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第一章 見えない。
第五話 蛍川
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甥が未だ小学生の頃だから、今から10年以上前の話になる。
錆殻光臣には弟がいた。
錆殻家──便宜上この呼称を使用する──は所謂拝み屋の一族だった。錆殻の血を引く者は皆、その才覚を持っていた。中でも弟は、一千年に一度の逸材と呼ばれるほどの強い能力を持っていた。彼が手を触れるだけで、大抵の悪いものは浄化された。視線を寄越すだけて消え去ることすらあった。錆殻の本家には常に大勢の客人があった。弟を現人神と呼ぶ者もいた。弟はそれを否定しなかった。決して謙虚な人格の持ち主ではなかった。その点、光臣と弟は良く似た兄弟だったのかもしれない。決定的に異なる点があるとすれば──光臣には能力がなかった。これっぽっちも、ひとかけらもなかった。錆殻光臣は、無能だった。
だが光臣は、自身の無能を嘆きはしなかった。能力など欲しくはなかった。現人神になりたいと思ったこともない。厄介だ、と思っていた。悪霊を、怨霊を、地縛霊を、事故物件を、毎日のように呼び出されては駆け回り、大したカネにもならない仕事で汗水垂らす弟のことを気の毒にすら思っていた。弟が生きていた頃、光臣は彼の秘書の真似事をしていた。自分で選んだ仕事ではない。弟に頼まれたのだ。「兄貴は顔がいいから」と弟は言った。「依頼人も安心するだろ、俺たち兄弟で仕事やってます──って自己紹介したらさあ」。弟との年齢差はふたつ。あってないような差だった。依頼料の受け取りから確定申告に至るまで、すべて光臣が行っていた。
弟は、二十歳になってすぐに結婚した。そういえば弟は大学に進学しなかったのだ。高校も途中でやめてしまった。仕事が忙しかったからだ。光臣は私立高校を卒業し、都内の私立大学に進学した。光臣が大学を卒業して地元に戻ってくるまでの数年間だけだ。兄弟が離れて過ごしていたのは。
都内で就職が決まったのでもう秘書の真似事はできない──と告げに実家に戻った頃には、もう甥が生まれていた。結婚した次の年に生まれたのだと弟は自慢げに言った。よちよち歩きの甥を、光臣は特に可愛いとは思わなかった。子どもが好きではないのだ。今も変わらない。
そうして光臣はテレビ局で仕事をするようになり、弟は相変わらず生まれ故郷で拝み屋の仕事を続けた。事件が起きたのは、甥が小学生の頃だった。
光臣と弟と甥は、実家の近くにある清流に遊びに出かけた。夏だった。夏休みだった。久しぶりに戻ってきた伯父と一緒に綺麗な川で遊びたい、と甥が言い張ったのだ。断る理由がなかったので──面倒臭いとは思ったが──弟の運転するクルマで三人、清流へと出向くことになった。そこで弟は死んだ。未だに光臣には、あの日何が起きたのかを理解できていない。
弟は、清流の怪異に食われて死んだ。弟の葬儀の後、事件が起きた清流に足を運んだ実母──現在は鬼籍に入っている──が、厳しい口調で断言する姿を記憶している。光臣にはまるで理解できなかった。ただ、眺めている際には穏やかだった清流が、甥が一歩足を踏み入れた途端、まるで荒ぶる蛇、もしくは龍のように表情を変えるのは分かった。見えたのだ。光臣にも。光臣が動くより先に弟が水飛沫を上げて清流の中に飛び込み、甥を抱え上げ、「この子を頼む」と声を張り上げて──そうして、弟の遺体は川の流れが一際激しい場所で発見された。遺体の損傷は激しく、酷く暑い夏だったということもあり、遺族も含めて誰も彼の死に顔を見ることができないままに葬儀を上げることになった。
弟の死とともに錆殻家は崩壊した。実母、実父が相次いで亡くなり、弟の妻は自身の出身地へと去った。甥は置き去りにされた。光臣以外の錆殻の血を引く者たちも次々に命を落とし、生き残った者は能力を失った。錆殻という一族そのものが、粉々になるのを光臣は漫然と眺めていた。
光臣だけだった。生き残る術を持っていたのは。
光臣には、錆殻の一族が持つ能力が宿っていなかったから。
光臣は、甥の身柄を引き受けた。彼を連れて東京に戻った。光臣は当時結婚しており子どももいたが、当時、甥を連れ帰って来たことに難色を示す妻に対し「仕事のやり方を変える」とだけ告げた。妻は──妻のことは、光臣はもう、忘れることにしている。
思い出す。
弟が死んだ、あの夏、あの清流。蛍川と呼ばれていた。本当の名前は知らない。
まだ廃神社にはなっていなかった『蛍神社』。
禁足地。
あの土地は、錆殻が滅びた土地だ。
錆殻光臣には弟がいた。
錆殻家──便宜上この呼称を使用する──は所謂拝み屋の一族だった。錆殻の血を引く者は皆、その才覚を持っていた。中でも弟は、一千年に一度の逸材と呼ばれるほどの強い能力を持っていた。彼が手を触れるだけで、大抵の悪いものは浄化された。視線を寄越すだけて消え去ることすらあった。錆殻の本家には常に大勢の客人があった。弟を現人神と呼ぶ者もいた。弟はそれを否定しなかった。決して謙虚な人格の持ち主ではなかった。その点、光臣と弟は良く似た兄弟だったのかもしれない。決定的に異なる点があるとすれば──光臣には能力がなかった。これっぽっちも、ひとかけらもなかった。錆殻光臣は、無能だった。
だが光臣は、自身の無能を嘆きはしなかった。能力など欲しくはなかった。現人神になりたいと思ったこともない。厄介だ、と思っていた。悪霊を、怨霊を、地縛霊を、事故物件を、毎日のように呼び出されては駆け回り、大したカネにもならない仕事で汗水垂らす弟のことを気の毒にすら思っていた。弟が生きていた頃、光臣は彼の秘書の真似事をしていた。自分で選んだ仕事ではない。弟に頼まれたのだ。「兄貴は顔がいいから」と弟は言った。「依頼人も安心するだろ、俺たち兄弟で仕事やってます──って自己紹介したらさあ」。弟との年齢差はふたつ。あってないような差だった。依頼料の受け取りから確定申告に至るまで、すべて光臣が行っていた。
弟は、二十歳になってすぐに結婚した。そういえば弟は大学に進学しなかったのだ。高校も途中でやめてしまった。仕事が忙しかったからだ。光臣は私立高校を卒業し、都内の私立大学に進学した。光臣が大学を卒業して地元に戻ってくるまでの数年間だけだ。兄弟が離れて過ごしていたのは。
都内で就職が決まったのでもう秘書の真似事はできない──と告げに実家に戻った頃には、もう甥が生まれていた。結婚した次の年に生まれたのだと弟は自慢げに言った。よちよち歩きの甥を、光臣は特に可愛いとは思わなかった。子どもが好きではないのだ。今も変わらない。
そうして光臣はテレビ局で仕事をするようになり、弟は相変わらず生まれ故郷で拝み屋の仕事を続けた。事件が起きたのは、甥が小学生の頃だった。
光臣と弟と甥は、実家の近くにある清流に遊びに出かけた。夏だった。夏休みだった。久しぶりに戻ってきた伯父と一緒に綺麗な川で遊びたい、と甥が言い張ったのだ。断る理由がなかったので──面倒臭いとは思ったが──弟の運転するクルマで三人、清流へと出向くことになった。そこで弟は死んだ。未だに光臣には、あの日何が起きたのかを理解できていない。
弟は、清流の怪異に食われて死んだ。弟の葬儀の後、事件が起きた清流に足を運んだ実母──現在は鬼籍に入っている──が、厳しい口調で断言する姿を記憶している。光臣にはまるで理解できなかった。ただ、眺めている際には穏やかだった清流が、甥が一歩足を踏み入れた途端、まるで荒ぶる蛇、もしくは龍のように表情を変えるのは分かった。見えたのだ。光臣にも。光臣が動くより先に弟が水飛沫を上げて清流の中に飛び込み、甥を抱え上げ、「この子を頼む」と声を張り上げて──そうして、弟の遺体は川の流れが一際激しい場所で発見された。遺体の損傷は激しく、酷く暑い夏だったということもあり、遺族も含めて誰も彼の死に顔を見ることができないままに葬儀を上げることになった。
弟の死とともに錆殻家は崩壊した。実母、実父が相次いで亡くなり、弟の妻は自身の出身地へと去った。甥は置き去りにされた。光臣以外の錆殻の血を引く者たちも次々に命を落とし、生き残った者は能力を失った。錆殻という一族そのものが、粉々になるのを光臣は漫然と眺めていた。
光臣だけだった。生き残る術を持っていたのは。
光臣には、錆殻の一族が持つ能力が宿っていなかったから。
光臣は、甥の身柄を引き受けた。彼を連れて東京に戻った。光臣は当時結婚しており子どももいたが、当時、甥を連れ帰って来たことに難色を示す妻に対し「仕事のやり方を変える」とだけ告げた。妻は──妻のことは、光臣はもう、忘れることにしている。
思い出す。
弟が死んだ、あの夏、あの清流。蛍川と呼ばれていた。本当の名前は知らない。
まだ廃神社にはなっていなかった『蛍神社』。
禁足地。
あの土地は、錆殻が滅びた土地だ。
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