 
 自分の一部に? どうしてそんなこと思えるの? 苦しいのに? 最初はって、いつまで?
 僕は混乱する。頭の中がぐるぐるして、言葉にならない質問が次々に浮かんでくる。でもそれをぜんぶ言葉にすることが怖かった。もし、こんな僕がなにもわからないままの方がいいって、言われたらどうしよう。
 そんなことができるなんて信じられなかった。でも、レヴィ氏の声は少しも迷っていなくて、だからこそ余計に、僕は混乱した。
 レヴィ氏はゆっくりとした口調で「時間が、かかったわ」と言った。そして。

「それでも、時間って、進んで行くものだから。なかったことにしなくても、過去として共存できるようになる――必ず」

 僕にはわからなかった。レヴィ氏が真っ白だったことも、過去をそのまま受け止めて笑えていることも。カフェが運ばれて来て、ごまかすように僕はそれを口に運んだ。熱くて、苦くて、でもきっとこの苦みがレヴィ氏を支えたんだっていうことだけ、わかった。
 僕にも、この苦みを理解できるときが来るんだろうか。
 わからないけれど。
 でも、わかりたいと思った。
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