【完結】ドグマ

大塚波

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第四章 視据える。

第一話 病室

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 甥と菅原すがわらと共同生活を行なっているマンションに帰宅し、「仕事は終わった」と宣言した。菅原にも、「刑事のボディガードはもうしなくて良い」と告げた。突然の宣言に甥と菅原は虚を突かれたような表情をしていたが、光臣みつおみはまるで気にせずシャワーを浴びるためにバスルームへと向かった。

 水は相変わらず腐り続けていた。

 仕事は終わった、と光臣は本気で思っていた。だがどうやら、許されないらしい。へどろのような匂いを放つ水を全身に浴びて、光臣は嘔吐した。水は腐り続けている。しかも、どうやら、悪化している。最悪だ。
 よろよろと脱衣所に出てきた光臣を、菅原が迎えた。この世のものではない菅原が青褪めているのが分かった。なぜおまえがそんな顔をする必要がある、と笑い飛ばしてやりたかったが、残念ながらその余裕が光臣にはなかった。素っ裸のままその場に膝を付き、胃の中のものをすべて吐いた。「光臣さん」と菅原が震える声で言った。



 そんなこと俺が知りてえよ。と、言うこともできないまま、光臣は再び吐いた。甥が救急車を呼んだ。

 過労が原因──という診断が下され、救急車で運ばれた先の病院で一泊することになった。菅原が運転する大型二輪車に乗って救急車の後を追いかけてきた甥が、当直の医師や看護師に深々と頭を下げ、「伯父をよろしくお願いします」「何かあったら連絡をください」と自身の連絡先を手渡している姿が見えた──ような気がしたが、白いベッドの上ですぐに意識を飛ばしてしまったので、正確なところは分からないままだった。



 菅原の問いかけが、頭の中で響く。
 そんなこと俺が知りてえよ。そう言ってやりたかった。
 違う。
 光臣はもう気付いている。
 自分が何を連れて歩いているのかを。
 小池こいけ俊二しゅんじのカメラを通せば、黒い影などではなく、きっと顔まで分かるだろう。
 そうして、祓い清めることは不可能だ。小池俊二──祓いの能力を持つ小児性愛者程度の実力では、返り討ちに遭うのがオチだ。別にあんな犯罪者が返り討ちに遭って死んだところで光臣としては何の問題もないし良心の呵責に苦しめられることもないのだが、厄介ごとが増えるのだけは避けたい。だからこの問題には、自分ひとりで対峙するしかない。

 錆殻さびがら光臣みつおみは、蛍川ほたるかわに取り憑かれている。
 既に干上がったはずの川。もう存在しないはずの清流。
 干上がってしまったから、光臣の周りの水が腐る。存在しない清流だから、追い払うこともできはしない。
 錆殻一族は、蛍川と、蛍神社と心中したはずだったのだ。
 だが、錆殻光臣は生きている。

(──政岡まさおか涼子りょうこに?)

 関わらなければ良かったのか? 小燕こつばめ向葵あおいから捜査への協力を持ちかけられた際、政岡涼子は既に死んでいたけれど。
 彼女もまたを持つもので、その力は蛍川に於いて歪められた。
 蛍川は常に待ち構えている。能力を持つ者を。蛍川に新しい清流を生み出すことができる者を。
 蛍川は錆殻を認めない。錆柄もまた蛍川を裏切った。言うなれば敵同士だ。そんな中、小学校の遠足だか林間学校だかなんだか知らんが、あんな曰く付きの場所に足を踏み入れた政岡涼子は不幸極まりない。これは想像でしかないが、その日、蛍川に近付いた児童たちの中で、政岡涼子がいちばん強い力を持っていたのだろう。
 だから、歪められた。

「ああ……」

 白い寝台の上で目を覚ます。点滴の針が腕に刺さっているのが分かる。ナースコールを押して外してもらおうかとも思ったが、面倒なのでやめる。
 病院。白い場所。
 さすがにここまでは追いかけてこないか。それとも何か、他に事情があるのか。

「……錆殻光臣!」
「うわ!」

 点滴の針が刺さる腕を右手の指先で引っ掻いていたら、急に小声で名を呼ばれた。心臓が止まるかと思った。
 ベッドのすぐ傍らに、小燕向葵の姿があった。
 馬鹿かと思った。

「なん……何してんだ、あんた!?」
「菅原くんから連絡をもらった」
「余計なことしやがってあの腐れ化け物が」
「そういう言い方は良くない。……何があった?」

 至って真剣な口調の小燕の顔をベッドの上からじっと見詰め、やがて光臣は口の端をちいさく歪めて見せる。

「何も」
「何もなくて救急車で運ばれたりするか?」
「菅原はなんだって?」
「酷く嘔吐していて、会話もままならない、と……」
「盛りやがって」

 会話ぐらいはできていたと思う。たぶん。知らないが。

「過労だよ。過労と疲労? 最近はメインの仕事以外に、あんたと一緒に刑事ごっこやってたからな」
「私は……ごっこではなく刑事だが」
「俺は違う。ああ、ドラマになら出たことあるぜ。幽霊が見える刑事って役でゲスト出演したんだ。あの回の視聴率はかなり良かったって聞いたな」
「錆殻光臣」

 小燕の大きな手が、光臣の右手を強く掴んだ。

「何があった?」
「……」

 まったく、──何もかもにうんざりする。そんな気持ちだった。
 小燕向葵は錆殻光臣の何をそれほどまでに信用しているのだろう。こっちは本物の偽物だというのに。テレビタレントとしての光臣の姿を知る者たちも、光臣がちょっとやそっとの霊障──家鳴りだとか帰らないこっくりさんといった王道の怪異──への対処はできるが、巨大な、本物には歯が立たないということは承知の上で仕事を振ってくる。
 小燕だけだ。
 こんなに真剣な表情で、錆殻光臣の能力を信じるのは。

「水の」

 薄闇の中で、観念したような気持ちで光臣は口を開いた。

「腐りが戻らない」
「なに……?」
「帰宅してシャワーを浴びたが、相変わらず──というより、以前より酷い腐った水を浴びる羽目になって。吐いて、倒れた」
「そんな」
「どうやら先方は、まだ俺を解放するつもりはないらしい」
「先方? ……誰のことだ? 政岡まさおかか? 秋元あきもとか?」
「どっちでもないよ」

 伸ばした手で、小燕の頬を撫でた。大きく肩を揺らしたこの男もまた、隠し事をしているのだと知る。知る? いや、最初から知っていた。だが事件には何の関係もないから、特には触れなかった。

「あんたの家の水は問題ないか、刑事さん」
「……実は、一瞬」

 腐った、という証言に血の気が引く。だが。

「変な言い方なんだが──日付が変わる前で所轄署であんたと別れただろう。それから少し打ち合わせをして帰宅したら、何もかもが元通りで」
「腐ってない?」
「まったく。いつも通りの自宅だった」
「ふん……」

 蛍川の狙いはあくまで錆殻光臣で、この実直な刑事に加害をする意図はないらしい。当然だ。蛍川は以前は、そういう場所だったのだ。急に悪役になられても困る。
 これは錆殻の生き残りと、蛍川の残滓による、互いの命の狙い合いだ。やはり小燕とは距離を置いた方が良さそうだ。

「……私が巻き込んだ。私だけ逃げるわけには」
「いや何言ってんだ刑事さん。何言ってんだっていうか、そもそもなんでここにいる? 警察手帳ってのはそんな効力まであるのか? 俺はもう降りる──俺にできることは全部やったって言ったろ。あとは俺の問題なんだよ」
「あんたは、私の……捜査本部では手が回らないところを埋めるために『できること』を全部やってくれた。礼をしたいと思っては、いけないか?」
「だめ」

 即答する。小燕の眉が情けなく下がるのが分かる。

「だめ?」
「だめです。ご帰宅ください」
「……明日も来るからな」
「明日は撮影なのでもうここにはいません~」
「錆殻光臣」

 死ぬなよ。
 縁起でもないことを言い残し、小燕向葵は椅子から腰を上げる。

 ──瞬間。

 水の匂いがした。
 清流の匂いが、ふわりと漂うのが、分かった。
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