上 下
230 / 307
第九章 二度目の死と伊都子姫

11.お兄様の間者容疑

しおりを挟む
 「お怪我の、様子は…」
 あたしは気になっていたことを訊いた。
 
 東宮は涙を手の甲で拭うと「とても調子が良いです、殆ど傷も塞がりましたよ」と笑った。
 「典薬の頭にも診てもらったが、傷の治りの早さに驚いていた。
 後ほど治療法を姫に聞きたいそうだ」
 打ち身は痣になっていて、まだちょっと痛い、と顔をしかめる。

 あたしは笑おうとして、涙が零れてしまった。
 東宮は涙を懐紙で拭いてくれる。

 そこへ元信様のお兄様が「失礼いたします」と、遠慮がちに入ってきた。
 「殿下、都へ帰って準備をせよとの主上からの御伝言でございます」

 東宮はさっと顔色を変えた。
 「うん…兄上がそうおっしゃるなら…」
 自信なさそうに呟く。
 
 「ご自身と月子姫の御為おんためでございますよ」
 お兄様は微笑む。
 
 「私どももついて居ります。
 皆、殿下のお味方でございます」
 
 「そなたは…関白の間者ではなかったのか」
 東宮は呆然として問う。
 「第二回の幾望会の時、月子姫と権中納言のことを、本人に堂々と訊いて居ったではないか」

 ああそうだった。
 権中納言様があたしのところに頻繁に訪れて、何をしているのかと訊いてきたんだった。
 
 あれは、さきの太政大臣の子息である権中納言様と、一緒に失脚した右大臣の娘であるあたしが結託して謀反を企んでいるんじゃないかって、疑ってたんだな…
 
 お兄様は気まずそうに蝙蝠で、自分の頬を押す。
 「まああれは…ひとつの表現といいますか、演技っていうか。
 疑ってますよということを匂わせて、自重を促したと言いますか」

 あ、はあ、要するにパフォーマンスだったわけね。

 「一応、月子姫が持っていた文に書かれていた算学の問題と解答は、姫の女房殿に頼んで書写させてもらい、大学寮の教授にご覧いただきました。
 教授も瞠目するほどの高度な数学だったようで、今度月子姫とぜひゆっくり話をしたい、と」

 えっ、権中納言様の師匠?
 そ、それはぜひ、お話したいわ。

 「父がとにかく、太政大臣殿に心酔して居りまして。
 大した出自でもない父を、左大臣にまで引き上げてくれた恩人であるから当然かもしれませんが。
 太政大臣殿のお役に立ちたいと、関白殿と部分的に結託して情報を引き出しています」

 そこまで話して、ふっと笑ってうつむく。
 「私も、月子姫にお会いするまでは、正直なところ、生真面目な弟を何か甘言で騙したのではないかと思っておりました。
 しかし、幾望会や宮中での食中毒事件など、月子姫の人となりを拝見する機会を得て、私の考えは正反対になったのです」

 顔を上げて、あたしと東宮を見る。
 「私は、現在は本当に嘘偽りなく、お二人の味方でございます。
 月子姫に義兄にい様と呼んで頂ける日を楽しみにしておりますよ」

 東宮はふっと顔を逸らす。
 「判った。ありがとう。
 では、私は自身の潔白を訴えに、じじいどもの前に顔を晒しに行くか」

 そう言って、怪我をした足をかばいながら立ち上がる。
 お兄様がさっと立って、東宮を支えた。
 
 本当に、謀反なんて企んだりしてないんだから。
 頑張って!
しおりを挟む

処理中です...