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プロローグ 透明なインクで書かれた明日
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⚫︎運命の書、ただし俺のページは白紙
「――絶対だぞ!」
「おう! 負けた方が、勝った方の言うことなんでも聞くんだからな!」
記憶の中の俺たちはいつだって鮮やかだ。
網膜に焼き付いた茜色は七年経った今でも少しも色褪せることなく、むしろ時間が経てば経つほど現実の風景よりもリアルに明滅している。
あの日の指切りの感触。
小指に残る少し汗ばんだ熱とざらついた痛み。
それが俺の世界にあった最後の「確かな熱量」だったのかもしれない。
ふっ、と意識が浮上する。
鼓膜を揺らすのは無機質なチャイムの音とクラスメイトたちのざわめき。
窓の外を見れば、あの日と同じ太陽が沈もうとしているのに今の俺の目にはそれはただの「燃焼ガスと塵の塊」にしか見えなかった。
高校二年生、春。
青葉一樹の日常は驚くほど平坦で凪いだ海のように変化がない。
小説家になりたいなんていう熱い夢はいつの間にか偏差値とか進路希望調査票とかいう現実の紙切れの下に埋もれてしまった。
「……帰るか」
誰に言うでもなく呟いて俺は鞄を肩に担ぐ。
教室の喧騒はまるでガラスの向こう側の出来事みたいに遠い。
俺の時間は、あの日莉緒がいなくなったあの瞬間から本当は一秒たりとも進んでいないんじゃないか。
そんな錯覚すら覚える。
退屈だ。
死ぬほど、退屈だ。
灰色の絵の具をぶちまけたような通学路を俺は今日も亡霊みたいに歩く。
このまま大人になって、就職して、老いて、死ぬ。
そのレールが見えてしまっていることが何よりも恐ろしかった。
その時だった。
「……あ?」
いつもの通学路。
見飽きたはずの風景の裂け目に異質な「何か」が混じり込んでいることに気づいたのは。
雑居ビルと民家の隙間。
普段なら猫一匹通らないような狭い路地の奥にぼんやりとした灯りが灯っている。
まるでそこだけ空気が澱んでいるような、あるいはそこだけ時間の流れが凝固しているような、奇妙な静けさ。
吸い寄せられるように俺は路地へと足を踏み入れた。
アスファルトの匂いが消え、代わりに鼻腔をくすぐるのは、古い紙と、湿った木材、そして微かな防虫剤の匂い。 それは時間の死骸の匂いによく似ていた。
目の前に現れたのは一軒の古びた店だった。
蔦が絡まり、壁の塗装は剥げ落ち、まるで廃墟寸前のように見える。
けれど木製の看板には掠れた文字でこう記されていた。
『時詠堂(ときよみどう)』
古本屋、か。
こんな場所に店なんてあったか?
いや、そんな疑問すら今の俺にはどうでもよかった。
何かに呼ばれている。
背筋を冷たい指でなぞられるようなゾクリとする感覚。
俺の心臓にこびりついた灰色の退屈をこの扉の向こうにある「何か」なら、拭い去ってくれるんじゃないか。
ギィィィィ……。
重たい木の扉を押し開けるとカウベルが鳴る代わりに積もった埃が舞い上がった。
店内は薄暗く、外の世界とは完全に隔絶されていた。
床から天井まで壁という壁を埋め尽くす本、本、本。 背表紙の文字はどれも金文字でタイトルは見たこともない言語のものばかりだ。
迷路のように入り組んだ書棚の間を俺は当てもなく彷徨う。
「いらっしゃいませ」とか、そういう気の利いた挨拶はない。
カウンターの奥には店主らしき老人が一人。
分厚い眼鏡をかけ古書のページを繰るその手はまるで枯れ木のように細く、動いているのかどうかも怪しい。
まるで化石だ。
(つまんねーの)
心の中で悪態をつく。
魔法みたいなことが起きるわけじゃない。
異世界への扉が開くわけでもない。
ただの古ぼけた本屋だ。
俺の期待なんて、所詮こんなもんだ。
帰ろう。
そう思って踵を返しかけた、その時。
――キラリ。
一番奥の棚。
暗闇に沈むその隙間から鋭い光が俺の網膜を刺した。
埃っぽい店内に差し込む夕日の残滓が何かに反射したのか?
いや、違う。
それはまるで、「こっちへ来い」と手招きするような明確な意思を持った輝きだった。
ドクン、と心臓が跳ねる。
俺は吸い寄せられるようにその棚の前へと歩み寄った。
指先が震える。
何があるのかわからない。
でも、これだけは確信できる。
俺は、この瞬間のために今日ここに来たんだ。
手を伸ばす。
指先に触れたのはひやりとした革の感触。
まるで生き物の肌のような、滑らかでそれでいて重厚な手触り。
棚から引きずり出したそれは一冊の本だった。
ずしりと重い。
何百年も前の洋書のような豪華な装丁。
そして俺は息を呑んだ。
表紙の中央、鈍い金色の箔押しで見間違えようのない「文字」が刻まれていたからだ。
『青葉一樹年代記』
「……は?」
声が喉からマヌケに漏れた。
青葉、一樹。
俺の名前だ。
なんだこれ。
新手のドッキリか?
誰かの悪質な悪戯か?
周囲を見回すが客は俺一人。
化石のような店主はピクリとも動かない。
手のひらに冷や汗が滲む。
表紙を開くのが怖い。
けれどそれ以上に、抗いがたい好奇心が俺の指を動かした。
パサリ。
乾いた音を立てて表紙がめくられる。
そこに印刷されていたのは古風な明朝体。
そして俺の記憶の底にある風景そのものだった。
『第一章:誕生。西暦二〇〇九年四月十五日。青葉一樹は、春の柔らかな日差しの中、産声と共にこの世界に生を受けた』
「うわっ……」
思わず本を取り落としそうになる。
日付も時間も、俺の誕生日と完全に一致している。
ただの偶然?
いや、そんなレベルじゃない。
ページをめくる手が止まらない。
加速する鼓動。
呼吸が浅くなる。
『三歳の夏、彼は初めて補助輪なしの自転車に挑戦し、膝を擦りむきながらも成功。母の作るハンバーグを楽しみに帰宅した』
『五歳の秋、幼稚園のお遊戯会。「桃太郎」の犬役で緊張のあまり舞台上でおしっこを漏らし、彼の初恋は桜と共に散った』
「ああああああ! なんで知ってんだよこんな黒歴史!」
誰もいない店内で俺は頭を抱えて叫んだ。
顔から火が出そうだ。
これはただの伝記じゃない。
俺の脳味噌の中身を、俺の人生のすべてを、勝手に覗き見してインクに変えた最悪のストーキング・ブックだ。
莉緒との出会い。
喧嘩した日。
一緒に食べた駄菓子の味。
そして、あの夕焼けの約束。
『少年たちは指切りをし、互いの夢を語り合った。それが、二人の運命が交錯する最後の瞬間になるとも知らずに』
胸がズキリと痛む。
まるでプロの作家が書いたみたいに、情景豊かに、残酷なほど淡々と俺の人生が綴られている。
読むのが怖い。
でも、読まずにはいられない。
俺の人生はこの後どうなる?
俺は小説家になれるのか?
莉緒とはもう一度会えるのか?
ページをめくる指が熱を帯びる。
昨日のページ。
今日のページ。
『彼は古本屋へと足を踏み入れ、運命の書と出会う』
まさに、今この瞬間のことまで書かれている。
そして。
俺は震える手で「明日」のページをめくった。
「…………え?」
思考が凍りついた。
そこにあったのは文字ではなかった。
物語でもなかった。
白。
ただ、無限に広がる白紙。
次のページも、その次のページも。
どこまでめくっても、一文字も印刷されていない真っ白な紙が続くだけ。
『――こうして、彼の高校二年生、春の一日は終わる』
昨日の夕食に生姜焼きを食べた記述を最後に、俺の物語は唐突に断絶していた。
「嘘だろ……?」
背筋を冷たい汗が伝う。
これは、どういうことだ。
俺の人生はここで終わりってことか?
明日、俺は死ぬのか?
それとも俺には「未来」なんて存在しないとでも言うのか?
「代金は結構じゃ」
不意にしゃがれた声が響いた。
心臓が飛び跳ねるほど驚いて顔を上げると、いつの間にかレジの奥からあの化石のような店主が俺を見つめていた。 分厚い眼鏡の奥、ギョロリとした瞳が俺の魂の底まで見透かしているようで息が詰まる。
「ほう。この物語がお主を選ぶか」
「あ、あの、これ……俺の名前が……」
「持っていくがよい。それはお主の本じゃ」
店主はシワだらけの手で追い払うように手を振った。
「ただし、一つだけ忠告しておこう」
「忠告……?」
「物語の結末は、書き手であるお主次第じゃ。決して物語に飲まれるでないぞ」
意味がわからない。
問い詰めようとしたが、店主は再び手元の本に視線を落とし、石像のように動かなくなってしまった。
半ば追い出されるようにして俺は店を出た。
外はもうすっかり夜になっていた。
街灯の光が抱え込んだ本の革表紙を鈍く照らす。
『青葉一樹年代記』
ずしりとした重みが腕に残る。
俺は自分の未来が書かれていない本を抱きしめたまま、逃げるように家路を急いだ。
自室のベッドに本を放り出し改めてページを開く。
何度見ても結果は同じだ。
今日のページまでは俺の人生が克明に記されている。
けれど、明日のページからは完全な白紙。
「俺の未来は……空っぽ、か」
天井を見上げる。
蛍光灯の光が目に染みた。
七年前に莉緒がいなくなってから、俺の世界から色が消えたと思っていた。
でも、そうじゃなかったんだ。
俺自身が止まっていたんだ。
あの日から一歩も進まず、ただ惰性で生きてきた俺には語るべき未来なんて何一つない。
この本はその残酷な事実を突きつけているだけだ。
『白紙』
その圧倒的な虚無が俺の胸に重くのしかかる。
もし、この先もずっと、何も書かれないままだったら?
俺の人生は誰にも読まれることのない、打ち切り漫画みたいに終わるのか?
「……ふざけんなよ」
奥歯を噛み締める。
冗談じゃない。
俺の物語はまだ始まってすらいないはずだ。
約束だって果たしていない。
タワーマンションも、スポーツカーも、世界中を泣かせる小説も。
何一つ叶えていないじゃないか。
「書いてやるよ……」
俺は白紙のページを睨みつけた。
誰も書かないなら俺が書いてやる。
退屈で、灰色で、死んだような毎日を俺の手で塗り替えてやる。
その時、窓の外から風が吹き込んだ。
机の上のカレンダーがパラリとめくれ、一枚の花びらが舞い込んでくる。
桜だ。
春の夜の匂いがした。
予感がする。
この白紙のページは終わりじゃない。
これは、余白だ。
これから俺が、何かを――あるいは「誰か」と出会い、刻んでいくための広大なキャンバスなんじゃないか。
俺はまだ知らない。
この白紙のページに、まさか明日、あんな文字が浮かび上がることになるなんて。
そして、止まっていた俺の時間を強引に動かす台風みたいな「彼女」が帰ってくるなんてことを。
物語はまだ終わらない。
いや――ここからが、本当の始まりだ。
「――絶対だぞ!」
「おう! 負けた方が、勝った方の言うことなんでも聞くんだからな!」
記憶の中の俺たちはいつだって鮮やかだ。
網膜に焼き付いた茜色は七年経った今でも少しも色褪せることなく、むしろ時間が経てば経つほど現実の風景よりもリアルに明滅している。
あの日の指切りの感触。
小指に残る少し汗ばんだ熱とざらついた痛み。
それが俺の世界にあった最後の「確かな熱量」だったのかもしれない。
ふっ、と意識が浮上する。
鼓膜を揺らすのは無機質なチャイムの音とクラスメイトたちのざわめき。
窓の外を見れば、あの日と同じ太陽が沈もうとしているのに今の俺の目にはそれはただの「燃焼ガスと塵の塊」にしか見えなかった。
高校二年生、春。
青葉一樹の日常は驚くほど平坦で凪いだ海のように変化がない。
小説家になりたいなんていう熱い夢はいつの間にか偏差値とか進路希望調査票とかいう現実の紙切れの下に埋もれてしまった。
「……帰るか」
誰に言うでもなく呟いて俺は鞄を肩に担ぐ。
教室の喧騒はまるでガラスの向こう側の出来事みたいに遠い。
俺の時間は、あの日莉緒がいなくなったあの瞬間から本当は一秒たりとも進んでいないんじゃないか。
そんな錯覚すら覚える。
退屈だ。
死ぬほど、退屈だ。
灰色の絵の具をぶちまけたような通学路を俺は今日も亡霊みたいに歩く。
このまま大人になって、就職して、老いて、死ぬ。
そのレールが見えてしまっていることが何よりも恐ろしかった。
その時だった。
「……あ?」
いつもの通学路。
見飽きたはずの風景の裂け目に異質な「何か」が混じり込んでいることに気づいたのは。
雑居ビルと民家の隙間。
普段なら猫一匹通らないような狭い路地の奥にぼんやりとした灯りが灯っている。
まるでそこだけ空気が澱んでいるような、あるいはそこだけ時間の流れが凝固しているような、奇妙な静けさ。
吸い寄せられるように俺は路地へと足を踏み入れた。
アスファルトの匂いが消え、代わりに鼻腔をくすぐるのは、古い紙と、湿った木材、そして微かな防虫剤の匂い。 それは時間の死骸の匂いによく似ていた。
目の前に現れたのは一軒の古びた店だった。
蔦が絡まり、壁の塗装は剥げ落ち、まるで廃墟寸前のように見える。
けれど木製の看板には掠れた文字でこう記されていた。
『時詠堂(ときよみどう)』
古本屋、か。
こんな場所に店なんてあったか?
いや、そんな疑問すら今の俺にはどうでもよかった。
何かに呼ばれている。
背筋を冷たい指でなぞられるようなゾクリとする感覚。
俺の心臓にこびりついた灰色の退屈をこの扉の向こうにある「何か」なら、拭い去ってくれるんじゃないか。
ギィィィィ……。
重たい木の扉を押し開けるとカウベルが鳴る代わりに積もった埃が舞い上がった。
店内は薄暗く、外の世界とは完全に隔絶されていた。
床から天井まで壁という壁を埋め尽くす本、本、本。 背表紙の文字はどれも金文字でタイトルは見たこともない言語のものばかりだ。
迷路のように入り組んだ書棚の間を俺は当てもなく彷徨う。
「いらっしゃいませ」とか、そういう気の利いた挨拶はない。
カウンターの奥には店主らしき老人が一人。
分厚い眼鏡をかけ古書のページを繰るその手はまるで枯れ木のように細く、動いているのかどうかも怪しい。
まるで化石だ。
(つまんねーの)
心の中で悪態をつく。
魔法みたいなことが起きるわけじゃない。
異世界への扉が開くわけでもない。
ただの古ぼけた本屋だ。
俺の期待なんて、所詮こんなもんだ。
帰ろう。
そう思って踵を返しかけた、その時。
――キラリ。
一番奥の棚。
暗闇に沈むその隙間から鋭い光が俺の網膜を刺した。
埃っぽい店内に差し込む夕日の残滓が何かに反射したのか?
いや、違う。
それはまるで、「こっちへ来い」と手招きするような明確な意思を持った輝きだった。
ドクン、と心臓が跳ねる。
俺は吸い寄せられるようにその棚の前へと歩み寄った。
指先が震える。
何があるのかわからない。
でも、これだけは確信できる。
俺は、この瞬間のために今日ここに来たんだ。
手を伸ばす。
指先に触れたのはひやりとした革の感触。
まるで生き物の肌のような、滑らかでそれでいて重厚な手触り。
棚から引きずり出したそれは一冊の本だった。
ずしりと重い。
何百年も前の洋書のような豪華な装丁。
そして俺は息を呑んだ。
表紙の中央、鈍い金色の箔押しで見間違えようのない「文字」が刻まれていたからだ。
『青葉一樹年代記』
「……は?」
声が喉からマヌケに漏れた。
青葉、一樹。
俺の名前だ。
なんだこれ。
新手のドッキリか?
誰かの悪質な悪戯か?
周囲を見回すが客は俺一人。
化石のような店主はピクリとも動かない。
手のひらに冷や汗が滲む。
表紙を開くのが怖い。
けれどそれ以上に、抗いがたい好奇心が俺の指を動かした。
パサリ。
乾いた音を立てて表紙がめくられる。
そこに印刷されていたのは古風な明朝体。
そして俺の記憶の底にある風景そのものだった。
『第一章:誕生。西暦二〇〇九年四月十五日。青葉一樹は、春の柔らかな日差しの中、産声と共にこの世界に生を受けた』
「うわっ……」
思わず本を取り落としそうになる。
日付も時間も、俺の誕生日と完全に一致している。
ただの偶然?
いや、そんなレベルじゃない。
ページをめくる手が止まらない。
加速する鼓動。
呼吸が浅くなる。
『三歳の夏、彼は初めて補助輪なしの自転車に挑戦し、膝を擦りむきながらも成功。母の作るハンバーグを楽しみに帰宅した』
『五歳の秋、幼稚園のお遊戯会。「桃太郎」の犬役で緊張のあまり舞台上でおしっこを漏らし、彼の初恋は桜と共に散った』
「ああああああ! なんで知ってんだよこんな黒歴史!」
誰もいない店内で俺は頭を抱えて叫んだ。
顔から火が出そうだ。
これはただの伝記じゃない。
俺の脳味噌の中身を、俺の人生のすべてを、勝手に覗き見してインクに変えた最悪のストーキング・ブックだ。
莉緒との出会い。
喧嘩した日。
一緒に食べた駄菓子の味。
そして、あの夕焼けの約束。
『少年たちは指切りをし、互いの夢を語り合った。それが、二人の運命が交錯する最後の瞬間になるとも知らずに』
胸がズキリと痛む。
まるでプロの作家が書いたみたいに、情景豊かに、残酷なほど淡々と俺の人生が綴られている。
読むのが怖い。
でも、読まずにはいられない。
俺の人生はこの後どうなる?
俺は小説家になれるのか?
莉緒とはもう一度会えるのか?
ページをめくる指が熱を帯びる。
昨日のページ。
今日のページ。
『彼は古本屋へと足を踏み入れ、運命の書と出会う』
まさに、今この瞬間のことまで書かれている。
そして。
俺は震える手で「明日」のページをめくった。
「…………え?」
思考が凍りついた。
そこにあったのは文字ではなかった。
物語でもなかった。
白。
ただ、無限に広がる白紙。
次のページも、その次のページも。
どこまでめくっても、一文字も印刷されていない真っ白な紙が続くだけ。
『――こうして、彼の高校二年生、春の一日は終わる』
昨日の夕食に生姜焼きを食べた記述を最後に、俺の物語は唐突に断絶していた。
「嘘だろ……?」
背筋を冷たい汗が伝う。
これは、どういうことだ。
俺の人生はここで終わりってことか?
明日、俺は死ぬのか?
それとも俺には「未来」なんて存在しないとでも言うのか?
「代金は結構じゃ」
不意にしゃがれた声が響いた。
心臓が飛び跳ねるほど驚いて顔を上げると、いつの間にかレジの奥からあの化石のような店主が俺を見つめていた。 分厚い眼鏡の奥、ギョロリとした瞳が俺の魂の底まで見透かしているようで息が詰まる。
「ほう。この物語がお主を選ぶか」
「あ、あの、これ……俺の名前が……」
「持っていくがよい。それはお主の本じゃ」
店主はシワだらけの手で追い払うように手を振った。
「ただし、一つだけ忠告しておこう」
「忠告……?」
「物語の結末は、書き手であるお主次第じゃ。決して物語に飲まれるでないぞ」
意味がわからない。
問い詰めようとしたが、店主は再び手元の本に視線を落とし、石像のように動かなくなってしまった。
半ば追い出されるようにして俺は店を出た。
外はもうすっかり夜になっていた。
街灯の光が抱え込んだ本の革表紙を鈍く照らす。
『青葉一樹年代記』
ずしりとした重みが腕に残る。
俺は自分の未来が書かれていない本を抱きしめたまま、逃げるように家路を急いだ。
自室のベッドに本を放り出し改めてページを開く。
何度見ても結果は同じだ。
今日のページまでは俺の人生が克明に記されている。
けれど、明日のページからは完全な白紙。
「俺の未来は……空っぽ、か」
天井を見上げる。
蛍光灯の光が目に染みた。
七年前に莉緒がいなくなってから、俺の世界から色が消えたと思っていた。
でも、そうじゃなかったんだ。
俺自身が止まっていたんだ。
あの日から一歩も進まず、ただ惰性で生きてきた俺には語るべき未来なんて何一つない。
この本はその残酷な事実を突きつけているだけだ。
『白紙』
その圧倒的な虚無が俺の胸に重くのしかかる。
もし、この先もずっと、何も書かれないままだったら?
俺の人生は誰にも読まれることのない、打ち切り漫画みたいに終わるのか?
「……ふざけんなよ」
奥歯を噛み締める。
冗談じゃない。
俺の物語はまだ始まってすらいないはずだ。
約束だって果たしていない。
タワーマンションも、スポーツカーも、世界中を泣かせる小説も。
何一つ叶えていないじゃないか。
「書いてやるよ……」
俺は白紙のページを睨みつけた。
誰も書かないなら俺が書いてやる。
退屈で、灰色で、死んだような毎日を俺の手で塗り替えてやる。
その時、窓の外から風が吹き込んだ。
机の上のカレンダーがパラリとめくれ、一枚の花びらが舞い込んでくる。
桜だ。
春の夜の匂いがした。
予感がする。
この白紙のページは終わりじゃない。
これは、余白だ。
これから俺が、何かを――あるいは「誰か」と出会い、刻んでいくための広大なキャンバスなんじゃないか。
俺はまだ知らない。
この白紙のページに、まさか明日、あんな文字が浮かび上がることになるなんて。
そして、止まっていた俺の時間を強引に動かす台風みたいな「彼女」が帰ってくるなんてことを。
物語はまだ終わらない。
いや――ここからが、本当の始まりだ。
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