泉田高校放課後事件禄

野村だんだら

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1 図書室の妖精と親切な亡霊 1

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 泉田町いずみだちょうは濃斐平野の隅っこに位置する、人口二万五千にも満たない田舎町である。町の西には山と断層、東には延長約百二十キロにもなる一級河川の江斐川えびがわが、普段から悠然と清らかな流れを湛えている。
 県立泉田高校の校舎は、西門近くの校舎脇に小川がある他には、周りを水田に囲まれている。平野らしく平坦で開けた土地柄もあって、霧や雨でもなければ、はるか遠方からでも学び舎の白い壁と赤褐色の屋根が見てとれた。
 早朝、頭上高くには薄い靄のような雲が、空一面にあって、風に細く長くたなびいたそれらは所々で千切れて、次第にぼんやりと大気へと溶けていくのが見える。夜のうちに霧雨でも降ったらしく、水田の青々とした稲には雫が、薄い雲を突き抜けて降り注ぐ陽の光を受けて、珠のように煌いていた。
 それら稲を柔和に揺らして湿り気を多分に含んだ風は、田園の広がる田舎道を学び舎に向けて、真っ直ぐに自転車を走らせている生徒等の鼻孔に、むせ返るほどに濃い草いきれを届けている。梅雨が明けても、こう水田に囲まれていては、湿気と無縁と言うわけにもいかない。夏らしい草の香りが、感じる暑さに拍車をかけていた。
 自転車を駐輪場に留めた稲富聡介いなとみそうすけは、額に浮いた汗をぬぐう。ここ数日で、また一段と暑さを増してきている気がする。
「あれ、稲富君。こんなところで会うなんて珍しいね」
 声に振り向けば、小さく細い体躯に芯が一本通ったような綺麗な姿勢の、一人の女生徒。胸の高さで切り揃えた真っ黒な髪は、先の方だけゆるりとウェーブがかかっていて、それが彼女の清楚な印象に少しだけ華を添えている。幼さを残しつつもすっきりと整った顔立ちで、瞳はパッチリとして大きく、廂のように薄い影を作る長い睫毛も相まって可愛らしい。それでいて、あまり物怖じしない性格の彼女は、聡介も学校の図書室でよく見かける顔である。
 高篠夏純たかじょうかすみ。図書委員でもないのに、よく図書委員の仕事を手伝っているこの三年生は、一年生である聡介にとってはもちろん上級生なのだが、どうにも聡介を気に入っているらしく、顔を合わせれば彼女はこうして気さくに話しかけてくる。
「おはようございます」
 挨拶を返せば、高篠先輩はふわりと柔和な笑みを浮かべた。
「おはよう。今日は、少しだけ早い?」
「いえ、たぶん普段通りです」
「じゃあ、わたしが少し遅かったのかしら」
 首を捻った高篠先輩は、思案顔で何やら考え込んで、「ちょっと、今朝はごたごたしちゃったし……」
 などと呟いている。彼女がこうして独り言をする時は、だいたい話を聞いてほしい時である。
 聡介は肩をすくめた。
「遅いと、何かまずいんですか?」
 訊けば高篠先輩は、いかにも申し訳ないという顔で振り返った。
「や、ちょっと朝から用事があるんだけど、普段より遅れたとなると忙しくなりそうだから人手が欲しいな、と……。ダメ?」
 上目遣いでこちらを窺う。この先輩は、こうすれば男は断りにくくなると分かっていてわざとやっている。まあ、聡介は何度か断ったことがあるのだが。
「図書委員の手伝いですか?」
「さすが本の虫こと稲富君、話が早いわ」
 まだやるとも言っていないのに、高篠先輩は満足そうに微笑む。こうしてなし崩し的に「手伝う」という方向へと話を進めてしまうのが、彼女は得意というか上手いのだ。けれども、聡介は、この先輩が嫌いかと言うとそうでもなく、どちらかと言わずとも好意的に思っている。
 いい加減な所がまるでないわけでもないが、基本的に真面目で責任感が強く、やる必要の無いことでも自ら進んで積極的に行う、優等生然としたその姿勢を、聡介は尊敬すらしている。だから、まあ、特に用事でもない限りは、聡介も高篠先輩の頼みを断ることはしない。以前に断った時は、友人からの頼まれごとがあった時だ。今日は空いている。
 図書室へ向かう道すがら、高篠先輩は、聡介に事情を話して聞かせる。
「昨日、図書当番の子が風邪で休んじゃって、カウンター係はわたしが代わりにしたんだけど、返却された本をまだ棚に戻せていなくて。できるだけ早く戻したいから、それを手伝って欲しいのよ。稲富君、どこにどんな本があるか、詳しいから早いでしょ?」
「先輩、俺の読書傾向を知ってるんですか?」
「君はなんていうか、さ。あれよね、手あたり次第よね」
 小説、雑誌、図鑑、伝記はては郷土資料と普通の生徒がまず読まないような本まで読む。高篠先輩の表現は、まあ、間違っていない。間違ってはいないが、読書にまるで拘りが無いと思われているようで、少しだけ傷付く。さりとて、ではどんな拘りがあるのかと問うてみると、これが思い浮かばないのだから困る。
 聡介はため息をつく。
「そう言う先輩は?」
「わたしは……その、最近は恋愛小説とか」
 存外に頬を染めて言う。「似合わない、って思ったよね?」
 聡介自身が恋愛にはわりと疎い方ではあるが、正直、高篠先輩は恋愛事に興味がないと言うか距離を置いているように、聡介には映っていた。それだけに意外に思ったのだが、それが顔に出てしまっていただろうか。
 しかし、クラスメート等からは表情が分かりにくいだの顔が硬いだの散々に言われている聡介である。今から取り繕うことだって出来るはず。
「似合わないなんてことは、無いと思いますよ。先輩、男子生徒からも随分と人気ありますし、むしろ恋愛事に興味がある方が自然というべきかと」
「そう思ってくれるのは嬉しいけど、わたし、稲富君には人気無さそう」
 苦笑して言う。「君って色々と仕事を頼みやすいから、つい使っちゃうし。わたし」
 慕われていない、と彼女に思われているのは、少しだけ残念だ。だから「尊敬してますよ」と伝えたのだが、しかし彼女は苦笑した。
「ほら、やっぱり。わたし、あなたの恋愛対象にはならないでしょ?」
 聡介は肩をすくめて、それからため息をついた。
「先輩は、俺に好かれたいんですか?」
「嫌われたくはないけど、わたしも、君と恋愛をしたいとは思わないかな」
「まあ、俺は地味ですしね」
 聡介が自己を卑下したふうに言うと、高篠先輩はかぶりを振った。
「いや、そうじゃなくてね。稲富君、心に決めた人がいるでしょ? 振られると分かっていてする恋は、たぶん辛いから嫌」
 言って、しかし肩をすくめる。「お話の悲恋はけっこう好きなのに、自分の事と思うと耐えられないのってなんだか不思議よね。読んでいる時は綺麗で悲しい恋にときめくのに、自分がそんな恋をしたいとは思えない。なぜかしら?」
 聡介はため息をつく。彼女の問いが煩わしいからではない。
「先輩って変なことを考えるんですね」
「そうかも。結泉ゆずみにも言われたわ」
 芹沢せりざわ結泉は、聡介の所属する写真部の、部長である。
「で、俺の『心に決めた人』の話は、結泉部長から聞いたんですか?」
 聡介には、待っている人がいる。会えないわけではないのだが、故あって春まで会わない約束を交わした、想いを寄せる女性がいる。それを知っているのは、ごく一部の友人と、上級生では結泉部長だけのはず。
「あ、しまった」
 高篠先輩は言って口を押えたが、やがて観念したふうに肩をすくめた。それから「ごめんね」と断って、
「結泉が、稲富君に告白して振られた、って言うから話を聞いてあげてたのよ。その時に、稲富君にはもう大事な人がいるから、って言うから、少し驚いちゃった。稲富君、あんまり恋愛に興味無さそうな感じだったから」
 言って、ふわりと微笑む。「興味が無いんじゃなくて、一人の子に一途なだけなのね」
「まあ、そういう事にでもしておいてください」
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