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4.夜明けを待つプレリュード
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その日はやけに身体がダルかった。
痛いとかじゃなく、ただ重い。体温を計ってもいつも通りの平熱。動く気も起きなくて布団の中で丸まっていたら随分と時間が経って、時計の針はいつの間にか17時近くを指していた。
「……今日何曜だっけ。そろそろ千弦んとこ行かないと……」
やっぱり重い身体を引き摺って服を着替える。飯、はいいか。タバコも気分じゃない。テキトーに着た服のポケットにタバコとライター、あとスマホだけ突っ込んで靴を履こうとした。俺は確かに履こうとしたはず、なんだけど。
『逃げたい』
『会いたくない』
「……?」
自分でもよく分からない。何か重い感情が背中に伸し掛ってるようだった。それが耐えられなくて、このまま靴を履いて立ち上がったらもう動けない気がして。
結局俺はポケットの中身全部を床に放り出して、ベッドに吸い込まれるように寝転んだ。
その日は結局、外に出られずに一日が終わった。
それから数週間、俺はシフト以外で外に出なかった。便利な時代だよな、スマホから注文すれば何でも見ず知らずの誰かが持ってきてくれるんだから。それでもやっと重い腰を上げて靴を履こうとすれば、今日はなんとか外に出られそうな感じがした。
「……行くか」
歩いて十数分。もはや見慣れた街並みは流石に数週間じゃ代わり映えしない。相変わらず暑い陽射しの中、寂れたシャッター街は段違いに温度が高くて見えない何かまで見えてしまいそうだ。それこそ、思い出したくない後ろ姿とか。
以前よりゆっくりとした歩幅でその路地を通り抜ければ、真正面のシャッター前には久方振りのアネモネ。腕を組んでただ日陰に佇む姿は相変わらず凛々しかった。
「久しぶり。タバコは?」
「もう吸ったの。ただもう少し涼しくなるまで待っていただけ」
飲み行く? と聞けば肯定が返ってくる。それに少し違和感を感じたけど、どこがおかしいのか分からないまま有耶無耶に話が流れた。
「最近見なかったけれど、暑さに弱いの?」
「いや、うーん……そうかも。前までそんなこと無かったんだけど」
そっか、夏バテしてたのかな俺。それすらよく分からなくて首を傾げた。夏バテにしてはガッツリ飯食ってたし、体調悪いって感じでもなかったけど。
そうして他愛も無い会話を重ねながらバーに入る。冷房が効いてて心地いい温度の中、変わらない穏やかな笑みのマスターがそこにいた。
「雪さん、お久しぶりです。お元気でしたか?」
「あー、まぁ。元気でしたよ」
「さっき暑さに弱いって言ってたのに?」
「ちょっとした夏バテはノーカンでしょ、仕事には行ってたし」
まだ空いている店内は俺達の声が他の雑音に混ざり合いながら響いていた。あと二時間もすればここもどんどん暑くなっていくんだろうけど、それまでは俺達の貸切みたいなもんかな。
お互いの仕事が分かってからはそういう話も話題に上がるようになった。最近行った撮影地のこと、流行りの本のこと、そんで最後には酒のこと。話す中で千弦の笑顔が増えたな、とふと思ったりなんかもして。
「マスター、ライラくれる?」
「かしこまりました。すぐにお作りしますね」
久しぶりに千弦に会っていつもより酔いが回ってるのか、ふわふわした気持ちのまま強い酒を頼んだ。ぼーっとシェイカーに次々と材料を注ぐマスターを見つめていると、なんか急に突拍子もないアイデアが湧いてきて、気付けばそのまま言葉が口を飛び出していた。
「結構前にさ、プラネタリウム行ったじゃん。あの時の花屋ってこの時間まだやってるよね?」
「え?開いてると思うけれど……」
「今日花買って帰ろうかな。なんか、丁寧な暮らしできそう」
「そんな理由で買うの?」
千弦の言葉に少し悩んで、じゃあ……と理由を付け足す。
「千弦のおすすめの花買うよ。思い出と一緒なら、記憶ごと大事にできるだろ」
俺の言葉に少し考えるような仕草をした千弦は、徐にスマホを取り出してどこかに電話をかけた。
「もしもし、優子さん? この後お店に寄ろうと思うんだけど、今日って何時頃まで開けてる?」
あぁ、そういえばあの花屋の女の人のことそんな名前で呼んでたな。
遠い記憶を手繰り寄せて納得する。俺の一言でわざわざ確認の電話してくれたんだ。なんか、あの頃を思うと優しくなったな。
「七時頃まで開けててくれるって。頼んだお酒飲んだら行きましょ」
「千弦、俺ってマシな男になった?」
「え?」
ぼーっとする頭の中、あの時の千弦の声が響いてる。それだけじゃない、遠い昔の高くて可愛い声も。
『雪くん!』
『雪くん、どうしたの?』
『……雪くん酷い……』
あぁ、五月蝿い。どうやったら忘れられるんだ、俺はもうアイツのことなんてどうでもいいと思ってるはずなのに。アイツがいなくたって俺に寄ってくる女はいくらでもいる、甘い言葉だっていくらでも言える、俺は、酷くなんか、
「ねぇ」
「!」
「……大丈夫?いつにも増して顔色が悪いけど」
そこで初めて、俺は息を止めていたことに気が付いた。一気に酸素が肺を回って空気が上手く入れ替えられない。あ、ダメだ。これ咳止まんない。
「ゲホ、ひゅ、ゲホッ……だい、じょうぶ、ごめん、ケホッ」
「ちょっと、大丈夫じゃないでしょ」
「大丈夫ですか、よければお水飲んでください」
「あり、がと……ゲホ、ございます……ハ、ひゅっ」
千弦が水を差し出してくれる。その顔には心配が滲んでいた。でも、今飲んだら確実にこぼすからどうしても受け取れなかった。
「すぐ落ち着くから、だいじょうぶ。一旦みず……おいといて」
「……えぇ、分かった」
数分は息を整えてたかな、なんとか立て直した俺はマスターの用意してくれた水を飲んで少し落ち着いた。
「ごめん、心配かけた。やっぱちょっと体調悪いみたい、今日は帰るわ」
「そう、優子さんには伝えておくから。ゆっくり休んで」
「うん、ありがと。じゃあね」
そう言って二人分の会計を済ませた俺は、足元の覚束無いままなんとか家に帰って、それからのことは覚えてない。
『じゃあね』
「……ちゃんと帰れてるといいけど」
その日の夜、窓際で一人呑んでいた。端の欠けた歪な形の大きい月の日だった。
なんだか眠れなくて、珍しくパジャマを着た後に缶を開けたの。もう歯だって磨いたのに、二度手間になってしまう。それでも面倒より眠れないが勝って、甘い缶を開けた。
「……甘い。もう少し辛いのにすれば良かった」
酒に罪はないけれど、仕方がないから苛立ちを缶の中身に擦り付けた。もう一度口に含むけれどやっぱり甘ったるい。
そういえば、あの男と会う日はいつも甘い酒を飲んでる気がする。無意識ね、あの男に甘さなんて抱いた事ないのに。
『オネーサン。酒、詳しい?』
それが雲に隠れて薄暗くなった時、ふと私達の出会いを思い出した。
「……そういえば、出会ってから半年くらいかしら」
唐突に声をかけられたあの日、私は虫の居所が悪かった。クライアントは無茶苦茶な事を言うし煙草を買いに行けばいつもの店舗は売り切れていたし、何だか何もかも上手くいかない日だった気がする。
やっと買えた煙草を咥えはじめてすぐだったわね、声をかけられたのは。いかにもチャラそうな男。容姿も纏う空気も自堕落が息をしてるみたいで私の苛立ちを加速させた。やっと行ったと思ったら帰ってきて一緒に来いとか言うし。どう考えてもあの顔は確信犯だったわ、と今思い返しても思う。
……でも、あの日のお酒はなんだかいつもより美味しかった。
人と呑むなんて久しぶりだったけれど、変に踏み込んでこないあの男との会話はある意味楽だった。お互いに上澄みを掬って綺麗なところだけを見る。あちらも深いところを見ようとしないし私だって興味ない。それが許される関係は初めてで、案外心地良かった。
だからかしら、いつの間にか違和感の方が目に付くようになったのは。
いつからだったかは覚えてない。けれど確実にあいつは私を避けるようになった。
いつもの場所にもバーにも来ないし本屋にもいない。久しぶりに会っても全然目が合わないし、心地いい沈黙というよりあっちがぼーっとしてるだけって感じ。挙句の果てに今日は体調を崩して帰ったし。確実に、前までとは何かが違う。歯車が変に噛み合って回らなくなったような気持ち悪い違和感がずっと付き纏って離れない。
『あは、いいじゃん。面白いね』
そんな事を言っていた時の顔がやけに瞼の裏に残っている。少しやつれた顔、乾いた唇。目に光なんてなくて目線も少し俯いていた。
一般的に「暗い」と言われるような顔、かしら。元気がないとも違う、生気がないという表情。
いつでもへらへら笑っていた彼からは見たこともない顔。でも私はその顔を知ってる。
だって、鏡で見た事があったもの。
「……ほんと、いい加減にしてくれないかしら」
期待するのも、期待されるのも嫌い。
私は誰かに振り回されるのをやめたの。全部自分で決めるし責任だって自分で取る。
だからこそ、相手のせいでどうにもならない今がもどかしくて耐えられない。
何よりも、私の傍にいるくせに勝手に萎れていくのが許せなかった。
いつもの煙草に火をつけてその人工的な煙で肺を満たす。ストレスから離れるためのものなのに、結局スッキリするようなしないような曖昧な気分で大きく濁った煙を吐き出した。
「どうしたものかしらね」
見上げた月は相変わらず欠けているくせに、光だけは眩く威勢を張っていた。
きっとそのうちまた雲に隠れるでしょうけど、それでもいい。月が居なくなった訳じゃないのならまた光が届く日は来るのだから。
そして数日後、私は用があって優子さんの営む花屋を覗いた。
「優子さん、数日ぶりね。体調には変わりない?」
「えぇ! 元気いっぱいよ。今日は何か見ていく?」
「今日は撮影で使うから向日葵を3本ほど頂きたいの。あるかしら」
向日葵ね、大振りな方がいいの? なんて聞きながら店の奥へ進む優子さん。私も続いて薄暗い店内に足を進めた。
花を見ながら注文をしている最中、思い出したかのように彼女が口を開いた。
「そういえばだいぶ前に千弦ちゃんが連れてた男の人、この前ウチに来たよ」
「え? あぁ、もしかしてあの黒髪のチャラチャラした男?」
あんなに体調を悪くしていた彼がこんなにすぐ花屋に来てたとは思わなかったけれど、行きたいって言ってたのは本心だったのね。
この前のバーでの会話を思い出しながら、穏やかに語る優子さんの話を聞く。
「そうよ、なんだかやつれてて心配になったんだけどね。紫のアネモネを一輪買って帰っていったわ。暗い顔したまま花を大事そうに抱えてふらふらとね」
「ふぅん……」
アネモネ、ねぇ。そんな体調でわざわざ買いに来て……そこにどんな意図があったのか私には分からないけれど。
『丁寧な暮らしできそうじゃん』
……どこまでが、本心だったのかしら。
「はい、包めたわよ千弦ちゃん。暑いんだから貴方も体労りなさいね」
「……えぇ。ありがとう優子さん、また来るわ」
包まれた向日葵は真っ直ぐ前を見つめている。きっと、今の私に向日葵は似合わないわね。
自然と苦い笑みがこぼれた。まぁ、今の私が考えたところで答えなんて出ないわ。
燦燦と降り注ぐ太陽の下、重い機材の入った鞄のベルト紐を肩に乗せ直して私は次の場所へと歩き始めた。
痛いとかじゃなく、ただ重い。体温を計ってもいつも通りの平熱。動く気も起きなくて布団の中で丸まっていたら随分と時間が経って、時計の針はいつの間にか17時近くを指していた。
「……今日何曜だっけ。そろそろ千弦んとこ行かないと……」
やっぱり重い身体を引き摺って服を着替える。飯、はいいか。タバコも気分じゃない。テキトーに着た服のポケットにタバコとライター、あとスマホだけ突っ込んで靴を履こうとした。俺は確かに履こうとしたはず、なんだけど。
『逃げたい』
『会いたくない』
「……?」
自分でもよく分からない。何か重い感情が背中に伸し掛ってるようだった。それが耐えられなくて、このまま靴を履いて立ち上がったらもう動けない気がして。
結局俺はポケットの中身全部を床に放り出して、ベッドに吸い込まれるように寝転んだ。
その日は結局、外に出られずに一日が終わった。
それから数週間、俺はシフト以外で外に出なかった。便利な時代だよな、スマホから注文すれば何でも見ず知らずの誰かが持ってきてくれるんだから。それでもやっと重い腰を上げて靴を履こうとすれば、今日はなんとか外に出られそうな感じがした。
「……行くか」
歩いて十数分。もはや見慣れた街並みは流石に数週間じゃ代わり映えしない。相変わらず暑い陽射しの中、寂れたシャッター街は段違いに温度が高くて見えない何かまで見えてしまいそうだ。それこそ、思い出したくない後ろ姿とか。
以前よりゆっくりとした歩幅でその路地を通り抜ければ、真正面のシャッター前には久方振りのアネモネ。腕を組んでただ日陰に佇む姿は相変わらず凛々しかった。
「久しぶり。タバコは?」
「もう吸ったの。ただもう少し涼しくなるまで待っていただけ」
飲み行く? と聞けば肯定が返ってくる。それに少し違和感を感じたけど、どこがおかしいのか分からないまま有耶無耶に話が流れた。
「最近見なかったけれど、暑さに弱いの?」
「いや、うーん……そうかも。前までそんなこと無かったんだけど」
そっか、夏バテしてたのかな俺。それすらよく分からなくて首を傾げた。夏バテにしてはガッツリ飯食ってたし、体調悪いって感じでもなかったけど。
そうして他愛も無い会話を重ねながらバーに入る。冷房が効いてて心地いい温度の中、変わらない穏やかな笑みのマスターがそこにいた。
「雪さん、お久しぶりです。お元気でしたか?」
「あー、まぁ。元気でしたよ」
「さっき暑さに弱いって言ってたのに?」
「ちょっとした夏バテはノーカンでしょ、仕事には行ってたし」
まだ空いている店内は俺達の声が他の雑音に混ざり合いながら響いていた。あと二時間もすればここもどんどん暑くなっていくんだろうけど、それまでは俺達の貸切みたいなもんかな。
お互いの仕事が分かってからはそういう話も話題に上がるようになった。最近行った撮影地のこと、流行りの本のこと、そんで最後には酒のこと。話す中で千弦の笑顔が増えたな、とふと思ったりなんかもして。
「マスター、ライラくれる?」
「かしこまりました。すぐにお作りしますね」
久しぶりに千弦に会っていつもより酔いが回ってるのか、ふわふわした気持ちのまま強い酒を頼んだ。ぼーっとシェイカーに次々と材料を注ぐマスターを見つめていると、なんか急に突拍子もないアイデアが湧いてきて、気付けばそのまま言葉が口を飛び出していた。
「結構前にさ、プラネタリウム行ったじゃん。あの時の花屋ってこの時間まだやってるよね?」
「え?開いてると思うけれど……」
「今日花買って帰ろうかな。なんか、丁寧な暮らしできそう」
「そんな理由で買うの?」
千弦の言葉に少し悩んで、じゃあ……と理由を付け足す。
「千弦のおすすめの花買うよ。思い出と一緒なら、記憶ごと大事にできるだろ」
俺の言葉に少し考えるような仕草をした千弦は、徐にスマホを取り出してどこかに電話をかけた。
「もしもし、優子さん? この後お店に寄ろうと思うんだけど、今日って何時頃まで開けてる?」
あぁ、そういえばあの花屋の女の人のことそんな名前で呼んでたな。
遠い記憶を手繰り寄せて納得する。俺の一言でわざわざ確認の電話してくれたんだ。なんか、あの頃を思うと優しくなったな。
「七時頃まで開けててくれるって。頼んだお酒飲んだら行きましょ」
「千弦、俺ってマシな男になった?」
「え?」
ぼーっとする頭の中、あの時の千弦の声が響いてる。それだけじゃない、遠い昔の高くて可愛い声も。
『雪くん!』
『雪くん、どうしたの?』
『……雪くん酷い……』
あぁ、五月蝿い。どうやったら忘れられるんだ、俺はもうアイツのことなんてどうでもいいと思ってるはずなのに。アイツがいなくたって俺に寄ってくる女はいくらでもいる、甘い言葉だっていくらでも言える、俺は、酷くなんか、
「ねぇ」
「!」
「……大丈夫?いつにも増して顔色が悪いけど」
そこで初めて、俺は息を止めていたことに気が付いた。一気に酸素が肺を回って空気が上手く入れ替えられない。あ、ダメだ。これ咳止まんない。
「ゲホ、ひゅ、ゲホッ……だい、じょうぶ、ごめん、ケホッ」
「ちょっと、大丈夫じゃないでしょ」
「大丈夫ですか、よければお水飲んでください」
「あり、がと……ゲホ、ございます……ハ、ひゅっ」
千弦が水を差し出してくれる。その顔には心配が滲んでいた。でも、今飲んだら確実にこぼすからどうしても受け取れなかった。
「すぐ落ち着くから、だいじょうぶ。一旦みず……おいといて」
「……えぇ、分かった」
数分は息を整えてたかな、なんとか立て直した俺はマスターの用意してくれた水を飲んで少し落ち着いた。
「ごめん、心配かけた。やっぱちょっと体調悪いみたい、今日は帰るわ」
「そう、優子さんには伝えておくから。ゆっくり休んで」
「うん、ありがと。じゃあね」
そう言って二人分の会計を済ませた俺は、足元の覚束無いままなんとか家に帰って、それからのことは覚えてない。
『じゃあね』
「……ちゃんと帰れてるといいけど」
その日の夜、窓際で一人呑んでいた。端の欠けた歪な形の大きい月の日だった。
なんだか眠れなくて、珍しくパジャマを着た後に缶を開けたの。もう歯だって磨いたのに、二度手間になってしまう。それでも面倒より眠れないが勝って、甘い缶を開けた。
「……甘い。もう少し辛いのにすれば良かった」
酒に罪はないけれど、仕方がないから苛立ちを缶の中身に擦り付けた。もう一度口に含むけれどやっぱり甘ったるい。
そういえば、あの男と会う日はいつも甘い酒を飲んでる気がする。無意識ね、あの男に甘さなんて抱いた事ないのに。
『オネーサン。酒、詳しい?』
それが雲に隠れて薄暗くなった時、ふと私達の出会いを思い出した。
「……そういえば、出会ってから半年くらいかしら」
唐突に声をかけられたあの日、私は虫の居所が悪かった。クライアントは無茶苦茶な事を言うし煙草を買いに行けばいつもの店舗は売り切れていたし、何だか何もかも上手くいかない日だった気がする。
やっと買えた煙草を咥えはじめてすぐだったわね、声をかけられたのは。いかにもチャラそうな男。容姿も纏う空気も自堕落が息をしてるみたいで私の苛立ちを加速させた。やっと行ったと思ったら帰ってきて一緒に来いとか言うし。どう考えてもあの顔は確信犯だったわ、と今思い返しても思う。
……でも、あの日のお酒はなんだかいつもより美味しかった。
人と呑むなんて久しぶりだったけれど、変に踏み込んでこないあの男との会話はある意味楽だった。お互いに上澄みを掬って綺麗なところだけを見る。あちらも深いところを見ようとしないし私だって興味ない。それが許される関係は初めてで、案外心地良かった。
だからかしら、いつの間にか違和感の方が目に付くようになったのは。
いつからだったかは覚えてない。けれど確実にあいつは私を避けるようになった。
いつもの場所にもバーにも来ないし本屋にもいない。久しぶりに会っても全然目が合わないし、心地いい沈黙というよりあっちがぼーっとしてるだけって感じ。挙句の果てに今日は体調を崩して帰ったし。確実に、前までとは何かが違う。歯車が変に噛み合って回らなくなったような気持ち悪い違和感がずっと付き纏って離れない。
『あは、いいじゃん。面白いね』
そんな事を言っていた時の顔がやけに瞼の裏に残っている。少しやつれた顔、乾いた唇。目に光なんてなくて目線も少し俯いていた。
一般的に「暗い」と言われるような顔、かしら。元気がないとも違う、生気がないという表情。
いつでもへらへら笑っていた彼からは見たこともない顔。でも私はその顔を知ってる。
だって、鏡で見た事があったもの。
「……ほんと、いい加減にしてくれないかしら」
期待するのも、期待されるのも嫌い。
私は誰かに振り回されるのをやめたの。全部自分で決めるし責任だって自分で取る。
だからこそ、相手のせいでどうにもならない今がもどかしくて耐えられない。
何よりも、私の傍にいるくせに勝手に萎れていくのが許せなかった。
いつもの煙草に火をつけてその人工的な煙で肺を満たす。ストレスから離れるためのものなのに、結局スッキリするようなしないような曖昧な気分で大きく濁った煙を吐き出した。
「どうしたものかしらね」
見上げた月は相変わらず欠けているくせに、光だけは眩く威勢を張っていた。
きっとそのうちまた雲に隠れるでしょうけど、それでもいい。月が居なくなった訳じゃないのならまた光が届く日は来るのだから。
そして数日後、私は用があって優子さんの営む花屋を覗いた。
「優子さん、数日ぶりね。体調には変わりない?」
「えぇ! 元気いっぱいよ。今日は何か見ていく?」
「今日は撮影で使うから向日葵を3本ほど頂きたいの。あるかしら」
向日葵ね、大振りな方がいいの? なんて聞きながら店の奥へ進む優子さん。私も続いて薄暗い店内に足を進めた。
花を見ながら注文をしている最中、思い出したかのように彼女が口を開いた。
「そういえばだいぶ前に千弦ちゃんが連れてた男の人、この前ウチに来たよ」
「え? あぁ、もしかしてあの黒髪のチャラチャラした男?」
あんなに体調を悪くしていた彼がこんなにすぐ花屋に来てたとは思わなかったけれど、行きたいって言ってたのは本心だったのね。
この前のバーでの会話を思い出しながら、穏やかに語る優子さんの話を聞く。
「そうよ、なんだかやつれてて心配になったんだけどね。紫のアネモネを一輪買って帰っていったわ。暗い顔したまま花を大事そうに抱えてふらふらとね」
「ふぅん……」
アネモネ、ねぇ。そんな体調でわざわざ買いに来て……そこにどんな意図があったのか私には分からないけれど。
『丁寧な暮らしできそうじゃん』
……どこまでが、本心だったのかしら。
「はい、包めたわよ千弦ちゃん。暑いんだから貴方も体労りなさいね」
「……えぇ。ありがとう優子さん、また来るわ」
包まれた向日葵は真っ直ぐ前を見つめている。きっと、今の私に向日葵は似合わないわね。
自然と苦い笑みがこぼれた。まぁ、今の私が考えたところで答えなんて出ないわ。
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