25 / 36
24.
しおりを挟む
「倒れないで下さいよ」
若い男の声だった。斜め後ろから聞こえた。声の主も、真帆と同じ部屋から出てきたようだった。
長かった初日の就業時間が終わり、簡単な帰り支度を済ませて、部屋を後にしてからも、真帆は気分がすぐれなかった。むしろ、仕事中よりも気分が悪い。部屋を出た途端、張り詰めていた緊張がにわかに解けたせいかもしれなかった。具合が悪いことがはた目にはわからないように、ゆっくり歩いてつもりだったが、隠せていなかったのだろう。
声をかけてきた男がすぐそばによってきているかもしれないという恐怖で、俯いたまま、ふらふら歩き続けていると、男は真帆を通り越し、今度は斜め前辺りから声を発した。
「医務室で休んでいったらどうかな?ちょうどこの階だよ。この廊下の突き当たり左手に医務室の表示も出てるからすぐわかるよ。派遣先の部署と名前を書くだけで使えるから」
それだけ言うと、男はさっさと歩いて行った。上着も着ずに軽装なところを見ると、もう帰宅できる真帆達と違い、まだ仕事中で忙しいのだろう。
言われた通りのところに医務室はあった。部屋に扉はなく、少し奥まったところに受付らしいカウンターが見えた。室内は静かで人影はなく無人のようだった。その奥がどうなっているのかは、パーティションで目隠しされていて、外からは見えないようになっている。
少し様子を伺うくらいのつもりで、カウンターへ踏み込むと、パーティションの奥から人が出てきた。真帆は瞬時に身を固くしたが、その人物が小柄の初老の女性であるのを見ると、ふっと緊張が解けた。
「ごめんなさい。待たせちゃったわね」
女性は少しばつの悪そうな顔をして、さあどうぞ、と真帆に手招きした。
「孫のことで、娘から電話がかかってきて。仕事中なのに、うっかり出たら、なかなか話が終わらなくってね」
「いえ、私は」と言う真帆の言葉が届かなかったのか、女性はまだ話し続けている。
「娘も、もういい年なんだけどね。お母さん、お母さんって、いつまで経っても親を頼りにしていてね。困ったものよね」
女性は困ったと言葉にしているわりに、たいして困っていない様子だった。
まあ、私もいつまでも子供だと思って甘やかしているのがいけないのかもしれないけど、とぶつぶつつぶやきながら、ハガキほどの大きさの紙を書類ラックから取り出した。その用紙の背に板を取り付けると、面倒だけど、これに書いてね、と言って、ボールペンとともに、真帆に手渡した。
真帆は用紙に目を落とすと、さっきの男が言っていたのはこれのことか、とぼんやり思い出していた。女性は、その様子を、戸惑っているのと勘違いしたようで、利用するの、初めてかしら?あら!ごめんなさい。と自分の説明不足を詫びた。女性はパーティションの内側に真帆を招き入れると、ゆったりしたソファに座らせ、利用規則のようなことを丁寧に説明してくれた。要するに、気分が悪い時は、紙に所属と名前を書けば、部屋にあるベッドで寝ることができる、ということだった。
簡単な問診を受けると、持病に貧血があるなら、今回もそのせいね、とひとまず診断を下した。
「一応、熱を測ってね」
女性から渡された体温計は、10秒もすると、ピピっと音を鳴らした。体温は37.1度だった。女性は、微熱かな?と言ったが、真帆に平熱を問い掛け、35.8度と答えると、割と高めだね、と訂正した。気分がよくなるまで、少し寝て行きなさい、と言うと、真帆をベッドに案内した。電車の時間もあるだろうから、夜中までというわけにはいかないけど、熟睡しそうなら、念のためそこの目覚まし時計かけておくといいわよ。と親切なアドバイスもしてくれた。
女性はベッド周りに仕切りのカーテンを引くと、ゆっくり休んでね、と優しい笑顔を向けてから戻っていった。真帆はなんだかドキドキしていた。
女性が娘の話をした時に発した「お母さん」というフレーズを聞いたせいかもしれなかった。
ゆっくり上着を脱いで、ベッドに入り、目覚ましのタイマーをセットしていると、カーテンが揺れて女性の声がした。
「まだ寝ていません」真帆が応えると、カーテンから女性が顔を覗かせた。
「今、何か服用してる薬はある?」
「いえ、ありません」
「じゃあ、よかったらこれ飲んでみない?」
女性が手渡してきたのは、錠剤二錠となみなみと水の入った紙コップだった。
「鉄分のサプリメントよ」
女性が差し出すタイミングに合わせて、真帆も手を伸ばす。
「飲み終わったら、コップは横の台に乗せといてね。まあ、気休めかもしれないけど」
そういうと、女性は柔和な顔のままカーテンの向こうに消えた。
真帆はもらった錠剤を生温い水とともに飲み込んだ後、しばらく、女性が消えたカーテンのドレープを見つめていた。懐かしいような、それでいて胸が苦しくなる感覚だった。腰まで入っていた毛布の端を一気に引っ張り上げると頭から被り、布団の中で膝を抱きしめて丸くなった。
若い男の声だった。斜め後ろから聞こえた。声の主も、真帆と同じ部屋から出てきたようだった。
長かった初日の就業時間が終わり、簡単な帰り支度を済ませて、部屋を後にしてからも、真帆は気分がすぐれなかった。むしろ、仕事中よりも気分が悪い。部屋を出た途端、張り詰めていた緊張がにわかに解けたせいかもしれなかった。具合が悪いことがはた目にはわからないように、ゆっくり歩いてつもりだったが、隠せていなかったのだろう。
声をかけてきた男がすぐそばによってきているかもしれないという恐怖で、俯いたまま、ふらふら歩き続けていると、男は真帆を通り越し、今度は斜め前辺りから声を発した。
「医務室で休んでいったらどうかな?ちょうどこの階だよ。この廊下の突き当たり左手に医務室の表示も出てるからすぐわかるよ。派遣先の部署と名前を書くだけで使えるから」
それだけ言うと、男はさっさと歩いて行った。上着も着ずに軽装なところを見ると、もう帰宅できる真帆達と違い、まだ仕事中で忙しいのだろう。
言われた通りのところに医務室はあった。部屋に扉はなく、少し奥まったところに受付らしいカウンターが見えた。室内は静かで人影はなく無人のようだった。その奥がどうなっているのかは、パーティションで目隠しされていて、外からは見えないようになっている。
少し様子を伺うくらいのつもりで、カウンターへ踏み込むと、パーティションの奥から人が出てきた。真帆は瞬時に身を固くしたが、その人物が小柄の初老の女性であるのを見ると、ふっと緊張が解けた。
「ごめんなさい。待たせちゃったわね」
女性は少しばつの悪そうな顔をして、さあどうぞ、と真帆に手招きした。
「孫のことで、娘から電話がかかってきて。仕事中なのに、うっかり出たら、なかなか話が終わらなくってね」
「いえ、私は」と言う真帆の言葉が届かなかったのか、女性はまだ話し続けている。
「娘も、もういい年なんだけどね。お母さん、お母さんって、いつまで経っても親を頼りにしていてね。困ったものよね」
女性は困ったと言葉にしているわりに、たいして困っていない様子だった。
まあ、私もいつまでも子供だと思って甘やかしているのがいけないのかもしれないけど、とぶつぶつつぶやきながら、ハガキほどの大きさの紙を書類ラックから取り出した。その用紙の背に板を取り付けると、面倒だけど、これに書いてね、と言って、ボールペンとともに、真帆に手渡した。
真帆は用紙に目を落とすと、さっきの男が言っていたのはこれのことか、とぼんやり思い出していた。女性は、その様子を、戸惑っているのと勘違いしたようで、利用するの、初めてかしら?あら!ごめんなさい。と自分の説明不足を詫びた。女性はパーティションの内側に真帆を招き入れると、ゆったりしたソファに座らせ、利用規則のようなことを丁寧に説明してくれた。要するに、気分が悪い時は、紙に所属と名前を書けば、部屋にあるベッドで寝ることができる、ということだった。
簡単な問診を受けると、持病に貧血があるなら、今回もそのせいね、とひとまず診断を下した。
「一応、熱を測ってね」
女性から渡された体温計は、10秒もすると、ピピっと音を鳴らした。体温は37.1度だった。女性は、微熱かな?と言ったが、真帆に平熱を問い掛け、35.8度と答えると、割と高めだね、と訂正した。気分がよくなるまで、少し寝て行きなさい、と言うと、真帆をベッドに案内した。電車の時間もあるだろうから、夜中までというわけにはいかないけど、熟睡しそうなら、念のためそこの目覚まし時計かけておくといいわよ。と親切なアドバイスもしてくれた。
女性はベッド周りに仕切りのカーテンを引くと、ゆっくり休んでね、と優しい笑顔を向けてから戻っていった。真帆はなんだかドキドキしていた。
女性が娘の話をした時に発した「お母さん」というフレーズを聞いたせいかもしれなかった。
ゆっくり上着を脱いで、ベッドに入り、目覚ましのタイマーをセットしていると、カーテンが揺れて女性の声がした。
「まだ寝ていません」真帆が応えると、カーテンから女性が顔を覗かせた。
「今、何か服用してる薬はある?」
「いえ、ありません」
「じゃあ、よかったらこれ飲んでみない?」
女性が手渡してきたのは、錠剤二錠となみなみと水の入った紙コップだった。
「鉄分のサプリメントよ」
女性が差し出すタイミングに合わせて、真帆も手を伸ばす。
「飲み終わったら、コップは横の台に乗せといてね。まあ、気休めかもしれないけど」
そういうと、女性は柔和な顔のままカーテンの向こうに消えた。
真帆はもらった錠剤を生温い水とともに飲み込んだ後、しばらく、女性が消えたカーテンのドレープを見つめていた。懐かしいような、それでいて胸が苦しくなる感覚だった。腰まで入っていた毛布の端を一気に引っ張り上げると頭から被り、布団の中で膝を抱きしめて丸くなった。
0
あなたにおすすめの小説
鷹鷲高校執事科
三石成
青春
経済社会が崩壊した後に、貴族制度が生まれた近未来。
東京都内に広大な敷地を持つ全寮制の鷹鷲高校には、貴族の子息が所属する帝王科と、そんな貴族に仕える、優秀な執事を育成するための執事科が設立されている。
物語の中心となるのは、鷹鷲高校男子部の三年生。
各々に悩みや望みを抱えた彼らは、高校三年生という貴重な一年間で、学校の行事や事件を通して、生涯の主人と執事を見つけていく。
表紙イラスト:燈実 黙(@off_the_lamp)
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム
ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。
けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。
学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!?
大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。
真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる