規格外の螺子

cassisband

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 健一のアパートを後にした航太は、ずっと昔の記憶を頭の中で反芻していた。
「出てって!今すぐ外に出てって!」
 妹の声が頭に響く。
 季節は夏の訪れを感じ始めた七月だった。西向きのベランダにはオレンジの西日が差しこんでおり、日はだいぶ落ちていたが、それでもなかなか太陽は沈まなかった。
 母親は、そのベランダから転落して死んだ。本当にあっけなかった。人の命がこんなにも脆いことをあの時知った。あの日から全ての歯車が狂いだした。それとも、もっと以前からあった兆しにようやく気付いたということだったのだろうか。それならば、それは遅すぎた。
 消防士だった父親が、仕事現場で殉職した後、東京と呼べるのかというくらい辺鄙な場所にある都民団地に引っ越した。父親がいた頃、親子四人の生活はあまりにも楽しかったから、この団地への引っ越しが、航太は嫌で嫌でたまらなかった。転校の日、小学校五年生になっていたが、みんなの前で涙を流した。担任の先生は、転校はお別れだけじゃなくて、新しい出発だという意味のことを言った。先生は励ましのつもりで言ってくれた。だが、誰に何を言われても、父親との思い出と離れることは、航太にとって、苦痛でしかなかった。
 父親は海が好きだった。息子には「航太」、娘には「真帆」。二人の子供の名前をつけたのも、父だった。家族で何度となく海へ行った。浜辺をがっしりとした体格の父親が走る。それを追いかける小さな自分。歓声のような笑い声で後ろから走ってくる妹。母親は、そんな親子の姿を海辺にちょうどいいパラソルの下で、優しい微笑みを浮かべながら見ている。もっともっと遠い日の思い出だ。
 新しい部屋はエレベーターのない古い団地の四階だった。そこで、あの日までの六年を三人になった家族で暮らしたのだ。
 あの日、航太は高校二年生。妹の真帆は、中学一年生だった。死んだ父親には職業柄、それなりの遺族年金が支給されていた。おかげで、残された三人の家族も食べるには困らない生活ができた。
 だが、母親の心はもろく、酒に溺れた。始めは亡き亭主との思い出を子供たちに語りながら飲むことが多かった。日が経つにつれて誰に聞かせるでもなく思い出話をするようになった。最後に見た母親の姿は、何かに取りつかれたかのように酒を飲む姿だった。
 年々、酒に溺れる様子はひどくなっていった。今になって思えば、ほとんどアルコール中毒だったのだろう。
 その日は突然やってきた。現実のこととは思えなかった。母親が自宅のベランダから転落。まさか、という思いしかなかった。しかし、母親の悲鳴なのか、妹の悲鳴なのか、とにかく叫び声を聞いて、自室から飛び出した。部屋に母親の姿はなく、ベランダにたたずんだ妹の様子はただ事でないことを物語っていた。
 夢中で階段を駆け下り、母親の元へと走った。沈みかけの太陽が、団地の前の道路に倒れた母親を照らしていた。
「お母さん」
 そう呼びかけたような気がする。しかし、母親にその声が届く距離ではなかった。足が動くのを拒否したかのように、航太の身体は、少し離れた場所に留まっていた。近くまで踏み込むことができなかった。変わり果てた母親の姿を見るのが、怖かった。後はよく憶えていない。
 近所の人が通報して、救急車が到着した。救急車から降りてきた救急隊員たちは、母親の姿を見ただけで、顔を見合わせた。航太には、そのしぐさだけで、伝わるものがあった。ああ、やっぱりだめなんだな、と。それでも、一連の確認を行い、息子である航太に、その旨を告げた。
その間、真帆がベランダで何をしていたのか知ったのは、救急隊員によって呼ばれた警察官とともに、部屋に戻ってからだった。
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