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第一章 見えない。
第二話 広い部屋②
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「──綺麗なものですね」
まずはやはり、そんな感想しか出なかった。
今日は光臣の住居の前で小燕と待ち合わせをし、光臣が運転する光臣のクルマで秋元・政岡両人の死亡現場となったマンションまで移動した。移動中に小燕から得た情報によると政岡は寝室のドアノブで首を吊り、秋元は寝室で料理包丁を用いて腹を掻っ捌いて死んだのだという。政岡の遺体は玄関を入ってすぐの廊下に転がっていたという話だったが、
「ええ……警察の方の現場検証が終わってからすぐ、部屋中すべて清掃したんです。その、事故物件になってしまったのはどうしようもないとはいえ、そのまま放置しておくにはあまりにも……あんまりな状態だったので」
「なるほど」
光臣には何も見えない。だから、政岡涼子の遺体が転がっていたと思しき木製の廊下を持参したスリッパの足で平気で踏み越えていく。「すごいです」と吉井一葉が感嘆の声を漏らしているが、いちいち反応もしない。
「浴室は? 浴室も清掃を?」
「はい。浴室はこちらです」
廊下の幅は、比較的広かった。光臣の傍らを吉井がするりとすり抜け、「こっちです」と寝室の少し先にある引き戸を開けながら言った。
「失礼」
「光臣」
「うるさい」
大股で浴室に向かう光臣のリネンジャケットの袖を小燕が掴むが、振り払って吉井の声の方へと向かった。
やはり──綺麗なものだった。
「小燕」
「なんだ」
「どの辺りで……アベックの男の方は」
「写真を見せたろう」
「記憶するほど見てない」
嘘だ。検死写真とともに押し付けられた現場写真の凄惨さは、嫌になるほど鮮明に網膜に焼き付いている。
だが、錆殻光臣にはこの世のものしか見えない。だから、実際に現場に立ったところで何も感じないし、故人の無念を感じることなどできるわけがない。
「そこの──ああ、浴室の床もすべて張り替えたんですね、吉井さん」
「はい。かなり血が染み込んでいて、どうしようもなかったので……」
せっかくなので、と言い添える吉井と小燕に背を向け、光臣は浴室のタイルの上にしゃがみ込む。廊下の幅が広く取ってあるのと同じように、バスルームも大きめに作ってある──ように思えた。だからどうしたという話ではあるのだが、魚の小骨が喉に引っかかるような、奇妙な違和感があった。
乾いた床に指を這わせる。真新しい床。死人の血が染み込んだタイルはすべて破棄されたはずだ。で、あるにも関わらず。
(なんだ……?)
小首を傾げた、その瞬間だった。
音が聞こえた。
トン、トン、トン。
壁をノックしているような、音だった。
「何……?」
「どうした、錆殻光臣」
「おまえ、聞こえないのか?」
「ああ?」
「どうしました? 何かあったんですか?」
眉を顰める小燕とは対照的に、吉井は大きな目を更に大きく見開いて光臣の背中を見下ろしている。
トン、トン、トン。
壁を叩く音。
浴室の壁を? 誰が? どういう目的で?
なぜ今なんだ?
「吉井さん」
「はっはい!」
「三階の部屋の間取り、全部見せてもらえますか」
「え……あ、はい! 持ってきました。一旦、リビングに移動しましょうか」
「そうですね」
曖昧に頷く光臣は、後頭部に小燕の視線を感じている。「何かに気付いたのか」「まさかこの男が」という相反する感情を纏めてぶつけてくるのはやめてほしい。
吉井一葉に先導され、光臣と小燕は303号室のリビングへと移動した。
リビングもやはり、奇妙に広かった。
「えー……っと。これが間取りですね。301、302、303」
「角部屋がふたつ。中部屋がひとつ……」
「錆殻光臣……」
「黙っててくれないか刑事さん。301と303はほぼ同じ間取りなんですね。部屋の配置が正反対なだけで」
「そうです」
吉井が首を縦に振る。
「どうしても、こう──マンションの敷地の関係で、そうせざるを得なかったみたいで」
「この部屋のバスルームの隣には、……302号室のキッチン」
「ええ、ああ、はい。それも。そうなんです。それもあって、困っちゃってて」
何もないリビングの真ん中に光臣・小燕・吉井は吉井の持ち込んだ座布団を敷いて座り、三つの部屋の間取りをじっくりと眺める。
「302号室の方が……302号室の方はお部屋を買われていて、引っ越しなんて考えたこともなかったそうなんですが、そのぅ……この部屋のバスルームで、ね? 伝わりますよね?」
「人間が腹掻っ捌いて死んだバスルームと壁一枚挟んで隣のキッチンで飯作ったりは、そりゃしたくないだろうな」
顎を撫でながら唸る光臣に「そうなんですよ!」と吉井が声を張り上げた。
「それで……はあ……困ってしまって」
「リビング」
吉井の嘆きを他所に、光臣は小さく呟いた。
「広いですね」
「え? ……え? な、何の話です……?」
「間取り。他の部屋に較べて、303号室はすべての部屋が広めに作られている」
「そ? ……そうですかぁ……?」
想像したこともなかった、とでも言いたげな調子で吉井が呟く。いったい何を言い出すのかと小燕がじっとりとした視線を寄越しているが、光臣は気にせずに続けた。
「廊下も、浴室も、リビングも。少しずつ広い。なんのために?」
「それは……な、なんででしょう……? このマンションを建てたのは、うちの会社ではないので……」
「ふむ」
ここに長居をするのは良くない──それが、今の光臣の素直な感想だった。
音が響き続けているのだ。
トン、トン、トン、という軽やかなノックの音が。浴室からリビングまで、追い掛けてきた。
まずはやはり、そんな感想しか出なかった。
今日は光臣の住居の前で小燕と待ち合わせをし、光臣が運転する光臣のクルマで秋元・政岡両人の死亡現場となったマンションまで移動した。移動中に小燕から得た情報によると政岡は寝室のドアノブで首を吊り、秋元は寝室で料理包丁を用いて腹を掻っ捌いて死んだのだという。政岡の遺体は玄関を入ってすぐの廊下に転がっていたという話だったが、
「ええ……警察の方の現場検証が終わってからすぐ、部屋中すべて清掃したんです。その、事故物件になってしまったのはどうしようもないとはいえ、そのまま放置しておくにはあまりにも……あんまりな状態だったので」
「なるほど」
光臣には何も見えない。だから、政岡涼子の遺体が転がっていたと思しき木製の廊下を持参したスリッパの足で平気で踏み越えていく。「すごいです」と吉井一葉が感嘆の声を漏らしているが、いちいち反応もしない。
「浴室は? 浴室も清掃を?」
「はい。浴室はこちらです」
廊下の幅は、比較的広かった。光臣の傍らを吉井がするりとすり抜け、「こっちです」と寝室の少し先にある引き戸を開けながら言った。
「失礼」
「光臣」
「うるさい」
大股で浴室に向かう光臣のリネンジャケットの袖を小燕が掴むが、振り払って吉井の声の方へと向かった。
やはり──綺麗なものだった。
「小燕」
「なんだ」
「どの辺りで……アベックの男の方は」
「写真を見せたろう」
「記憶するほど見てない」
嘘だ。検死写真とともに押し付けられた現場写真の凄惨さは、嫌になるほど鮮明に網膜に焼き付いている。
だが、錆殻光臣にはこの世のものしか見えない。だから、実際に現場に立ったところで何も感じないし、故人の無念を感じることなどできるわけがない。
「そこの──ああ、浴室の床もすべて張り替えたんですね、吉井さん」
「はい。かなり血が染み込んでいて、どうしようもなかったので……」
せっかくなので、と言い添える吉井と小燕に背を向け、光臣は浴室のタイルの上にしゃがみ込む。廊下の幅が広く取ってあるのと同じように、バスルームも大きめに作ってある──ように思えた。だからどうしたという話ではあるのだが、魚の小骨が喉に引っかかるような、奇妙な違和感があった。
乾いた床に指を這わせる。真新しい床。死人の血が染み込んだタイルはすべて破棄されたはずだ。で、あるにも関わらず。
(なんだ……?)
小首を傾げた、その瞬間だった。
音が聞こえた。
トン、トン、トン。
壁をノックしているような、音だった。
「何……?」
「どうした、錆殻光臣」
「おまえ、聞こえないのか?」
「ああ?」
「どうしました? 何かあったんですか?」
眉を顰める小燕とは対照的に、吉井は大きな目を更に大きく見開いて光臣の背中を見下ろしている。
トン、トン、トン。
壁を叩く音。
浴室の壁を? 誰が? どういう目的で?
なぜ今なんだ?
「吉井さん」
「はっはい!」
「三階の部屋の間取り、全部見せてもらえますか」
「え……あ、はい! 持ってきました。一旦、リビングに移動しましょうか」
「そうですね」
曖昧に頷く光臣は、後頭部に小燕の視線を感じている。「何かに気付いたのか」「まさかこの男が」という相反する感情を纏めてぶつけてくるのはやめてほしい。
吉井一葉に先導され、光臣と小燕は303号室のリビングへと移動した。
リビングもやはり、奇妙に広かった。
「えー……っと。これが間取りですね。301、302、303」
「角部屋がふたつ。中部屋がひとつ……」
「錆殻光臣……」
「黙っててくれないか刑事さん。301と303はほぼ同じ間取りなんですね。部屋の配置が正反対なだけで」
「そうです」
吉井が首を縦に振る。
「どうしても、こう──マンションの敷地の関係で、そうせざるを得なかったみたいで」
「この部屋のバスルームの隣には、……302号室のキッチン」
「ええ、ああ、はい。それも。そうなんです。それもあって、困っちゃってて」
何もないリビングの真ん中に光臣・小燕・吉井は吉井の持ち込んだ座布団を敷いて座り、三つの部屋の間取りをじっくりと眺める。
「302号室の方が……302号室の方はお部屋を買われていて、引っ越しなんて考えたこともなかったそうなんですが、そのぅ……この部屋のバスルームで、ね? 伝わりますよね?」
「人間が腹掻っ捌いて死んだバスルームと壁一枚挟んで隣のキッチンで飯作ったりは、そりゃしたくないだろうな」
顎を撫でながら唸る光臣に「そうなんですよ!」と吉井が声を張り上げた。
「それで……はあ……困ってしまって」
「リビング」
吉井の嘆きを他所に、光臣は小さく呟いた。
「広いですね」
「え? ……え? な、何の話です……?」
「間取り。他の部屋に較べて、303号室はすべての部屋が広めに作られている」
「そ? ……そうですかぁ……?」
想像したこともなかった、とでも言いたげな調子で吉井が呟く。いったい何を言い出すのかと小燕がじっとりとした視線を寄越しているが、光臣は気にせずに続けた。
「廊下も、浴室も、リビングも。少しずつ広い。なんのために?」
「それは……な、なんででしょう……? このマンションを建てたのは、うちの会社ではないので……」
「ふむ」
ここに長居をするのは良くない──それが、今の光臣の素直な感想だった。
音が響き続けているのだ。
トン、トン、トン、という軽やかなノックの音が。浴室からリビングまで、追い掛けてきた。
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