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第三章 融ける。
第二話 政岡家
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政岡涼子の実家は都内にあった。涼子が恋人・秋元慎也と同棲していたマンションからも然程離れてはいない。
年季の入った──いや、はっきり言ってかなり古びたアパートの一階に、政岡涼子の母親・信子と、祖母・勝子はふたりで暮らしていた。チャイムを鳴らし、「警察の者ですが」と手帳を掲げた小燕が名乗る。次の瞬間薄い扉が勢い良く開き、鬼のような形相の高齢女性が飛び出してきたかと思うと──
「あのぉ……なんか、すみません、おばーちゃんが」
真正面から大量の塩をぶつけられた小燕向葵と錆殻光臣を部屋に上げ、薄汚れたタオルを差し出しながら政岡信子が言った。畳敷の部屋。草臥れた座布団の上にそれぞれ腰を下ろし、小燕と光臣は顔の塩を落とす。手渡されたタオルから、腐臭はしなかった。だが、それよりも少しばかり好ましくない、饐えたような匂いがした。
政岡信子は、疲れ切った顔をしていた。無理もない、と光臣は思う。ふたりが通された畳敷の部屋には、祖母・勝子は入ってこれない。引き戸が開かないように、部屋の内側から突っ張り棒を使って固定している。「出ていけ、出ていけ」と勝子はしわがれた声で喚き散らしている。想像するに──政岡勝子が、外部からやって来た人間に攻撃的な態度を取るのは、今回が初めてではないのだろう。政岡勝子と信子、母と娘はおそらく孤立している。地域から、世間から、世界から、締め出されている。
理由は、光臣には分からない。
「刑事さん……? 以前も、いらっしゃいましたよね」
政岡信子が口を開く。じっとりと湿気を含んだ視線に、小燕は小さく首を縦に振る。
「小燕向葵と申します」
「名前とかどーでもいいんです」
投げ付けるように、信子は言った。
「帰ってくれませんか。あと、涼子のこと嗅ぎ回るのも、やめて」
「嗅ぎ回る……」
いかにも心外といった表情で小燕は唸り、光臣はひっそりと笑う。
「なにがおかしーのよ……あんた」
「あ、錆殻光臣と申します、どうも」
名刺を差し出す光臣の顔をじっくりと眺めた信子は、
「テレビ……」
「ええ、テレビ番組にもよく出演しております」
「……かーちゃん」
よろり、と立ち上がった信子が廊下に通じるつっかえ棒を外す。「信子!」と政岡勝子が声を張り上げている。
「いーよ……ニセモンだよ、この人」
「おっと」
政岡信子の平たい声音に、今度は光臣が鼻白む番だった。「にせもん」と今度は小燕が小声で繰り返している。隣に腰を下ろす刑事の脇腹に軽く肘を入れ、
「奥さん、えーっと……俺は」
「奥さん? 私のこと? 私は、政岡信子」
「はあ……ええ……」
「旦那とはもう二十年も前に別れてんだ。誰の奥さんでもないの」
「そう……ですか……」
「では、政岡信子さん」
割って入ったのは小燕だ。廊下から転がり込んできた政岡勝子に襟首を掴まれ、背中を丸めながら、
「伺いたい。捜査を中止しろというのは、いったいどういう……」
「涼子は死んだんだ」
吐き捨てるように、信子は言った。「涼子」と勝子が呻き声を上げている。
「あんたたちに腹ん中まで確認されてさ、あの子は勝手に首吊って死んだってーのに他に何を探してるっていうのさ。もう勘弁してよ、成仏できるものもできなくなるだろ」
「成仏……」
「涼子はねえ!」
小燕を畳の上に突き飛ばし、馬乗りになって喚いたのは政岡涼子の祖母──勝子だった。
「あの子はねえ! 本物だったんだ! あんたたちみたいな偽物には分かんないだろうけどねえ! あの子は……あの子がどれほど苦しんで……!!」
「本物」
と、政岡勝子の下から小燕向葵を引っ張り出しながら、光臣は唸る。政岡涼子の友人を名乗る女から得た証言──涼子は地獄を『知ってる』。
「勝子さん、あなたのお孫さんが本物だというのは」
「帰れ! 偽物!!」
大量の塩が飛んでくる。避けられない。
真正面から塩の塊を浴びながら、光臣は声を張り上げる。
「本物だという根拠はなんだ! あんたたちの娘は、孫は、どういう本物だったんだ! それを俺に言え! 俺は……」
「ニセモンだろ」
塩を撒き散らす勝子の傍らで、信子が吐き捨てる。
「ニセモンに、何ができるってーのさ」
「偽物から……本物に繋ぐことぐらいは可能です。そういう人脈を持っていなけりゃ、テレビに出てあんな芝居はできない」
「……本物に?」
塩の雨が、止んだ。
真っ白い蓬髪の勝子と、白髪混じりの黒髪を引っ詰めた信子が、思い詰めたような視線を絡め合っている。「錆殻光臣」と、呟く小燕の肩に積もった塩を軽く払ってやりながら、
「始まりはいつですか」
と光臣は尋ねた。
「涼子さんがまだ小学生の頃。蛍川と呼ばれていた川に足を運んだんじゃないですか。そこから始まった、──違いますか?」
ふたりの女は、もう喚かなかった。
どーして……と政岡信子の投げやりな声だけが、畳の上にぼたりと落ちた。
年季の入った──いや、はっきり言ってかなり古びたアパートの一階に、政岡涼子の母親・信子と、祖母・勝子はふたりで暮らしていた。チャイムを鳴らし、「警察の者ですが」と手帳を掲げた小燕が名乗る。次の瞬間薄い扉が勢い良く開き、鬼のような形相の高齢女性が飛び出してきたかと思うと──
「あのぉ……なんか、すみません、おばーちゃんが」
真正面から大量の塩をぶつけられた小燕向葵と錆殻光臣を部屋に上げ、薄汚れたタオルを差し出しながら政岡信子が言った。畳敷の部屋。草臥れた座布団の上にそれぞれ腰を下ろし、小燕と光臣は顔の塩を落とす。手渡されたタオルから、腐臭はしなかった。だが、それよりも少しばかり好ましくない、饐えたような匂いがした。
政岡信子は、疲れ切った顔をしていた。無理もない、と光臣は思う。ふたりが通された畳敷の部屋には、祖母・勝子は入ってこれない。引き戸が開かないように、部屋の内側から突っ張り棒を使って固定している。「出ていけ、出ていけ」と勝子はしわがれた声で喚き散らしている。想像するに──政岡勝子が、外部からやって来た人間に攻撃的な態度を取るのは、今回が初めてではないのだろう。政岡勝子と信子、母と娘はおそらく孤立している。地域から、世間から、世界から、締め出されている。
理由は、光臣には分からない。
「刑事さん……? 以前も、いらっしゃいましたよね」
政岡信子が口を開く。じっとりと湿気を含んだ視線に、小燕は小さく首を縦に振る。
「小燕向葵と申します」
「名前とかどーでもいいんです」
投げ付けるように、信子は言った。
「帰ってくれませんか。あと、涼子のこと嗅ぎ回るのも、やめて」
「嗅ぎ回る……」
いかにも心外といった表情で小燕は唸り、光臣はひっそりと笑う。
「なにがおかしーのよ……あんた」
「あ、錆殻光臣と申します、どうも」
名刺を差し出す光臣の顔をじっくりと眺めた信子は、
「テレビ……」
「ええ、テレビ番組にもよく出演しております」
「……かーちゃん」
よろり、と立ち上がった信子が廊下に通じるつっかえ棒を外す。「信子!」と政岡勝子が声を張り上げている。
「いーよ……ニセモンだよ、この人」
「おっと」
政岡信子の平たい声音に、今度は光臣が鼻白む番だった。「にせもん」と今度は小燕が小声で繰り返している。隣に腰を下ろす刑事の脇腹に軽く肘を入れ、
「奥さん、えーっと……俺は」
「奥さん? 私のこと? 私は、政岡信子」
「はあ……ええ……」
「旦那とはもう二十年も前に別れてんだ。誰の奥さんでもないの」
「そう……ですか……」
「では、政岡信子さん」
割って入ったのは小燕だ。廊下から転がり込んできた政岡勝子に襟首を掴まれ、背中を丸めながら、
「伺いたい。捜査を中止しろというのは、いったいどういう……」
「涼子は死んだんだ」
吐き捨てるように、信子は言った。「涼子」と勝子が呻き声を上げている。
「あんたたちに腹ん中まで確認されてさ、あの子は勝手に首吊って死んだってーのに他に何を探してるっていうのさ。もう勘弁してよ、成仏できるものもできなくなるだろ」
「成仏……」
「涼子はねえ!」
小燕を畳の上に突き飛ばし、馬乗りになって喚いたのは政岡涼子の祖母──勝子だった。
「あの子はねえ! 本物だったんだ! あんたたちみたいな偽物には分かんないだろうけどねえ! あの子は……あの子がどれほど苦しんで……!!」
「本物」
と、政岡勝子の下から小燕向葵を引っ張り出しながら、光臣は唸る。政岡涼子の友人を名乗る女から得た証言──涼子は地獄を『知ってる』。
「勝子さん、あなたのお孫さんが本物だというのは」
「帰れ! 偽物!!」
大量の塩が飛んでくる。避けられない。
真正面から塩の塊を浴びながら、光臣は声を張り上げる。
「本物だという根拠はなんだ! あんたたちの娘は、孫は、どういう本物だったんだ! それを俺に言え! 俺は……」
「ニセモンだろ」
塩を撒き散らす勝子の傍らで、信子が吐き捨てる。
「ニセモンに、何ができるってーのさ」
「偽物から……本物に繋ぐことぐらいは可能です。そういう人脈を持っていなけりゃ、テレビに出てあんな芝居はできない」
「……本物に?」
塩の雨が、止んだ。
真っ白い蓬髪の勝子と、白髪混じりの黒髪を引っ詰めた信子が、思い詰めたような視線を絡め合っている。「錆殻光臣」と、呟く小燕の肩に積もった塩を軽く払ってやりながら、
「始まりはいつですか」
と光臣は尋ねた。
「涼子さんがまだ小学生の頃。蛍川と呼ばれていた川に足を運んだんじゃないですか。そこから始まった、──違いますか?」
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