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職員専用の通用口から建物に入ると、まっすぐに更衣室に向かった。早苗の足どりは重かった。
いつもどおりの時間に自宅を出て、職場までやってきたが、仕事をするような気分ではなかった。
あの話を聞いてから、まだ丸二日経っていない。だからといって、二日も急な休暇を取るわけにもいかなかった。それに、連休をとったことで、上司に何か尋ねられるのは一番避けたいことだった。
早苗は公務員として働いている。学生時代は教員を志し教職免許も取得したが、実際就職活動を目前に控えてから、公務員志望へと転向した。実家の家業を継ぐ気持ちはなかったから、せめて自分は安定した職業に就きたいと選んだ道だ。
職場は区役所の出張所だった。就職してからずっと四年間、同じ部署だ。窓口は三つに分かれており、早苗の持ち場は「各種申請・手続き」という窓口だった。小さい出張所だが、体育館を併設し、生涯学習講座の会場としても利用される区民センターの一階という場所柄、来訪者は多い。そのくせ、早苗たちが応対する部門には、転入、転出、証明書の発行や各種登録、問い合わせの対応などの細かい事務をこなしていくにはぎりぎりの人数しか配置されていなかった。窓口対応だけを専門に行う人材を入れるべきだと、早苗は常々思っていた。来訪者が多い日は、デスクワークに裂く時間がほとんど取れない。集中したい仕事は、窓口が閉まってからやっと手をつけられるという日も少なくなかった。それでも早苗は自分が公務員に対して持っている事務的で無機質なイメージを払拭したいとの思いで、できる限り親切に丁寧に対応するように心がけていた。
ネームプレートを首から下げると更衣室を出て、職場へと向かった。出張所の入口は区民センターとつながっている。いつもなら、区民センターに設置されている自動販売機に立ち寄り、好みの飲み物を購入する。暑い日は炭酸飲料、寒くなればココアを買うことが多かった。窓口が開けば、区民の対応と電話に追われ、ちょっと一息などといっていられない。この朝の一杯は早苗にとって小さな楽しみでもあった。だが、今日はその楽しみの一杯を買うことすらためらわれた。自宅を出る時に目にした父親の苦悩が滲み出た背中を見たせいだった。
重たい気分を引きずりながら、職場へ足を進めた。胸の位置くらいまで下げられた鉄のシャッターをくぐり抜け中に入る。もう何人か出勤していた。挨拶を交わすと、自分の席に職場用のかばんを置き、給湯室へ足を向けた。朝のお茶汲みは早苗の仕事だ。誰かに命じられた訳ではないが、就職したての頃から日課になっている。先輩の女性職員からみんなの湯呑みとマグカップを覚えるようにと給湯室へ案内された日からずっとだ。
出勤時間の八時半に出すお茶は緑茶と決まっている。給湯室にあるポット二本にはすでに満タンのお湯が入れられていた。鍵を開けた人が大きなやかんでお湯を沸かすというのも決まりごとのようになっていた。茶棚からお盆の上に出勤者の湯のみを並べていく。まず急須にお茶の葉を入れ、ポットのお湯は湯のみに注ぐ。それから、その湯のみのお湯を次々に急須に注いでいく。こうすると、お湯の温度が適温になって、茶本来の甘みを引き出せるという。先輩にはお茶汲みの仕方から教わった。このやり方が一般的なものなのかどうか、早苗に判断はつかなかったが、こうして入れると、確かにまったりとしたまろやかな味がした。以前にはこうした入れ方が面倒で合理的でないように思えて、ポットからあつあつのお湯をジャバジャバと急須に注いで入れたこともある。だが、そうして入れた茶の味は渋く苦味がいつまでも舌に残った。何事も時間と手間をかけたものはそれ相当の価値が付加され、認められるのだと信じていた。なのに、まじめにやってきた父親の会社はどうだろうか。
体が覚えた手順でお茶を入れ、席へと運んでいく。
「おはよう。早苗くんの入れるお茶から朝が始まるなんて、ここの部署に来て本当にラッキーだったよ」へらへらとした笑みを浮かべながら、早苗をくん付けで呼んでくるのは、早苗の課の課長だ。課長はこの春の人事異動で、昇格を伴う異動として、早苗の出張所へやってきた。区役所の経理部に席を置いていたことが長く、区民相手の窓口業務など、ほとんど経験がないという畑違いからやってきた上司だった。長年経理を経験してきたというわりには、注意深く論理的な仕事をするわけでもなく、日々をのうのうと過ごしているような人物に早苗の目には映っていた。
今朝の早苗は、普段無神経な課長でさえもわかるほど不機嫌な顔をしていたのだろう。早苗のそっけない返事を聞くと、課長をすごすごと自分のデスクの上に広げた読みかけの書籍に目を戻した。
私にその給料の二割でも分けてほしいと、早苗は思った。私のほうがよっぽど仕事をしている。会議から持ち帰ってきた質問内容の回答を早苗が答えたのと同じようにそのまま会議で話すような課長だ。私に課長の給料を振り込んでほしい。早苗の心は苛立ちに支配されていた。
いつもどおりの時間に自宅を出て、職場までやってきたが、仕事をするような気分ではなかった。
あの話を聞いてから、まだ丸二日経っていない。だからといって、二日も急な休暇を取るわけにもいかなかった。それに、連休をとったことで、上司に何か尋ねられるのは一番避けたいことだった。
早苗は公務員として働いている。学生時代は教員を志し教職免許も取得したが、実際就職活動を目前に控えてから、公務員志望へと転向した。実家の家業を継ぐ気持ちはなかったから、せめて自分は安定した職業に就きたいと選んだ道だ。
職場は区役所の出張所だった。就職してからずっと四年間、同じ部署だ。窓口は三つに分かれており、早苗の持ち場は「各種申請・手続き」という窓口だった。小さい出張所だが、体育館を併設し、生涯学習講座の会場としても利用される区民センターの一階という場所柄、来訪者は多い。そのくせ、早苗たちが応対する部門には、転入、転出、証明書の発行や各種登録、問い合わせの対応などの細かい事務をこなしていくにはぎりぎりの人数しか配置されていなかった。窓口対応だけを専門に行う人材を入れるべきだと、早苗は常々思っていた。来訪者が多い日は、デスクワークに裂く時間がほとんど取れない。集中したい仕事は、窓口が閉まってからやっと手をつけられるという日も少なくなかった。それでも早苗は自分が公務員に対して持っている事務的で無機質なイメージを払拭したいとの思いで、できる限り親切に丁寧に対応するように心がけていた。
ネームプレートを首から下げると更衣室を出て、職場へと向かった。出張所の入口は区民センターとつながっている。いつもなら、区民センターに設置されている自動販売機に立ち寄り、好みの飲み物を購入する。暑い日は炭酸飲料、寒くなればココアを買うことが多かった。窓口が開けば、区民の対応と電話に追われ、ちょっと一息などといっていられない。この朝の一杯は早苗にとって小さな楽しみでもあった。だが、今日はその楽しみの一杯を買うことすらためらわれた。自宅を出る時に目にした父親の苦悩が滲み出た背中を見たせいだった。
重たい気分を引きずりながら、職場へ足を進めた。胸の位置くらいまで下げられた鉄のシャッターをくぐり抜け中に入る。もう何人か出勤していた。挨拶を交わすと、自分の席に職場用のかばんを置き、給湯室へ足を向けた。朝のお茶汲みは早苗の仕事だ。誰かに命じられた訳ではないが、就職したての頃から日課になっている。先輩の女性職員からみんなの湯呑みとマグカップを覚えるようにと給湯室へ案内された日からずっとだ。
出勤時間の八時半に出すお茶は緑茶と決まっている。給湯室にあるポット二本にはすでに満タンのお湯が入れられていた。鍵を開けた人が大きなやかんでお湯を沸かすというのも決まりごとのようになっていた。茶棚からお盆の上に出勤者の湯のみを並べていく。まず急須にお茶の葉を入れ、ポットのお湯は湯のみに注ぐ。それから、その湯のみのお湯を次々に急須に注いでいく。こうすると、お湯の温度が適温になって、茶本来の甘みを引き出せるという。先輩にはお茶汲みの仕方から教わった。このやり方が一般的なものなのかどうか、早苗に判断はつかなかったが、こうして入れると、確かにまったりとしたまろやかな味がした。以前にはこうした入れ方が面倒で合理的でないように思えて、ポットからあつあつのお湯をジャバジャバと急須に注いで入れたこともある。だが、そうして入れた茶の味は渋く苦味がいつまでも舌に残った。何事も時間と手間をかけたものはそれ相当の価値が付加され、認められるのだと信じていた。なのに、まじめにやってきた父親の会社はどうだろうか。
体が覚えた手順でお茶を入れ、席へと運んでいく。
「おはよう。早苗くんの入れるお茶から朝が始まるなんて、ここの部署に来て本当にラッキーだったよ」へらへらとした笑みを浮かべながら、早苗をくん付けで呼んでくるのは、早苗の課の課長だ。課長はこの春の人事異動で、昇格を伴う異動として、早苗の出張所へやってきた。区役所の経理部に席を置いていたことが長く、区民相手の窓口業務など、ほとんど経験がないという畑違いからやってきた上司だった。長年経理を経験してきたというわりには、注意深く論理的な仕事をするわけでもなく、日々をのうのうと過ごしているような人物に早苗の目には映っていた。
今朝の早苗は、普段無神経な課長でさえもわかるほど不機嫌な顔をしていたのだろう。早苗のそっけない返事を聞くと、課長をすごすごと自分のデスクの上に広げた読みかけの書籍に目を戻した。
私にその給料の二割でも分けてほしいと、早苗は思った。私のほうがよっぽど仕事をしている。会議から持ち帰ってきた質問内容の回答を早苗が答えたのと同じようにそのまま会議で話すような課長だ。私に課長の給料を振り込んでほしい。早苗の心は苛立ちに支配されていた。
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