勿忘草は、ノスタルジアな潤愛に乱れ咲く

奏多

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3.ブーゲンビリアは、あなたしか見えないと咽び泣く

勿忘草を信じる代償は

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 ◇◇◇


 長かった大騒動は、団体客が入って来て中断となった。
 志帆は生け花を途中放棄し、黒服達に癇癪を撒き散らしながら出て行くが、それを引き留めようとするホテルのスタッフ達はいなかった。
 
 真宮と河原崎の指示の元、一葉までもがホテルの仕事を始め、閑散としていたホテルはそれなりに慌ただしいものとなった。
 真宮の言葉が効いたのか、いつになく従業員はきびきびと動いている気がする。

(まるで盗み聞きをしていたと言わんばかりの働きぶり。いいのかしら)

 河原崎が言っていた通り、真宮が従業員の力を、百%ではなく二百%引き出したいというのであれば、従業員達は今の倍以上は働かないといけないことになる。怖いから働くのではなく、自らの意志で動き出さなければ、きっと厳しい真宮は許さないだろう。

「大丈夫か?」

 生け花を手伝ってくれる牧瀬の心配げな声に、香乃は笑顔で頷いて見せる。

 香乃と牧瀬は、真宮と河原崎より、一区切りつくまでラウンジで珈琲でも飲んで待つようにと言われた。
 だが、そんなゆとりもなかった香乃は、仕事の邪魔にならないように気をつけながら、花瓶に残りの花を生けていくことにしたのだ。

 完成させると、ちょうど一葉がこちらの様子を見に来たようだ。香乃は一葉に声をかけて、空いている花瓶か容器を持ってきて貰い、水を張ったその中に赤銅色に輝く十円玉を入れた。

「蓮見、なんで十円?」

 香乃の財布には黒ずんだ硬貨しかなかったため、十円を提供した牧瀬が首を傾げる。

「銅の働きで、殺菌効果も出るんだって」

 その中に、ゴミ袋に入れられた可哀想な花々の少し腐った根元を切ったり、茎に切り込みを入れたりして、十円玉入りの花器で水揚げをする。
 それを新聞紙に包んだままのバラの花の花瓶と共に、一葉に頼んでフロントの奥で保管して貰うことにした。

「明日、お花が元気になっているといいですね」

 一葉が輝くような笑みを見せ、花瓶を撫でる。

「私も、捨ててしまうのは可哀想だって思いました。だから、私からも花を助けていただいてありがとうございます」
「そんな、大したことは……」
「いえ。本当は、私達スタッフが注意しなければいけないことを、蓮見さんがして下さいました。嫌な思いをさせてしまい、本当に申し訳ありませんでした」

 一葉も真宮と同じく、責任を被るようにして頭を下げる。

(やはり彼女は、彼と考え方が似ている……)

「しかし、総支配人には驚きました。蓮見さんとお知り合いだったんですか?」
「え、ええ……まあ」
「初めてです、彼があんなに敵意を剥き出しにし、誰かを糾弾するのは。思っていた以上に怖かったです。多分あれでも、抑えられていたとは思うんですが」

 そして一葉の黒い瞳が、ゆっくりと香乃に向く。

「私、総支配人は河原崎支配人と志帆様だけに、私達に向けない素の顔を見せていると思っていましたが、どうやら訂正しなければならないようです」
「え……?」
「総支配人は、支配人とあなたにだけ、素の顔を見せてらっしゃるんですね」

 一葉は、まるで聖母のように慈愛深く微笑む。

「先ほどエレベーターホールで、慌てられていた総支配人にも驚きましたが、蓮見さんだけなんですよね、総支配人の一人称が『俺』になるのは。志帆様にですら、『私』なのに」

 考えてみれば、彼は香乃とふたりになり、個人的な話をすると『俺』と言っていた気がする。
 総支配人の立場を強く出す時は、『私』だが。

「そんなたまたまで……」
「総支配人は必然で動かれる方です。その彼が、蓮見さんにだけそうされたということは……」

 突如、香乃の腕が引かれた。
 ふわりと、白檀サンダルウッドの香りがする。

「ええと、設楽さん?」
「はい、設楽です」

 牧瀬は一葉のバッチを見ながら訊ねると、一葉は姿勢を正して答える。

「ちょっと、蓮見を借りてもいいですかね? 今、俺も蓮見も勤務中なんで」

(牧瀬、苛ついてる?)

 牧瀬らしくもなく、敵意も見せていない一葉に向ける言葉は、なにか棘を感じる。

「あ、はい。すみませんでした。ええと……」
「牧瀬と言います。蓮見の上司です」
「上司様! す、すみませんでした」

――上司兼……恋人です。

 一葉は、牧瀬が志帆に告げたことは、よく聞いていなかったようだ。

 そして牧瀬は、香乃の腕を掴んだままフロントを横切り、手洗いの裏手にある細い通路に連れた。
 突き当たりが非常階段となっている、事実上袋小路の場所だ。
 牧瀬は香乃を壁に押しつけると、香乃の両肩の横に手をつく。

「……蓮見」
「な、なに?」

 香乃の声が裏返ったのは、牧瀬の目がぎらつき、怒りが見えたからだった。

「……なあ、俺からのメッセージ見てない?」
「み、見てませんでした」

 なぜか改まった言葉遣いになってしまう。

「……だろうな、一切既読にならねぇから。俺さ、お前が仕事大変なのはわかっているつもりだ。だけど昨日みたいに真っ青な顔で倒れたの思えば、無理してるんだろうって心配になる。まだ本調子じゃねぇのに、会社来ると言い張って。実際返事出来ねぇほどへばっているなら、せめて車くらい出してやろうと、午前中の仕事を終わらせた後、そのまま社用車でお前の実家に寄ったんだ」
「そ、それは……お手数を……」
「そしたらさ、お前はホテルに行くとわめいて出て行ったという。……なんで?」

 牧瀬の目が威嚇するように細くなる。

「そ、それは……、昨日あまりにみっともないところを見せたから、お詫びに……」
「お前のお詫びって、何時間もかかるほどなわけ? なに、ずっと頭下げてたわけか?」
「いや、その……働かせて欲しいって言ったから、色々と……」
「どうして俺に、ホテルに行くって言わねぇの?」
「わたしの問題だから!」

 そこは揺るぎなく、香乃はびしっと言い放った。
 牧瀬は項垂れて大きなため息をつくと、再び顔を上げて香乃を見据える。

「お前、真宮から逃げるんじゃなかったのか? 俺、守ってやるって言ったよな」
「そ、それは……。どんな私情があろうとも、そこは堪えて仕事を任された責務をこなそうと……」
「それで? 責任という名目で、真宮との距離を縮めたわけ? 少なくとも、真宮がお前に素の顔を見せるほどには」

 牧瀬が凄惨な翳りを宿した面持ちで笑う。
 香乃は思わず、顔を横に背けて、答えを拒んだ。

「……で、なに。このキスマーク」

 牧瀬は指で、香乃の首筋の一点をカリカリと引っ掻いた。
 香乃は痛みに肩を竦めて、顔を牧瀬に戻した。

「そ、それはあんたがつけたもの……」

――俺の印をつけて、相手にわからせるしかない。

(違うわ。これは彼が上書きしたもの……)

 しかしそんなこと、言えるわけがない。

「俺はお前の体中につけたんだ。どうしてその中のひとつだけが、また赤くなるんだよ」

 香乃は口を開いて……また閉じた。
 なにも言えなかった。

「上等じゃねぇか、あいつ。俺の挑発に引き下がる気はねぇって、宣戦布告をしてきたとは」

 ぎりと牧瀬の歯軋りの音が聞こえた。

「……なあ、蓮見。せめて少しでも俺に悪いとか、俺の顔を思い出したりした?」

 牧瀬の顔が悲痛さに歪んでいる。

 牧瀬の心情を思えば、嘘でもいいから頷くべきだろう。
 ……しかし、香乃にはそれが出来なかった。

 牧瀬のことを大切にしたいのに。
 それでも――真宮のことしか考えられなかったその心を、裏切りたくなくて。

 勿忘草を信じようと思ったその代償は――志帆だけではなく、牧瀬をも傷つけることになる。
 そのことを改めて思い知り、胸が抉られるように痛む。
  
(駄目だ、わたし。こんなんじゃ駄目だ!)
 
 牧瀬を解放しなければ。
 せめて牧瀬が、傷つかなくてもいいように。

――蓮見。

 恋心がなくても、大事な大事な友達なのだ。
 自分のせいで傷つけたくはない。

 こんな女に、彼が傷ついては駄目だ。 

「牧瀬、あのね……」
「俺は……いらねぇって?」

 怒りと悲しみをたたえたその眼差しに、

「お前と付き合えたって舞い上がったその次の日に、捨てられるのか、俺」

 香乃は言葉を失った。

「……蓮見。俺を切るのなら、俺はいらねぇって、欲しいのは真宮なんだって、俺に言えよ!」

 牧瀬から迸る激情が強すぎて、呼吸すら奪われて。
 
(痛いよ……。牧瀬の気持ちが、痛い)

「それが出来ないのなら……簡単に切るなよ。俺の気持ち、なめてんじゃねぇよ!」

 狂おしいまでの激流に呑み込まれそうになった刹那、香乃の唇に牧瀬の唇が重ねられていた。

 それは一瞬のことだった。
 牧瀬は香乃の嫌がることをしない……そんな安心感は、刹那に覆されて。

「離……っ」

 牧瀬は香乃の手首を交差させて、香乃の頭上に縫い止める。
 そして反対の手で、愛おしむように香乃の頬を撫で、同時に決して開かない香乃の唇に舌を這わせた。

 どうか、開いて受け入れてくれと懇願するように――。

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