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第13章 brighting Voice
11.
しおりを挟む「早瀬須王さんのピアノで始める最初の曲は、ロバータ・フラックの『Killing Me Softly With His Song』」
スポットライトを浴びた手島さよりが、舞台の中央の黒いグランドピアノに控える須王に微笑みかけるようにして、まずは有名なサビをワンフレーズ、伴奏なしで歌い出した。
邦題「やさしく歌って」でも知られる有名なこの曲は、もの悲しいメロディラインなのに、手島さよりの伸びやかな歌声で艶めき、須王のジャズアレンジした伴奏が、さらに彼女の世界を彩り、広げていく。
あたしはローストビーフを堪能することも忘れたまま、ゾンビを返上して人間どころか奇跡の進化を遂げた彼女と、彼女の音程に合わせた伴奏だけではなく、それをアレンジ出来る須王のピアノに、今さらながら舌を巻く。
どこにも、即興特有の微妙な呼吸のずれも感じられない。
完全に、2人だけの世界が創り上げられていた。
最初から示し合わせていたかのような息のあったところを見せるふたりは、次の曲であるクイーン『Somebody to Love』でも、期待を裏切らない。
声量があることを見せつけるようなメロディラインに、須王の力強いピアノの和音が支え、ピアノソロでは原曲のギターソロにも負けない存在感を示す。
相乗効果がとてつもない。
共鳴して高め合えるレベルが高すぎるふたりの演奏は、場を妙な熱気に包んでいった。
ああ、凄い。
このふたりは、凄いよ。
心にダイレクトに響くものがある。
だけど――、以前ホテルのレストランでピアノを弾いてくれた時とは、また違う感想を持ってしまった。
須王のピアノにより手島さよりの声が艶めき、痩せてもメリハリある肢体をくねらせる彼女に、須王は艶あるピアノで応えている。
そんなふたりを見ていると、神の祝福のようなスポットライトを浴びながら、濃厚なセックスをして愛を確認し合っている恋人のようにも見えてきて、心がぎゅっと痛んでしまったんだ。
幾ら今、須王が愛してくれているといえども、音楽の才能を持つ魅力的な女性のパートナーになったら、須王の熱視線はそちらに向くだろう。
こんなにムードたっぷりな音楽を奏でながら、音楽を通して心を重ね合うことが出来るのなら、体も重ね合いたいと思うだろう。
それは至極当然の道理だと思うから。
築き上げるのは長く時間がかかっても、崩壊するのは一瞬だ。
あたしが須王を信じていたところで、須王が瞬時に他の女性に心を奪われてしまえば、あたしはそれを引き留める権利などない。
その現実を目の当りにしたようで、ぐすっと鼻を啜ってしまった。
あたし……どうして音楽を続けてこなかったんだろう。
指が動かないからと指のせいにしないで、どうして指が動かなくても出来る音楽を模索しなかったのだろう。
スポットライトを浴びた煌びやかなステージに立ちたいわけではないけれど、それでもスポットライトが似合う須王の横で、堂々と立ちたかった。
容姿が釣り合わなくとも、音楽で対等に立てたのなら、須王の相手は自分だけなのだと、ひとに見せつけることが出来ただろうに。
その時、テーブルにコトリとなにかが置かれた。
「アプリコットフィズです」
注文した時の若いウェイターが、薄茶色のカクテルを差し出したのだ。
「あの、頼んでませんが……」
「僕からのプレゼントです。美味しいですから、どうぞ?」
ちょうどやけ酒でも飲みたい気分ではあったけれど……。
「でも……」
「お金は絶対とりません。どうぞどうぞ。飲んで元気を出して下さい」
にこにこにこ。
あたしが落ち込んでいると思って、カクテルを出してくれたのかな。
だったら、無下に断るのも――。
「わかりました。では、お言葉に甘えさせて頂きまして、頂戴しますね。お気遣い頂いて、ありがとうございます」
にこりと笑うと、なにか慌てたように頭を掻いたウェイターは、一枚の名刺もテーブルの上に置き、あたしの前に持ってくる。
それはここのお店の名刺で、手書きで番号が書かれてある。
「あ、あの……。職権乱用したのは初めてなんですが、これ……僕の携番です。仕事中は出れないかもしれませんが、その必ず折り返しますので!」
「……」
これは――。
「あなたの力になりたいので、いつでも……」
あたしはその名刺に指を置くと、そのままテーブルの縁に移動させる。
「申し訳ありませんが、頂けません。そういうのはお断り致します」
「と、友達感覚で……」
「あたしには好きでたまらない恋人がいますし、彼を誤解させたくないんです。ましてや彼の知らないところで受け取っただけで、彼が悲しみます」
須王と手島さよりに心を痛めるからこそ、あたしは須王に対して潔癖でいたかった。
あからさまの好意がわかっていて、それを受けるわけにはいかない。
「ごめんなさい」
そう、深々と頭を下げた時だった。
ざわめく中、ツカツカとこちらにやってきた誰かが、テーブルの上のグラスを手に取ると、ゴクゴクと音をたてて飲み干した。
それは、ステージにいたはずの須王で。
「な、なんでここに……っ」
そして須王は、両手であたしの頬を挟むと、ウェイターや、恐らく聴衆や手島さよりが見ている中で、あたしの唇を奪ったのだ。
「……んんんんっ!!」
どんどんと須王の胸を叩いて離れようとするけれど、それすらねじ伏せるようにして、須王はキスを深めていく。
甘いブランデーの味がする。
くらくらとしてしまうのは、酔ってしまったからなのか。
もう、ここがどこでどんな状況なのかわからない。
ただ、須王が恋しいと思っていたあたしは、突如現れた須王とのキスに溺れるのはいつもより早くて、須王が好きでたまらない気持ちが全開になってしまった。
ああ、このひとが好き。
誰にも渡したくない――。
我儘にも似た独占欲に支配されながら、彼からの愛が嬉しいと、もっと欲しいのだと、あたしは彼の背中に手を回し、甘い吐息を漏らしてそれに応えた。
そして、唇を離した須王は、あたしを片手で抱きしめながら、ウェイターに言った。
「……やんねーよ。俺以上の愛し方、お前に出来るわけねぇだろうが。こいつはもう、俺じゃねぇと満足出来ねぇ心と体になっているんだよ」
顔を須王に押しつけられていて、よかったと思う。
絶対あたし、顔は真っ赤だと思うから。
「やってみなければ……っ」
「俺、他の男が簡単につけいることができるような、生温い愛し方してねぇんだわ。悪いけど、こいつは生まれ変わっても俺のもんだから」
……死ぬまでではなく、死んだ後も、か。
もぐもぐの顔面……、只今、絶賛弛緩中。
「そ、その割には、慌ててすっ飛んで来たじゃ……」
「俺が慌てたのは、こいつが酒を飲まねぇようにだよ。誰が見せるか、酒に酔ってとろんとした、こいつの可愛い顔。見れるのは、俺だけの特権なんだよ」
ぎゅっと強く抱きしめられ、あたしの心臓はバクバクが止まらない。
「それでもこいつに手を出そうとするのなら、俺の敵になることを覚悟しておけ。俺は容赦しねぇぞ?」
声が剣呑さを強めて低められ、思わず背筋に冷たいものが走る。
あたしですらそうであるのだから、周りはもっとダメージは大きいはずだ。
「すみませんでした!!」
ウェイターは焦った声を出していなくなったようだ。
「雑魚が。俺の柚に手を出そうとしやがって。たかだか一目惚れを訴えたくらいで、柚が好きになるはずねぇだろ。俺と柚との間には、皹すら入らねぇんだよ、ふざけんな」
「……逆は?」
あたしは須王の服をぎゅっと握って言う。
「須王は、たとえば……音楽やってる美女から一目惚れされて、好きになったり……」
「それはねぇわ」
迷いもなく、実にあっさりと。
あたしのもやもやなど、一刀両断だ。
「だ、だけど……今までだってお誘いはあったでしょう? 音楽を口実に」
「俺、基本的に音楽利用する女嫌いだし。音楽中に媚びられたら、速攻出て行くし。そんな奴とは仕事したくねぇから」
そうだ、須王は音楽に対してはかなりストイックだった。
「大体俺、お前以外の女を、女として見れねぇし。俺がお前に一途なの、まだわからねぇわけ?」
「そ、そんなこと言っても、手島さよりとは見つめ合って……」
ぽろりと、真情を吐露してしまう。
「あのさ。確かに手島と顔を見合わせて弾いていたけど、俺、初めてあの場でピアノを弾くんだぞ? 相手がどのタイミングで歌うのか癖すらもわからねぇ、リハなしの真剣勝負だ。しかもジャッジがなにかとか言っている以上、まずいこと出来ねぇ。慎重に手島に合わせ、手島も俺に合わせていかねぇとまずいだろう」
考えてみれば、そうだ。
ゆったりと自分のフシで歌う手島さよりの歌声を伸ばそうと思えば、須王がタイミングを見計らって食らいつきながら、時にリードして歌を終わらせなければいけない。
なにで合図するかって、それは多分……目配せとかだろう。
つまり、頻繁に相手を見ていないと駄目だよね。
「まあ向こうもさすがはプロで、今の今までミスはねぇけど。これからは後半戦、気を引き締めてやらねぇとな」
これは手島さよりのリサイタルなのだから。
真剣に音楽をしていたふたりを、あたしったら!
「後半戦って……」
そこであたしは初めてきょろきょろとあたりを見渡せば、こちらに向けられている複数の視線はあるものの、ステージには手島さよりはいない。
「休憩にして貰ったんだよ。ちょっと声も苦しげになってきたし、お前が妬いていた手島へ合図して」
図星をさされると、妙に恥ずかしい。
あたしは赤くなったまま、顔を俯かせた。
「へぇ、妬いてたの、認めるんだ?」
ああ、もう降参だ。
あたしは自分勝手な妄想で勝手に辛く思い、そして須王の言葉で勝手に救われ、勝手に須王への想いを溢れさせているだけだ。
須王にはなにひとつ、非はない。
あたしは、須王の服をぎゅっと掴んで、こくりと頷く。
「……妬いちゃったの。須王と手島さん、いい雰囲気に思えて」
「……」
「妬いちゃった。あたしも須王と音楽をすれば、須王の隣に堂々と立てるのにって」
「音楽していようがしていまいが、俺の隣はお前だけだそ? 俺、お前以外の女を横に置く気は、まったくねぇから。これからも」
「ん……」
須王が優しくあたしの頭を撫でる。
「お前、前列に来いよ。遠目だからありえねぇことを思うんだぞ?」
「ん……。でも、ここでいい」
あたしは顔を上げ、須王をじっと見つめて言う。
「須王の言葉で安心したから。だから、須王の神聖なる音楽を、あたし……ここで見守ってる」
そう微笑むと、須王ががばりと大きな体であたしを包み、頭の上に顎を乗せて言う。
「お前なんなの、ますます可愛くなって。これ以上、俺をどうする気だよ。ここで無性にお前を抱きてぇんだけど」
「却下」
「めちゃくちゃお前の名前呼んで、お前のことが好きでたまらねぇって叫びながら、全身でお前に俺の気持ちをわからせてやりてぇ。お前に俺の名前を呼ばせて、好きでたまらないって言わせて、ひとつになりてぇ……」
「……後でね」
「言ったな、お前」
須王があたしの両頬を片手でぷにぷにと押してくる。
須王は笑いを消して、真摯な面持ちで言う。
「いいか柚。寸分たりとも、不安になるな。俺はお前が嫌がっても、お前から離れない」
「ん」
「お前も、あの調子で男を拒めよ?」
「はは、もういないって」
「お前が気づかないだけだ。お前は、ますます色気が出て、可愛くなっているし。ああくそっ、俺の柚なのに!」
須王が顎で、あたしの頭上をぐりぐりとした時、手島さよりが出て来た。
「……はぁ、行くか。俺が言い出したことなんだし。柚、離れたくねぇんだけど、このまま、ピアノの椅子に座る俺の膝に乗ってねぇ?」
「却下です」
須王は声をたてて笑った。
そして。
「――俺のピアノ、お前に向けて弾いている。だから、ちゃんと受け取れよ? 俺の気持ち」
須王はちゅっと唇を重ねるだけのキスをして、ステージに戻っていく。
まるで戦地に赴く恋人を見送るような心地だ。
しかし、須王がいなくなった後の視線が痛いこと、痛いこと。
我に返れば――。
ただここでいちゃついていただけだ。
誰がなにを言おうと、ただの惚気だ。
あたしはなにをして、なにを言った?
須王はあたしになにをして、なにを言った?
「ぐぉぉぉぉぉぉ……」
羞恥に悶えるあたしから、乙女には似つかわしくない奇声が漏れる。
暗くてまだよかった。
明るかったら、ぜったいもぐら生活に逃げ込んだだろう。
……だからあたしはわからない。
ベネチアンマスクをかけたある聴衆が、あたしをじっと見ていることにも。
その目がどこか懐かしく、そして、どこまでも冷ややかであったことに。
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