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1巻
1-3
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本に挟まれていたインタビュー記事によると、彼女はハッピーエンド主義らしい。となれば連載中のグレゴール様とミリーのすれ違いラブもハッピーエンドになるはず。だけど、それまでの過程が切なすぎて不安になる。
その上最新刊では主人公ミリーを誘惑するライバル貴公子まで現れて、ドキドキが止まらない。物静かなグレゴール様と、華やかで色っぽい貴公子。彼らに挟まれたミリーの決断は……いかん、想像しただけで鼻血が出そう。
「キャサリン先生……どんな人だろう」
こんなに甘くてロマンチックな恋愛を描くのだから、きっと情緒豊かな素敵な女性なんだろう。できることなら直接お会いして、小説の感想をお伝えしたいんだけど……無理だよなぁ。
「お嬢様、マリィでございます」
うーんと頭を抱えていると、控えめなノック音に続き、落ち着いた声が部屋に響いた。
「はい、お入りなさい」
「失礼します」
しずしずと入室してきたマリィを、令嬢らしい落ち着いた態度で迎える。
お茶の用意でも持ってきたのかと思ったら、マリィはいつものワゴンを押していなくて、代わりに銀のトレイを手にしていた。これは、手紙を持ってくる時に使うトレイだ。
以前はお茶会の案内とかサロンへの招待とかの手紙がひっきりなしに届いていたけれど、私が殿下に婚約破棄されて自宅療養するようになってから、そういった手紙はぱったりと来なくなった。だから、今になって手紙が届くとはちょっと意外だ。
「誰かから手紙でも届いたの?」
「いえ……一つ、お嬢様にご報告することがございます」
マリィはそう言うと私の前にやって来て、トレイを差し出した。そこに載っていたのは手紙ではなくて、ぺらっとした薄手の紙だ。
これは……チラシ?
「キャサリン・スノー女史サイン会開催のお知らせについての広告です」
なんのことだろうか――と思っていた私だけれど、マリィの読み上げる内容を耳にしてはっと目を見開く。
……キャサリン先生の、サイン会?
マリィが淡々と読み上げた内容をまとめると――あの引っ込み思案で有名なキャサリン先生が、今回とある大規模書店との交渉の末、サイン会を開くことになったのだという。
サイン会って、この世界にもあったのね。いや、それはともかく――
「行く!」
「……いえ、お嬢様のためにわたくしがサインをいただきに行こうかと」
「いいえ、わたくしが直接行きたいわ!」
はいっ! と以前のように真っ直ぐ手を挙げ、私はマリィに詰め寄る。
キャサリン先生とお会いできる、またとないチャンス。これを逃す手はないわ!
「マリィ、わたくしはキャサリン先生の書籍をきっかけに本の良さに気づき、前向きになれたの。……お父様からも、最近の様子についてお褒めの言葉をいただいているの、知ってるわよね?」
「それは……もちろんでございます」
「お父様には、わたくしの方から交渉するわ。……わたくしが立ち直るきっかけになった作家様だもの、きっとお父様も許してくださる。それに、公爵家の娘だと分からないように、変装も庶民のフリもするつもりよ」
「まさか!」
「ねえ、お願い。マリィたちには絶対に迷惑をかけないと誓うわ」
お父様への交渉も全て私が請け負う。マリィにそそのかされたのだとか、そんなことは絶対に言わせない。
最初は渋っていたマリィだけど、私の熱意に押されたのか、かなり迷った末に了承してくれたのだった。
よっしゃ!
マリィの了解を得た私はその日、お父様が帰宅するなり書斎に飛んでいってサイン会の話をした。
案の定、お父様は娘が庶民の読み物を愛読していると知って驚愕なさった。でも、「キャサリン先生のご高著のおかげで新しい見解を持てるようになった」「最近体の調子がいいのも、小説のおかげ」「ブラックフォード家の娘だと絶対にバレないようにする」と言うと、最終的に折れてくださった。
よっしゃ!
* * *
サイン会当日。
私はマリィたちが準備してくれた簡素なドレスを着て、ツバの大きな帽子を被り、鏡に映る自分を大満足で見つめていた。
くるくる内巻きの髪は太めの三つ編みにし、背中に垂らした。ドレスは動きやすさを重視したデザインで、裾が膝下までなので編み上げのブーツが見える。
「どう、マリィ? 商家のお嬢さんに見える?」
「……見えるのが我ながら不思議なくらいです」
私の着付けとメイクをしてくれたマリィは、心底不思議そうに首を捻っていた。
服やメイクはともかく、私は今日のために、「庶民らしい言葉遣い」を勉強してきたのだ。勉強といっても、マリィ同伴で城下町をぶらつき、若い女性の話に聞き耳を立てたくらいだけどね。
私の魂は一般市民のそれだからか、口調を変えるのにさほど苦労はしなかった。
今日お付きとして同行するマリィも、私と色違いのカントリードレスを着ていた。
マリィは男爵家の遠縁の生まれで、私より家柄は低いとはいえお嬢様だ。帽子で顔を隠して並んで立つと、マリィの方がお嬢様で私がお付きのように見えなくもない。
「いいですか、お嬢様。今回は旦那様が特別に許可をくださったのです。用事が終わりましたら寄り道をせずに帰宅しますからね」
「ええ、分かっているわ。それより……私のことはちゃんとタラって呼んでね」
私は帽子の位置を少し調整しつつ言った。
これから私たちは、商家のお嬢さんとそのお付きとして書店に行く。
その時にうっかりでも「タリカ様」なんて出てしまったら、とんでもないことになる。そういうわけで、お出かけ中はタラ様と呼ぶように頼んだのだ。
普段の外出時にはブラックフォード家の家紋入りの旗が飾られた豪奢な馬車を使うのだけど、商家の娘に身をやつしている今は飾りがない、シンプルな箱形馬車を借りていた。
ブラックフォード家の使用人である御者や護衛にも、いつもより簡素な服を着てもらっている。
貴族の邸宅が立ち並ぶエリアから商業エリアに移ると、私はレースのカーテン越しに見える風景に心を奪われっぱなしだった。
タリカはあまり広い目を持とうとしていなかった。
ただでさえ移動範囲は限られているし、庶民の生活になんて関心を示そうともしない。彼女にとって庶民は、その辺に転がっている石ころ同然だったのだ。
でも今は、大通り沿いに並ぶ数々の店や、買い物をする人々の姿、色とりどりの商品を遠目に見て――じわっと胸が温かくなった。
日本とは全く違う、異世界の町並み。
でもこの世界でも確かに、人々が暮らし、息づいている。
もう二度と戻れないだろう世界とは違うけれど、思ったよりも大差のない人の営みがそこにはあった。
「……皆、買い物をしているわね」
私が呟くと、向かいの席に座っていたマリィは一瞬眉根を寄せた後、合点がいったように頷いた。
「……お嬢様はお買い物をなさったことがないのですよね。お金についてはご存じですよね?」
「ええ、学校で習ったわ」
グランフォード王国には、通貨があります。
通貨の単位は、トルックといいます。
庶民は金を払うことで、物資を購入したりサービスを受けたりします。
そんなことを、経済学の授業で習った。そう、経済学だよ? 日本なら小学生でも知っているようなことを、いい年した学生が講義で習うんだよ?
しかも、上位貴族の大半はトルック硬貨を手にすることなく一生を終える。貿易などに関与する男性ならともかく、女性はそれこそ見ることもないかもしれない。……いや、かく言う私も実物のお金、見たことないんだよね。
「見聞を広めるため」と言い訳してマリィにお願いすると、彼女はバッグから財布を出して硬貨を見せてくれた。硬貨は三種類で、一トルックは小さな銅色、十トルックは少し角張った銀色、百トルックは表面に繊細な花の文様が彫られた金色の硬貨だった。
どうやら一トルックで庶民がパンを一つ買えるくらいの価値らしい。だいたい百円くらいだろうか。
たいていはトルック硬貨で支払いをするけれど、貴族などが大人買いする際には小切手のようなもので支払うという。
マリィにお金の説明を受けているうちに、馬車は目的地である書店の近くに到着した。
この書店は大通りに面しておらず、店の前の道が狭い。そのため、馬車で来る際には店の真正面ではなく少し離れたところで下車して歩いてきてほしい、とチラシに書いてあったそうだ。
書店は、外観だけだとおしゃれなカフェっぽかった。
でもマリィに手を引かれて店内に入ると、そこは壁という壁が本で埋め尽くされていた。ふわんと漂うのはインクの香り。ああ、これ、日本で行きつけだった本屋さんの匂いにそっくりだ。
店内にいる客のほとんどは、自分で本を買えるくらい経済的に余裕のある階級の人たちだろう。
試しに、手元の台に平積みされていた本を手に取って裏返すと、バーコードはあたりまえだけど、値段表示らしきものさえ見られない。
「マリィ、これっていくらするの?」
「一つ一つに値札は付いておりませんよ。これくらいの厚さなら――だいたい十五トルックでしょうか」
十五トルック――約千五百円の本は、現代日本で言う文庫本サイズ。それもページ数はかなり少なくて、百ページあるかないかっていう程度だ。
百ページ程度の文庫本が千五百円――これはかなり値が張るな。同人誌レベルだ。
「じゃあ、こっちの分厚い本は?」
次に手に取ったのは、単行本サイズ程度の本だ。ページ数はさっきの文庫本よりはありそうだな。百五十ページくらいだろうか。
「それなら……そうですね。装丁にもお金をかけていそうですし、五十トルックはしそうです」
「ひえっ……」
この薄めの単行本が、五千円。
紙質も日本の上質紙に比べればペラペラでいまいちだし、マリィが褒めた表紙デザインも、そう言われれば他よりはおしゃれかなーといった程度なのに。
私が本の価値に興味を持ったらしいと気づいたマリィは、書架で埋め尽くされた店内を歩きながら、私にそれぞれの本のだいたいの値段を教えてくれた。
「こちらの学術書は大判なこともあり、百トルックは覚悟しておいた方がいいでしょう。この子ども向けの言語教育本は紙質がいいので、三十トルックくらいですね」
「……その、結構値が張るのね」
ぼそっと呟くと、子ども向けの本を棚に戻したマリィは怪訝そうな顔をした。
「タラ様が普段お召しになっている服飾品と比べれば、たいした額ではございませんよ」
あ……しまった。
ついつい日本円に換算して庶民らしい考えを述べてしまったけれど、お嬢様であるタリカは自分で買い物をしたことがない。本一冊の値段はおろか、自分が普段着用しているドレスや宝飾品の価値だって知らない。
「それなのにどうして、値が張るなんて――」と言いたそうなマリィから視線を逸らし、私はもごもごと言い訳する。
「いえ、私もだいたいの値段の予想をしていたから――このお店にある本は学校の図書館で触れていたものよりも紙質は劣るのでこのくらいかな、と考えていたのよ」
「……そういうことでしたか」
ひとまずマリィは納得してくれたようで、一安心だ。
そうしているうちに、書店の店員がサイン会開催の時間を告げた。
呼びかけに応じ、店内をうろついていたお客がぞろぞろと奥の部屋に移動し始める。どうやらあっちでキャサリン先生が待っているらしい。
「いよいよね、マリィ。キャサリン先生に会えるわ!」
「そうですね。きっと奥は狭いでしょうから、お怪我などなさりませぬように」
そうマリィは忠告するけれど、やっぱり彼女も有名な作家に会えるのは楽しみなんだろう。声が少しだけ弾んでいる。
もみくちゃにされるよりはましだと思って、私たちは列の最後尾に並んだ。最後尾だったらツバの大きな帽子を被っていても周りの人に当たったり、逆に皆の帽子にぶつかったりしなくて済む。
案内された先は、物置みたいな場所だった。ちょっと薄暗いけれど壁には複数のランタンを吊しているので、歩行に困るほどじゃない。
長椅子が並んでいるその先にはテーブルがあり、私のようにツバの大きな帽子を被った女性の姿があった。
……あの人が、キャサリン先生だろうか?
「皆様、お集まりいただきありがとうございます」
私たちが椅子に座ると、さっきの店員が挨拶する。
「本日はご無理をお願いし、新鋭の作家キャサリン・スノー先生にお越しいただきました。キャサリン先生はサインだけでなく、もしご希望であれば書籍の感想なども受け付けるとのことです。ただ……先生はあまり大きな声を出せないそうですので、受け答えは小声になること、場合によっては助手の方に代弁していただくということを、あらかじめご了承ください」
助手――ああ、今キャサリン先生の背後で立ち上がった女性かな。黒っぽい色の髪をひっつめていて、優雅にお辞儀をした姿からは気品が感じられる。
……なんとなく、助手の人は一般市民じゃないような気がした。私のこと、気づかれないよね?
「それでは、順番にご案内します」
そうして、最前列に並んでいた人から順に先生からサインをもらい、新作の感想などを伝える時間が始まった。
読者のほとんどは若い女性みたいで、はしゃいだ声で感想を述べているのがここまで聞こえてくる。ただ、大きな声が出せないというのは本当らしく、先生の声はちっとも聞こえない。ほとんどは助手の人が返事をしているようだ。
先生は積極的に人と関わることがなかったそうだけど、大声が出しにくいというのも理由の一つかもしれないな。
ファンたちが退出していく中、私は遠目にキャサリン先生を眺めてみた。
ツバも飾りも大きな帽子に、この暖かい時期にしては着込みすぎなんじゃないかと思える詰め襟長袖のドレス。帽子の縁からは、黒の巻き毛が覗いている。
椅子に座っているから正確な身長は分からないが、向かいに座っているファンと比べる限り、結構背が高い方なのかもしれない。
うーん……噂どおり謎に満ちた、ミステリアスな女性だな。
マリィと二人でお喋りをしつつ、時間を潰す。ファン一人一人が結構長く感想を述べていたからか、私たちの番が来るまで結構時間がかかった。
「お待たせしました。最後のお客様ですね」
店員に呼ばれ、私たちは立ち上がった。
新作の感想を熱く長く語りたいのが本心だけど、先生も長時間座り続けて疲れているだろう。それに、元々あまり人前に出るのを好まない方のようだから、先生のためにもさっさと切り上げてしまった方がいいかもね。
「お初にお目にかかります。さっそく先生にサインを書いていただくのですが、お名前のご希望はございますか」
先生はテーブルに色紙代わりの薄い木の板を広げ、俯いていた。彼女の代わりに、助手の女性が声をかけてくる。
お名前――つまり、「タリカ・ブラックフォードさんへ」のように私たちの名前も一緒に書いてくれるのだ。
これに関しては順番待ちをしながらマリィと相談したのだけれど、まさかタリカの名前を出すわけにはいかないし、かといってタラという偽名で書かれたものを飾るのもアレだ。マリィの名前にすればいいじゃんと提案したら、「お嬢様を差し置いてとんでもない」と断固拒否されてしまった。
というわけで。
「いえ、私たちの名前は結構なので、サインだけお願いします」
私がそう答えた――瞬間。
それまでずっと俯いていた先生が、弾かれたように顔を上げた。帽子のツバの奥で、限界まで見開かれた琥珀色の目がこっちを見ている。
……あれ?
なんだろう。この目と顔立ちに、見覚えがある。
顔はおしろいで染め、目元にはアイライン、頬にはしゃれた色のチークを叩いて唇にはどぎつい色のルージュというかなりの厚化粧をしている。でも、元々の骨格や目の形などは変えようがない。
――脳裏を、腕を組んで私を睨む人の姿が過る。
……いや、まさか――ね?
確かに似ているけれど、まさかあの人がここにいるわけ――
「……タラ様?」
マリィが心配そうに尋ね、助手の人も硬直した先生の顔を覗き込んでいる。
「……先生、どうかなさいましたか?」
「……あ、いえ……」
先生は掠れた声を出す。
限界まで声量は落としているみたいだが――女性にしては低い声。しかも、妙に聞き覚えのある声だ。
「……あの」
声をかけると、見ているこっちがかわいそうに思うくらい、ビクッ! と派手に先生の肩が揺れた。さっきまで私を凝視していた目を伏せ、ペンを持つ左手が僅かに震えている。
……ああ、そういえば「彼」も左利きだったっけ。
私はすうっと息を吸い、商家のお嬢さんらしい、華やかで無邪気な笑みを浮かべた。
「私、先生のご高著に感銘を受けたのです。グレゴール様とミリーの恋愛は、読んでいるだけで胸が高鳴って、そのシーンを想像するのも楽しくて――先生のご本を読むことで、私は毎日を楽しく過ごせているのです」
帽子が微かに動く。ほんの少しだけ、先生の顔が持ち上がったようだ。
私は先生に微笑みかけ、色紙用の木の板を手で示した。
「私、先生のファンです。どうか記念に、先生のサインをお願いします」
「……先生」
助手にも促され、先生ははっとして頷くとペンを走らせた。
「彼」の字をじっくり見たことはないけれど、サインは大ぶりで、なかなか勇ましい字をしていた。
マリィが板を受け取り、しげしげと眺めている。その顔はほくほくと幸せそうだ。
「ありがとうございました、先生。先生の次回作も楽しみにしております」
「……ええ、ありがとう」
聞こえるか聞こえないかという声量で呟かれた声は、かなりくたびれていた。
* * *
お父様の許可を得て変装し、キャサリン・スノー先生のサイン会に参加した翌日。
「お嬢様、お客様です」
「いやぁぁぁぁ! だめ、そこでハグからのキスなんてシチュはだめ! 萌え死ぬ! ……って、お客? どちら様?」
「それは――」
部屋にやって来たマリィが戸惑い顔で告げた名前に、私は目を瞬かせた。
……近いうちに接触を図ってくるとは思っていたけれど、まさか翌日に来るとは。
きっと「彼」にとって、それほど事態は逼迫しているのだろう。
「事前にお約束があったわけでも、お嬢様と懇意になさっている方でもないので、どうしようかと思っておりまして――」
「いいわ。すぐに下りるから、支度をお願い」
私は読書用に雑に結んでいた髪をほどき、マリィに命じる。有能な侍女である彼女はすぐさま頷き、私の支度のために他の侍女たちを呼んでくれた。
なるべく早く支度をし、階段を下りる。
「お待たせしました。タリカ・ブラックフォードでございます」
応接間に入り、淑女の礼をする。はっと小さく息を呑む気配がしたので、私は顔を上げた。
夕日が差し込む応接間。一級品の素材で作られたソファに腰掛けていた彼の琥珀色の目は、夕日の色に染まって赤っぽく見えた。
彼は唇を一文字に引き結び、立ち上がった。そしてお腹の前に拳を当てる、グランフォード王国の男性貴族の礼をする。
「……突然の訪問をお許しください、タリカ・ブラックフォード様」
「ええ、ようこそ。どうぞ楽な姿勢をなさって、キース・ラトクリフ様」
私はそう言って、キースに座るよう促した。
タリカにとっての天敵であるキース・ラトクリフは、険しい顔のまま着席した。私は彼の向かいに座り、マリィに茶の支度を進めるよう命じる。既にお茶は淹れられていたものの、キースは一口も飲んでいないみたいだ。
自分から訪ねてきたくせに、キースはなかなか話を切り出そうとしない。……彼の目的はだいたい分かっているから、気持ちも分からなくはないけれど。
マリィが茶の支度を終えると、私はマリィに退出を命じる。彼女は最初こそ渋っていたが、まもなく頷いた。同じ年頃の男女が二人きりになるなんて、マリィからすれば許し難いことなのだろう。
ワゴンを押して退出したマリィが、廊下にいた者たちにもしばし席を外すよう指示を出しているのを確認し、私はキースに声をかけた。
「……それで? キース様は、どのようなご用件でいらしたのでしょうか」
「それは、あなたがよくご存じなのではないでしょうか」
キースは緊張した声で言う。顔色は悪く、目元にはうっすらと隈ができている。昨日から一睡もできていないのが明らかだった。
私はキースの顔をじっと見た後、ゆっくり唇を開いた。
「……キャサリン・スノー」
ぴくっ、とキースの肩が震える。
「昨日お会いして分かりました。城下町でも人気の新人作家キャサリン・スノー――それは、あなたのことだったのですね、キース様」
「……仰せの、とおりです」
ぎりぎりと歯ぎしりする音がここまで聞こえてくる中、彼は痛みを堪えるような顔で認めた。
……昨日のサイン会で見たのと同じ、琥珀色の目。
タリカに堂々と物申す時はぎらぎらと輝き、雄弁にその意志を語っていた瞳。
それが今は、どんよりと曇ってしまっている。
「私は――キャサリン・スノーという偽名で、昨年から執筆活動を行っています」
「それ、ご家族はご存じなのですか?」
「もちろん。……父は、文化の発展のためには必要なことだと理解しています。ですが、上位貴族に今すぐ小説を受け入れてもらうのは難しい。そのため、私が女性名で執筆活動をしていると内密にすることを条件に、容認してくれています。出版社と書店員に泣きつかれて渋々参加したサイン会で――まさか、あなたに会うとは思っていませんでした」
うんまあ、私も思っていなかった。
その上最新刊では主人公ミリーを誘惑するライバル貴公子まで現れて、ドキドキが止まらない。物静かなグレゴール様と、華やかで色っぽい貴公子。彼らに挟まれたミリーの決断は……いかん、想像しただけで鼻血が出そう。
「キャサリン先生……どんな人だろう」
こんなに甘くてロマンチックな恋愛を描くのだから、きっと情緒豊かな素敵な女性なんだろう。できることなら直接お会いして、小説の感想をお伝えしたいんだけど……無理だよなぁ。
「お嬢様、マリィでございます」
うーんと頭を抱えていると、控えめなノック音に続き、落ち着いた声が部屋に響いた。
「はい、お入りなさい」
「失礼します」
しずしずと入室してきたマリィを、令嬢らしい落ち着いた態度で迎える。
お茶の用意でも持ってきたのかと思ったら、マリィはいつものワゴンを押していなくて、代わりに銀のトレイを手にしていた。これは、手紙を持ってくる時に使うトレイだ。
以前はお茶会の案内とかサロンへの招待とかの手紙がひっきりなしに届いていたけれど、私が殿下に婚約破棄されて自宅療養するようになってから、そういった手紙はぱったりと来なくなった。だから、今になって手紙が届くとはちょっと意外だ。
「誰かから手紙でも届いたの?」
「いえ……一つ、お嬢様にご報告することがございます」
マリィはそう言うと私の前にやって来て、トレイを差し出した。そこに載っていたのは手紙ではなくて、ぺらっとした薄手の紙だ。
これは……チラシ?
「キャサリン・スノー女史サイン会開催のお知らせについての広告です」
なんのことだろうか――と思っていた私だけれど、マリィの読み上げる内容を耳にしてはっと目を見開く。
……キャサリン先生の、サイン会?
マリィが淡々と読み上げた内容をまとめると――あの引っ込み思案で有名なキャサリン先生が、今回とある大規模書店との交渉の末、サイン会を開くことになったのだという。
サイン会って、この世界にもあったのね。いや、それはともかく――
「行く!」
「……いえ、お嬢様のためにわたくしがサインをいただきに行こうかと」
「いいえ、わたくしが直接行きたいわ!」
はいっ! と以前のように真っ直ぐ手を挙げ、私はマリィに詰め寄る。
キャサリン先生とお会いできる、またとないチャンス。これを逃す手はないわ!
「マリィ、わたくしはキャサリン先生の書籍をきっかけに本の良さに気づき、前向きになれたの。……お父様からも、最近の様子についてお褒めの言葉をいただいているの、知ってるわよね?」
「それは……もちろんでございます」
「お父様には、わたくしの方から交渉するわ。……わたくしが立ち直るきっかけになった作家様だもの、きっとお父様も許してくださる。それに、公爵家の娘だと分からないように、変装も庶民のフリもするつもりよ」
「まさか!」
「ねえ、お願い。マリィたちには絶対に迷惑をかけないと誓うわ」
お父様への交渉も全て私が請け負う。マリィにそそのかされたのだとか、そんなことは絶対に言わせない。
最初は渋っていたマリィだけど、私の熱意に押されたのか、かなり迷った末に了承してくれたのだった。
よっしゃ!
マリィの了解を得た私はその日、お父様が帰宅するなり書斎に飛んでいってサイン会の話をした。
案の定、お父様は娘が庶民の読み物を愛読していると知って驚愕なさった。でも、「キャサリン先生のご高著のおかげで新しい見解を持てるようになった」「最近体の調子がいいのも、小説のおかげ」「ブラックフォード家の娘だと絶対にバレないようにする」と言うと、最終的に折れてくださった。
よっしゃ!
* * *
サイン会当日。
私はマリィたちが準備してくれた簡素なドレスを着て、ツバの大きな帽子を被り、鏡に映る自分を大満足で見つめていた。
くるくる内巻きの髪は太めの三つ編みにし、背中に垂らした。ドレスは動きやすさを重視したデザインで、裾が膝下までなので編み上げのブーツが見える。
「どう、マリィ? 商家のお嬢さんに見える?」
「……見えるのが我ながら不思議なくらいです」
私の着付けとメイクをしてくれたマリィは、心底不思議そうに首を捻っていた。
服やメイクはともかく、私は今日のために、「庶民らしい言葉遣い」を勉強してきたのだ。勉強といっても、マリィ同伴で城下町をぶらつき、若い女性の話に聞き耳を立てたくらいだけどね。
私の魂は一般市民のそれだからか、口調を変えるのにさほど苦労はしなかった。
今日お付きとして同行するマリィも、私と色違いのカントリードレスを着ていた。
マリィは男爵家の遠縁の生まれで、私より家柄は低いとはいえお嬢様だ。帽子で顔を隠して並んで立つと、マリィの方がお嬢様で私がお付きのように見えなくもない。
「いいですか、お嬢様。今回は旦那様が特別に許可をくださったのです。用事が終わりましたら寄り道をせずに帰宅しますからね」
「ええ、分かっているわ。それより……私のことはちゃんとタラって呼んでね」
私は帽子の位置を少し調整しつつ言った。
これから私たちは、商家のお嬢さんとそのお付きとして書店に行く。
その時にうっかりでも「タリカ様」なんて出てしまったら、とんでもないことになる。そういうわけで、お出かけ中はタラ様と呼ぶように頼んだのだ。
普段の外出時にはブラックフォード家の家紋入りの旗が飾られた豪奢な馬車を使うのだけど、商家の娘に身をやつしている今は飾りがない、シンプルな箱形馬車を借りていた。
ブラックフォード家の使用人である御者や護衛にも、いつもより簡素な服を着てもらっている。
貴族の邸宅が立ち並ぶエリアから商業エリアに移ると、私はレースのカーテン越しに見える風景に心を奪われっぱなしだった。
タリカはあまり広い目を持とうとしていなかった。
ただでさえ移動範囲は限られているし、庶民の生活になんて関心を示そうともしない。彼女にとって庶民は、その辺に転がっている石ころ同然だったのだ。
でも今は、大通り沿いに並ぶ数々の店や、買い物をする人々の姿、色とりどりの商品を遠目に見て――じわっと胸が温かくなった。
日本とは全く違う、異世界の町並み。
でもこの世界でも確かに、人々が暮らし、息づいている。
もう二度と戻れないだろう世界とは違うけれど、思ったよりも大差のない人の営みがそこにはあった。
「……皆、買い物をしているわね」
私が呟くと、向かいの席に座っていたマリィは一瞬眉根を寄せた後、合点がいったように頷いた。
「……お嬢様はお買い物をなさったことがないのですよね。お金についてはご存じですよね?」
「ええ、学校で習ったわ」
グランフォード王国には、通貨があります。
通貨の単位は、トルックといいます。
庶民は金を払うことで、物資を購入したりサービスを受けたりします。
そんなことを、経済学の授業で習った。そう、経済学だよ? 日本なら小学生でも知っているようなことを、いい年した学生が講義で習うんだよ?
しかも、上位貴族の大半はトルック硬貨を手にすることなく一生を終える。貿易などに関与する男性ならともかく、女性はそれこそ見ることもないかもしれない。……いや、かく言う私も実物のお金、見たことないんだよね。
「見聞を広めるため」と言い訳してマリィにお願いすると、彼女はバッグから財布を出して硬貨を見せてくれた。硬貨は三種類で、一トルックは小さな銅色、十トルックは少し角張った銀色、百トルックは表面に繊細な花の文様が彫られた金色の硬貨だった。
どうやら一トルックで庶民がパンを一つ買えるくらいの価値らしい。だいたい百円くらいだろうか。
たいていはトルック硬貨で支払いをするけれど、貴族などが大人買いする際には小切手のようなもので支払うという。
マリィにお金の説明を受けているうちに、馬車は目的地である書店の近くに到着した。
この書店は大通りに面しておらず、店の前の道が狭い。そのため、馬車で来る際には店の真正面ではなく少し離れたところで下車して歩いてきてほしい、とチラシに書いてあったそうだ。
書店は、外観だけだとおしゃれなカフェっぽかった。
でもマリィに手を引かれて店内に入ると、そこは壁という壁が本で埋め尽くされていた。ふわんと漂うのはインクの香り。ああ、これ、日本で行きつけだった本屋さんの匂いにそっくりだ。
店内にいる客のほとんどは、自分で本を買えるくらい経済的に余裕のある階級の人たちだろう。
試しに、手元の台に平積みされていた本を手に取って裏返すと、バーコードはあたりまえだけど、値段表示らしきものさえ見られない。
「マリィ、これっていくらするの?」
「一つ一つに値札は付いておりませんよ。これくらいの厚さなら――だいたい十五トルックでしょうか」
十五トルック――約千五百円の本は、現代日本で言う文庫本サイズ。それもページ数はかなり少なくて、百ページあるかないかっていう程度だ。
百ページ程度の文庫本が千五百円――これはかなり値が張るな。同人誌レベルだ。
「じゃあ、こっちの分厚い本は?」
次に手に取ったのは、単行本サイズ程度の本だ。ページ数はさっきの文庫本よりはありそうだな。百五十ページくらいだろうか。
「それなら……そうですね。装丁にもお金をかけていそうですし、五十トルックはしそうです」
「ひえっ……」
この薄めの単行本が、五千円。
紙質も日本の上質紙に比べればペラペラでいまいちだし、マリィが褒めた表紙デザインも、そう言われれば他よりはおしゃれかなーといった程度なのに。
私が本の価値に興味を持ったらしいと気づいたマリィは、書架で埋め尽くされた店内を歩きながら、私にそれぞれの本のだいたいの値段を教えてくれた。
「こちらの学術書は大判なこともあり、百トルックは覚悟しておいた方がいいでしょう。この子ども向けの言語教育本は紙質がいいので、三十トルックくらいですね」
「……その、結構値が張るのね」
ぼそっと呟くと、子ども向けの本を棚に戻したマリィは怪訝そうな顔をした。
「タラ様が普段お召しになっている服飾品と比べれば、たいした額ではございませんよ」
あ……しまった。
ついつい日本円に換算して庶民らしい考えを述べてしまったけれど、お嬢様であるタリカは自分で買い物をしたことがない。本一冊の値段はおろか、自分が普段着用しているドレスや宝飾品の価値だって知らない。
「それなのにどうして、値が張るなんて――」と言いたそうなマリィから視線を逸らし、私はもごもごと言い訳する。
「いえ、私もだいたいの値段の予想をしていたから――このお店にある本は学校の図書館で触れていたものよりも紙質は劣るのでこのくらいかな、と考えていたのよ」
「……そういうことでしたか」
ひとまずマリィは納得してくれたようで、一安心だ。
そうしているうちに、書店の店員がサイン会開催の時間を告げた。
呼びかけに応じ、店内をうろついていたお客がぞろぞろと奥の部屋に移動し始める。どうやらあっちでキャサリン先生が待っているらしい。
「いよいよね、マリィ。キャサリン先生に会えるわ!」
「そうですね。きっと奥は狭いでしょうから、お怪我などなさりませぬように」
そうマリィは忠告するけれど、やっぱり彼女も有名な作家に会えるのは楽しみなんだろう。声が少しだけ弾んでいる。
もみくちゃにされるよりはましだと思って、私たちは列の最後尾に並んだ。最後尾だったらツバの大きな帽子を被っていても周りの人に当たったり、逆に皆の帽子にぶつかったりしなくて済む。
案内された先は、物置みたいな場所だった。ちょっと薄暗いけれど壁には複数のランタンを吊しているので、歩行に困るほどじゃない。
長椅子が並んでいるその先にはテーブルがあり、私のようにツバの大きな帽子を被った女性の姿があった。
……あの人が、キャサリン先生だろうか?
「皆様、お集まりいただきありがとうございます」
私たちが椅子に座ると、さっきの店員が挨拶する。
「本日はご無理をお願いし、新鋭の作家キャサリン・スノー先生にお越しいただきました。キャサリン先生はサインだけでなく、もしご希望であれば書籍の感想なども受け付けるとのことです。ただ……先生はあまり大きな声を出せないそうですので、受け答えは小声になること、場合によっては助手の方に代弁していただくということを、あらかじめご了承ください」
助手――ああ、今キャサリン先生の背後で立ち上がった女性かな。黒っぽい色の髪をひっつめていて、優雅にお辞儀をした姿からは気品が感じられる。
……なんとなく、助手の人は一般市民じゃないような気がした。私のこと、気づかれないよね?
「それでは、順番にご案内します」
そうして、最前列に並んでいた人から順に先生からサインをもらい、新作の感想などを伝える時間が始まった。
読者のほとんどは若い女性みたいで、はしゃいだ声で感想を述べているのがここまで聞こえてくる。ただ、大きな声が出せないというのは本当らしく、先生の声はちっとも聞こえない。ほとんどは助手の人が返事をしているようだ。
先生は積極的に人と関わることがなかったそうだけど、大声が出しにくいというのも理由の一つかもしれないな。
ファンたちが退出していく中、私は遠目にキャサリン先生を眺めてみた。
ツバも飾りも大きな帽子に、この暖かい時期にしては着込みすぎなんじゃないかと思える詰め襟長袖のドレス。帽子の縁からは、黒の巻き毛が覗いている。
椅子に座っているから正確な身長は分からないが、向かいに座っているファンと比べる限り、結構背が高い方なのかもしれない。
うーん……噂どおり謎に満ちた、ミステリアスな女性だな。
マリィと二人でお喋りをしつつ、時間を潰す。ファン一人一人が結構長く感想を述べていたからか、私たちの番が来るまで結構時間がかかった。
「お待たせしました。最後のお客様ですね」
店員に呼ばれ、私たちは立ち上がった。
新作の感想を熱く長く語りたいのが本心だけど、先生も長時間座り続けて疲れているだろう。それに、元々あまり人前に出るのを好まない方のようだから、先生のためにもさっさと切り上げてしまった方がいいかもね。
「お初にお目にかかります。さっそく先生にサインを書いていただくのですが、お名前のご希望はございますか」
先生はテーブルに色紙代わりの薄い木の板を広げ、俯いていた。彼女の代わりに、助手の女性が声をかけてくる。
お名前――つまり、「タリカ・ブラックフォードさんへ」のように私たちの名前も一緒に書いてくれるのだ。
これに関しては順番待ちをしながらマリィと相談したのだけれど、まさかタリカの名前を出すわけにはいかないし、かといってタラという偽名で書かれたものを飾るのもアレだ。マリィの名前にすればいいじゃんと提案したら、「お嬢様を差し置いてとんでもない」と断固拒否されてしまった。
というわけで。
「いえ、私たちの名前は結構なので、サインだけお願いします」
私がそう答えた――瞬間。
それまでずっと俯いていた先生が、弾かれたように顔を上げた。帽子のツバの奥で、限界まで見開かれた琥珀色の目がこっちを見ている。
……あれ?
なんだろう。この目と顔立ちに、見覚えがある。
顔はおしろいで染め、目元にはアイライン、頬にはしゃれた色のチークを叩いて唇にはどぎつい色のルージュというかなりの厚化粧をしている。でも、元々の骨格や目の形などは変えようがない。
――脳裏を、腕を組んで私を睨む人の姿が過る。
……いや、まさか――ね?
確かに似ているけれど、まさかあの人がここにいるわけ――
「……タラ様?」
マリィが心配そうに尋ね、助手の人も硬直した先生の顔を覗き込んでいる。
「……先生、どうかなさいましたか?」
「……あ、いえ……」
先生は掠れた声を出す。
限界まで声量は落としているみたいだが――女性にしては低い声。しかも、妙に聞き覚えのある声だ。
「……あの」
声をかけると、見ているこっちがかわいそうに思うくらい、ビクッ! と派手に先生の肩が揺れた。さっきまで私を凝視していた目を伏せ、ペンを持つ左手が僅かに震えている。
……ああ、そういえば「彼」も左利きだったっけ。
私はすうっと息を吸い、商家のお嬢さんらしい、華やかで無邪気な笑みを浮かべた。
「私、先生のご高著に感銘を受けたのです。グレゴール様とミリーの恋愛は、読んでいるだけで胸が高鳴って、そのシーンを想像するのも楽しくて――先生のご本を読むことで、私は毎日を楽しく過ごせているのです」
帽子が微かに動く。ほんの少しだけ、先生の顔が持ち上がったようだ。
私は先生に微笑みかけ、色紙用の木の板を手で示した。
「私、先生のファンです。どうか記念に、先生のサインをお願いします」
「……先生」
助手にも促され、先生ははっとして頷くとペンを走らせた。
「彼」の字をじっくり見たことはないけれど、サインは大ぶりで、なかなか勇ましい字をしていた。
マリィが板を受け取り、しげしげと眺めている。その顔はほくほくと幸せそうだ。
「ありがとうございました、先生。先生の次回作も楽しみにしております」
「……ええ、ありがとう」
聞こえるか聞こえないかという声量で呟かれた声は、かなりくたびれていた。
* * *
お父様の許可を得て変装し、キャサリン・スノー先生のサイン会に参加した翌日。
「お嬢様、お客様です」
「いやぁぁぁぁ! だめ、そこでハグからのキスなんてシチュはだめ! 萌え死ぬ! ……って、お客? どちら様?」
「それは――」
部屋にやって来たマリィが戸惑い顔で告げた名前に、私は目を瞬かせた。
……近いうちに接触を図ってくるとは思っていたけれど、まさか翌日に来るとは。
きっと「彼」にとって、それほど事態は逼迫しているのだろう。
「事前にお約束があったわけでも、お嬢様と懇意になさっている方でもないので、どうしようかと思っておりまして――」
「いいわ。すぐに下りるから、支度をお願い」
私は読書用に雑に結んでいた髪をほどき、マリィに命じる。有能な侍女である彼女はすぐさま頷き、私の支度のために他の侍女たちを呼んでくれた。
なるべく早く支度をし、階段を下りる。
「お待たせしました。タリカ・ブラックフォードでございます」
応接間に入り、淑女の礼をする。はっと小さく息を呑む気配がしたので、私は顔を上げた。
夕日が差し込む応接間。一級品の素材で作られたソファに腰掛けていた彼の琥珀色の目は、夕日の色に染まって赤っぽく見えた。
彼は唇を一文字に引き結び、立ち上がった。そしてお腹の前に拳を当てる、グランフォード王国の男性貴族の礼をする。
「……突然の訪問をお許しください、タリカ・ブラックフォード様」
「ええ、ようこそ。どうぞ楽な姿勢をなさって、キース・ラトクリフ様」
私はそう言って、キースに座るよう促した。
タリカにとっての天敵であるキース・ラトクリフは、険しい顔のまま着席した。私は彼の向かいに座り、マリィに茶の支度を進めるよう命じる。既にお茶は淹れられていたものの、キースは一口も飲んでいないみたいだ。
自分から訪ねてきたくせに、キースはなかなか話を切り出そうとしない。……彼の目的はだいたい分かっているから、気持ちも分からなくはないけれど。
マリィが茶の支度を終えると、私はマリィに退出を命じる。彼女は最初こそ渋っていたが、まもなく頷いた。同じ年頃の男女が二人きりになるなんて、マリィからすれば許し難いことなのだろう。
ワゴンを押して退出したマリィが、廊下にいた者たちにもしばし席を外すよう指示を出しているのを確認し、私はキースに声をかけた。
「……それで? キース様は、どのようなご用件でいらしたのでしょうか」
「それは、あなたがよくご存じなのではないでしょうか」
キースは緊張した声で言う。顔色は悪く、目元にはうっすらと隈ができている。昨日から一睡もできていないのが明らかだった。
私はキースの顔をじっと見た後、ゆっくり唇を開いた。
「……キャサリン・スノー」
ぴくっ、とキースの肩が震える。
「昨日お会いして分かりました。城下町でも人気の新人作家キャサリン・スノー――それは、あなたのことだったのですね、キース様」
「……仰せの、とおりです」
ぎりぎりと歯ぎしりする音がここまで聞こえてくる中、彼は痛みを堪えるような顔で認めた。
……昨日のサイン会で見たのと同じ、琥珀色の目。
タリカに堂々と物申す時はぎらぎらと輝き、雄弁にその意志を語っていた瞳。
それが今は、どんよりと曇ってしまっている。
「私は――キャサリン・スノーという偽名で、昨年から執筆活動を行っています」
「それ、ご家族はご存じなのですか?」
「もちろん。……父は、文化の発展のためには必要なことだと理解しています。ですが、上位貴族に今すぐ小説を受け入れてもらうのは難しい。そのため、私が女性名で執筆活動をしていると内密にすることを条件に、容認してくれています。出版社と書店員に泣きつかれて渋々参加したサイン会で――まさか、あなたに会うとは思っていませんでした」
うんまあ、私も思っていなかった。
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