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Waning Moon 11
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寝たふりをしていたつもりが、本当にうとうとしてしまっていたらしい。
目が覚めたらあたしは課長の肩に凭れるようにして眠っていて、そんな状況に驚いて、焦って謝った。
「す、すみませんでした。あたし……」
「かなり困りました」
正面を向いたままの課長が嘆息をついて、顔を垂らし気味にして、縮こまっているあたしを斜めから見下ろした。
その目に浮かんでいるのは、怒りや呆気ではなく――
「私に寄りかかって眠るあなたの肩を抱こうとしたら、あなたから繋がれたこの手を離すことになる。離さないためにと色々考えていたら、もう目的地に着いてしまいました」」
からかうような揶揄の光。
「反対の手で繋いでいればよかった。そうしたらあなたを抱きながら、手も繋いでいられたのに。こうやって」
コートを摘まみ上げられると、指を絡ませて握る手が出てきて、羞恥に飛び上がり、その手を離した。
「離しちゃうんですか? このままでいたかったのに」
どうしてそんな悲しい声で、拗ねたように言うのよ。
あたしの母性本能擽るつもり!?
「今まであなたから触れてくれるなんて、滅多になかったから……」
手ぐらいなんだというのよ。
まだ手に残る課長の温もりが消えないように、反対側の手で包むように両手を重ねるあたしは、俯き加減でぼそっと言った。
「これからはたくさん触るわよ、手とは言わずいろんなとこに」
「………」
「………」
「………」
うぉぉぉ、あたし今なに言った!
「え?」
よかった、聞かれてない。
課長が驚いた顔を向けてくるのと同時に、到着を告げるアナウンスがかかり、あたしは神の采配に感謝した。
「さあ、課長戦場に着きました。新幹線内でお仕事についての打ち合わせをしていませんでしたけど、なんとかなるということで、降りましょう。はい、コートありがとうございました」
営業モード発動。
停止した新幹線内、課長と顔を合せないように、忙しいふりをしててきぱきと降りる準備をする。席の配置上、通路に先に立つのは課長であたしはその後ろとなる。
コートを片手にかけた課長の広い背中を見ながら、おかしなことを口走ったことについてうまく切り抜けれそうだと、ほっと胸を撫で下ろした時、優雅な笑みを浮かべながら課長があたしに振り返った。
「これからもっと私を触りたいということですか?」
「……っ」
聞いていたのかよ!
「ね、寝ぼけていたんです。それはほんの冗談です」
「あなたから手を握ってきたのは?」
「……さあ? なんのことでしょう」
「耳まで真っ赤ですけど」
「暑いんです!」
「くく……」
課長は悪戯っ子のような表情をして笑うと、形いい唇をあたしの耳元にもってきて、小さく囁いてくる。
「手を握る程度でそんなに照れるなんて、可愛いですね」
「……」
無視だ、無視!
「俺達、もっと凄いことしてるのに」
「――っ!!!!!」
あたしはつい最近の、媚薬が回った身体を、課長に宥めて貰ったことを思い出してしまった。されただけではない、課長にしたことも。
「思い出しました?」
「思い出しません!!」
「……いじっぱり。素直に触りたいとおねだりしてくれれば、触らせてあげるのに。どこだって。……ねぇ、本当に記憶ないんですか?」
ああ、もう本当に課長のペースだ。
「~~っ、こんなところでやめて下さいよっ!!」
あたしは真っ赤な顔で、課長の腕をぽかぽかと手を叩いて抗議をすると、課長は弾んだ声を出して笑っている。
「私のことで、頭がいっぱいになりました?」
「おかげさまで!! もう十分ですから!!」
ぷりぷりしながらも、寝ても覚めても課長に緊張を解いて貰っていることは自覚しているために、強く言えないまま動き出した人の波に乗って、新幹線を降り立った。
N県――。
悲しくなるほど、降り立った故郷になんの感慨もない。これなら初めてこの地を訪れた旅行客の方が、ビルや店で覆われた東京のような駅構内に目を輝かすだろう。
なにも思わないのは、あたしが東京に住んでいるからなのか。それとも愛情をなくした土地は、あたしにとってどうでもいい土地になりはてているのか。
改札を出て構内の地図を見た。
事前に調べた通り、あたしが課長と行くのは北口方面で間違いないようだ。温泉街にはバスも出ているらしいが、本数がないためにやはりタクシーで行くことになった。
駅があまりに大きく開発されているため、あたしの実家がどの位置にあるのかよくわからない。駅からは離れているため、この地図では描かれていないようだ。
地図の横に路線バスの時刻表が貼ってある。ひと通りどこ行きか見てみたが、ぴんとくるものがなく。学生時代、ここから電車に乗って隣町の精神科まで通っていたというのに、どうやってここまで来ていたのかよく思い出せないのだ。
路線バスだとは思うが、思い出せない。
「ねぇ、課長。九年東京に住んでいれば、どのバスを使って実家に帰るのか、わからなくなるものでしょうか」
様変わりしすぎているせいか、それともあたしの記憶が薄いせいか、生まれ育ったはずの実家までどう行くのかよくわからない。
「え? あなたはN県出身なんですか?」
「あれ、社長や結城から聞いてませんでした? あたしこのN県出身で、結城も社長もN県に馴染み深いみたいなんですが、結城、卒業高校があたしの卒業した高校だと言うんですよ。あたし全然結城のこと知らないし、結城だって大学で出会ってからそんなこと言ったことなかったのに」
「同じ……同級生ということですか?」
「そうなりますけど、あたし全く記憶ないし。それを問い質せば言葉を濁すんですよ、あいつ。まずありえない話ですけれど」
「………」
「それはいいとして、こうやって地図で地名見ても、あたしの記憶にひっかかるところがないんですよ。確かに昔は田舎で、今は変わりすぎているから、地名とかも変更があっていいとは思うんですが、不思議だなあと。初めてここに来た気分です」
「今まで、実家に帰ったことはなかったんですか?」
「はい。高校卒業して東京の大学に進学したので、そこからずっと一人暮らしをして、実家に戻ってなかったんです」
「それはなぜ? ご両親は心配なされないので?」
「うち、放任主義なんで。それに嫌な思い出があるから、戻りたくなかったんです。故郷に居たくないから出たようなものなので」
「……帰り、実家に寄ってみますか?」
「いいえ、寄らなくて結構ですが……」
あたしは課長をじっと見た。
「課長に、お話があります」
切り出したことで、手が震える。
「どうしてもこのN県で、聞いて欲しい話があるので、帰りお時間……頂いてもいいですか? その後、切符を買いたいです」
声も震える。
「それは、私にとっていいことですか? 悪いこと?」
課長の目が細められ、顔が強ばっている。
「わかりません。あたしは課長の判断に従います。ですが……あたしにとっては、軽々しくひとには言えない話です。できれば言いたくない。だけど……、課長に聞いて貰いたい話なんです」
「……わかりました」
……賽は振られた。神のみぞ、未来を知る。
課長に受容して貰いたい――。
祈るようにして歩き出し、課長とタクシーに乗った。
***
新不知火温泉――。
ここ数年メディアで取り上げられることが多い、比較的新しい温泉で、肌がすべすべになると評判の泉質は、女性から圧倒的な支持をうけているらしい。
打ち合わせがなかったら、日帰り温泉にでも入りたいが、そんなことを言っていては社会人失格だ。
目的の「やじまホテル」は不知火温泉郷を横目に、山を登っていく。高台からの眺望が素晴らしいホテルらしい。
山の天気は移ろいやすい。今にも雨が降りそうな薄暗い天候の中、タクシーは目的地に到着した。
タクシーを迎える車寄せ部分は格式高そうな和の趣がある。ネットで調べた情報では、この奥に和と洋の部屋がある棟に別れるらしい。
「いらっしゃいませ」
旅客としては荷物がなく、身軽だけれどきっちりスーツ姿の二人連れは、着物に「やじまホテル」と背中に書かれた羽織を着た、にこやかな女性が迎えてくれた。
「お泊まりですか? それとも日帰り温泉をご利用ですか?」
若草色の着物に紺色の羽織という、やや地味な服装にしては、にこにこと笑う女従業員は、目鼻立ちが整った顔をして品がにじみ出ている。右の口元にホクロがあり、なんとも艶めかしい。
年は若くはないが、五十代には至っていない気がする。
「本日午後1時で、矢島司社長と面会のお約束をしております、シークレットムーンの鹿沼と、上司の香月です。うちの月代からご連絡してあると思うんですが」
ぺこりと頭を下げると、その女性は驚いた顔をして周りを見た。つられてあたしも見るが、誰もいない。
「すみません。ちょっとお待ち頂いてよろしいですか? 社長に内線を入れますので」
頷くとその従業員は、草履をパタパタと音をたてて、フロントと思われるところに走っていった。
「ここのホテルは閑散としすぎてますけど、従業員がいないんでしょうかね。プレオープン?」
課長が神妙な顔をして言う。
「開業は数年前のはずです。ネットでは高級ホテルとして紹介されてましたし。まあ全国のやじまホテル自体、高級らしいですが。あ、浴衣姿のお客様は見えますね、奥に」
通路は左右に広がっている。その右の奥で利用客らしき男性が横切るのが見えた。
「それにしては、従業人が足りない。しかも内線を使うのに、どうしてフロントまで行かないと駄目なんですかね」
課長はそこがひっかかるようだが、ホテル事情に口出しするようなものでもないと思うけれど。
しばらくして従業員が帰ってくる。
「お待たせしました、社長室へご案内致します。浴室の奥なので、ちょっと歩くことになりますが……」
「構いません。よろしくお願いします」
従業員を先頭に、左の通路を通って、ワイン色の絨毯を踏みつけて課長と歩いていく。天井には、宿泊棟と思われるすみれとかゆりとか花の名前と、大浴場と案内板が光っている。
「右側は日帰りのお客様の休憩室などが広がっています。ただ大浴場はどちらも共通となりますけれど」
左側一面に広がる大きな硝子窓からは壮大な日本庭園が見え、趣がある風景が広がる。
「素晴らしいホテルですね。ため息がでちゃいます」
あたしが声を漏らすと、従業員は振り向いてにこりと笑った。
「ありがとうございます。お客様は、当ホテルのご利用はありますか? やじまチェーンは全国に広がっておりますが」
「それがないんです。高級ホテルということに宿泊したことがなくて。庶民には憧れなんで、なにかの記念日にでも利用させて頂こうと思います」
「はい、その時は是非。お客様はどちらから?」
「東京です」
「東京……というと、一番近いのは、神奈川県の逗子近くの葉山にも、一件温泉宿がございます」
「え、そんなところに温泉があるんですか!」
「ふふ、ございます。閑静なところに建ち、そこには別邸として一棟貸し切ることも出来ます。隠れ宿として、著名な方々がお忍びでご利用される客が多いと聞いています。勿論別邸はお値段が張りますが」
「はああ……。いいなあ、そういうところ行ってみたいです」
「お肌つるつるになりますよ、やじまの温泉は。源泉使用しているので。もちろんここの温泉も、女性に大人気です」
「今度、仕事がない時にプライベートで来ます。ご親切に色々教えて下さり、ありがとうございます」
課長を見上げると、課長はなにか考え込んでいるようだ。
社長室に行くまでに利用客と、他の女性従業員達にすれ違った。着物を着ながら清掃していたり、布団を台車で運んでいたりと大変そうだ。
従業員はちゃんと居るらしい。必死な形相で、声をかけるのもはばかれるような状態だ。
「こちらの従業員は、案内係よりも宿泊客の接待が多いんですか?」
不意に課長は聞いた。
「元々は皆案内も兼ねているんですけどね、一度中に入ってしまえば、やることが多いようで中々玄関に戻ってくれなくて」
「広いですしね」
あたしが言うと、従業員は苦笑した。
「そうなんです。お客様にゆったりして欲しいのですが、どんなエキスパートな従業員を雇用しても、やはり移動に関しては時間は縮まりませんから。走ればお客様が気分を害してしまうでしょう」
「案内役がいなくなったら、内線で?」
課長が尋ねる。
「基本は内線です。ですが広いホテル内、内線を置きすぎると景観を損ねるので、内線の場所にひとがいないようなら、アナウンスかけたりして、呼び出してますわ」
また課長は考え込んでいる。
それでもネットには、利用客の従業員への苦情はなにひとつなかった。やはり接客のプロ、そこらへんは悟られずにうまくやっているのだろう。
日帰りで大浴場を利用する客には、有料で個室を、無料で大広間を貸し出ししているらしい。宿泊客には、共通スペースとしてテレビやマッサージチェアやフリードリンクがあり、今日は平日だというのに客は結構入って賑わいを見せている。
「こちらへ……」
そこを通り越してややしばらく歩き、ようやく社長室らしきものが見えてきたようだ。
ノックをして、従業員は声をかける。
「お客様をご案内してきました」
ドアを開くと、そこは応接間になっており、黒い革張りのソファの奥の机から、従業員と同じ羽織を着た……厳めしい顔をしたでっぷりと太った男性が立ち上がり、こちらに向かってくる。
ブルドックみたいで怖っ!!
課長がいかにイケメンかが身に染みてわかる。
……などと顔に出さぬようにして、営業モード発動!!
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