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Count 0 ――Bitter&Sweet――雨のち、親鶏
しおりを挟む 甘い時間は、無情にも「現実」という悪魔を引き連れてやってくる。
「ガチャッ」
静まり返った六畳間に、冷たく硬質な施錠の音が響き渡った。
「俺、無理! 無理です! まだ死にたくないです!……マジ無理!!」
絶叫に近いその声は、つい数分前まで熱い吐息を漏らしていた俺の恋人――一之瀬功(いちのせ こう)のものだ。脱兎のごとく跳ね起き、必死の形相でユニットバスのトイレへと籠城してから、かれこれ一時間が経とうとしている。俺、安達大介(あだち だいすけ)と功(こう)は、薄い扉一枚を隔てて、互いに涙を流していた。
「……功(こう)、頼む、開けてくれ。……寒くないか? 風邪引くぞ」
ドアを叩く俺の手は、自分でも驚くほどに小刻みに震えている。大学一の顔面偏差値――「看板男」なんて煽てられ、常に余裕のある笑みを浮かべてきた俺の自尊心は、今や粉々だった。
だが、今の俺を支配しているのは、傷ついたプライドなどではない。自分でも無意識に自負していた「雄」としての強大さが、愛する者を恐怖のどん底に叩き落としたという、底なしの罪悪感だった。185センチを超える長躯も、鋭くも色気を湛えた瞳も、今はただの凶器にしか思えない。
「……安達さん、帰ってください……っ。俺、自分が嫌だ。こんなに好きなのに、身体が、……安達さんのこと、怖いって思っちゃうのが、……死ぬほど悔しいんです……っ!……大好きなのに……っ」
扉の向こうから漏れ聞こえる功(こう)の、絞り出すような嗚咽。
「……分かった。今日は、帰るよ」
俺は、自分が剥き出しにした「雄の象徴」を、忌まわしい怪物であるかのように呪いながら、床に無残に散らばった服を拾い集めた。
安達は功(こう)の着替えをドアの前に丁寧に揃え、一度だけ、冷たい扉に額を預けた。
「……ごめんな。怖がらせて」
逃げるように玄関の鍵を閉めて外へ出た。
「おかしな二人」の本当の試練は、ここから始まるのだと、寒空の下で痛いほどに悟っていた。
「あっ!! 一之瀬ちょっといいか!!?」
あの日以来、大学の構内で影を見つけてはすり抜けられ、散々逃げ回られた末に、やっと捕まえた背中に声をかけた。俺の呼びかけに、薄茶の大きなアーモンド形の瞳を更に見開いて振り向いた一之瀬は、戦慄で引き攣った顔をして、隣にいた親友・岡島の腕を強引に引っ張って脱兎のごとく視界から消えてしまった。
二人が逃げ込んだ先は、昼休みを迎え、喧騒のピークに達した学食だった。
券売機には腹を空かせた男子学生たちの長い列ができ、あちこちで部活や講義の話題が飛び交う笑い声が巻き起こっている。返却口に食器が重なり合うガチャガチャとした硬い音と、厨房から漂うカレーや揚げ物の匂いが、熱気となって充満していた。
「だぁー!! お前、何逃げてんの!? ちゃんと説明しろって!!」
わけも分からず猛スピードで連れ回された岡島が、呆れたように声を荒らげた。岡島は、中学からずっとスポーツに打ち込んできた筋金入りの体育会系だ。身長170センチと一之瀬と変わらない背丈だが、安価なTシャツの上からでもはっきりと分かる厚い胸板と、固く引き締まった逞しい肩口が、彼の歩んできた年月を物語っている。
一之瀬は、表面に膜が張り出した伸びきったうどんを、震える手で無意味に突き回しながら、消え入りそうな声で事の顛末(てんまつ)を親友に吐き出し始めた。
「あのさ……お前、彼女に怖がられたことある? 逃げられた、なんて経験、ないよな?」
「はぁ? 薮から棒に何だよ。……それって、どういう場面でよ?」
「その……あの、セッ……セッ……」
真っ赤な顔をして、小動物のように目を泳がせワタワタする一之瀬に、親友は察してくれた。
「逃げられたんじゃなくて、逃げた側です」
「はぁ!? お前、逞しい女の子にでも襲われたのかよ。ブッ!!」
隣の席の女子グループが「えっ?」と一瞬こちらを振り向くほど、岡島は飲んでいた味噌汁を盛大に吹き出しそうになった。
「……違う……先輩、安達さんなんだ!!」
「……、……はぁ?」
盛大に驚きを隠せない顔の岡島を前に、功(こう)は居ても立っても居られない気持ちになる。けれど、意を決して事の顛末を話しだした。
「サイズに……本能的にビビって逃げ出したんだよね……」
賑やかな学食の喧騒が、その瞬間だけ一之瀬の耳から遠のいた気がした。
岡島は、震える箸を置いて俯く親友の細い肩を見つめながら、内心で深い溜息をついた。
(……あんな180オーバーの『看板男』と、このハムスターみたいな功(こう)かよ。そりゃ無理もねぇわな)
岡島は、中学時代に柔道部の主将として、自分より一回り大きな相手に組み伏せられた時の「身体の大きさの違いが生む根源的な恐怖」を思い出していた。力ではどうしようもない、あの本能的な竦(すく)みだ。
(あの先輩も先輩だ。こんなに震えてる功(こう)を、そこまで追い詰めて……。いい男の皮を被った猛獣じゃねぇか。けど、逃げ出した功(こう)をあんなに必死で追いかけてる今の先輩の顔は、もう『看板男』でも何でもねぇ、ただの情けない片思いのガキだったな)
アンバランスすぎる二人の、あまりに不器用な衝突。岡島は、事の深刻さに震える功(こう)が不憫でなりながらも、同時にそこまで一途に想い合える二人を、少しだけ羨ましくも思うのだった。
「……お前が『受け入れる側』で、ましてや初めてなんだろ。怖くなっても仕方ねぇんじゃねぇか? 格闘技だって何だって、自分よりデカいもんを受け止めるにゃ、それなりの覚悟と準備が要るんだよ。逃げて回ってても埒があかねぇだろ。『怖い』って正直に話すしかないだろ。先輩だって鬼じゃないんだし、ちゃんとお前の気持ちをわかってくれると思うぞ」
岡島は、ぶっきらぼうながらも逞しい掌で一之瀬の細い肩を力強く叩いた。その確かな重みが、一之瀬の不安を少しだけ解きほぐしていく。
「じゃあな。……ちゃんと仲直りして、明日にはノロケ話でも聞かせろよ」
岡島は自分の空になった食器を片手に立ち上がり、一度も振り返らずにひらひらと手を振って、騒がしい人混みの中へと消えていった。
その日の夜。重く湿った六月の闇が街を包んでいた。
一之瀬は、安達の住むマンションの前で、何度も行ったり来たりを繰り返していた。雨上がりのアスファルトから立ち上る土の匂いが鼻をつく。植え込みの紫陽花は、街灯の鈍い光を浴びて、毒々しいほど深い藍色に濡れそぼっていた。
手にしたレジ袋の中で、土産の酒瓶がカチリと音を立てる。その微かな音が、静まり返った夜の底で心臓を抉るような鋭さで響いた。
不意に、背後のエントランスの自動ドアが開いた。
「お前……何してんの? ずっと待ってたのか?」
安達だった。
安達はあの日以来、功(こう)がいつ現れてもいいように、授業が終わると真っ直ぐ帰り、ベランダのカーテンの隙間から階下の通りをずっと見守っていたのだ。功(こう)の姿を見つけた瞬間、心臓が爆発しそうなほど跳ね上がり、呼吸を整える間もなく飛び出してきた。
185センチを超えるその影が、一之瀬の足元を覆い尽くす。
「中入れよ。外、酷く湿っぽかっただろ」
安達の指先が、エントランスの鍵を開ける。オートロックの解錠音が、あの夜のトイレの閉塞感を思い出させて一之瀬の胸を締め付けた。
エレベーター内の狭い密室で隣り合う安達の肩幅は、やはり恐ろしいほどに広かった。けれど、ふと横を見上げれば、安達はまるで壊れ物を扱うかのように、功(こう)の足元に歩調を合わせて、慎重に、慎重に歩いている。その不器用な献身が、功(こう)の恐怖を少しずつ切なさに変えていった。
通された安達の部屋は、想像していた「看板男」のイメージとは少し違って、どこかほっとするような、ありふれた大学生の生活感に溢れていた。
以前は「看板男」として隙のないモデルルームのような部屋を維持していたが、一之瀬を招くようになってから、安達は彼がリラックスできるようにと、完璧主義な「仮面」を少しずつ脱ぎ捨て始めていた。他人の期待に応えるだけの空っぽな『看板』だった自分を、ただの『安達さん』として、あんなに怯えながらも求めてくれるのは、世界中で功(こう)だけだったから。
少し使い込まれた様子の木製ローテーブル、隅に積み上げられた専門書や講義の資料。ハンガーラックには着古したパーカーが無造作に掛けられ、壁には適当に貼られた映画のチラシが少しだけ端から浮いている。洗ったままカゴに伏せられたマグカップや、少しだけ香る洗濯洗剤の匂い。
外で見せる「完璧な安達大介」ではない、一人の男としての息遣いがそこら中に散らばっていて、それが一之瀬の強張っていた心を、逆に生々しく締め付けた。
安達はシーリングライトを消し、机の上のデスクスタンドだけを点けた。その小さな灯りが、二人の影を大きく壁に映し出す。二人は少し擦り切れたラグの上に胡座(あぐら)をかいて向かい合った。一之瀬は持ってきたビールを、まるで命綱を差し出すような必死さでローテーブルの上に置いた。
「あの……先輩に、どうしても話があって来ました」
一之瀬の声は、自分でも驚くほど小さく震えていた。大きなアーモンド形の瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が膜を張っている。
「ごめんなさい!! 俺、逃げるなんて……傷つけたと思って。安達さんのこと、化け物みたいに……っ。本当にごめんなさい!!」
一之瀬が深々と頭を下げた瞬間、視界が急に暗くなった。安達の大きく厚い掌が、一之瀬の後頭部を優しく引き寄せたのだ。安達の身体から立ち上る、仄かな石鹸の匂い。
この学生らしい生活感に満ちた部屋の中で、その体温だけが、あの夜と同じ、切ないほど確かな熱を持って功(こう)を包み込んだ。
安達は、自分の中で砕け散ったはずのプライドが、功(こう)の涙に触れることで、全く別の「慈しみ」へと再構成されていくのを感じていた。一人の男としての優越感よりも、この小さな恋人が笑って隣にいてくれることの方が、今の彼には何万倍も重要だった。
「謝るな、功(こう)。……俺の方こそ、お前の震えに気づかないふりをした」
安達の声が、一之瀬の肩越しに降ってくる。
「男同士の『初めて』が、お前にとってどれほどの恐怖だったか。……お前の線の細さを知っていたのに、自分の『雄』を押し付けようとした俺が一番最低だ。……俺のこと、怖くなっただろ? あんな姿、嫌いになったか?」
「……嫌いになんてなるわけないでしょ! 嫌われたかと思って、ずっと怖かったです……っ。初めて人を好きになるのが、こんなに痛くて、怖いなんて思わなかった……っ」
堰(せき)を切ったように、一之瀬の嗚咽が安達の胸に吸い込まれていく。185センチの体躯に包まれると、一之瀬は自分が守られるべき小動物のように小さく感じられた。安達はその震える背を、自分を律するようにゆっくりと、何度も大きな手で撫で続けた。
「だからもう泣くな」
安達がそっと身体を離し、散らかった机の上からティッシュ箱を手探りで引き寄せると、功(こう)の涙と、ひどい顔になった鼻水を丁寧に拭ってくれた。
看板男と呼ばれた男が、今はただの、恋人を心配してやまない一人の男――「大きな親鶏」として動いている。その献身的で、どこか過保護すぎる慈愛に満ちた姿。
「……安達さん、なんだか過保護な父親みたいな人だなぁ。……大きな親鶏みたい」
功(こう)が鼻を啜(すす)りながらそう呟くと、一瞬、安達は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。安達の心の中にあった「男としての焦り」が、その間の抜けた一言で、ふわりと軽くなった気がした。格好つけなくていい、ただこの子を慈しめばいいのだと。
「なんだよそれ……。俺、お前の恋人のつもりなんだけど」
安達が堪えきれずにプッと小さな笑い声を漏らす。それに釣られるように、功(こう)の頬も緩み、二人の間にアハハハと明るい笑いが溢れ出した。六月の重苦しい空気が、その笑い声で霧散していく。
いつの日か、こんな日も。時間が経てば、共に歳を重ねた二人の笑い話になるのかもしれない。お互い年若い頃の、苦くも鮮烈な思い出の一ページに昇華される日が来ることを願って。
いつかそうなる日が来るように、二人でゆっくり手を取り合い、お互いを想い合いながら歩んで行きたいと切に思った。
互いに年若い青いあの頃は、不安定で、けれどどうしようもなくキラキラとした時間で。そんなかけがえのない若葉の時に、あなたと出会えて、俺はとても幸せでした。
開け放たれた窓から、夜の静寂が忍び寄る。
二人はまだ、ただ隣に座って、繋いだ手の柔らかな熱を確かめ合うことしかできないけれど。それでもいいのだと、六月の微風が教えてくれた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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