死ぬほど愛しているけれど、妻/夫に悟られるわけにはいかないんです

杏 みん

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57.一つの道を極めた匠はジャンル問わずかっこいい

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 「あのねお嬢ちゃん。毎回言うようだけど、俺はもう引退してっから」

 「そうおっしゃらずに! どうか、どうか――!!」

 縁側で足の爪を切るご主人に、必死になって頭を下げる。

 「ケチャップのシミ位、その辺のクリーニング屋でも取れるよ?」

 「そうかもしれませんが、取れなかった時に困るんです! これは夫のお気に入りのセーターなので……強力な洗剤を使って、衣類を痛めるだけで終わっちゃったらと思うと……! ですから、伝説の染み抜き職人と呼ばれたご主人の力を是非お借りしたく……!」

 先日、インテリアショップに出かけた時、仁ちゃんが着ていたグレーのセーターを抱きしめる私に、ご主人は深いため息を吐いた。

 よし。ため息でた! このため息は、合図だ。条件によっては染み抜きを受けてやるぞ、というご主人の応え。

 「何かご所望の物がありましたらご用意しますので! なにとぞー!!」

 「仕方ねえな……じゃあ今回は……ポ〇モンカードで手を打ってやる。孫が欲しがってるんだよ。もうじき発売の、最新版のやつ」

 「承知しました! ありがとうございます!」

 「セーターは預かっといてやるが……礼は手に入ってからにしてくれよ。発売日の朝から、店に長蛇の列が出来るらしいからな」

 「必ず手に入れて、また伺います! どうぞよろしくお願いします!」

 ご主人にセーターを渡し、改めて深々とお辞儀をする。
 
 「しかし、お嬢ちゃんも懲りないね。旦那の服の為に毎度毎度……」

 「……愛する夫の、大切なお洋服ですので」

 私がこんな事を言えるのは、この染み抜き名人にだけ、だ。

 埼玉の某所。田んぼの中に点在する民家の中に、名人のご自宅はある。
 『田島クリーニング』と書かれたボロボロの看板が庭に放ってある、そのお宅を後にして……私はさっそく、スマホで調査を始めた。

 「さて……ポ〇モンカードか……。どうすれば買えるんだろう?」

 いつだったか、夕方のニュースに出ていた染み抜き名人。
 彼に仁ちゃんのお洋服を託すのは、もう何度目になるだろう。

 『自分はもう引退した身だから』と仰る名人に繰り返し頭を下げて……ご所望の物と引き換えに、染み抜きを請け負って頂いている。

 名人のおっしゃる通り、ケチャップの染み位なら、県境をまたがずとも解決してくれるお店はあるのかもしれないけど……一度、シャツのシミ取りに失敗しちゃった時、仁ちゃんはそのシャツを隠れて捨ててたんだよね。
 
 仁ちゃんは育ちがいいし、親族での集まりでは勿論、お仕事でも一流と呼ばれる血統種の方々に会う機会も多い。
 衣服の乱れが、先方への失礼にあたる事もあるかもしれない。
 
 だからお洗濯には手を抜きたくないんだ。たとえ、名人のご自宅まで、片道2時間以上かかったとしても。
 私に出来る事は何でもする。仁ちゃんの為なら……

 「でも……昨日のは、ひどい言い方だったよね……」

 のどかなあぜ道を歩きながら、ため息を吐いてしまう。

 私の為に、出世に不利になる事をして欲しくない。
 だから、なんとしても運動会には出場してもらわなきゃと思って……あんな風に言った。

 人生を犠牲にしてるなんて、微塵も思っていないけれど。優しい仁ちゃんは、私にああ言われたら、出るしかないだろうなと、思って。

 「ああ……私がもうちょっと頭がよければ、仁ちゃんを傷付けずに運動会に出て貰う方法、思いついたかもしれないのに……」

 頭に浮かぶのは、今朝の仁ちゃんの顔。悲しそうな、苦しそうな。
 シーズンオフで、乾いた田んぼ。そして、青空と白い雲。こんなにのどかな景色に囲まれていても、気持ちがちっとも晴れない。
 私の世界を作っているのは周囲の風景じゃない、仁ちゃんだから。

 「と……いけない」

 センチメンタルになっている場合じゃない。

 仁ちゃんに貰ったスマートウォッチで時刻を確認する。
 現在、12時30分。いつもなら、仁ちゃんの帰宅時間に間に合えばいいから、慌てるような時間じゃないんだけど。今日は待ち合わせがあるから。

 RRRRRRRRRRR

 ちょうどのタイミングで鳴った、着信音。

 「はいもしもし……え!? もう着いた!? ごめんね、急ぐね!」

 電話を切ってから、私は走り出した。
 忙しいあの人を、待たせるわけにはいかない。という気持ちが半分。
 たくさんたくさん、私の話を……気持ちを聞いて欲しい。そう急く気持ちが、もう半分。

 「はぁ、はぁ……っ、あ……、気持ちを話せる人、名人だけじゃなかったな……」

 小走りしただけで弾む息を整えながら……私は一人、そう呟いていた。
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