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第七章 宮中

12.主上との話

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 「なにっ!!」
 主上と東宮は同時に叫び、他の皆は驚いて腰を浮かす。

 「姫はここに残れ!」
 と言いざまに主上を残し、東宮以下全員部屋を飛び出して行った。
 東宮は報せに来た検非違使の襟首をつかんで、引きずるように歩くのが見えた。
 
 「容態は!」
 「…それが…おそらくもうダメかと。
 典薬のかみも呼んではおりますが…」
 東宮の大きな声と、役人の小さな声が遠ざかっていく。

 どうなっちゃうの…
 あたしは呆然と皆を見送った。

 「伊都子姫」
 と後ろから声をかけられ、誰かと思って振り向くと主上がじっとあたしを見つめている。

 えっ…主上とふ、ふたりきり?!

 ヤバいよ!
 思い出話とかされても、まったく答えられないよ!
 あたし、伊都子姫じゃないの、ごめんなさい!!

 あたしは思わず後ずさる。
 主上はあたしの右手を取った。
 
 「伊都子姫…私がどれほど貴女に焦がれていたか…
 会いたかった」
 そう言うと手の甲に口づける。

 あたしは、あなたが会いたがっていた伊都子姫じゃないの。
 伊都子姫の身体を借りた、赤の他人なの!

 あたしは手を引き、右手を左手で包むようにつかんだ。
 涙が零れる。

 伊都子姫、伊都子姫、聞こえてる?
 主上があなたにこんなこと言ってるよ。
 あたしではなく、あなたが聴いていたら…良かったのに…

 「姫、なぜそんなに泣くのだ…」
 主上は悲しい瞳であたしを見つめる。

 ごめんね、主上。
 主上の好きな伊都子姫はここにはいないの。
 あたしが…中に入っちゃったから。

 「わたくしは…」
 隠しておけないと、あたしは思った。
 この人には、言わないといけない。

 本当のことを。

 「あなたは、伊都子姫ではない方だね」
 低く響く、優しい声音で主上は言った。

 !!!
 あたしは目を見開いた。

 「では、どなたなのか…と訊くのはやめておこう。
 あなたなりに、伊都子姫として懸命に生きていらっしゃるのはよく判る。
 それに、そうやって伊都子姫のことを思って涙を流すお気持ちもあるのだから…」

 「しかし、伊都子姫は本当に、もうこの世には居られないのだね」
 と言うと涙を零す。

 「ごめんなさい…あたしは…息を引き取った伊都子姫の身体に入ってしまったの…
 あたしは、こことは別の世界の女性で、交通事故で命を落としたの。
 ここよりもっと時代が進んでいて、科学が発達しているところ」

 涙を溜めた目で、主上はあたしに微笑みかける。
 「…そうか。姫の破天荒な行動や、深遠な知識は、別の世界の方だからなのだね」
 そう言うと、あたしの涙を拭ってくれた。

 「このことは、義光…民部大輔様しか知りません。
 伊都子姫がお慕いしていた、主上にだからお話し申し上げました。
 お願いです、どうか御内密に」

 あたしは頭を下げる。
 「姫、顔を上げてください」
 主上はあたしの肩に手を置いて、あたしを起こす。

 「ありがとう…
 でも私はね、貴女が伊都子姫でないことは、左近衛中将の話を聞いていてすぐに解りましたよ。
 私の知る伊都子姫では全然ない。まったく違う。
 別人であるという結論が一番しっくり来た」
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