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第六章 希望への道
第28話 離別 séparation
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宰相ってなんでも調べられるんだね。ちょっと怖いなって思っちゃったよ。ジゼルさんが、週決めで間借りしていた小さなアパルトメントも、それを引き払ったばかりなのもすぐにわかった。ちょっと使いをやっただけだったのにさ。すぐに返事が届いた。
オリヴィエ兄さんは個人的にジゼルさんに会いたいわけがないし、気まずいのはジゼルさんもいっしょだと思う。だから僕ひとりで会いに行くって何度も言ったんだけど、そのたびに心配して「……私もいっしょに」と言いかけるもんだから、僕は「それ以上言ったらソノコに告げ口するよ」と言った。みごとにだんまりになった。
昔、オリヴィエ兄さんとジゼルさんはつきあっていた。だとしてもそれは僕が赤ん坊だったころのことで、もう過去だ。それでもオリヴィエ兄さんとしては、どうもそのことが気にかかるみたいだった。
奥さんのソノコは事実関係をしっかり把握も承知もしているし、禍根に思ってもいないんだけどね。ただちょっと「やっぱおっぱいはおっきい方が……」ってつぶやいているのを聞いたことはあるけど。聞かなかったことにしたけど。
ジゼルさんは、数日後の蒸気機関車の予約を取っていた。僕はひとりで、見送りに行く。指輪とともに。まあ、オリヴィエ兄さんの使いがどっかから見守ってるくらいはあるかもしれないね。
当日は、晴れ渡って少しだけ雪が解けて、場所によっては足下がぐしゃぐしゃだった。バス停周りなんか最悪だったよ。ちょっと離れたところに停車してくれたから、問題なく乗れたけどさ。
さすがにルミエラ駅はキレイに除排雪されていた。元々人通りが多いから、雪がしっかり踏み固められていたのもあるだろうけど。すれ違ったら困るから、一時間も早く到着してしまった。ジゼルさんが乗る予定の汽車は、まだ入線してすらいない。僕は駅前に掲げられている、今の運行状況と一日の予定表を見上げながら、南東のラキルソンセン国行きが入るホームを確認した。
十四番。今は違うのが出入りしているけれど、遅れるよりいい。見送り専用券を買って、改札で切れ込みを入れてもらった。胸のポケットには、赤い箱が入っている。
ぶらぶらとホーム内を歩いたり、席が空いたらベンチに座ったりした。でも、他のホームとの接続部分はじっと見ていた。きっとジゼルさんはそこから入って来るからさ。髪色はしっかり覚えているけれど、顔はぜんぜんわからない。そんな人を、このぜんぜん知らない人たちがたくさん行き交う中で見つけるなんて、至難の業だってのはわかっている。
十四番線から、マディア公爵領行きの汽車が発車した。駅員が吹く笛と、汽車の警笛と、駆動音と、立ち昇る黒い蒸気。見送りの人たちは各々、気が済むまで手を振っている。そして、解散。ここにいたら、何度でも見られる光景。
次の汽車に乗る人たちがやって来る。僕は立ち上がって、入れ違う人の群れを見る。大きな旅行鞄を持っている人が多くて、その中でも栗色の髪の女性はいないか、じっと観察していた。――ラキルソンセン行きが、ホームに入って来る。汽笛が響き、車輪が動いて鈍く軋む音が響いてゆっくりと止まる。
ふと。見覚えのある顔があって、僕はそこで目を留めた。あちらはこっちに気づいていない。歩きながらだれかに話しかけていて、その相手は黒い外套に栗色の髪の女性だった。
(――ノエルさん、だ)
ブリアック兄さんの親友。一カ月ちょっと前、レヴィ氏と出かけた先でたまたま出くわした。そして、ブリアック兄さんの死因について僕に尋ねて来た人だ。
いっしょにいる女性を見る。びっくりするくらい荷物が小さいけれど、真っ黒な遮光メガネをかけているから、きっとジゼルさんだ。ノエルさんは、きっと見送りに来たんだろう。もうすぐ彼女はここを去ってしまう。
二人はじゃまにならないよう掲示板を背に人波を避けて、なにかを話していた。互いの方は向かず、視線の先には、ジゼルさんがこれから乗る蒸気機関車。アウスリゼ王国を抜けるのにも六日はかかるはずだから、たぶん汽車だけでも二週間くらいの旅路になるんじゃないかな。遠いな。
僕の友人の、レアという女性を思い出す。彼女も、表向きは仕事という形でラキルソンセンへ行ったんだ。その実、深刻な症状をもたらしている病気の療養のため。アウスリゼと比べたら暑いくらいの気候だって聞いている。いろんな意味で傷ついた人々を、癒やす雰囲気があるんだろうか。
成人したら、いつか。すごく時間が経ったら。二人を訪ねてみることはできるかな。どうかな。嫌だって言われるかな。わかんないな。
ジゼルさんが、足下に置いていた小ぶりの旅行鞄を持ち上げた。もう乗り込むんだって思って、僕はあわてて二人に近づいた。そして「こんにちは」って声かけたら、二人ともびっくりって言葉に収まらないくらい驚いた。
「――テオ」
ノエルさんが驚き過ぎたって顔で僕を呼んだ。ジゼルさんは遮光メガネをちょっとずらして僕を見た。なんて言ったらいいのかわからなくて、まごついてしまって、僕たちは黙り込んだ。
駅員さんが、十四番ホームの汽車の行き先と出発時間を伝声管を通して通知している。車両点検をしてから、定刻通りに発車予定。あと十五分くらい。車輪の軋む音がホームに響き渡る。蒸気が立ち昇り、見送りの人々の賑やかなざわざわとした気配が、僕たちの間に横たわっている。
「……びっくりしたよ。見送りに来たのか? まさか」
まさかって言いながら、ノエルさんはそうだって思っている口ぶりだった。僕は「ジゼルさんと、話したくて」と言った。ジゼルさんが、メガネ越しにまっすぐ僕を見た。
「わーぁった、俺は席外すわ。あっちにいる」
ノエルさんがそう言って、駅事務室前の階段のところへ行った。べつに居てもいいんだけど。ブリアック兄さんの友だちだから、兄さんの気持ちを知っていてもいいだろ。知ってほしいって気持ちもあったんだけど。でも、それよりも――僕はジゼルさんと話さなきゃ。
「びっくりしちゃった。――オリヴィエが調べたの? あたしが移動する日」
「はい。僕からお願いしました」
「あらあ、意外! ごめんねえ、年下過ぎるのは、タイプじゃないのよ」
軽口を叩いてジゼルさんが和ませようとしてくれたけど、あと十五分しかないって思って、僕は答えずに胸から赤い箱を取り出した。ちょっとあったかくなっていて、胸に入れるんじゃなくて、ちゃんとキレイな袋に入れてくればよかったと思った。ジゼルさんは、僕が胸から取り出した物が、なにかすぐにわかったんだろう。口を閉ざして顔を強張らせた。
「せめて、見て、ほしくて」
走ったわけでもなかったのに、僕は息が切れ切れだった。さっきまで箱が入っていた胸元が熱くて、どきどきする。僕が右手に握って差し出したら、ジゼルさんはぷいっとそっぽを向いた。
「……なによ、それ。知らないわ」
人々は僕らにかまわずそれぞれの別れを惜しんでいる。ざわめきはうねりとなって、僕の耳には聞き分けられない。それでも彼女の声は、耳元で囁くように鮮明だった。
きっと今このホームに立っているひとりひとりに、物語みたいな人生があって、僕にはわからない悲しみやよろこびがあるんだろう。僕にはジゼルさんの悲しみがわからない。ブリアック兄さんの考えもわからない。でも、ここにあるのは、二人が約束した証拠だ。
「指輪です。ブリアック兄さんと、あなたの」
はっきりと、僕は言った。受け取る気持ちがないなら、せめて見てほしかった。だから、持ち直して、開いて見せた。彼女はじっと、僕が差し出した箱を見た。そして、黒い遮光メガネを取り去り外套のポケットに入れる。
「……キレイ。さすがクリストー・アンシャンテだわ。想像していた通りの仕上がりね」
「あなたのものです。あなた以外に、これを持つ権利はない。……持っていきませんか。――よかったら……ですけど」
どうしてもしどろもどろになってしまう。受け取ってもらえなかったら、それはそれで、その事実を受け止めようと思う。僕が、ブリアック兄さんの死に向き合うのにこれだけの時間を要しているのと同じように。ジゼルさんだって、きっとつらいから。
ジゼルさんはじっと指輪を見ている。時間は刻々と過ぎて行く。周囲の人たちが機関車に乗り込み始めたとき、ジゼルさんは旅行鞄を地面に置いて、僕に向き直った。そして、はめていた手袋を外す。
すっと、伸ばされた右手は白かったし、思っていたよりも小さかった。僕とそれほど身長が変わらないから、ちょっとだけ意外だった。小さい方の指輪をつまみ上げて、ひと息の後に、左手の人差し指にはめる。
「……心労でちょっとぐらい痩せたかと思ったのに。やあねえ。ぴったりだわ」
自分の左手を、じっと見下ろして。その言葉の後、発車五分前の合図音楽が放送されるまで、僕たちは無言だった。
「テオくん。抱きしめていい?」
言われて、僕はうなずいて、箱を閉じてからジゼルさんと抱き合った。ぎゅっとされた腕は細くて、もしかしたら本当に痩せてしまったのかもしれないって思った。
離れて。彼女は僕に「ありがと!」とひとこと言うと、鞄を持ち上げて踵を返した。
「待って、こっちは⁉ 兄さんの――」
「いらないわ! あんな男の思い出なんて!」
乗車口前で振り返ったジゼルさんは、晴れやかな笑顔をしていた。
「こんないい女残してさっさと死んじまう、薄情で無責任な男! あたしの人生には、もう、いらない!」
駅員が、乗車を急かすための笛を吹いている。駆け込み乗車がたくさんあって、ジゼルさんは乗口のところに立って、その人々を避けている。ノエルさんが僕の隣りに来た。ジゼルさんは穏やかな顔をしていた。この前、僕に受け取り票を渡したときとは違う、気張ったところのない、笑顔。
笛がひときわ高く吹かれる。後ろの車両から、次々に出入り口が閉じられて行く。ジゼルさんも汽車の中に閉じ込められて、扉の窓越しにこちらへ手を振った。
そうだ、と思って、僕は走って車体に近づいた。駅員が「危ないです、近づかないで!」と僕に言う。ジゼルさんは、扉の隣りの小さい窓を開けた。
「――いつか、ラキルソンセンに行くことがあったら、会いに行きます」
いつかって、いつだよ。これこそ、無責任な約束だ。ジゼルさんはちょっと笑った。僕はその目を見て言った。
「……ブリアック兄さんを、好きになってくれて、ありがとう」
言ってから、ジゼルさんを見たまま、三歩後ろへ下がった。ガコン、と大きな音がして、車両の連結部が軋む。そして、大きな汽笛。
ジゼルさんは、ちょっと驚いた顔をした。それからくしゃっと、泣きそうな顔をして、笑って、うなずいた。だれかを好きになるっていうことが、僕にはまだよくわからなくて、ただ、それはすごいことだなって思うんだ。こうやって、国を出て行こうとするくらい、大きなことなんだって。
警笛とともに少しずつ加速して行く汽車は、ジゼルさんを乗せて小さくなって行く。汽笛がホーム全体に鳴り響き、車輪が線路を刻む音とともに、黒い蒸気が立ち昇っている。見送りの人々が手を振る中、僕はただ十四番線のホームを去っていく汽車を見つめ続けた。完全に見えなくなって、他の見送りに来ていた人たちも入れ替わり始める。
「……なに、渡したん? ジゼルに」
ノエルさんが隣りに来て、尋ねた。僕は握っていた箱を開いて見せた。そして「ブリアック兄さんとの、結婚指輪。彼女の分しか、受け取ってくれませんでした」と言った。ノエルさんは目を見開いて、じっと指輪を見下ろした。
「……そっか。どうすんの、その、ブリアックの分」
僕は、まさか片方だけ受け取ってもらえないっていうことを想定していなかったけれど、でも、最初から考えていたことをノエルさんへ告げた。
「……ブリアック兄さんの、お墓に埋めます」
ノエルさんは固まった。僕が胸ポケットに赤い箱をしまうと、やっと動いて早口で「いつ行くの、墓」と言った。
「冬休みに。帰省して、行ってきます。たぶん雪めちゃくちゃ積もってると思うけど。雪かき得意なんで」
「それさあ、俺も着いて行ったらだめかなあ?」
今度は、僕が固まる番だった。ぜんぜん予想もしていない言葉だった。僕ひとりで行って来ようと思っていたから。オリヴィエ兄さんも、父さんも、母さんも置いて、僕だけで。
ノエルさんは言い訳するみたいに身振りを加えて「ほら、結局俺らって、ブリアックの死に目には会ってないわけよ。だからさ、ちょっと実感なくて。墓とかさ、見たら納得できるなか、とかさ。いや、俺らって言っても、他のやつらには言わないけど。俺だけ。どう? だめ?」と早口でいっぺんに言った。……ああ、ここにも、ブリアック兄さんの死に振り回されている人がいる。そう思った。
「……わかりました。僕から連絡するには、どうしたらいいですか?」
「ルミエラなら、エル・デ・リバティ美術専修学校へ連絡くれればいい。いつから休みだ? 俺も合わせて年休取るから」
「今月末の木曜からです」
僕が言うと、ノエルさんは手をひとつ打った。
「よし。じゃあ、ディルゼーで待ち合わせだ。俺の実家に連絡するのがまずければ、あの、駅前の煉瓦造りのでかいホテルあるだろ?」
「オテル・ル・ソレイユ・ドール?」
「それ。受付のオダンって男に言付けてくれ。俺につながる」
ノエルさんはずっと早口で、僕に話す時間を与えたら、拒否されるって思っているみたいだった。
前に会ったときは……ノエルさんの存在や言葉が、僕にとって大きな衝撃だったのに。ブリアック兄さんの死について、彼と話すなんてありえなかったのに。でも。もう、だいじょうぶなんだと、自分でも僕は驚いている。今は、なにもかも受け入れられる気持ちでいるんだ。ノエルさんの、悲しみも。
オリヴィエ兄さんは個人的にジゼルさんに会いたいわけがないし、気まずいのはジゼルさんもいっしょだと思う。だから僕ひとりで会いに行くって何度も言ったんだけど、そのたびに心配して「……私もいっしょに」と言いかけるもんだから、僕は「それ以上言ったらソノコに告げ口するよ」と言った。みごとにだんまりになった。
昔、オリヴィエ兄さんとジゼルさんはつきあっていた。だとしてもそれは僕が赤ん坊だったころのことで、もう過去だ。それでもオリヴィエ兄さんとしては、どうもそのことが気にかかるみたいだった。
奥さんのソノコは事実関係をしっかり把握も承知もしているし、禍根に思ってもいないんだけどね。ただちょっと「やっぱおっぱいはおっきい方が……」ってつぶやいているのを聞いたことはあるけど。聞かなかったことにしたけど。
ジゼルさんは、数日後の蒸気機関車の予約を取っていた。僕はひとりで、見送りに行く。指輪とともに。まあ、オリヴィエ兄さんの使いがどっかから見守ってるくらいはあるかもしれないね。
当日は、晴れ渡って少しだけ雪が解けて、場所によっては足下がぐしゃぐしゃだった。バス停周りなんか最悪だったよ。ちょっと離れたところに停車してくれたから、問題なく乗れたけどさ。
さすがにルミエラ駅はキレイに除排雪されていた。元々人通りが多いから、雪がしっかり踏み固められていたのもあるだろうけど。すれ違ったら困るから、一時間も早く到着してしまった。ジゼルさんが乗る予定の汽車は、まだ入線してすらいない。僕は駅前に掲げられている、今の運行状況と一日の予定表を見上げながら、南東のラキルソンセン国行きが入るホームを確認した。
十四番。今は違うのが出入りしているけれど、遅れるよりいい。見送り専用券を買って、改札で切れ込みを入れてもらった。胸のポケットには、赤い箱が入っている。
ぶらぶらとホーム内を歩いたり、席が空いたらベンチに座ったりした。でも、他のホームとの接続部分はじっと見ていた。きっとジゼルさんはそこから入って来るからさ。髪色はしっかり覚えているけれど、顔はぜんぜんわからない。そんな人を、このぜんぜん知らない人たちがたくさん行き交う中で見つけるなんて、至難の業だってのはわかっている。
十四番線から、マディア公爵領行きの汽車が発車した。駅員が吹く笛と、汽車の警笛と、駆動音と、立ち昇る黒い蒸気。見送りの人たちは各々、気が済むまで手を振っている。そして、解散。ここにいたら、何度でも見られる光景。
次の汽車に乗る人たちがやって来る。僕は立ち上がって、入れ違う人の群れを見る。大きな旅行鞄を持っている人が多くて、その中でも栗色の髪の女性はいないか、じっと観察していた。――ラキルソンセン行きが、ホームに入って来る。汽笛が響き、車輪が動いて鈍く軋む音が響いてゆっくりと止まる。
ふと。見覚えのある顔があって、僕はそこで目を留めた。あちらはこっちに気づいていない。歩きながらだれかに話しかけていて、その相手は黒い外套に栗色の髪の女性だった。
(――ノエルさん、だ)
ブリアック兄さんの親友。一カ月ちょっと前、レヴィ氏と出かけた先でたまたま出くわした。そして、ブリアック兄さんの死因について僕に尋ねて来た人だ。
いっしょにいる女性を見る。びっくりするくらい荷物が小さいけれど、真っ黒な遮光メガネをかけているから、きっとジゼルさんだ。ノエルさんは、きっと見送りに来たんだろう。もうすぐ彼女はここを去ってしまう。
二人はじゃまにならないよう掲示板を背に人波を避けて、なにかを話していた。互いの方は向かず、視線の先には、ジゼルさんがこれから乗る蒸気機関車。アウスリゼ王国を抜けるのにも六日はかかるはずだから、たぶん汽車だけでも二週間くらいの旅路になるんじゃないかな。遠いな。
僕の友人の、レアという女性を思い出す。彼女も、表向きは仕事という形でラキルソンセンへ行ったんだ。その実、深刻な症状をもたらしている病気の療養のため。アウスリゼと比べたら暑いくらいの気候だって聞いている。いろんな意味で傷ついた人々を、癒やす雰囲気があるんだろうか。
成人したら、いつか。すごく時間が経ったら。二人を訪ねてみることはできるかな。どうかな。嫌だって言われるかな。わかんないな。
ジゼルさんが、足下に置いていた小ぶりの旅行鞄を持ち上げた。もう乗り込むんだって思って、僕はあわてて二人に近づいた。そして「こんにちは」って声かけたら、二人ともびっくりって言葉に収まらないくらい驚いた。
「――テオ」
ノエルさんが驚き過ぎたって顔で僕を呼んだ。ジゼルさんは遮光メガネをちょっとずらして僕を見た。なんて言ったらいいのかわからなくて、まごついてしまって、僕たちは黙り込んだ。
駅員さんが、十四番ホームの汽車の行き先と出発時間を伝声管を通して通知している。車両点検をしてから、定刻通りに発車予定。あと十五分くらい。車輪の軋む音がホームに響き渡る。蒸気が立ち昇り、見送りの人々の賑やかなざわざわとした気配が、僕たちの間に横たわっている。
「……びっくりしたよ。見送りに来たのか? まさか」
まさかって言いながら、ノエルさんはそうだって思っている口ぶりだった。僕は「ジゼルさんと、話したくて」と言った。ジゼルさんが、メガネ越しにまっすぐ僕を見た。
「わーぁった、俺は席外すわ。あっちにいる」
ノエルさんがそう言って、駅事務室前の階段のところへ行った。べつに居てもいいんだけど。ブリアック兄さんの友だちだから、兄さんの気持ちを知っていてもいいだろ。知ってほしいって気持ちもあったんだけど。でも、それよりも――僕はジゼルさんと話さなきゃ。
「びっくりしちゃった。――オリヴィエが調べたの? あたしが移動する日」
「はい。僕からお願いしました」
「あらあ、意外! ごめんねえ、年下過ぎるのは、タイプじゃないのよ」
軽口を叩いてジゼルさんが和ませようとしてくれたけど、あと十五分しかないって思って、僕は答えずに胸から赤い箱を取り出した。ちょっとあったかくなっていて、胸に入れるんじゃなくて、ちゃんとキレイな袋に入れてくればよかったと思った。ジゼルさんは、僕が胸から取り出した物が、なにかすぐにわかったんだろう。口を閉ざして顔を強張らせた。
「せめて、見て、ほしくて」
走ったわけでもなかったのに、僕は息が切れ切れだった。さっきまで箱が入っていた胸元が熱くて、どきどきする。僕が右手に握って差し出したら、ジゼルさんはぷいっとそっぽを向いた。
「……なによ、それ。知らないわ」
人々は僕らにかまわずそれぞれの別れを惜しんでいる。ざわめきはうねりとなって、僕の耳には聞き分けられない。それでも彼女の声は、耳元で囁くように鮮明だった。
きっと今このホームに立っているひとりひとりに、物語みたいな人生があって、僕にはわからない悲しみやよろこびがあるんだろう。僕にはジゼルさんの悲しみがわからない。ブリアック兄さんの考えもわからない。でも、ここにあるのは、二人が約束した証拠だ。
「指輪です。ブリアック兄さんと、あなたの」
はっきりと、僕は言った。受け取る気持ちがないなら、せめて見てほしかった。だから、持ち直して、開いて見せた。彼女はじっと、僕が差し出した箱を見た。そして、黒い遮光メガネを取り去り外套のポケットに入れる。
「……キレイ。さすがクリストー・アンシャンテだわ。想像していた通りの仕上がりね」
「あなたのものです。あなた以外に、これを持つ権利はない。……持っていきませんか。――よかったら……ですけど」
どうしてもしどろもどろになってしまう。受け取ってもらえなかったら、それはそれで、その事実を受け止めようと思う。僕が、ブリアック兄さんの死に向き合うのにこれだけの時間を要しているのと同じように。ジゼルさんだって、きっとつらいから。
ジゼルさんはじっと指輪を見ている。時間は刻々と過ぎて行く。周囲の人たちが機関車に乗り込み始めたとき、ジゼルさんは旅行鞄を地面に置いて、僕に向き直った。そして、はめていた手袋を外す。
すっと、伸ばされた右手は白かったし、思っていたよりも小さかった。僕とそれほど身長が変わらないから、ちょっとだけ意外だった。小さい方の指輪をつまみ上げて、ひと息の後に、左手の人差し指にはめる。
「……心労でちょっとぐらい痩せたかと思ったのに。やあねえ。ぴったりだわ」
自分の左手を、じっと見下ろして。その言葉の後、発車五分前の合図音楽が放送されるまで、僕たちは無言だった。
「テオくん。抱きしめていい?」
言われて、僕はうなずいて、箱を閉じてからジゼルさんと抱き合った。ぎゅっとされた腕は細くて、もしかしたら本当に痩せてしまったのかもしれないって思った。
離れて。彼女は僕に「ありがと!」とひとこと言うと、鞄を持ち上げて踵を返した。
「待って、こっちは⁉ 兄さんの――」
「いらないわ! あんな男の思い出なんて!」
乗車口前で振り返ったジゼルさんは、晴れやかな笑顔をしていた。
「こんないい女残してさっさと死んじまう、薄情で無責任な男! あたしの人生には、もう、いらない!」
駅員が、乗車を急かすための笛を吹いている。駆け込み乗車がたくさんあって、ジゼルさんは乗口のところに立って、その人々を避けている。ノエルさんが僕の隣りに来た。ジゼルさんは穏やかな顔をしていた。この前、僕に受け取り票を渡したときとは違う、気張ったところのない、笑顔。
笛がひときわ高く吹かれる。後ろの車両から、次々に出入り口が閉じられて行く。ジゼルさんも汽車の中に閉じ込められて、扉の窓越しにこちらへ手を振った。
そうだ、と思って、僕は走って車体に近づいた。駅員が「危ないです、近づかないで!」と僕に言う。ジゼルさんは、扉の隣りの小さい窓を開けた。
「――いつか、ラキルソンセンに行くことがあったら、会いに行きます」
いつかって、いつだよ。これこそ、無責任な約束だ。ジゼルさんはちょっと笑った。僕はその目を見て言った。
「……ブリアック兄さんを、好きになってくれて、ありがとう」
言ってから、ジゼルさんを見たまま、三歩後ろへ下がった。ガコン、と大きな音がして、車両の連結部が軋む。そして、大きな汽笛。
ジゼルさんは、ちょっと驚いた顔をした。それからくしゃっと、泣きそうな顔をして、笑って、うなずいた。だれかを好きになるっていうことが、僕にはまだよくわからなくて、ただ、それはすごいことだなって思うんだ。こうやって、国を出て行こうとするくらい、大きなことなんだって。
警笛とともに少しずつ加速して行く汽車は、ジゼルさんを乗せて小さくなって行く。汽笛がホーム全体に鳴り響き、車輪が線路を刻む音とともに、黒い蒸気が立ち昇っている。見送りの人々が手を振る中、僕はただ十四番線のホームを去っていく汽車を見つめ続けた。完全に見えなくなって、他の見送りに来ていた人たちも入れ替わり始める。
「……なに、渡したん? ジゼルに」
ノエルさんが隣りに来て、尋ねた。僕は握っていた箱を開いて見せた。そして「ブリアック兄さんとの、結婚指輪。彼女の分しか、受け取ってくれませんでした」と言った。ノエルさんは目を見開いて、じっと指輪を見下ろした。
「……そっか。どうすんの、その、ブリアックの分」
僕は、まさか片方だけ受け取ってもらえないっていうことを想定していなかったけれど、でも、最初から考えていたことをノエルさんへ告げた。
「……ブリアック兄さんの、お墓に埋めます」
ノエルさんは固まった。僕が胸ポケットに赤い箱をしまうと、やっと動いて早口で「いつ行くの、墓」と言った。
「冬休みに。帰省して、行ってきます。たぶん雪めちゃくちゃ積もってると思うけど。雪かき得意なんで」
「それさあ、俺も着いて行ったらだめかなあ?」
今度は、僕が固まる番だった。ぜんぜん予想もしていない言葉だった。僕ひとりで行って来ようと思っていたから。オリヴィエ兄さんも、父さんも、母さんも置いて、僕だけで。
ノエルさんは言い訳するみたいに身振りを加えて「ほら、結局俺らって、ブリアックの死に目には会ってないわけよ。だからさ、ちょっと実感なくて。墓とかさ、見たら納得できるなか、とかさ。いや、俺らって言っても、他のやつらには言わないけど。俺だけ。どう? だめ?」と早口でいっぺんに言った。……ああ、ここにも、ブリアック兄さんの死に振り回されている人がいる。そう思った。
「……わかりました。僕から連絡するには、どうしたらいいですか?」
「ルミエラなら、エル・デ・リバティ美術専修学校へ連絡くれればいい。いつから休みだ? 俺も合わせて年休取るから」
「今月末の木曜からです」
僕が言うと、ノエルさんは手をひとつ打った。
「よし。じゃあ、ディルゼーで待ち合わせだ。俺の実家に連絡するのがまずければ、あの、駅前の煉瓦造りのでかいホテルあるだろ?」
「オテル・ル・ソレイユ・ドール?」
「それ。受付のオダンって男に言付けてくれ。俺につながる」
ノエルさんはずっと早口で、僕に話す時間を与えたら、拒否されるって思っているみたいだった。
前に会ったときは……ノエルさんの存在や言葉が、僕にとって大きな衝撃だったのに。ブリアック兄さんの死について、彼と話すなんてありえなかったのに。でも。もう、だいじょうぶなんだと、自分でも僕は驚いている。今は、なにもかも受け入れられる気持ちでいるんだ。ノエルさんの、悲しみも。
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