アムネシアは蜜愛に花開く

奏多

文字の大きさ
7 / 53
第1章 突然の再会は婚約者連れで

どれが本当のあなたなの?

しおりを挟む
「清楚を演じている恋人を盲信しすぎて、考えもしてねぇだろう。恋人が過去に義弟とヤッていたなんて」
「忘れたわ、そんなこと!」

 わたしはつい、声を荒げた。

 彼には伝えていないけれど、わたしは過去、巽が好きだったのだ。
 好きだったから嬉しく思って抱かれたその事実を、巽の口から軽々しい笑い話で聞かされたくなかった。

 確かにあれで両親は離婚して、悪いことをしてしまったという罪悪感はいまだ拭えないけど、そんな風に下ネタよろしくに笑いものにして蔑まれるのなら、わたし達の間になにもなかったことにしたい。

 巽は感情がよく見えない、仮面のような表情を顔に張り付かせていた。

「……忘れた、ねぇ」

 やがて自嘲気味に彼は反芻する。

「だったら思い出させてやろうか?」

 ぎらついた、あの時の獣のような眼差しを向ける。

 どこかで、蝉がまた鳴いた。
 じりじりと、わたしの心を軋ませるように。

――どうにもなんねぇなら、壊してやる……っ。

「お前の初めてが俺だっていうこと」

――ああ、くそっ、なんでこんなにいいんだよ、お前の中っ。

 わたしだけ、罪悪感に身体が枯れてしまっているというのに、巽はただの過去のひとコマでしかなく。

 わたしが終わらせようとしても、あの蝉が鳴く夏の日は彼によって蘇る。

 わたしのことを、なんとも思っていないから。
 わたしの初めては、彼にとってはさしたる重要性はないから。

 じりじりと、わたしの中であの日の蝉が鳴く。
 苦しいよと、訴えかけている。

「どうせなら、あのお人好しの彼氏にも言ってやろうか。お前は俺のお古を抱いているん……」

 わたしがバァァンと机を手で叩くと、巽は押し黙った。
 
「それ以上無駄口を叩くなら、わたしは失礼させて頂きます!」

 憤るわたしは、すくりと立ち上がる。

 じりじり、じ……。

 意志の力で、感傷という名の蝉の音をわたしは消した。
 
「わたしに対する嫌がらせのために、ルミナスの仲間を巻き込まないで下さいませんか、氷室専務」

 わたしは極力丁寧な物言いに努めた。
 彼が過去を否定させたのだ。

 だったら、わたし達の間にあるのは、新会社の専務という立場と、旧会社の広報担当という、上司と部下の上下関係だけだ。

 年上でも、肩書きが上位の人間には謙る。
 モデルをしていたのなら、これが社会だとあなたもわかっているでしょう?

 別に再会を泣いて喜んでくれと言っているわけではない。
 今までどう生きてきたのと、聞いて欲しかったわけではない。
 抱いてしまってごめんなさいと、謝って欲しいわけでもない。

 ただ、関係したことを否定だけはして貰いたくなかった。
 あの事実で傷ついた人達がいるのだから、笑い話にして貰いたくなかった。

 そう思うわたしは、我儘なのだろうか。

「わたしのこと、嫌いなら嫌いで結構です。だけどわたしのために、わたしが大切に思う者も馬鹿にされて、彼らを窮地におとしめるくらいなら、潔くわたしが辞めます」
「……せっかくのアムネシアを、蹴るというのか」

 彼のぼやきが意味しているところが、わたしがアムネシア好きだということに由来するのなら。
 彼が昔のわたしを覚えているというのなら。

「ええ。アムネシア以上に、大好きな人達ですので」

 彼が昔のことを持ち出してわたしを脅したり揶揄する材料にするのなら、わたしは巽のいる舞台から潔く幕を引く。

 それが十年後のわたしだ。

 巽はたっぷりと沈黙してから、舌打ちをして顔を横に背ける。

「いらねぇよ、お前の辞表なんか。……座れよ」
「……」
「まだ仕事の話をしてねぇだろ、座れ! 同じことを二度言わせるな!!」

 まるで駄々っ子みたいだね。
 でも仕事の話を出されたら、わたしは上司に従うしかない。
 彼はそれを逆手にとったのだろう。

「それと専務。その物言いなんとかなりませんか。ここはプライベートではありません。アムネシアの専務らしく振る舞って下さい」

 さらにわたしは線を引く。
 巽はどう出るのか。

「わかりました藤城さん。失礼をお詫びします」

 ……彼はわたしに従った。専務の顔で。

 内心心臓がバクバクしていたわたしとしては、少しほっと胸を撫で下ろした。
 やはり昔のことを持ち出されると、平静ではいられなくなるからだ。

「あなたがアムネシア以上にルミナスの社員達を大切に思うのなら、あなたがそれを行動で示して下さい。ルミナスの社員の頑張りは、アムネシアに必要なものだと思えるように」

 巽は甘く穏やかに微笑む。
 先ほどの悪態のような粗野さは、どこに隠れてしまったのだろう。
 夢を見ていたような気分になり、戸惑ってしまう。

「はい、わかりました」
「それにより、ルミナス社員の待遇を考えたいと思います」
「……はい」

 わたしは膝に置いた手を拳にして、ぎゅっと握りしめた。
 わたしにルミナス社員の命運がかかる線は、崩さないつもりらしい。

「企画をしたことがないから、なんて、そんなものは言い訳にもなりません。会社にいるからには、売れる商品を作らない社員は必要ありません。とりわけ、アムネシアには」

 別に彼は、おかしなことを言ってはいない。
 結果を出せと騒ぐ会社だってあるくらいだ、ルミナスのように和気藹々と無難な線で仕事をする会社の方が稀な時代に入っているのかもしれない。

 ルミナスは大手の化粧品会社で、ルミナスは太刀打ちできない弱小さ。
 それでも巽は――、

「あなたが経験を積み重ねてきた広報という立場で、商品をどう捉えて、どう売り出しに行くか、女性の感性が抜け落ちている僕に、知恵をお貸し下さい」

 わたしに頭を下げたのだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

10年引きこもりの私が外に出たら、御曹司の妻になりました

専業プウタ
恋愛
25歳の桜田未来は中学生から10年以上引きこもりだったが、2人暮らしの母親の死により外に出なくてはならなくなる。城ヶ崎冬馬は女遊びの激しい大手アパレルブランドの副社長。彼をストーカーから身を張って助けた事で未来は一時的に記憶喪失に陥る。冬馬はちょっとした興味から、未来は自分の恋人だったと偽る。冬馬は未来の純粋さと直向きさに惹かれていき、嘘が明らかになる日を恐れながらも未来の為に自分を変えていく。そして、未来は恐れもなくし、愛する人の胸に飛び込み夢を叶える扉を自ら開くのだった。

幸せの見つけ方〜幼馴染は御曹司〜

葉月 まい
恋愛
近すぎて遠い存在 一緒にいるのに 言えない言葉 すれ違い、通り過ぎる二人の想いは いつか重なるのだろうか… 心に秘めた想いを いつか伝えてもいいのだろうか… 遠回りする幼馴染二人の恋の行方は? 幼い頃からいつも一緒にいた 幼馴染の朱里と瑛。 瑛は自分の辛い境遇に巻き込むまいと、 朱里を遠ざけようとする。 そうとは知らず、朱里は寂しさを抱えて… ・*:.。. ♡ 登場人物 ♡.。.:*・ 栗田 朱里(21歳)… 大学生 桐生 瑛(21歳)… 大学生 桐生ホールディングス 御曹司

愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました

蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。 そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。 どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。 離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない! 夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー ※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。 ※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。

あなたがいなくなった後 〜シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました〜

瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの二十七歳の専業主婦。三歳歳上の大輝とは大学時代のサークルの先輩後輩で、卒業後に再会したのがキッカケで付き合い始めて結婚した。 まだ生後一か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。二歳年上で公認会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。 息子の為にと自立を考えた優香は、働きに出ることを考える。それを知った宏樹は自分の経営する会計事務所に勤めることを勧めてくれる。陽太が保育園に入れることができる月齢になって義弟のオフィスで働き始めてしばらく、宏樹の不在時に彼の元カノだと名乗る女性が訪れて来、宏樹へと復縁を迫ってくる。宏樹から断られて逆切れした元カノによって、彼が優香のことをずっと想い続けていたことを暴露されてしまう。 あっさりと認めた宏樹は、「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願った。 夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで…… 夫のことを想い続けるも、義弟のことも完全には拒絶することができない優香。

降っても晴れても

凛子
恋愛
もう、限界なんです……

冷酷総長は、彼女を手中に収めて溺愛の檻から逃さない

彩空百々花
恋愛
誰もが恐れ、羨み、その瞳に映ることだけを渇望するほどに高貴で気高い、今世紀最強の見目麗しき完璧な神様。 酔いしれるほどに麗しく美しい女たちの愛に溺れ続けていた神様は、ある日突然。 「今日からこの女がおれの最愛のひと、ね」 そんなことを、言い出した。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

たとえ愛がなくても、あなたのそばにいられるのなら

魚谷
恋愛
ヴェルンハイム伯爵家の私生児ハイネは家の借金のため、両親によって資産家のエッケン侯爵の愛人になることを強いられようとしていた。 ハイネは耐えきれず家を飛び出し、幼馴染みで初恋のアーサーの元に向かい、彼に抱いてほしいと望んだ。 男性を知らないハイネは、エッケンとの結婚が避けられないのであれば、せめて想い人であるアーサーに初めてを捧げたかった。 アーサーは事情を知るや、ハイネに契約結婚を提案する。 伯爵家の借金を肩代わりする代わりに、自分と結婚し、跡継ぎを産め、と。 アーサーは多くの女性たちと浮名を流し、子どもの頃とは大きく違っていたが、今も想いを寄せる相手であることに変わりは無かった。ハイネはアーサーとの契約結婚を受け入れる。 ※他のサイトにも投稿しています

処理中です...