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1.ゼラニウムは、予期せぬ出会いを誘い寄せる
それは低重要度な、ただの別れ話
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名だたる病院施設や有名私大が建ち並ぶ、東京の閑静な風致地区の一角に、七階建ての近代的なビルがある。
事務機器メーカー『MINOWA』本社であり、各階はMINOWAの部課にわかれている。
MINOWAは、元々はコピー機やプリンタなど印刷機器の老舗メーカーであった。多くの合併統合を繰り返した結果、今ではOA機器は勿論、事務機器全般を取り扱う、オフィスを総合的にプロデュース出来る企業に育った。
MINOWAビル六階、営業部――。
大小様々なミーティングルームや休憩室を備えたこのフロアは、開放的なレイアウト設計であり、まるでドラマにでも出てきそうな、清潔感溢れたオフィス家具が取り揃えられている。
使われている事務用品は、勿論すべてMINOWA製。自社製品を身体で感じてこそ客に勧められるという、現社長のこだわりによって、すべての階に他のメーカーのものを置くことは許されていない。
営業部には三つの課と、営業を補佐するコンサルティング課の総勢二十名がいる。
蒸し暑さが薄まった九月中旬。
営業フロアのミーティングルームからは、大声がしていた。
「だから、どうして定年間近なおじいちゃんが多い会社に、自動丁合機を入れてお金をかけさせるのよ。この前、最新型の複合機を入れたばかりでしょうが!」
そう叫んでいるのは、入社八年目になるコンサルティング課係長、蓮見香乃だ。
小柄で楚々として整った顔立ち。肩下のアッシュブラウンに染めた髪は、くせ毛風のエアリーパーマをかけている。耳には、小さなガーネットのピアスが光っていた。
小動物風なのに、出てくる言葉は威勢がいい。
「お前、人生の先輩をジジイ扱いするな。あのひと達は、本社からの命令で毎月凄まじい種類と枚数のDM発送をやらされているんだ。自動丁合機にするとどれだけ助かると思っているんだよ」
香乃の叱咤を受けているスーツ姿の男は、香乃と同じ年齢であり、同期の牧瀬慎だ。営業の花形一課に属し、三十才にして課長に昇進している。
親しみやすさがある、黒目がちのやや垂れ気味な目。
笑うと少しあどけなくなる、整った顔立ち。
黒髪を流しており、高校大学とテニスをやっていた精悍な体躯は逞しさが見てとれる。
「でもコストがかかるのよ。コスト、課長サンにはわかる?」
「馬鹿にするなって。機械に任せてあいた時間に、別の仕事が出来るだろう?」
「パソコン出来ない世代が、なんの仕事が出来るって!」
コスト低減を第一主義にしている保守派の香乃と、多少のコストがかかるリスクを負っても、それを投資として総合的な回収を考える革新派の牧瀬。
「だからお前らコンサルティング課が、パソコンを教えに行くんだよ」
途端に香乃は眉間の皺を、さらに深めた。
「わたし達コンサルはあんた達営業十五人全員の相手を五人でしているの! 熟年OA講座を出来るほど暇じゃないの、見ていてわからないの!?」
香乃が所属するコンサルティング課は、顧客に最も適した機器やレイアウトなどを提案・見積もりをする課であり、営業はコンサルティング課の承認が下りなければ、独断で話を進めてはならないことになっている。
そしてMINOWA一の営業マンがいつも相談するのは香乃であり、そして例に漏れず今回もまた、彼女にボロクソに言われているのである。
「大体ね、教えられたからと使いこなせる保証もない。機械にストレスを溜めるよりも、もっと彼らの経験を生かしたものを提案出来ないの?」
「男っていうのは幾つになっても、もうひと花、咲かせたいものなんだよ。『自分達の世代は』とか『今の世代は』とか時代のせいにして線を引くより、最前線の同じ舞台に立って実力の違いを見せつけて欲しいんだよ」
牧瀬もわかっているのだ。
いつだって香乃は顧客の率直な意見を代弁する。会社の利益より顧客に寄り添う姿勢を崩さないからこそ、香乃を納得させられるだけのものを用意しなければ、顧客からも仕事をとることは出来ないと。
そして香乃もそれがわかるからこそ、牧瀬には本音でぶつかっている。
「そんな理想論だけで、ぼったくりのような金額を認めるわけにはいかないわ。これは営業監査を引き受けているコンサル係長としての意見よ。要再考!」
腕を組んだ香乃の眉間には、くっきりと皺が刻まれている。
牧瀬は苦笑しながら、人差し指で皺を伸ばしてやる。
「大体牧瀬は……」
そんな香乃の小言は、スカートのポケットに入れていた彼女のスマホが震えたために一時休止した。そして画面を見た彼女は片手で〝待て〟と牧瀬を制止ながら、さらさらと返事を入力する。
「……お前、仕事の話の最中に、スマホをいじるなよ。俺の仕事話よりも大切な案件か?」
呆れ返ったように牧瀬が言うが、首を横に振った香乃がスマホを置いた。
「ただの別れ話。こういうことは早いほうがいいと思って即レスしておいた」
「はああああ!?」
牧瀬が驚愕した声を響かせた。パーティションの傍を歩いていた他の社員がぎょっとしたような顔を見せたことに気づき、牧瀬は小声で香乃に尋ねる。
「お前、付き合って何ヶ月だよ」
「ん……三ヶ月かな。持った方だと思うけど」
「持ってないよ! 今度はなんだよ、向こうはなにをしでかしたんだ?」
「JKを妊娠させたんだって。妊娠二ヶ月!」
あっけらかんという香乃に、牧瀬が片手で顔を覆う。
「取り乱さないわけ?」
「……うん。そこまで好きじゃなかったということね。毎回毎回そんなパターンで、いい加減嫌になっちゃうわ。もう一生、独り身でいいわ、わたし」
(それでも……ひととして、別れは寂しいとは思うけれど)
善良そうな男性に好意を向けられて、いつも思うのだ。
彼はきっと裏切らない、彼はきっとわたしだけを愛してくれる、と。
しかし受け身の付き合いは、彼女の恋を燃え立たせなかった。
胸が苦しくなるような衝動が、なにひとつ沸き起こらないのだ。
……ちりぢりになった、あの勿忘草の記憶からずっと。
「お前、ドライ過ぎだって。俺よりも」
「泣いて縋って崩れ落ちるような、やわな性格していないのわたし。特定の彼女を作らずに気楽に遊んでいる牧瀬よりは、ずっとマシだと思うけど」
「作る暇なんかねぇよ、コンサルのような暇人じゃないもので」
「へぇ? でも遊んでいる暇はあるんだ?」
仕事の疲れを見せないように、無理して笑ってデートをして。
キスをして痛いだけのセックスをして、感じているふりをして、愛しているふりをして。
そして、相手が居るということで、結婚を心配する親を安心させて。
いつからそれが苦痛だと思うようになっただろう――。
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