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1巻

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   プロローグ


 梅雨つゆ特有の湿った匂いが、閉めきった部屋に充満していた。
 大きな窓を叩く、横殴りの雨。太陽を呑み込んだ鈍色にびいろの雲が広がる空に、雷が光っている。
 帰宅をうながす校内放送がかかる中、放課後の生徒会室で、ひとりの女生徒が半袖の腕をさすっていた。膝下丈のスカートを穿いて黒縁眼鏡をかけた地味な少女は、設楽しだら一楓いちか、十八歳。昨日誕生日を迎えたばかりの高校三年生である。
 彼女が生徒会室でひとを待つこと、十五分――

「ごめん、委員長。遅くなった」

 現れたのは、見目麗みめうるわしい……学園の王子様と称される栗毛色のストレートヘアの少年。彼は今期の生徒会長、瀬名せな伊吹いぶきだ。
 顔立ちだけでなく声音まで甘くあでやかで、先月十八歳になったばかりとは思えないほど、あやしげな色香がただよっている。彼にはいつも女子がむらがっており、遊び人だという噂もある。
 ちなみに、彼が委員長と呼んだのは、一楓のことだ。一楓は瀬名と同じクラスで、学級委員長を務めているため、クラスメートのほとんどからそう呼ばれていた。もはやあだ名のようなものである。

「話ってなに?」

 いつも気怠けだるそうな瀬名にしては珍しく、頬が紅潮し、息を弾ませている。
 一楓は彼がひとりであることを確認すると、部屋の扉に鍵をかけた。そして泣きそうになりながら、瀬名に詰め寄る。

「ねぇ、瀬名、見た? わたしがなんの本を読んでいたのか」

 一楓は今日の六時間目の直前、彼の前で、濃厚な濡れ場があるボーイズ・ラブ――いわゆるBLマンガを落としてしまった。周りには隠しているが、一楓はBLをこよなく愛する腐女子ふじょしなのだ。
 瀬名がマンガを拾って渡してくれた直後に授業がはじまったため、確認も口止めもできなかった。そのため一楓は、授業中にメモを投げて、彼を生徒会室に呼び出したのだ。

「マンガ? ちらっとだけど、見たよ。すごいね、あのマンガ。BL……だっけ」

 一楓はくらりとする頭を押さえて、悲鳴のような声で言った。

「お願いだから、有島ありしまくんに言わないで! あ、他のひとにも、誰にも言わないでほしいんだけど! 瀬名は副会長の有島くんと、仲いいでしょう?」

 有島は一楓にとって『し』だ。いわゆる一推いちおしの男子で、彼でBL的な妄想をすることもある。そんな相手に一楓が腐女子ふじょしだとバレて、白い目を向けられるのは避けたい。
 一楓が頼むと、瀬名は不機嫌そうに眉根を寄せる。

「ね、お願い。なんでもするから!」

 一楓は両手を合わせ、頭を下げて頼み込む。しかし彼女が必死になればなるほど、瀬名の雰囲気は重く暗いものになる。
 彼がため息をついた瞬間、窓の外で稲妻が光った。

「きゃっ」

 直後にとどろいた雷鳴に、一楓は小さな悲鳴を上げて、その場にうずくまる。
 瀬名は彼女の横に座り込むと、優しく微笑んだ。

「僕といつも学年トップを競っている品行方正な委員長が、あんないやらしい本を読んでいるなんて、びっくりだよ」

 甘く柔らかな声に含まれたとげ
 一楓の胸の中で、雷に対する恐怖よりも、羞恥しゅうちまさる。

「有島にばれたら、気持ち悪いと軽蔑けいべつされるだろうね」
「……っ」
「有島だけじゃない。みんなにばれたら、委員長はどうなるんだろう。先生に知られたりしたら、内申点に響いて、大学の推薦をもらえないかもしれないね」

 瀬名は笑っているのに、なぜかいかりにも似た圧力を放っている。彼は手を伸ばすと、一楓の長い三つ編みをもてあそびはじめた。

「わ、わたしを……どうする気?」

 彼女はおびえ、声を震わせる。

「何でもするって言ったのは、きみだろう?」

 蠱惑こわく的な笑みを浮かべた瀬名は、一楓の髪を留めているゴムを取り、三つ編みをほどく。そして彼女の眼鏡を両手で外して、床に置いた。
 野暮やぼったい少女の素顔をまっすぐ見つめ、瀬名は満足そうに口角を上げる。

「僕を黙らせたいのなら、方法はひとつだ。いやらしい委員長なら、わかるよね?」

 その甘いささやきは、誘惑にも似た危険な香りをただよわせていた。

「こ、断ると言ったら?」

 一楓は逃げようとしたが、いつのまにか腰に添えられていた瀬名の手に引き寄せられる。

「ふふふ、そんなこと言わないよ。委員長は賢いから。たった一度のセックスで、秘密を守れる。一度すれば、僕は口外しないし、僕からきみに関わることはない。いいだろう?」

 彼の手が、一楓のブラウスのボタンをひとつ外す。

「つまりわたしを、一度きりの遊び相手にする、ということ?」
「……さあ?」
「馬鹿にしないで! わたしは、チャラいあなたの取り巻きとは違う」

 窓の外で雷が光ると同時に、乾いた音が響いた。一楓の手のひらが、瀬名の頬を打ったのだ。
 その音があまりに大きくて、平手打ちした一楓の方が顔をゆがめてしまう。

「ご、ごめ……」

 瀬名は深く傷ついたような表情で――辛辣しんらつな声を放った。

「きみを抱こうと思う変わり者が、この先に僕以外に現れると思ってるの? いないとわかっているから、きみだってBLなんてものに夢中になったんだろう?」

 雷が落ちた音がした。
 BLを愛する心は自分をなぐさめるためのものではない。そう思っているのに、彼の言葉に心をむしばまれ、一楓は泣き出しそうになってしまう。
 瀬名はそんな彼女のあごに手を置く。

「二次元の男より、リアルな男に目覚めさせてあげる」

 海底を思わせる濃藍色こいあいいろの瞳の奥に、炎のようなものが揺らめいた。
 瀬名は一楓の唇に親指を差し込むと、そのままそこをこじ開ける。

「だから……僕を見て。あいつではなく、僕の方を」

 そして、傾けた自分の顔を近づけ、切なげに名前を呼んだ。

「一楓……」

 ――その日、一楓は流されるように、口封じの取引をしたのだった。


 それから四年の月日が経ち、冬が訪れた。
 大学四年生となった一楓は、授業終了直後にメールのチェックをして、机に突っ伏した。就職試験の不採用通知が届いていたのだ。

「はぁ……。手応てごたえあったから、懸けていたのに……」

 関東の難関大学、帝都大へ進学したのは、一流企業への就職に有利だと思ったから。それなのに、就職活動は全滅。ここまでくると、人格を否定されている気分にもなる。リクルートスーツにひっつめた黒髪、黒縁眼鏡、薄化粧。周りとの差異がない格好で就活をしているつもりだが、生まれ持ったものがみすぼらしいのだろうかとまで考えた。
 あまりにショックで、みんなが退席しても、一楓は席から立ち上がることができない。
 そんな一楓の傷口をえぐる言葉が、後ろから聞こえてきた。

「筆記は高得点なのに、面接で落とされ続けているんだって? ……委員長」

 この大学で一楓の高校時代のあだ名を知っているのは、唯一同じ高校出身のだけだ。
 振り返ってみると、そこにいたのはやはり彼だった。
 栗毛色をした、柔らかなストレートの髪。上品で端麗たんれいな顔立ちをした男――瀬名伊吹が、一段上の席に座り、一楓に微笑みかけていた。
 彼はこの難関大学でも首席という、ずば抜けた頭脳を持つ。その上に、日本を牛耳ぎゅうじる大企業である瀬名グループ総帥そうすいの次男坊――つまり御曹司だ。
 一楓とは違う進路を噂されていたのに、なぜか一楓と同じ帝都大に進学し、新入生代表で挨拶あいさつして、彼女を驚愕きょうがくさせた。それから彼は、大学でも常に話題の中心にいた。
 そんな彼とは、高校三年生の時に口封じの取引をして以降、口をきいていない。
 約束通り、彼から関わってくることもなく、平和な大学生活を送っていたのに――四年経った今、声をかけてきたのである。これは約束違反だ。
 一楓は眉間みけんしわを刻んで不快感と拒絶を示したが、瀬名はそんな抗議をものともせずに美しい微笑みを向けてきた。

「ふふふ。委員長、いかりに毛を逆立てた猫みたいだよ。フギーッて」
「誰がそうさせているんですか」
「ああ、ごめんね、委員長。ねぇ、噂で聞いたんだけど、就職全滅なの?」

 目下もっかの悩みを言い当てられて、一楓は言葉に詰まった。

「きみのお父さん、リストラ食らったんだろう? たしか、妹と弟がいるんだっけ? ふたりも大学進学を希望しているなら、資金りが大変だ」

 誰にも言っていない家庭の事情が、瀬名の口から出てきたことに驚いてしまう。

「っ、どうしてそれを!」
「風の噂だよ、委員長」

 残念ながら一楓には、身の上話をするような友人がいない。噂が立つはずもないと首をかしげていると、瀬名はたたみかけてくる。

「もう冬になるぞ? きみだけじゃないか、この帝都大で就職先が見つからないのは」
「余計なお世話です」

 こんな嫌味を言うために、絡んできたのだろうか。
 瀬名は就活をしなくても、実家の一流企業に勤めることができる。就活は他人事なのだ。だからといって、就職できない一般人の傷をえぐらないでほしい。

「ここからが本題なんだけど――僕の会社に来ない?」

 唐突な提案を、一楓は即座に断った。

「冗談や同情は結構です」
「悪いけど、この上なく本気だ」

 瀬名の顔は大真面目で、からかいの色は見えない。

「これでも、委員長の能力を高く評価しているつもりだ。僕は、優秀な人材が欲しい」

 ふたりの間にあったことには触れず、彼はそんなことを言う。

「わたしが優秀かはさておき、あなたの会社に来いとは? 瀬名グループの会社に就職しろ、ということですか?」

 瀬名があまりに真剣なものだから、一楓はつい聞いてしまった。

「違う。僕が今年の夏に設立した『イデアシンヴレス』。ITベンチャーだ」

 そういえば、そんな噂を耳にしたことがあった。瀬名は大学生ながら、株で資金を集めて起業したと。
 真面目と根性だけがの一楓とは違い、瀬名は神から二物も三物も与えられた人間だ。学力がひいでているだけでなく、高校時代は絵や運動でも賞を取るほどの多才ぶりを発揮していた。

「イデアシンヴレスを大きくしたいのに、人材が集まらない。誰も僕についてこられないから、僕がしたいこともできない。そのせいで僕ひとりですべての業務をこなしていて、てんやわんやなんだ」

 その話で、一楓は高校時代のことを思い出し、納得する。
 彼が生徒会長だった時、彼のハイレベルな要求に、誰もが尻込みした。妥協しない瀬名のせいで、委員会は長引くばかり。そのせいでバイトに遅刻しそうになった一楓が、具体的な支援案を出し、場をまとめたこともあった。

「給料もボーナスも、ちゃんと出す。福利厚生だって整える。それだけの仕事はしている」

 正直、就職先が決まらなくて焦っていたので、のどから手が出そうになる。
 ただそれは……瀬名が社長を務める、瀬名の会社でないなら、の話だ。
 再び断りの言葉を口にしようとした瞬間、彼は頭を下げた。

「頼む、設楽。僕にはきみが必要なんだ」

 高校時代から思い出しても、彼がひとに頭を下げるところを見るのは初めてだ。
 よほど切羽詰せっぱつまっているらしいとさとり、一楓はとりあえず、彼の会社におもむくことにした。
 職場を見て、改めて条件を聞いてから断っても遅くないと思ったのだ。
 案内された仕事場は、想像以上に広く、職場環境も整えられていた。そして、瀬名から仕事内容の説明と仕事への情熱を聞いて――一楓は心を打たれた。
 彼の下で働きたいと願い、決意する。
 自分で決めたからには、不埒ふらちたわむれをした黒歴史は忘れることにした。新たな気持ちで社長につかえようと、心に誓う。
 それほど、瀬名が真摯しんしに語る会社の未来に、魅力みりょくを感じたのだ。

「誠心誠意つとめさせていただきます。ご指導のほど、よろしくお願いします。瀬名社長」

 その時の瀬名の笑顔は忘れられない。とても嬉しそうで、一楓の胸はどきんと高鳴った。


 そして――事務員として雇われたと思っていた一楓は、気づけば彼によって、プログラマー兼SEシステムエンジニアに育て上げられていた。
 夢と希望に満ちて入社したはずの会社が、実は納期至上主義のブラック企業だとさとった時には、すでに引き返せなくなっていたのだった。



   第一章 それは、あくまでブラックで


 瀬名社長の下で働きはじめて丸四年が経った今、一楓はイデアシンヴレスについて冷静に評価する。この会社は、ブラックだ――と。
 東京にあるオフィス街の一角に、イデアシンヴレスが入ったビルがある。外観の印象より広いフロアを持つ建物の、五階と六階を借りていた。
 イデアシンヴレスは、企業向けのシステム開発・運用保守や、データ分析・集積を主とした、プログラミング作業を主軸にしている会社だ。
 それぞれSEが指揮する四つのチームがあり、各チームには五、六名のプログラマーがいる。そのチームごとにSEの指示にしたがい、システムを動かすコードを作成プログラムするのだ。
 そのSEの上には、各チームを統括管理するPLプロジェクトリーダーがいる。そして、彼らはイデアシンヴレスの司令塔であるPMプロジェクトマネージャー――瀬名伊吹社長の指示をあおいでいた。
 彼は弱冠じゃっかん二十七歳にして、すべてのプロジェクトを把握し、動かすことのできる敏腕社長だ。その甘いマスクとは裏腹に、仕事に対しては厳しく真摯しんしで、誰よりも精力的に働いている。
 一楓は会社に入るまで知らなかったのだが、瀬名は高校時代、趣味でパソコンのソフトウェア――OSオペレーティングシステムを開発したことがあったようだ。それは試作品ではあったが、IT業界で話題になったほどで、当時からプログラマーとしての腕は一目置かれていた。
 その上、卓越した提案力や営業手腕を武器に、イデアシンヴレスは近年大企業から仕事を依頼されるほどになっている。
 しかし、瀬名は現状に満足していない。どんなに実力のある社員を揃えようとも、歴史の浅い会社は、知名度や信頼度が足りない。
 この業界では、知名度がある会社だけが生き残れる。知名度を上げるには、地道に実績を積んで、顧客の信頼を得るしかない。
 そのため、彼は社員に自分と同等の仕事の質を要求する。だが社内には、天才肌の瀬名に匹敵するレベルの社員はいなかった。
 彼と同等の出来を求められることは、普通の社員にとって無謀むぼう無慈悲むじひな命令だ。なんとか達成するためには時間と労力をぎ込むしかない。
 給料は安くはないが、『きつい』『帰れない』の2Kのブラック企業、イデアシンヴレス。
 しかし天才・瀬名にせられ、脱出できない。彼に認められ、賛辞の言葉を得ることは、とてつもない達成感となり、社員の心を掴んでいる――と、一楓は考えている。そして悲しいかな、自分もそんな社員のひとりなのだった。


 蒸し暑い六月下旬。一楓は瀬名と共に、都心にある高層ビルにいた。
 ここ『帝都グループビル』は、帝都グループの関連会社が入り、レストランやショッピングエリアもあわせ持つ複合商業施設だ。この地域の新たなランドマークとしても注目されている。
 その七階にある帝都グループ協同組合へ、一楓たちはやってきた。以前仕事をけ負った会社からの紹介なのだが、なんでも帝都グループ協同組合の保険事業課は、仕事を発注した業者が途中で手を引いてしまい、とても困っているらしい。
 そんな組合のはぎ課長は、薄毛の頭を何度も撫でながら話す。

が組合は、ホテル、デパート、レジャー施設を全国で運営している、あの帝都グループの社員のための協同組合。組合員は約三万人いる」

 萩課長はぐふぐふと笑い、自慢を続ける。
 彼の向かいに座るのは、濃灰色のオーダースーツに濃藍色こいあいいろのネクタイを締めた瀬名だ。課長の自慢話に相槌あいづちを打っている。
 そして一楓は、瀬名の片腕として、彼の隣で辛抱しんぼう強く笑みを浮かべていた。PM補佐という肩書きだが、PLもSEもプログラマーも、なんでもこなす。おまけに秘書のような役回りも押しつけられていた。
 黒髪をまとめ上げ、黒いスーツに身を包んでいるが、地味なだけの学生時代とは違う。瀬名に命じられ、成人女性のたしなみとしてきちんと化粧を勉強したため、一応見られる程度に整っているはずだ。
 体裁ていさいだけは取りつくろったつもりだが、一楓の内心は穏やかではない。それは目の前で話を続ける萩課長のせいである。

「前の業者は本当に酷かった。使い勝手の悪いシステムを納品したくせに、変更を頼むと、ちょいちょいと直すだけなのに、人件費がどうのと改修費用をつり上げてくる。堪忍袋かんにんぶくろが切れて、契約を解除してやった」

 今回、協同組合が業者に発注したのは、保険契約者の情報や契約内容を、一元管理できるシステムだ。
 さらに保険料の口座引き落としができる請求データを作れるよう依頼していたらしい。
 しかし、納品されたシステムは一元管理ができても、一台しか利用できない専用端末だった。それでは使い勝手が悪く、客からのたくさんの問い合わせに、事務員が応じ切れない。
 さらに未改修のままの部分もあり、このままでは正常な引き落としができないと、手を焼いているらしい。
 システム改修だけならば、イデアシンヴレスは十日もかからず終わらせるだろう。
 だが他社が作ったシステムを精査せず、安易にプログラムを組み込むのは危険だ。どんな欠陥バグが生じるかわからないからである。操作する側のミスが、欠陥バグに繋がることもある。
 検証の時間を十分にとれず、万が一のことがあった場合、この課長は全責任をイデアシンヴレスに押しつけてくるだろう。そんなリスクが高い案件は、他の業者も受けたがらない。もちろん一楓としても、まっぴらごめんだ。

(大体、帝都グループがなによ。瀬名グループの方が、よっぽど大きいじゃない)

 一楓はそう思って瀬名をちらりと見るが、彼は涼しい顔をしている。

「それで、そのシステムの改修とやらを、きみたちの会社に任せるよ。――そうだ。この先、長い付き合いになるだろうから、夜に軽く一杯どうかね?」

 課長はげふげふと笑いながら、一楓にねっとりとした視線を送った。断られるとは微塵みじんも思っていない、この傲慢ごうまんさと危機管理能力のなさ。
 腹が立った一楓は、笑顔で話をらしながら、瀬名の靴を踏みつける。

(考える必要もなし! 引き受ける義理はないのだから速攻断るべし!)

 しかし、瀬名の答えは――

「予定があるため、大変恐縮ながらお酒の席はまた改めてとさせていただきますが、お仕事はお受けいたします。ただ、システム改修ではなく、別の形で進めたいと考えておりまして……」

 ビルを出た一楓と瀬名は、彼の車に乗り込んだ。そして一楓は、保険制度とシステムに関する資料やマニュアルを詰め込んだ紙袋を膝に置き、頭を抱える。

無謀むぼうにもほどがありますよ、社長! 既存のシステム改修ではなく、一からシステムを構築するなんて! しかも一週間で! わたし、何度も靴を踏んづけて止めたのに!」
「見知らぬプログラマーが作ったものを解析している時間はない。前にうちでパッケージ販売した保険システムがあったろう。あれに改良を加えて、画面を似たようなものにすれば、金額を抑えて今以上のものを提供できる。多めに見積もった金額でもかなり安いと、課長は喜んでいただろう?」

 瀬名はネクタイを少しゆるめると、なんでもないことのように言った。

「あの課長に義理はないけれど、彼らを助けて恩を売れば、帝都グループに入り込めるチャンスができるんだ。いい仕事じゃないか。それに僕たちが卒業した帝都大は帝都グループだし、縁があるとは思わないか?」
「帝都大だから、帝都グループだから、なんですか。だったら瀬名グループの方が……」

 涙目で言う一楓に、瀬名は輝かしい笑みを向ける。そして優しい口調で言った。

「ということで、今回の件はきみのチームに頼む。戻ったら保険制度とシステムの資料を読んで、なんの機能が必要か判断してくれ。その上で設計図と構築図、割り振り表を作って、今日中に僕のところへ持ってきて」
「わたしのチームですか!? なぜに!?」

 一楓はPL兼SEとして、二年間苦楽を共にしてきたチームを持っている。プログラマーのうち三人は、複数の国家資格を持つ精鋭たちだ。
 しかし現在、一楓以外のメンバーは休暇中である。なぜ瀬名が指定してきたのかわからない。

「そりゃあ、早くて確実で僕好みだから」

 瀬名は意味ありげに笑いながら、一楓の黒髪に指を絡ませた。
 一楓は瀬名の手をぺちんと払うと、両手で顔をおおう。

「あなたの信条は、この四年でよくわかったつもりよ。でもうちのチームは、二日前まで一ヶ月缶詰で、ようやく納品できたの。わたしはどんな顔で休暇中のみんなを招集すればいいの?」
「僕からメールを出してもいいよ? 『間に合わせないとクビ。だけど間に合わせたらボーナスを出し、確実に休みを支給する』って」

 通じないのはわかっていながら嘘泣きをしてみたものの、瀬名は笑顔でそう言った。絶対に断らせないその口調に、一楓は観念してうなだれる。

「はあ……。イデアシンヴレスが、こんなブラックだったとは……」
「もちろん、僕も一緒にやるから。ね?」

 瀬名が優しい口調でなだめても、一楓は顔を上げない。

「……反対するなら、きみのお父さんをクビにするよ?」
「うう……、鬼っ、悪魔っ!! この腹黒エセ王子!!」

 一楓は涙目で顔を上げ、彼をにらむ。瀬名は笑いながら頭を撫でてくるが、彼女はその手をぱしりと払って、またもや両手で顔をおおった。
 一楓が瀬名の会社に就職すると決めると、彼は無職だった一楓の父を、瀬名グループの系列会社に入社させてくれた。そのおかげで家族は路頭に迷わずに済み、一楓も安心してひとり暮らしができている。
 それにはもちろん感謝している。しかし、この男はいつも強引に仕事を進めるため、一楓は泣いてばかりいる気がして、やりきれない。
 ずっと瀬名の下僕感が抜けず、涙目で文句を言うことしかできないのだった。


 一楓と瀬名が、帝都グループ協同組合から戻った翌日、午前十時――
 イデアシンヴレスの五階にあるミーティング室で、一楓は自チームのプログラマー五名を呼び出し、愚痴ぐちを聞いていた。

「俺、嫁と子供を連れてネズミーランドの公式オフィシャルホテルに泊まっていたのに」
「ごめんなさい、葛西かさいさん」

 三十八歳のベテランプログラマーの葛西はじめは、ひげもじゃで山男のような風貌ふうぼうだ。彼は、ファンシーなネズミのイラストが描かれたTシャツと半ズボン、カチューシャ姿で現れた。
 それは彼の精一杯の抵抗だろうと察したが、ネズミの耳がついたカチューシャは、さすがに一楓が外してあげた。

「私……彼氏とようやくイチャイチャできると思ったのに」
「ごめんね、幸子さちこちゃん。付き合いはじめたばかりなのに」

 次に肩を落としたのは、二十四歳の雪村ゆきむら幸子。瓶底眼鏡をかけており、昔の一楓に似て、地味で幸薄さちうすそうに見える。男に無縁と思われたが、一ヶ月前に初彼ができたと嬉しそうに語っていた。しかし今は、怨念おんねんがこもった不気味さを放っている。


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