眉目清秀な劇団座長は、宿屋の平凡娘になぜか弱い。

ゆずまめ鯉

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八.偽りの結納【3】

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「今から出かけて、明日着る服を買いに行かない?」
「え、今から?」
「うん。だって結納だよ? きっと謝公子は一張羅で挨拶するはずだし、少しでも見栄えする姿で待機したくない?」

 妹からそう指摘され、春鶯は自分の所持する数少ない襖裙を思い浮かべる。宿屋で働いていることから、動きやすさ重視で買い揃えていたため、無地だし地味な色のものしかない。正月用にと少し華やかな刺繍の入ったものもあるとはいえ、冬用なので明日着用するには相応しくないだろう。

「でも、どんなものを選んだらいいか……」

 央央に買うことはあっても、数着の仕事着以外は持ってないので自信がなかった。

「私に任せてよ! 似合うのを選ぶから」
「う、うん」
「よし。お父さんにお小遣いをちょっとおねだりして、買いに行こうか!」

 逞しすぎる妹は、父親が起きるや否や厨房に駆け込み、一体何を告げたのか銀三両も受け取り、誇らしげな顔をしていた。どんな会話が繰り広げられていたのか、春鶯は知らない。使っても大丈夫なのか心配すると、問題ないというので、央央を信じて出かけることにした。



 あれよあれよという間に迎えた翌日の夕方、酉の初刻十七時。媒人役なこうどやくは劇団員に任せたのか、四人引き連れて楓流軒に足を踏み入れる。楚月の格好は、黒地金糸の長袍で立派に正装している。事前に説明していなかったので、春鶯の父親は驚愕していたが、婚約書と結納品を持参した相手を追い返すようなことはせず、客間に通す。
 そこで納徴のうちょうの儀式──結納品を並べてお互いに礼をする。父親と楚月の二人きりだ。春鶯はというと、昨夜、買いに行った淡い桃色の襦裙じゅくん姿で屏風の向こうで待機している。髪は一つにまとめあげ、央央は庭で摘んだばかりの一輪の夏椿を差した。母が好きだった淡い色の花が生き生きとしている。

「春鶯。来なさい」
「はい」
「本当にいいんだな?」
「……はい」

 父親に名前を呼ばれたので、春鶯は顔を出す。楚月と視線が合うなり、片目を閉じて微笑まれ、瞬間的に頬が真っ赤に染まった。苦笑した父親に、また屏風の向こうに戻るよう手で合図されたので、屏風の裏で待機する。

「では三か月後の吉日はいかがかな?」
「さすがに遠すぎます」
「それなら二か月後で」
「わかりました」

 こうして、納徴の儀式は滞りなく無事に終わった。

「姐姐、よかったね。おめでとう!」
「うん。ありがとう」

 終わったはずなのに、ドタバタと豪快な足音がだんだん近づいてくる。春鶯が音のする方に視線を向けると、髪を振り乱して大慌てといった様子で、継母である趙嬌が客間に駆け込んできた。

「ちょ、ちょっと待ったああ!」
「え、なに? なんできたの?」

 誰にも邪魔されぬよう趙嬌には打ち明けていないし、準備も秘密裏に行った。春鶯が着替えたり、髪形を整えたり、化粧を施したのはついさっき、一炷香前だ。父親にすら打ち明けなかったのは、なにかと勘のいい趙嬌に探らせないためでもある。それなのに、間に合わなかったとはいえ、結納の場に突如として現れたので、執念深さに驚きを隠せない。央央は不快そうに舌打ちをした。

「あなた、それから公子。春鶯は、庚帖を交わした殿方が複数人いる上に、とんでもない阿婆擦れで──」
「趙夫人。儀式は済んでいるので、撤回はできませんよ?」

 楚月は、満面に笑みを浮かべて趙嬌を威圧する。舞台慣れしている楚月の厳かな雰囲気に、圧倒されている。
 こんなこともあろうかと、押しつけられた釣書は、午前中のうちに返却しており、春鶯のものも回収済みだ。竈で燃やしてある。交わしたと趙嬌が主張しても、どこにも現物はないため証拠はない。

「うむ。娘子おまえは、下がりなさい」
「で、でも……!」
「解散だ」

 春鶯の父親がそう告げると、趙嬌は悔しそうに地団駄を踏んだ。宿屋の仕事があるため、父親はそそくさと客間を出た、その直後。思い通りにならなかったことに対し、癇癪を起こした趙嬌は、近くにあった屏風を蹴り倒そうとしたのか距離を詰めた。

「晋高!」

 楚月が瞬時に叫ぶと、春鶯たちの背後で待機していた晋高が、春鶯と央央の腕を後ろに引っ張り、自分の背中に隠す。ここで暴れても、無意味だと思い知らせるためだ。百九十もある晋高と、そこまで背の高くない趙嬌では敵うはずもなく。

「覚えてなさい!!」

 分が悪いことを悟った趙嬌は、八つ当たりのために屏風を蹴ってから退散した。
 成り行きとはいえ、また守ってもらった央央は「ありがとね、琳哥哥♡」と可愛くお礼を告げた。晋高は無表情のまま佇んでいる。
 とんだ邪魔者が入ってしまったが、なんとか意にそぐわない相手との婚姻を回避することに成功した。ふう、と春鶯の口からは安堵の溜め息が漏れた。

阿耀アーヤオ

 親しみの篭った声で、初めて楚月に名前を呼ばれた。春鶯は、ゆっくりとした足取りで彼の元へ向かう。李耀という本名を、家族以外に呼ばれたのは初めてだ。小さい頃、母親がよく口にしていた。それ以来だ。懐かしさが込み上げてくる。そう言えば、以前にも、誰かに呼ばれた気がするが、春鶯はそれがどのような人物だったのか思い出せない。

「怪我はない?」
「平気です」

 見慣れない、黒地に金糸の刺繍が施された、値の張りそうな長袍を身に纏い、髪形も普段とは違って結わずに下ろしているのでドキドキする。もちろん、仮面はしておらず素顔だ。これほどまでに容姿の整った人物に、たとえ偽りだろうとも結婚しようと言ってもらえたのだから、春鶯は幸運だ。

「よかった。これを、きみに渡したくて」
「……この前の、玉佩ですか?」

 趙眠が盗み、央央か春鶯に罪を着せようとした、あの玉佩だ。

「うん。幼少の頃から、ずっと身に着けていたものなんだ」

 薄緑色をしたとても綺麗な翡翠で、春鶯の手のひらにそっと乗せてくれた。家族から与えられたものなのだろう。楚月は三年前に勘当されていると言っていた。今も、家族と会うことが許されていないのならば、この玉佩を大切にしていても不思議ではない。宿屋に忘れて慌てて取りに戻るくらいだからだ。

「そんなに大事なものなのに、私が受け取ってもいいんですか?」

 宿屋の娘が身に着けるには、分不相応ではないかと不安になる。春鶯が所持しているのは安物の簪くらいだ。玉佩は持っていない。

「大事だから、きみに持っていてほしい」

 真剣な眼差しをしている楚月に見つめられる。大事だから、きみに持っていてほしい──。春鶯の心の中に、楚月の言葉が染みわたる。

「……わかりました。お預かりします」
「ありがとう」
「お礼を言うのは私の方ですよ? 偽装とはいえ、謝公子には助けていただいたので……」
「阿耀。もうそろそろ、呼び方を変えてもいい頃合いだと思わないか? 俺たちは、仮にも結納を交わした仲だ」

 謝公子という呼び方が引っかかるのか、指摘されてしまった。春鶯は小首を傾げつつ、なんと呼べば満足してもらえるのか考える。まだ謝霜と呼ぶわけにはいかないし、謝哥哥と呼ぶ勇気も持ち合わせていない。

「それなら、ええと……楚月さん、はどうですか?」
「あー、うん。今はそれでもいいや。それでね、阿耀。今晩、公演が終わってからになるからちょっと遅くなるけど、一緒に夕餉を食べに行かないか?」
「え? ええ、かまいませんけど」
「よかった。きみのおかげで夜公演も頑張れそうだ」
「ふふ、頑張ってください?」

 くすくす笑いながらも応援すると、笑顔を引っ込めた楚月は突然、真顔になった。
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