【完結】ドグマ

大塚波

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第二章 腐る。

第七話 小燕向葵②

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 短い眠りを経て、起床。朝5時半。軽く身支度を整えて、自家用車で小燕こつばめ向葵あおいの自宅に向かう。今日も撮影の仕事がある。シャワーを借りたかったし、髭も剃りたかった。小燕の部屋があるマンションにほど近いコインパーキングに車を置き、徒歩で目的地に。合鍵で扉を開けると、玄関には菅原すがわらがいた。

「お早いお付きで」
「ずっとここに立ってたのか? 馬鹿だな」
「そんなはずないでしょう! 光臣みつおみさんの気配を察知したから……」
「おうおう。分かった分かった。刑事は?」
「おやすみ中です」
「分かった。おまえは帰れ」
「はい……あの」
「なんだ』

 玄関の隅に揃えて置いてあったシリコン製のスリッポンに大きな足を突っ込みながら、菅原が眉を寄せる。

「菅原は……光臣さんのご家族という解釈になってしまったのですが、良いのでしょうか……?」
「は? 家族? どういう意味だよ」
「いえ……昨晩こちらに到着して、取り敢えず台所のお片付けをして、それから洗濯をしていたら刑事さんが戻って来られて……」

 取り敢えず錆殻さびがら光臣みつおみの命令で来たことと、不法侵入を謝罪したところ──

「ああ、ご家族の人か、と。それだけ仰って、あとは特にお話もしないまま寝室に……」
「何か勘違いしてるな、刑事のやつ」

 軽く舌打ちをした光臣は、

「まあいい。説明は俺がしておく。昨日は何も起きなかったな?」


 玄関の扉に手をかけながら、菅原はあっさりと言った。彼の黒いシャツの裾を掴んだ光臣は、

「まず報告しろ。報告しないで帰ろうとするな」
「だって、まあいいって仰ったじゃないですか……」
「言い訳をするな。……何が起きた?」

「! ……他には?」
「このマンションのに何かが出てますね。使
「最上階──」

 どこかで聞いたフレーズだが、出どころをすぐに思い出すことができなかった。眉根をぎゅっと寄せた光臣は、

「他には? その二点だけか?」
「はい。今のところは」

「その可能性は高いですね。菅原は坊っちゃんの元に戻ります」
「……おまえ、無能の俺が刑事と心中する可能性とか、考えねえの?」

 尋ねる光臣に、菅原は薄っすらと笑った。

「光臣さん、あなたは」

 
 右手、五本の指を大きく広げた菅原が、光臣の心臓を鷲掴みにするような動きをした。
 実際、掴まれていたのかもしれない。一瞬鼓動が止まった──そんな気がした。
 両目を見開いて菅原を睨み上げる光臣に一礼した菅原が、

「あなたは生き延びるでしょう。他の誰が亡くなったとしても」
「適当こいてんじゃねえぞ、バケモンが」
「菅原が滅びても、あなたは生き残る。そういう匂いがするのです」
「帰れ。おまえの可愛い坊っちゃんが腐った水に難儀してるかもしれねえぞ」
「今はまだ、あなたと菅原だけの問題です。でもいずれ、坊っちゃんにも累が及ぶ可能性は捨て難い。菅原は戻ります」

 菅原が後ろ手に閉めたドアの鍵をしっかりと閉め、チェーンも掛ける。小燕向葵はどうやらまだ眠っているようだ。よっぽど疲れているのだろうと思う。捜査本部はいったいどういう方針で動いているのだろう。秋元あきもと政岡まさおかには自死の理由や原因があったのだろうか。それにそうだ、先ほど口に出してみて気付いた。

(心中ですらない)

 秋元あきもと慎也しんや政岡まさおか涼子りょうこは、別々の方法で、別々の場所で死んでいた。死亡推定時刻も違う、と小燕向葵から聞き出していた。先に死んだのは秋元で、彼の死から半日後に政岡も命を絶った。彼らが命を絶ったのは所謂国民の祝日で、アベックは同じ家の中にいた。共に暮らしている人間の片方が浴室という分かりやすい場所を血で真っ赤に染めて死んだのに、政岡涼子はなぜ救急車も警察も呼ばず、半日を過ごし、それから首を括ったのか。

(もう一度、あの、広い部屋に)

 行く必要があるのかもしれない。小燕邸の浴室は今のところ無事だった。悠々とシャワーを浴び、髭を剃り、バスタブに浸かって天井を見上げながら光臣は考える。
 見える人間を連れて行くべきなのだろうか。あの広い部屋を再び訪問するとして、光臣には何も見えない。それこそ菅原を──と思うが、菅原には刑事のボディガードを申し付けてしまった。これ以上は連れ回せない。誰か、その能力がある、暇そうな人間を。

「あ~……ギャラがなぁ……」

 思わず口に出して呟いていた。外部からその筋のプロを呼ぶと、金が掛かる。今回の案件は刑事・小燕向葵から持ち込まれたものであり、無事解決したところでテレビ番組などに取り上げられる可能性は限りなく低く、プロへの依頼料は光臣の持ち出しとなる。小燕と割り勘にするのも──なんだか格好悪い。
 よろよろと浴槽から体を引きずり出し、もう一度シャワーを浴びて、洗面所に出る。着替えとタオルは自宅から持ち込んでいた。

「……おう」
「……うわ」

 洗面所には──歯ブラシを手にした小燕向葵が立っていた。

「なんだ、うわって。失礼だな」
「いや……あんた、出るなら出るって声をかけてくれ。驚くじゃないか」
「こっちの台詞だ。歯を磨いてるから暫く出てくるなぐらい言え」
「はあ……? こっちが好意で部屋を貸してやってるというのに、その言い方がどうかと思いますがね」

 半裸の偽霊能者と、寝巻き姿の刑事のやり取りは、側から見れば相当に馬鹿馬鹿しい光景だった。だが光臣は内心安堵していた。小燕向葵は普通に水道水を使って口を濯いでいるし、強い腐臭も感じない。菅原は化け物だから水の腐りを強めに感じたのかもしれないが、今のところ小燕向葵は追い付かれていない──はずだ。

「服を着てください。ったく……」
「目のやり場に困るってか?」
「まったく困りませんが」
「あんた、急に感じ悪くなるな」
「それより昨日……あの背の高い人も、甥っ子?」
「ああ?」

 襟付きシャツに袖を通し、デニムに足を突っ込む光臣はいかにも嫌そうに顔を歪める。

「ありゃ秘書の方だ。色々口うるさかっただろう。手が足りなくて急遽……やかましい化け物だったか? 悪かったな」
「いや……別に。随分親身になってくれて、あんたよりはよほど感じが良かった」
「ああ?」

 朝食にしよう、と言い置いて小燕が先に洗面所を出る。小燕と菅原がどのような会話をしたのか、光臣は知らない。知る必要もない。だが、菅原をこの刑事に張り付けておくという判断が間違ってなかったと分かって、少しだけ安堵する。

 ほんの少しだけ、安堵する。
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