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第13章 brighting Voice
10.
しおりを挟む部屋の中は散乱していた。
鏡も窓も割れ、壁も剥離しており、ガラスは危険な破片で満ちており、部屋の片隅で手島さよりは蹲っている。
彼女の周りには、赤い丸型錠剤が散って小瓶が転がっていた。
須王は錠剤を手に取ると、匂いを嗅ぐ。
「その薬、なんだろう。ポムっていってたけれど、奇声をあげてそれを飲みに戻ったの」
「他には? なにか言っていなかったか?」
「歌えるけれど、ポムがなければ歌えないとか。あたしはあいつらの手先かとか」
「あいつら?」
「よくわからないけど……」
須王は、彼女の両肩を掴んで抱き起こす。
「危ないよ」
「大丈夫。俺の勘を信じろ」
そして、須王は露出した彼女の背にちらりと見えた、なにかの模様のようなタトゥーに目を細めながら、彼女の体を揺すった。
「ん……」
目を開いた彼女の顔は、まだ痩せこけているとはいえ、ぎらつきや充血は治まり、穏やかな生者のものへと変わっていた。
ポム、凄い!!
そして彼女はあたりを見渡した後、はっとして飛び起きて叫ぶ。
「今何時!?」
落ち着きを見せたのは、声もそうだった。
先ほどまでのおどろおどろしいものではなく、綺麗な歌姫の美声だ。
「八時、十分前です……」
あたしが腕時計を見てそう言うと、彼女は床に転がっていたペットボトルの水を手に取った。
キャップを外すと、ごくごくと荒々しい飲み方をして、部屋から出て行こうとする。
「休んだ方がいいんじゃないですかね?」
声をかけたのは、壁に背を凭れさせ腕組みをしていた須王だ。
「そんなわけにはいかない。今日、歌いきることが出来なければ……私は、本当に危ないの!」
「……どう危ないんですか?」
「あなた……、もしかして早瀬須王?」
さすがは音楽界で活躍しているだけのことはある。
眼鏡をかけた超絶美形を、天才音楽家として認識したようだ。
「あなたも呼ばれてここにきたの? ジャッジする側に!?」
今度は声に怯えが入る。
ジャッジとはなに?
それはさっき言っていた〝あいつら〟に関係するものなの?
だったら彼女は、審査や評価に怯えてゾンビみたいになっていたの?
極度の緊張とか?
しかし素人ならまだしも、彼女は海外での大舞台を経験しているプロだ。
その規模に比べればこんな小さなところで歌い、審査をされることがなぜあんなに豹変するまでになるのだろう。
「今日はデートです。そこにいる彼女と、プライベートで。支配人に裏から入れて貰いました」
「彼女……」
二組の目線を向けられて、無性に居たたまれない。
せめて「はい、彼女です」と言える容貌なら、よかったのに。
絶対、冗談に思われる。
「そう」
しかし彼女には、さしたる興味も湧かなかったようだ。
ただしきりに片手を反対の手でさすっており、心はここにあらずの状態のようだ。
「手、震えていますよ、手島さん」
「こんなの放っておけば……」
「ではこうしましょう。俺があなたの伴奏を引き受ける」
あたしも手島さんも、驚いて須王を見た。
「あなたがどうしても歌を歌いきらないといけないなら、歌うことだけに集中していればいい。ピアノは繊細な楽器だ。あなたの震えは音になって響く。それを聞き分けられない観衆だと?」
彼女は押し黙る。
「それに、音楽を知る観衆であるのなら、俺の名前もわかっているはずだ。俺を友情出演的な扱いにして、特別なコラボとすればいい」
……須王は、なぜこんなことを引き受けようとしているの?
裕貴くんの時のように、彼女に情けをかけた……と思うには、なにかしっくりとこない。
「あなたは私がなにを歌うか、わかっているの?」
「そこの、壁に貼られているポスターで、大体は」
そこで初めてあたしは、壁に十曲のリストが貼られてあることに気づいた。
それはジャズというよりは、あたしもよく知る、海外の歌手の有名曲の名前が並んでいるようだ。
「あれらがカバーであるのなら、俺もジャズバージョンで対応出来る。悪い話ではないと思うが。まあぶつけ本番で、あなたが歌えたら、ですが」
世界を股に掛けるプロを相手に、挑発をする須王。
しかし彼女は、プライドを傷つけられたから……というよりは、どこか縋るような眼差しをして、須王に問うた。
「条件は? ただの善意ではないんでしょう?」
「こちらからは2つ」
須王は表情を変えないまま、言った。
「ポム……柘榴の匂いがする薬の正体について。そして背中のタトゥーの意味について」
彼女の顔が引き攣る。
あの赤い錠剤、柘榴の匂いがしたの?
彼女が落ち着いたのは、AOPと同じ香りを持つあの薬のせいであるというのなら、確かにあの薬はなにか、彼女はなぜゾンビみたいになっていたのか、気になる。
そしてタトゥー。
あたしからは全体像は見えなかったけれど、須王が拘るというのなら、須王が知るなにかのマークだったのかもしれない。
「すべて演奏を終えたら教えて貰いたい。もしかして、あなたが怯えているのは、俺が敵対する相手かもしれない」
須王は、恐らく……予想をつけている。
「これが俺の条件だ。さあ、どうします? 開演まで五分もないですが」
カタカタと震え続ける彼女の手。
それはピアニストとしては致命的なもののように思えた。
「……わかったわ。条件を飲む」
背に腹は変えられないのか――彼女の答えに、にやりと須王は笑った。
*+†+*――*+†+*
ゾンビ化しそうだった初対面の歌手に、コラボを申し出た須王。
ただの善意と思えない彼の出した条件は、ゾンビ化を鎮静させた〝ポム〟という赤い薬の正体と、彼女がなぜ〝ジャッジ〟こと、聴衆に怯えているのかを語ること。
……と言えば、若干のホラー要素があるかもしれないけれど、要するに須王は、彼女――手島さよりの背景に、あたし達を狙う馴染みの者達がいるのではないかと踏んだわけだ。
そんなわけでデート中に突如実現した、コラボ企画。
ただゾンビに怖がり、成り行きを傍観していただけのあたしとしては、実力在る音楽家達のコラボは、願ったり叶ったりの特別イベントとなったのは間違いない。
須王の生ピアノに、手島さよりの生歌の組み合わせなど、死ぬまでにもう1回見れるかどうかの(十中八九見られない)超レアもの。
特に規制もしていなかったから、スマホ録音準備もばっちり。
絶対家宝にしてやるんだ。
本当は最前列で聞いていたかったのだけれど、既に陣取られた中ではそれは無理で、ひとりおとなしくあの背の高いテーブルと椅子から、残されたローストビーフサンドをはむはむと食べて、見ていることとなった。
朝霞さんは、組織新生エリュシオンは、音を奏でるひと達と言った。
このジャズクラブには、音楽に関する著名人がいる――。
恐らく顔を見て名前や経歴まで出てくるのは、顔の広い須王でないと出来ないだろうが、あたしだってマスコミを通して知っているひとがいるかもしれない。
そう思って目を凝らし、聴衆を観察していたのだが、フロアに戻ってきた時既に、聴衆はなぜか目だけを覆った仮面――ベネチアンマスクをつけていて、誰が誰だかよくわからない状況になってしまった。
開演直前に、しかも暗い室内で仮面で顔を隠してなんだというのだろう。
今さらじゃないか。
仮装パーティでも始まめるつもりなのだろうか。
上流客の考えることは、よくわからない。
演奏者も聴衆も、共にどこか危殆を孕んだまま、開演となる――。
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