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第一章 色褪せた世界と、インクの雨
運命の再会とインクの雨
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その日は久しぶりに彼女の夢を見た。
夢の中の世界は目が痛くなるほど鮮やかだった。
蝉時雨が降り注ぐ真夏の午後。
アスファルトから立ち上る陽炎の向こうから小さな影が走ってくる。
『カズー! 遅いぞー!』
麦わら帽子からはみ出した短い黒髪。
日焼けした肌にカサブタだらけの膝小僧。
クワガタを片手に太陽みたいに笑う「彼」――いや、彼女。
橘莉緒。
俺たちは無敵だった。
自転車で隣町の境界線を超えた時も、廃工場に秘密基地を作った時も。
莉緒が隣にいれば世界のどこへだって行ける気がした。
怖かった近所の雷親父も、夕暮れの帰り道の寂しさも、二人なら全部冒険の一部に変えられた。
『ねえ、カズ』
場面が変わる。
茜色の夕焼け。
ブランコが軋む音。
莉緒が珍しく真剣な顔で俺を見ている。
『ずっと、一緒にいような』
それは、子供じみた約束。
だけど、あの時の俺たちにとっては世界のどんな法律よりも絶対的な契約だった。
指切りの感触。
繋いだ手の温もり。
それが永遠に続くと信じていた、愚かで眩しい日々。
そして、唐突に訪れる別れ。
引っ越しトラックの排気ガス。
遠ざかっていく莉緒の背中。
手を振ることさえできず、ただ立ち尽くしていた俺の視界が涙で歪んでいく――。
「…………」
目が覚めると枕が冷たく湿っていた。
「……最悪だ」
腕で目元を覆い、重たい息を吐く。
なんで今更あんな夢を見るんだ。
七年も前のことだぞ。
もう顔だってぼやけてきているはずなのに、夢の中の莉緒は昨日のことみたいに鮮明だった。
ベッドの脇に視線をやる。
そこには昨夜古本屋で手に入れた『青葉一樹年代記』が無機質な革の光沢を放って置かれていた。
手を伸ばしページをめくる。
『高校二年生、春』。
そこまでは記述がある。
だが、今日の日付のページはやはり雪原のように真っ白なままだった。
「夢は鮮やかなのに、現実は白紙かよ」
自嘲気味に呟いて俺はベッドから這い出した。
夢の余韻が胸の奥に棘のように刺さっている。
あの頃の俺たちは自分たちが世界の主人公だと信じて疑わなかった。
でも現実は違った。
俺は、自分の未来ひとつ描けないただのモブキャラだったんだ。
重たい体を動かし制服に着替える。
何気なく机の上の『運命の書』を手に取った。
置いていくべきか迷ったが、なぜか離れてはいけない気がして教科書と一緒に通学鞄の底に押し込む。
ずしりとした重みが鞄を通して腰に伝わる。
それが、俺の空っぽな心を埋める唯一の重石みたいだった。
学校へ向かう足取りは重い。
いつもの通学路。
いつもの信号待ち。
クラスメイトたちの他愛ない会話がBGMのように通り過ぎていく。
世界はこんなにも騒がしいのに、俺の周りだけ透明な壁があるみたいに静かだ。
(今日もまた、何も起きない一日が始まる)
そう思っていた。
教室の自分の席――窓際の後ろから二番目という、いかにもな席に鞄を置き気怠げに頬杖をつく。
ホームルームのチャイムが鳴り担任の佐々木先生が入ってくるまでは。
「えー、席につけ。今日は朝から大事なニュースがあるぞ」
先生の声が少し上擦っていることに俺は気づかなかった。
クラスの連中も「どうせ小テストだろ」なんて軽口を叩いている。
「転校生だ。入ってきていいぞ」
その一言で教室の空気が変わった。
転校生。
退屈な学園生活における最大級のイベント。
男子たちが色めき立ち、女子たちが興味津々の視線をドアに向ける。
ガララ……。
教室の引き戸がゆっくりと開いた。
一歩、その人物が教室に足を踏み入れた瞬間。
ざわついていた教室が水を打ったように静まり返った。
そこに立っていたのは、光だった。
窓から差し込む朝の陽光を浴びて、ハニーブラウンの長い髪がキラキラと輝いている。
透き通るような白い肌。
長い睫毛に縁取られた意志の強さを感じさせる大きな瞳。
制服のリボンが窮屈そうな、発育の良い胸元。
モデル、いや、それ以上だ。
作り物めいた美しさではなく、圧倒的な「生命力」を放つ美少女がそこにいた。
息を呑む音があちこちから聞こえる。
俺もまた、頬杖をついたまま固まっていた。
綺麗だ。
素直にそう思った。
自分とは住む世界が違う、物語のヒロインみたいなやつだ、と。
彼女は黒板の前に立つと、チョークを手に取り流れるような文字で名前を書いた。
カツ、カツ、カツ。
固い音が教室に響く。
書き終えられたその文字を見て俺の思考は停止した。
『橘 莉緒』
「……は?」
声が出たのが自分なのか、他の誰かなのかわからなかった。
タチバナ、リオ?
嘘だろ。
ありふれた名前じゃない。
でも、まさか。
俺の記憶の中の莉緒は日に焼けた短髪の「少年」だ。 こ
んな、歩くだけで花が咲きそうな美少女じゃない。
同姓同名?
それとも俺がまだ夢を見ているのか?
混乱する俺の視線になど気づかず、彼女はチョークを置きくるりとクラスの方を向いた。
そして、ニッと――まるで悪戯を見つけた子供のように笑った。
「海外から戻ってきました、橘莉緒です。日本のこといろいろ教えてね!」
その笑顔を見た瞬間。
俺の脳裏で今朝見た夢の映像がフラッシュバックした。
夕焼けの中で笑う泥だらけの親友の顔。
その面影が目の前の美少女と完璧に重なった。
(嘘だろ……お前、本当に……?)
心臓が早鐘を打つ。
全身の血が逆流するような衝撃。
先生が何か言っているが全く耳に入らない。
彼女の視線が教室中を巡る。
そして窓際の、マヌケ面を晒している俺のところでピタリと止まった。
彼女の瞳が驚きに見開かれる。
次の瞬間、その綺麗な顔がくしゃりと懐かしい形に歪んだ。
「――っ!」
彼女は先生の指示も待たず、ツカツカと教室を横切って歩き出した。
真っ直ぐに。
俺の元へ。
クラス中が呆気にとられて道を開ける。
彼女の放つ甘い香りが俺の鼻先を掠める。
そして俺の机の前で立ち止まると、彼女は腰に手を当てて片目を瞑ってみせた。
「よっ、カズ! 久しぶり! 生きてたか?」
その声。
そのイントネーション。
七年前と変わらない、少しハスキーでやんちゃな響き。
「り……お……?」
「おうよ。なんだその顔、幽霊でも見たみたいに。へへっ、驚いた? 綺麗になりすぎててわかんなかった?」
彼女は悪戯っぽく舌を出して笑う。
間違いない。
この遠慮のない距離感。
俺をからかう時の表情。
中身はあの時のままだ。
ガキ大将の莉緒が、とびきりの美少女の皮を被って帰ってきたんだ。
「お前……なんで……」
「親父の仕事の都合。ま、いろいろあってさ。……っと、席ここか。ラッキー、隣じゃん」
彼女は当然のように、俺の隣の空席に鞄を置いた。
ドサリ、という音が現実感を連れてくる。
クラス中の視線が俺と莉緒に突き刺さる。
「おい、青葉どういうことだ」
「知り合いかよ」
「羨ましすぎるだろ」
嫉妬と好奇心の入り混じったヒソヒソ声が津波のように押し寄せてくる。
だが、今の俺にはそれどころではない「異変」が起きていた。
あつい。
足元に置いた通学鞄。
その底からカイロを握りしめたような熱が伝わってくるのだ。
いや、カイロなんて生ぬるいもんじゃない。
まるで焼けた石が入っているみたいに急速に温度が上がっていく。
(なんだ!?)
俺は慌てて鞄に手をやる。
熱源は、間違いなくあの中に入れた『運命の書』だ。
布越しでもわかる。
本が脈打っている。
ドクン、ドクンと、まるで俺の心臓と共鳴するように。
チラリと鞄の隙間を覗く。
暗がりの中で、本の革表紙が、淡い、けれど力強い光を放っていた。
今まで見たこともない金色の燐光。
『――再会をきっかけに、白紙だったはずの本に、未来が綴られ始める』
店主の言葉ではないが直感が告げていた。
今だ。
今、何かが起きている。
止まっていた俺の時間が、この再会をトリガーにして爆発的に動き出そうとしているんだ。
「おい、カズ? どうした、顔赤いぞ」
莉緒が心配そうに顔を覗き込んでくる。
その顔があまりにも近くて俺はのけぞりそうになった。
心臓がうるさい。
本の熱なのか、彼女への動揺なのかもうわけがわからない。
「な、なんでもない! ちょっとトイレ!」
俺は鞄をひったくるように掴むと立ち上がった。
「あ、おい青葉!」
という先生の制止も振り切り、脱兎のごとく教室を飛び出す。
背後で莉緒が「あはは、あいつ相変わらずだなー」と笑っているのが聞こえた。
廊下を全力疾走する。
心臓が破裂しそうだ。
人気のない渡り廊下の隅まで走り、俺は荒い息を整えながら震える手で鞄を開いた。
熱を帯びた『運命の書』を取り出す。
表紙の文字が生き物のように明滅している。
ゴクリ、と唾を飲み込む。
開くぞ。
俺の、白紙の未来を。
意を決して、ページをめくる。
昨日まで真っ白だった今日のページ。
「…………っ!」
息を呑んだ。
そこには文字が浮かび上がっていた。
だが、それは今までのような黒いインクではない。
茜色だ。
あの日の夕焼けと同じ、鮮烈で、少し切ない茜色の文字が白紙のページに滲み出すように次々と刻まれていく。
まるで見えないペンが猛スピードで走っているかのように。
『西暦二〇二五年、四月×日。運命の歯車が軋みを上げて回り出す』
『七年の時を超え、かつての友は誰よりも美しい少女となって少年の前に現れた』
『その再会は偶然ではない。止まっていた時計の針を動かすための必然の引力』
文字は止まらない。
ページを埋め尽くし、次のページへ、また次のページへと溢れ出していく。
『彼女の笑顔が、少年の灰色の世界を塗り替えていく』
『放課後の屋上。彼女は少年にこう告げるだろう』
『そして二人は、かつて果たせなかった約束の続きを――』
「おいおい、ちょっと待てよ……」
俺は文字を目で追いながらへたり込むようにその場に座り込んだ。
書かれているのは、これから起きる未来。
それも、胸が締め付けられるような、甘くて、どこか切実な青春のワンシーンばかりだ。
白紙だった俺の未来が莉緒というインクで塗りつぶされていく。
ネタバレなんてレベルじゃない。
これは、俺たちへの「指示書」であり、同時に「予言書」だ。
そして、ページをめくる手が止まった。
最新のページの末尾。
そこで、インクの色が茜色から不吉なほど濃い「深紅」に変わっていた。
『――ただし、幸福な再会には代償が伴う』
『運命の改変は、周囲の未来にも歪みを生じさせる』
『直近の警告:四月二十日。クラスメイト・雛森詩織に回避不能の死が訪れる』
「……え?」
思考が凍りつく。
雛森詩織?
クラスの、あの大人しい……? 死ぬ? 誰が?
幸福なラブストーリーを読んでいたはずが突然突きつけられた死亡宣告。
俺は戦慄きながらその不吉な一文を見つめた。
文字は、乾いたばかりの血のように赤黒く光っている。
チャイムが鳴った。
遠くで、生徒たちの笑い声が聞こえる。
日常は続いている。
けれど、俺の手の中にあるこの本だけが残酷な未来を告げていた。
俺の物語は動き出した。
でもそれは、ただのハッピーエンドに向かう物語なんかじゃなかったんだ。
廊下の向こうからパタパタと軽い足音が近づいてくる。
俺を追いかけてきたのか、莉緒の声が聞こえた。
「おーい、カズー? どこ行ったー?」
その明るい声が、今はひどく胸に染みる。
俺は本を強く握りしめた。
白紙は埋まった。
けれど、そこに書かれた未来を俺はそのまま受け入れなきゃいけないのか?
「……ふざけんな」
俺は呟く。
書かれた通りになんてさせてたまるか。
俺の未来は、俺が選ぶ。
莉緒との再会も、誰かの悲劇も、全部ひっくるめて。
俺は本を鞄にしまうと足音のする方へ顔を上げた。
戦いは、始まったばかりだ。
夢の中の世界は目が痛くなるほど鮮やかだった。
蝉時雨が降り注ぐ真夏の午後。
アスファルトから立ち上る陽炎の向こうから小さな影が走ってくる。
『カズー! 遅いぞー!』
麦わら帽子からはみ出した短い黒髪。
日焼けした肌にカサブタだらけの膝小僧。
クワガタを片手に太陽みたいに笑う「彼」――いや、彼女。
橘莉緒。
俺たちは無敵だった。
自転車で隣町の境界線を超えた時も、廃工場に秘密基地を作った時も。
莉緒が隣にいれば世界のどこへだって行ける気がした。
怖かった近所の雷親父も、夕暮れの帰り道の寂しさも、二人なら全部冒険の一部に変えられた。
『ねえ、カズ』
場面が変わる。
茜色の夕焼け。
ブランコが軋む音。
莉緒が珍しく真剣な顔で俺を見ている。
『ずっと、一緒にいような』
それは、子供じみた約束。
だけど、あの時の俺たちにとっては世界のどんな法律よりも絶対的な契約だった。
指切りの感触。
繋いだ手の温もり。
それが永遠に続くと信じていた、愚かで眩しい日々。
そして、唐突に訪れる別れ。
引っ越しトラックの排気ガス。
遠ざかっていく莉緒の背中。
手を振ることさえできず、ただ立ち尽くしていた俺の視界が涙で歪んでいく――。
「…………」
目が覚めると枕が冷たく湿っていた。
「……最悪だ」
腕で目元を覆い、重たい息を吐く。
なんで今更あんな夢を見るんだ。
七年も前のことだぞ。
もう顔だってぼやけてきているはずなのに、夢の中の莉緒は昨日のことみたいに鮮明だった。
ベッドの脇に視線をやる。
そこには昨夜古本屋で手に入れた『青葉一樹年代記』が無機質な革の光沢を放って置かれていた。
手を伸ばしページをめくる。
『高校二年生、春』。
そこまでは記述がある。
だが、今日の日付のページはやはり雪原のように真っ白なままだった。
「夢は鮮やかなのに、現実は白紙かよ」
自嘲気味に呟いて俺はベッドから這い出した。
夢の余韻が胸の奥に棘のように刺さっている。
あの頃の俺たちは自分たちが世界の主人公だと信じて疑わなかった。
でも現実は違った。
俺は、自分の未来ひとつ描けないただのモブキャラだったんだ。
重たい体を動かし制服に着替える。
何気なく机の上の『運命の書』を手に取った。
置いていくべきか迷ったが、なぜか離れてはいけない気がして教科書と一緒に通学鞄の底に押し込む。
ずしりとした重みが鞄を通して腰に伝わる。
それが、俺の空っぽな心を埋める唯一の重石みたいだった。
学校へ向かう足取りは重い。
いつもの通学路。
いつもの信号待ち。
クラスメイトたちの他愛ない会話がBGMのように通り過ぎていく。
世界はこんなにも騒がしいのに、俺の周りだけ透明な壁があるみたいに静かだ。
(今日もまた、何も起きない一日が始まる)
そう思っていた。
教室の自分の席――窓際の後ろから二番目という、いかにもな席に鞄を置き気怠げに頬杖をつく。
ホームルームのチャイムが鳴り担任の佐々木先生が入ってくるまでは。
「えー、席につけ。今日は朝から大事なニュースがあるぞ」
先生の声が少し上擦っていることに俺は気づかなかった。
クラスの連中も「どうせ小テストだろ」なんて軽口を叩いている。
「転校生だ。入ってきていいぞ」
その一言で教室の空気が変わった。
転校生。
退屈な学園生活における最大級のイベント。
男子たちが色めき立ち、女子たちが興味津々の視線をドアに向ける。
ガララ……。
教室の引き戸がゆっくりと開いた。
一歩、その人物が教室に足を踏み入れた瞬間。
ざわついていた教室が水を打ったように静まり返った。
そこに立っていたのは、光だった。
窓から差し込む朝の陽光を浴びて、ハニーブラウンの長い髪がキラキラと輝いている。
透き通るような白い肌。
長い睫毛に縁取られた意志の強さを感じさせる大きな瞳。
制服のリボンが窮屈そうな、発育の良い胸元。
モデル、いや、それ以上だ。
作り物めいた美しさではなく、圧倒的な「生命力」を放つ美少女がそこにいた。
息を呑む音があちこちから聞こえる。
俺もまた、頬杖をついたまま固まっていた。
綺麗だ。
素直にそう思った。
自分とは住む世界が違う、物語のヒロインみたいなやつだ、と。
彼女は黒板の前に立つと、チョークを手に取り流れるような文字で名前を書いた。
カツ、カツ、カツ。
固い音が教室に響く。
書き終えられたその文字を見て俺の思考は停止した。
『橘 莉緒』
「……は?」
声が出たのが自分なのか、他の誰かなのかわからなかった。
タチバナ、リオ?
嘘だろ。
ありふれた名前じゃない。
でも、まさか。
俺の記憶の中の莉緒は日に焼けた短髪の「少年」だ。 こ
んな、歩くだけで花が咲きそうな美少女じゃない。
同姓同名?
それとも俺がまだ夢を見ているのか?
混乱する俺の視線になど気づかず、彼女はチョークを置きくるりとクラスの方を向いた。
そして、ニッと――まるで悪戯を見つけた子供のように笑った。
「海外から戻ってきました、橘莉緒です。日本のこといろいろ教えてね!」
その笑顔を見た瞬間。
俺の脳裏で今朝見た夢の映像がフラッシュバックした。
夕焼けの中で笑う泥だらけの親友の顔。
その面影が目の前の美少女と完璧に重なった。
(嘘だろ……お前、本当に……?)
心臓が早鐘を打つ。
全身の血が逆流するような衝撃。
先生が何か言っているが全く耳に入らない。
彼女の視線が教室中を巡る。
そして窓際の、マヌケ面を晒している俺のところでピタリと止まった。
彼女の瞳が驚きに見開かれる。
次の瞬間、その綺麗な顔がくしゃりと懐かしい形に歪んだ。
「――っ!」
彼女は先生の指示も待たず、ツカツカと教室を横切って歩き出した。
真っ直ぐに。
俺の元へ。
クラス中が呆気にとられて道を開ける。
彼女の放つ甘い香りが俺の鼻先を掠める。
そして俺の机の前で立ち止まると、彼女は腰に手を当てて片目を瞑ってみせた。
「よっ、カズ! 久しぶり! 生きてたか?」
その声。
そのイントネーション。
七年前と変わらない、少しハスキーでやんちゃな響き。
「り……お……?」
「おうよ。なんだその顔、幽霊でも見たみたいに。へへっ、驚いた? 綺麗になりすぎててわかんなかった?」
彼女は悪戯っぽく舌を出して笑う。
間違いない。
この遠慮のない距離感。
俺をからかう時の表情。
中身はあの時のままだ。
ガキ大将の莉緒が、とびきりの美少女の皮を被って帰ってきたんだ。
「お前……なんで……」
「親父の仕事の都合。ま、いろいろあってさ。……っと、席ここか。ラッキー、隣じゃん」
彼女は当然のように、俺の隣の空席に鞄を置いた。
ドサリ、という音が現実感を連れてくる。
クラス中の視線が俺と莉緒に突き刺さる。
「おい、青葉どういうことだ」
「知り合いかよ」
「羨ましすぎるだろ」
嫉妬と好奇心の入り混じったヒソヒソ声が津波のように押し寄せてくる。
だが、今の俺にはそれどころではない「異変」が起きていた。
あつい。
足元に置いた通学鞄。
その底からカイロを握りしめたような熱が伝わってくるのだ。
いや、カイロなんて生ぬるいもんじゃない。
まるで焼けた石が入っているみたいに急速に温度が上がっていく。
(なんだ!?)
俺は慌てて鞄に手をやる。
熱源は、間違いなくあの中に入れた『運命の書』だ。
布越しでもわかる。
本が脈打っている。
ドクン、ドクンと、まるで俺の心臓と共鳴するように。
チラリと鞄の隙間を覗く。
暗がりの中で、本の革表紙が、淡い、けれど力強い光を放っていた。
今まで見たこともない金色の燐光。
『――再会をきっかけに、白紙だったはずの本に、未来が綴られ始める』
店主の言葉ではないが直感が告げていた。
今だ。
今、何かが起きている。
止まっていた俺の時間が、この再会をトリガーにして爆発的に動き出そうとしているんだ。
「おい、カズ? どうした、顔赤いぞ」
莉緒が心配そうに顔を覗き込んでくる。
その顔があまりにも近くて俺はのけぞりそうになった。
心臓がうるさい。
本の熱なのか、彼女への動揺なのかもうわけがわからない。
「な、なんでもない! ちょっとトイレ!」
俺は鞄をひったくるように掴むと立ち上がった。
「あ、おい青葉!」
という先生の制止も振り切り、脱兎のごとく教室を飛び出す。
背後で莉緒が「あはは、あいつ相変わらずだなー」と笑っているのが聞こえた。
廊下を全力疾走する。
心臓が破裂しそうだ。
人気のない渡り廊下の隅まで走り、俺は荒い息を整えながら震える手で鞄を開いた。
熱を帯びた『運命の書』を取り出す。
表紙の文字が生き物のように明滅している。
ゴクリ、と唾を飲み込む。
開くぞ。
俺の、白紙の未来を。
意を決して、ページをめくる。
昨日まで真っ白だった今日のページ。
「…………っ!」
息を呑んだ。
そこには文字が浮かび上がっていた。
だが、それは今までのような黒いインクではない。
茜色だ。
あの日の夕焼けと同じ、鮮烈で、少し切ない茜色の文字が白紙のページに滲み出すように次々と刻まれていく。
まるで見えないペンが猛スピードで走っているかのように。
『西暦二〇二五年、四月×日。運命の歯車が軋みを上げて回り出す』
『七年の時を超え、かつての友は誰よりも美しい少女となって少年の前に現れた』
『その再会は偶然ではない。止まっていた時計の針を動かすための必然の引力』
文字は止まらない。
ページを埋め尽くし、次のページへ、また次のページへと溢れ出していく。
『彼女の笑顔が、少年の灰色の世界を塗り替えていく』
『放課後の屋上。彼女は少年にこう告げるだろう』
『そして二人は、かつて果たせなかった約束の続きを――』
「おいおい、ちょっと待てよ……」
俺は文字を目で追いながらへたり込むようにその場に座り込んだ。
書かれているのは、これから起きる未来。
それも、胸が締め付けられるような、甘くて、どこか切実な青春のワンシーンばかりだ。
白紙だった俺の未来が莉緒というインクで塗りつぶされていく。
ネタバレなんてレベルじゃない。
これは、俺たちへの「指示書」であり、同時に「予言書」だ。
そして、ページをめくる手が止まった。
最新のページの末尾。
そこで、インクの色が茜色から不吉なほど濃い「深紅」に変わっていた。
『――ただし、幸福な再会には代償が伴う』
『運命の改変は、周囲の未来にも歪みを生じさせる』
『直近の警告:四月二十日。クラスメイト・雛森詩織に回避不能の死が訪れる』
「……え?」
思考が凍りつく。
雛森詩織?
クラスの、あの大人しい……? 死ぬ? 誰が?
幸福なラブストーリーを読んでいたはずが突然突きつけられた死亡宣告。
俺は戦慄きながらその不吉な一文を見つめた。
文字は、乾いたばかりの血のように赤黒く光っている。
チャイムが鳴った。
遠くで、生徒たちの笑い声が聞こえる。
日常は続いている。
けれど、俺の手の中にあるこの本だけが残酷な未来を告げていた。
俺の物語は動き出した。
でもそれは、ただのハッピーエンドに向かう物語なんかじゃなかったんだ。
廊下の向こうからパタパタと軽い足音が近づいてくる。
俺を追いかけてきたのか、莉緒の声が聞こえた。
「おーい、カズー? どこ行ったー?」
その明るい声が、今はひどく胸に染みる。
俺は本を強く握りしめた。
白紙は埋まった。
けれど、そこに書かれた未来を俺はそのまま受け入れなきゃいけないのか?
「……ふざけんな」
俺は呟く。
書かれた通りになんてさせてたまるか。
俺の未来は、俺が選ぶ。
莉緒との再会も、誰かの悲劇も、全部ひっくるめて。
俺は本を鞄にしまうと足音のする方へ顔を上げた。
戦いは、始まったばかりだ。
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