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Blue Moon 8
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「さあ、社長の生還に皆で乾杯しよう。ノンアルコール、あたし下のコンビニ行って買ってくるね!」
結城を残して朱羽と客間を出た後、あたしは朱羽の顔が見れなくて、無理に明るく装って、皆に聞こえるように大きな声で言った。
「あ、主任! 俺が買ってくるっす!」
「木島くん、いいからいいから」
「陽菜、私も一緒に行く!」
「衣里も、いいからいいから」
「鹿沼さん……」
「課長もいいですから」
朱羽の声も笑顔で遮った。
「皆でどうか社長のところについてあげていて。木島くん、専務と沙紀さんにお茶淹れて持って行ってくれる? コンビニはあたしひとりで行きたいの! じゃよろしく!」
ドアを開け廊下を走り、エレベーターの下向きのボタンを押す。
何度も何度も、カチカチと指で押す。
「早く早く早く……」
あたしの目からぼたぼたと垂れる涙を気づかれないうちに。
早く、ここの場所から遠ざかるために――。
コンビニは零時で閉まる。
今は夜の十一時をちょっと過ぎたあたりだ。
コンビニの横には会計の窓口があり、待合として五列の椅子が並んでいる。
今はコンビニの光だけが仄かに照らし出す、薄暗く閑散とした椅子の真ん中に座り、前の座席に手を回し、額をつけるように前屈みになりながら、嗚咽を漏らした。
涙が床に染みを作る。
過去の開示を求めたのはあたしだ。
だけど出てきたのは、あたしの許容を超えていた。
「……くっ、ひっく……」
結城の目の前で、実の親に犯された汚らわしい娘。
身体がざわざわしてくるんだ。
考えるだけで、気持ち悪くてたまらない。
あたしを襲った時の、興奮に見開かれた父の瞳が、まるでぎらついた黒い満月のようで。
妖しく強くあたしを縛って、押さえつけた。
幸か不幸か、そこから先はすべてを思い出したわけではない。
ただ痛かったことだけは記憶しているから、父はあたしの濡れてもいない膣に猛ったものをねじ込ませたのだろうと思う。
その想像がおぞましくてたまらない。
千紗は、いつもあんなことをされていたのだろうか。
あんな気持ち悪いことを、あんな汚らわしいことを。
親子でありながら――。
「うう……どうしよう、どうしよう……」
綺麗な身体ではなかった。
あたしは禁忌の関係を持ったのだ。
その身体を結城に拓き、朱羽にも……。
恥ずかしい。
朱羽に触れられたいと思っていた身体が、禁忌に穢れていることが。
ブルームーンに抱かれたいと思った。
だけど、こんな女……朱羽は抱きたいとも思わないはずだ。
どうしてあたしは、次から次へと重いことばかりで。
どうして朱羽に近づくことが出来ずに、遠ざかってしまうの。
あたしはきっと、朱羽と抱き合うことがない。
朱羽はこんなあたしを、嫌いになる――。
その時、ガコンとなにかの音がして驚いて顔を上げる。
後ろの自販機から、温かいミルクティーの缶を取り出していたのは……。
「はい、これを飲んで。口が渇いているだろう」
朱羽だった。
朱羽があたしに近づいてきたから、あたしは反射的に逃げようとした。
朱羽を背に椅子の反対側へと。
「陽菜!」
闇夜に響く朱羽の怒声にあたしはびっくりしすぎて、びくんと震え上がった瞬間、下腕を捕まれる。
「き、聞いてたんでしょう!? あたし……もうシャレにならないくらい、あたし……」
腕を放して逃げようとしたあたしは、朱羽に抱きしめられた。
すっぽりとその胸の中に包まれる。
その匂いが、今のあたしには辛すぎて。
「何度言ってもあなたは信じてくれないんだね。俺は……傍に居るよ」
「だけどあたしは……」
「座って話そう。あなたが思い詰めそうな気がしたから、来てよかった。まずは座って、温かいミルクティーを飲んで。いいね?」
半ば諭されるような形で座ったあたしは、プルタブを開けた缶を渡された。コンビニの明かりが朱羽の眼鏡に反射して、レンズが光っていた。
コクリとミルクティーを飲むと、冷え切って乾ききっていた五臓六腑に、じんわりと温かさが広がって気がして、思わずため息のような長い息が出た。
「言いたいことを俺に吐きだしてごらん。俺は魔法使いじゃないから、あなたの過去を変えることは出来ないけど……」
隣に座った朱羽は長い足を組みながら、あたしの頭を手で撫でる。
「あなたの未来がねじ曲がらないようには出来る」
「………」
「言って。呑み込まないで」
「……この結果を、朱羽は予想してたの? あたしの……身体が穢されていたということに」
「穢れてないよ」
「でも!」
朱羽はあたしの手を握り、指を絡めて力強く握った。
「穢れてないと結城さんも思ったから、満月の夜にあなたを抱いていたんだろう?」
「……それは贖罪でっ」
「確かにそれもあるかもしれない。だけど結城さん、言ってただろう。千紗ちゃんは抱けなかったって。……ごめん、心配で最初から聞いちゃってたけど」
「言ってた、けどっ」
「結城さんを、俺を信じて。ね?」
「………」
「俺はあなたが家族についてまったく記憶がないこと、結城さんについても記憶がなかったこと、過去のあなたが大勢の男子生徒を家に上げていたことも、過去の結城さんがあなたにとって怖い存在だったことも忘れていたことから、結城さんはあなたに復讐のようなことをするために、千紗ちゃんと付き合っていたんじゃないかと想定していたよ」
「え……」
「あなたと妹の彼氏の共通の友達だから、だからあなたは気を許して家に招いていたと。それで事故の日、倉橋くんと千紗ちゃんが既に家に居たということもあなたは記憶がなかったことが、一番のネックだと思った。そこが満月のあなたが淫らになることに繋がることが繰り広げられていたのではないかと」
「………」
「あなたが自己防衛で忘れてしまっていたのもあるだろうけれど、そこは精神科医の関わりがあるんだろう。催眠療法だというのなら、あなたにとって都合が悪いものはすべて忘れさせている。つまり逆を言えば、忘れていることこそがあなたにとってのショックの要因でもあるんだ」
「……っ」
「あなたの知らない間に、彼氏と妹が先に家に居た。もうそれだけで、俺は……このふたりが普通の関係ではないだろうと踏んだ。いつからなんて関係ない。ふたりがあなたを裏切っていたことが肝心だ。すると結城さんはどんな役割をするのか。八年もあなたを守るのを当然と思うまでのなにかがあったのだとしたら、引き起こしたのは結城さんじゃないかと思った」
「………」
「俺はね、陽菜。大勢の男達と、肉体関係のある妹と恋人、そしてあなたになにかしたい結城さんがいたのだから、あなたが……輪姦(まわ)されたと思っていた。その仲間と結城さんに。めちゃくちゃに壊されたと」
朱羽の横顔は、青白く。
「それでも、俺はあなたの傍にいようと思っていたよ」
「朱羽……っ」
「妹の存在はあっても、あなたは両親のことはいつもなにも言っていなかった。だからご両親になにかあるとは思っていたけれど、その場面にあなたの父親が出てくるとは思わなかった。だけど納得もした。だからあなたが記憶を消されても、淫らな満月が執拗について回っていたのだと。目の前での事故死くらいの衝撃だったのだと。
父親か輪姦か、どちらだと心の傷がマシだったのかなんて、馬鹿げた論争はするつもりはないけれど、あなたのご両親の自殺は……脅しだけが原因じゃないと思ってる」
「え?」
「あなたのお母さんが、夫が千紗ちゃんに手を出していたのを本当に知らなかったのだろうか。事故に遭った時の夫の様子、あなたの様子から、なにも感じなかったものなのだろうか。……そう思うんだ」
「どういうこと?」
「これは勝手な俺の想像だけど、あなたのお母さんが仕掛けた無理心中だったんではないかと思ってる。多分引き籠もってしまっていたあなたは、そうした言い争いなどを聞いていると思うよ」
「………」
「あなたのお母さんは、道連れにはお父さんだけにした。それはお母さんなりの愛情表現と懺悔だったと、俺は思う」
忙しいばかり口癖の母。
母は……最期になにを思ったろう。
「喧嘩ばかりしていた夫婦仲。千紗ちゃんの登場でお父さんは和んだ。あなたのお父さんは昔から幼女趣味があったんだろう。そうなれば老いるだけの妻は蔑視の対象になる。
あなたにそれまで手を出さなかったのは、そこにお父さんなりの理性があったんだろうが、鬱屈したものはたまっていたはず。だから貰い子の千紗ちゃんは、お父さんのストレスの捌け口になってしまったんだろう」
「まったく、あたしも気づかなかったの……」
千紗はあたしに助けを求めていたのかもしれない。
「結城が知る裏の顔を持っていたことも。あたし……お姉ちゃんだったのに」
泣きじゃくるあたしの背中を朱羽は優しく撫でた。
「優しいお姉ちゃんだから助けて欲しい。だけどお姉さんの親が相手なんだから知らないで欲しい。彼女はきっと煩悶の中、お父さんに壊されて行ったんだろうね。彼女は……被害者だ。子供だから貰い子だから、だから彼女はSOSを出せなかった」
「あたし……、恨まれてたの。それを知らないで……」
「だけどこうも考えられる。千紗ちゃんは、お父さんがあなたに向かうはずの性欲を、その身体でとどめていてくれたと。あなたを守っていたんじゃないかな。あなたが父親との関係を気づいてしまったら、あなたはお父さんを詰るだろう。そうなったら逆上して、あなたにも魔の手が伸びるかもしれない。そしてあなたが愛する家族が壊れる」
あたしを罵倒した千紗が?
あたしは、車に撥ねられる瞬間の慈愛深いような微笑みが忘れられない。千紗なりに……家族を、あたしを愛してくれていたのだろうか。
「あなたの彼氏の倉橋くんだけれど、彼も悪かった。もしもふたりの情事を覗いていた彼が欲に負けず、千紗ちゃんをお父さんから連れ出してくれたのなら、また話は変わっていただろう」
「あたし……多分彼に愛情なかった」
「だろうね。そんなのはあなたの恋人にはふさわしくない。その場に俺がいたら、二番目に殴り飛ばしてやりたい」
「ふふ、一番目は?」
「あなたのお父さん。そして三番目は結城さんだ。彼が詰ったあなたの永遠の話、彼は境遇になぞらえていたけれど、それは単純に彼の僻みだ。言ってただろう彼も。永遠がないと自分が信じていただけだと」
「うん」
「俺はね、彼の気持ちがよくわかるんだ。俺も似た境遇に居たからね」
「え?」
「だからなにかにあたりたい気持ちはよくわかる。それが痛いところを突いたあなただった。はっきり言えば八つ当たりだ。でも必ず救いはある。結城さんを救ったのは、俺にとっての渉さんの立ち位置である社長だ。そしてあなたを救っていたのは、結城さんだろう? ああ、社長もきっと土地の売買からなにから後処理をやってくれていただろうね。御堂医師の手配も」
「………」
「結城さんは結城さんなりに後悔して、あなたのためにと全力を注いで守ってくれたと思う。そりゃあ昔のことは消えないけれど、それでも……千紗ちゃんを守ろうとするあなたの姿が、結城さんの暗澹だった心を引き上げたんだ。無関係な人間同士でも、意味があって繋がって今がある。そう思わない?」
「朱羽……」
「だったら俺の意味は、結城さんに傷つけられた過去を知った現実から、逃げだそうとする陽菜を引き上げること。それは結城さんじゃできない。俺の役目だって、俺はそう思っているけど?」
「………」
「お父さんとのことは完全に思い出してるの?」
「完全ではない、けど……」
「だったら御堂医師の力がまだ効いているのかもね。だったらね、陽菜。ブルームーンでその嫌な記憶を上書きしよう?」
「ブルームーン、あるの?」
あたしの目から涙が零れた。
「なしにするつもりだったのか!?」
逆に怒られてしまう。
「いや、もう駄目だなと……」
「あなたが穢れているというのなら、全部愛して上げる」
朱羽があたしを抱きしめて、耳に囁く。
「過去があって今のあなたがいる。恥じないでいい。嫌悪しないでいい。胸を張って今までのように行こう。あなたが過去を思い出して泣きたくなる夜は、俺を隣に置いて。あなたが泣き止むまで、ずっと抱きしめててあげるから」
「朱……羽、朱羽――っ!!」
暗い空間にあたしの泣き声が響く。
子供のように泣いた。
朱羽のワイシャツをびしょ濡れにするほど、めちゃくちゃに泣いた。
「うわあああああ、わあああああんっ」
永遠があるのなら、このひとだ。
あたしの永遠だ――。
・
・
・
・
「朱羽……あのね」
泣き止んだ頃、あたしは朱羽に言った。
「もしかして、事故の時……ふたりを突き飛ばしたかもしれない」
沈黙が流れる。
「なんでそう思うの?」
「あの時、憎悪が……過ぎったの」
すると朱羽は微笑んで、あたしの頭を撫でて言った。
「それはひとを幻惑する満月せいだ。その時にあなたは満月に魅入られてしまったんだ。それは……幻だよ」
確かにあの時の満月に、あたしは魅入られていた。
後々、あたしに影響を及ぼすほどに。
「……そう…だね。あとね……なんで結城の仲間が精神をおかしくしたのかがわからない。結城の証言が勝ったのは、五人が精神患ったからもあると思うの」
「……それも満月のせい。満月は精神に作用する。あなたに不埒なことをした輩なんだから、満月が……妖しい力で成敗したんだ。いいんじゃない、不思議なことがあっても」
「そっか……」
朱羽の温もりに、あたしは静かに目を閉じた。
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