死ぬほど愛しているけれど、妻/夫に悟られるわけにはいかないんです

杏 みん

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227.親切で礼儀正しい人に囲まれて育つとそうじゃない人種への免疫力が低め

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 「うん。お疲れ様。本当にありがとう。うん、うん、じゃあ後でまた……」

 独りぼっちのオフィスで。

 「はぁあああ……っ」

 蓮ちゃんとの電話を切った後、ふか~~~いため息をついてしまう。
 
 「とんでもなく大事になってしまった……」

 蓮ちゃんがアスカにお詫びに行くというだけでも、針の筵に素足で乗り込ませるようで申し訳ないというのに。
 ピラミッドの頂点である零香さんまで動かしてしまうとは。


 『仁さんを含めた社員達の不満は、早めに解消しておかないと』
 『蓮や唯子さんに悪意ある噂が広がったら、ストレスにもなるでしょう?』
 『あなたは何も心配しなくていいの。私と蓮に任せて』


 零香さんはそうおっしゃってたけど……まさか直接出向いて下さるとは。

 「ホントに今更だけど……すごい所に嫁いでしまったんだな……」

 なんだか、ミジンコの為に耐震強度最高レベルの豪邸を建てさせてしまっている気分。
 
 「あ、ごめんね? あなたは宝物だよ? 私がミジンコっていう意味で」 

 まだお喋りの出来ないお腹の子に、慌てて言い訳をする。
 
 「……仁ちゃんも、嫌な想いしただろうな……」

 紫苑さんには当然ながら大分怒っていたようだけど。社長御自らに頭を下げられたんじゃ、拳をおさめるしかない筈。それもきっと、渋々。


 『こっちも、仕事だから』
 
 『今、お前にそう言ってくれるのは仁じゃない』


 昨日から、仁ちゃんと紫苑さんの言葉が、繰り返し頭の中でグルグル……。

 わかってる。わかってるけど。

 前に仁ちゃん達がここに来た時、ずっと私を想ってるって言ってくれてたのに。
 ファンとか出待ちとか、ちょっと意味がわからない事もあったけど……ああ、やっぱりあの時の仁ちゃんは少しおかしくて、時間が経って元に戻ったっていうだけなんだろうか。
 
 仁ちゃんはもう本当に、私の事なんか好きじゃ無くて、どうでもよくて……。

 「こうやって凹んでいる時点で……わかってないって事だよね……」

 「唯子さん? 大丈夫ですか?」

 独り言に、突然返ってきた反応。
 驚いて、椅子から立ち上がってしまう。

 するとドアの所に、私以上にびっくりしている様子の七瀬さんが立っていて。

 「ご、ごめんなさい、驚かせて! 入る時に声を掛けたんですけど……」

 「いえいえっ、こちらこそすいません! 一人でブツブツ……怖かったですよねっ」

 お互いにワタワタしながら頭を下げる。

 「あ……でもどうして? 七瀬さん、今日はお休みの筈じゃ……」

 「そうなんですけど……実は昨日、唯子さんから蓮さんに電話がかかってきた時、私も一緒にいて。体調が悪くなってしまった……んですよね? でも今日は私がお休みを頂いているので、無理して出社されているんじゃないかって、心配で……」

 「七瀬さん……っ」

 なんだか、七瀬さんの背後に後光が見える。なんてお優しい方。
 私の居場所とられちゃってるな……なんて、影でいじけてた自分が恥ずかしい。
 
 「ありがとうございます! そこまでお気遣い頂いて……七瀬さんの清らかな思い遣りに、心が洗われる気分です!」

 七瀬さんの手を両手で包むように握りしめ、拝むようにお礼を伝える。
 すると七瀬さんは、少し戸惑いの表情を浮かべた後、俯いて……。

 「そんな……清らかとかじゃ、全然無いです。こうやって善人風に振舞ってれば、良く思って貰えるかなっていう下心があるんだと思います」

 「へ?」

 「人の役に立ちたい、喜んで欲しい。そういう気持ちは本当なんです。でも……唯子さんみたいに、100%の善意じゃない。こうしたら良い人って思ってもらえるかな、好かれるかな……って、常に考えちゃってるんですよ。だから、感謝や評価をされないと、優しさの無駄遣いしたような気持ちになっちゃって」

 微笑んではいるけれど、どこか自嘲気味の、影のある表情。

 「唯子さんは、何も見返りが無くても、モヤモヤしたりしないでしょう? 本物の良い人ですもんね。だから蓮さんみたいな人に選んでもらえるんだろうな……」

 「ええと、モヤモヤはしないですけど、良い人というわけでは無いと思います、よ?」

 首を傾げてしまう。七瀬さんの中では、随分と私は美化されているようなので。

 「そういう謙虚な所も……素敵ですよね……」

 「そういうわけじゃなくてですね。私は人様には嫌われて当然という人生なので、せめて迷惑を掛けないよう、少しでも役に立つよう、生きるのが義務だと思っていて」

 「へ? それってどういう……?」

 「でも、七瀬さんはきっと、ご家族からもお友達からも大切にされて、愛されて認められてきた人なんだと思うんです。善意を尽くしたら、当然のようにありがとうって言って貰える素敵な環境で育ってきて……だからそうじゃない人や状況に出くわすと、モヤモヤしちゃうんじゃないでしょうか?」

 私の勝手な分析を口にしてみる。
 専門家でも何でもないけれど、七瀬さんのように親切で可愛らしく、意地悪を知らない女性って、沢山の人に愛されてここまで来たんだろうな、と羨む気持ちがあって。

 「育ち……はごく普通だと思うんですけど。確かに、まわりは優しい人ばかりで、恵まれてたのかもしれません」

 「じゃあ、優しい人達のお陰で私も優しくなれているんだな、逆にそうじゃない人が苦手なんだな。で、良いんじゃないでしょうか? 自分の優しさが本物か偽物かみたいな事を悩んでいるのは、思慮深くて真面目な証拠だと思いますから、それも長所なんじゃ……?」

 「でもたとえばっ、私は今日出社して、蓮さんや唯子さんにありがとうって言って貰えなかったら、来なきゃよかった……とか思っちゃうんですよ?」

 「え!? それってダメですか!? 自分がした事を喜んでくれた方が嬉しいっていうのは、普通の事じゃないんですか!?」

 「だけど唯子さんなら思わないでしょう!? そこまで純度の高い良い人になりたいんです私は!」

 少しばかり声量が大きくなって来た七瀬さん。
 しかし……純度の高い良い人……って、なんだろう?

 「すいません、よくわからないんですけど……七瀬さんの気遣いが私は嬉しいですし、有難いですし、仕事でも助かって、心も癒されています。私が七瀬さんなら、そこまで人様の役に立てている自分を好きになれると思うんですけど……七瀬さん的にはダメ、なんでしょうか?」

 瞳を瞬かせながらそんな質問をしてみると、七瀬さんも目をぱちくりとさせて、私の言葉の一つ一つに対し、考えを巡らせてくれているようで。

 「ダメ……じゃないですよね、そう言われると」

 そして思考の結果、そう結論を出してくれた。思わず、笑顔になってしまう。

 「そうですよ! 七瀬さんは素敵な人なんですから!」

 「な、なんだか気持ちが楽になりましたっ。唯子さん、ありがとうございます!」

 「とんでもないです! 七瀬さんのお役に立てたなら、私もちょっとだけ自分を好きになれそうです!」

 私達はお互いに笑い合い、改めて固い握手を交わした。

 さっきまでウジウジグルグル状態だった心が、落ち着いてきた。

 結局人は、良くも悪くも他人に影響される生き物なんだな。
 いくらしっかりとした芯があっても、自分だけの世界では心が整わない事もある。


 私はその日の終業後、七瀬さんとお食事に出かけた。

 たくさんお喋りをした。たくさん笑った。とても楽しい時間だった。

 だから……思ってもいなかったんだ。

 満たされた想いに胸を膨らませている最中……あんな事に、なるなんて。
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