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第1章 突然の再会は婚約者連れで
どれが本当のあなたなの?
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「清楚を演じている恋人を盲信しすぎて、考えもしてねぇだろう。恋人が過去に義弟とヤッていたなんて」
「忘れたわ、そんなこと!」
わたしはつい、声を荒げた。
彼には伝えていないけれど、わたしは過去、巽が好きだったのだ。
好きだったから嬉しく思って抱かれたその事実を、巽の口から軽々しい笑い話で聞かされたくなかった。
確かにあれで両親は離婚して、悪いことをしてしまったという罪悪感はいまだ拭えないけど、そんな風に下ネタよろしくに笑いものにして蔑まれるのなら、わたし達の間になにもなかったことにしたい。
巽は感情がよく見えない、仮面のような表情を顔に張り付かせていた。
「……忘れた、ねぇ」
やがて自嘲気味に彼は反芻する。
「だったら思い出させてやろうか?」
ぎらついた、あの時の獣のような眼差しを向ける。
どこかで、蝉がまた鳴いた。
じりじりと、わたしの心を軋ませるように。
――どうにもなんねぇなら、壊してやる……っ。
「お前の初めてが俺だっていうこと」
――ああ、くそっ、なんでこんなにいいんだよ、お前の中っ。
わたしだけ、罪悪感に身体が枯れてしまっているというのに、巽はただの過去のひとコマでしかなく。
わたしが終わらせようとしても、あの蝉が鳴く夏の日は彼によって蘇る。
わたしのことを、なんとも思っていないから。
わたしの初めては、彼にとってはさしたる重要性はないから。
じりじりと、わたしの中であの日の蝉が鳴く。
苦しいよと、訴えかけている。
「どうせなら、あのお人好しの彼氏にも言ってやろうか。お前は俺のお古を抱いているん……」
わたしがバァァンと机を手で叩くと、巽は押し黙った。
「それ以上無駄口を叩くなら、わたしは失礼させて頂きます!」
憤るわたしは、すくりと立ち上がる。
じりじり、じ……。
意志の力で、感傷という名の蝉の音をわたしは消した。
「わたしに対する嫌がらせのために、ルミナスの仲間を巻き込まないで下さいませんか、氷室専務」
わたしは極力丁寧な物言いに努めた。
彼が過去を否定させたのだ。
だったら、わたし達の間にあるのは、新会社の専務という立場と、旧会社の広報担当という、上司と部下の上下関係だけだ。
年上でも、肩書きが上位の人間には謙る。
モデルをしていたのなら、これが社会だとあなたもわかっているでしょう?
別に再会を泣いて喜んでくれと言っているわけではない。
今までどう生きてきたのと、聞いて欲しかったわけではない。
抱いてしまってごめんなさいと、謝って欲しいわけでもない。
ただ、関係したことを否定だけはして貰いたくなかった。
あの事実で傷ついた人達がいるのだから、笑い話にして貰いたくなかった。
そう思うわたしは、我儘なのだろうか。
「わたしのこと、嫌いなら嫌いで結構です。だけどわたしのために、わたしが大切に思う者も馬鹿にされて、彼らを窮地におとしめるくらいなら、潔くわたしが辞めます」
「……せっかくのアムネシアを、蹴るというのか」
彼のぼやきが意味しているところが、わたしがアムネシア好きだということに由来するのなら。
彼が昔のわたしを覚えているというのなら。
「ええ。アムネシア以上に、大好きな人達ですので」
彼が昔のことを持ち出してわたしを脅したり揶揄する材料にするのなら、わたしは巽のいる舞台から潔く幕を引く。
それが十年後のわたしだ。
巽はたっぷりと沈黙してから、舌打ちをして顔を横に背ける。
「いらねぇよ、お前の辞表なんか。……座れよ」
「……」
「まだ仕事の話をしてねぇだろ、座れ! 同じことを二度言わせるな!!」
まるで駄々っ子みたいだね。
でも仕事の話を出されたら、わたしは上司に従うしかない。
彼はそれを逆手にとったのだろう。
「それと専務。その物言いなんとかなりませんか。ここはプライベートではありません。アムネシアの専務らしく振る舞って下さい」
さらにわたしは線を引く。
巽はどう出るのか。
「わかりました藤城さん。失礼をお詫びします」
……彼はわたしに従った。専務の顔で。
内心心臓がバクバクしていたわたしとしては、少しほっと胸を撫で下ろした。
やはり昔のことを持ち出されると、平静ではいられなくなるからだ。
「あなたがアムネシア以上にルミナスの社員達を大切に思うのなら、あなたがそれを行動で示して下さい。ルミナスの社員の頑張りは、アムネシアに必要なものだと思えるように」
巽は甘く穏やかに微笑む。
先ほどの悪態のような粗野さは、どこに隠れてしまったのだろう。
夢を見ていたような気分になり、戸惑ってしまう。
「はい、わかりました」
「それにより、ルミナス社員の待遇を考えたいと思います」
「……はい」
わたしは膝に置いた手を拳にして、ぎゅっと握りしめた。
わたしにルミナス社員の命運がかかる線は、崩さないつもりらしい。
「企画をしたことがないから、なんて、そんなものは言い訳にもなりません。会社にいるからには、売れる商品を作らない社員は必要ありません。とりわけ、アムネシアには」
別に彼は、おかしなことを言ってはいない。
結果を出せと騒ぐ会社だってあるくらいだ、ルミナスのように和気藹々と無難な線で仕事をする会社の方が稀な時代に入っているのかもしれない。
ルミナスは大手の化粧品会社で、ルミナスは太刀打ちできない弱小さ。
それでも巽は――、
「あなたが経験を積み重ねてきた広報という立場で、商品をどう捉えて、どう売り出しに行くか、女性の感性が抜け落ちている僕に、知恵をお貸し下さい」
わたしに頭を下げたのだ。
「忘れたわ、そんなこと!」
わたしはつい、声を荒げた。
彼には伝えていないけれど、わたしは過去、巽が好きだったのだ。
好きだったから嬉しく思って抱かれたその事実を、巽の口から軽々しい笑い話で聞かされたくなかった。
確かにあれで両親は離婚して、悪いことをしてしまったという罪悪感はいまだ拭えないけど、そんな風に下ネタよろしくに笑いものにして蔑まれるのなら、わたし達の間になにもなかったことにしたい。
巽は感情がよく見えない、仮面のような表情を顔に張り付かせていた。
「……忘れた、ねぇ」
やがて自嘲気味に彼は反芻する。
「だったら思い出させてやろうか?」
ぎらついた、あの時の獣のような眼差しを向ける。
どこかで、蝉がまた鳴いた。
じりじりと、わたしの心を軋ませるように。
――どうにもなんねぇなら、壊してやる……っ。
「お前の初めてが俺だっていうこと」
――ああ、くそっ、なんでこんなにいいんだよ、お前の中っ。
わたしだけ、罪悪感に身体が枯れてしまっているというのに、巽はただの過去のひとコマでしかなく。
わたしが終わらせようとしても、あの蝉が鳴く夏の日は彼によって蘇る。
わたしのことを、なんとも思っていないから。
わたしの初めては、彼にとってはさしたる重要性はないから。
じりじりと、わたしの中であの日の蝉が鳴く。
苦しいよと、訴えかけている。
「どうせなら、あのお人好しの彼氏にも言ってやろうか。お前は俺のお古を抱いているん……」
わたしがバァァンと机を手で叩くと、巽は押し黙った。
「それ以上無駄口を叩くなら、わたしは失礼させて頂きます!」
憤るわたしは、すくりと立ち上がる。
じりじり、じ……。
意志の力で、感傷という名の蝉の音をわたしは消した。
「わたしに対する嫌がらせのために、ルミナスの仲間を巻き込まないで下さいませんか、氷室専務」
わたしは極力丁寧な物言いに努めた。
彼が過去を否定させたのだ。
だったら、わたし達の間にあるのは、新会社の専務という立場と、旧会社の広報担当という、上司と部下の上下関係だけだ。
年上でも、肩書きが上位の人間には謙る。
モデルをしていたのなら、これが社会だとあなたもわかっているでしょう?
別に再会を泣いて喜んでくれと言っているわけではない。
今までどう生きてきたのと、聞いて欲しかったわけではない。
抱いてしまってごめんなさいと、謝って欲しいわけでもない。
ただ、関係したことを否定だけはして貰いたくなかった。
あの事実で傷ついた人達がいるのだから、笑い話にして貰いたくなかった。
そう思うわたしは、我儘なのだろうか。
「わたしのこと、嫌いなら嫌いで結構です。だけどわたしのために、わたしが大切に思う者も馬鹿にされて、彼らを窮地におとしめるくらいなら、潔くわたしが辞めます」
「……せっかくのアムネシアを、蹴るというのか」
彼のぼやきが意味しているところが、わたしがアムネシア好きだということに由来するのなら。
彼が昔のわたしを覚えているというのなら。
「ええ。アムネシア以上に、大好きな人達ですので」
彼が昔のことを持ち出してわたしを脅したり揶揄する材料にするのなら、わたしは巽のいる舞台から潔く幕を引く。
それが十年後のわたしだ。
巽はたっぷりと沈黙してから、舌打ちをして顔を横に背ける。
「いらねぇよ、お前の辞表なんか。……座れよ」
「……」
「まだ仕事の話をしてねぇだろ、座れ! 同じことを二度言わせるな!!」
まるで駄々っ子みたいだね。
でも仕事の話を出されたら、わたしは上司に従うしかない。
彼はそれを逆手にとったのだろう。
「それと専務。その物言いなんとかなりませんか。ここはプライベートではありません。アムネシアの専務らしく振る舞って下さい」
さらにわたしは線を引く。
巽はどう出るのか。
「わかりました藤城さん。失礼をお詫びします」
……彼はわたしに従った。専務の顔で。
内心心臓がバクバクしていたわたしとしては、少しほっと胸を撫で下ろした。
やはり昔のことを持ち出されると、平静ではいられなくなるからだ。
「あなたがアムネシア以上にルミナスの社員達を大切に思うのなら、あなたがそれを行動で示して下さい。ルミナスの社員の頑張りは、アムネシアに必要なものだと思えるように」
巽は甘く穏やかに微笑む。
先ほどの悪態のような粗野さは、どこに隠れてしまったのだろう。
夢を見ていたような気分になり、戸惑ってしまう。
「はい、わかりました」
「それにより、ルミナス社員の待遇を考えたいと思います」
「……はい」
わたしは膝に置いた手を拳にして、ぎゅっと握りしめた。
わたしにルミナス社員の命運がかかる線は、崩さないつもりらしい。
「企画をしたことがないから、なんて、そんなものは言い訳にもなりません。会社にいるからには、売れる商品を作らない社員は必要ありません。とりわけ、アムネシアには」
別に彼は、おかしなことを言ってはいない。
結果を出せと騒ぐ会社だってあるくらいだ、ルミナスのように和気藹々と無難な線で仕事をする会社の方が稀な時代に入っているのかもしれない。
ルミナスは大手の化粧品会社で、ルミナスは太刀打ちできない弱小さ。
それでも巽は――、
「あなたが経験を積み重ねてきた広報という立場で、商品をどう捉えて、どう売り出しに行くか、女性の感性が抜け落ちている僕に、知恵をお貸し下さい」
わたしに頭を下げたのだ。
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