悪役貴族の俺、破滅回避したら勇者が引きこもって世界が詰みました

根古

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第25話 賽は投げられた

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 時間が引き伸ばされる。
 棍棒を振りかぶるバグベアの巨躯。背後から狂気の雄叫びと共に迫るロイ。二つの殺意に挟まれ、俺の思考は極限まで研ぎ澄まされていた。

(捌ききれない……!)

 この状況を打開する札は、もはや俺の手の中には――。

『ディランさん!』
「ディラン様!」

 二人の声が耳に届く。
 その声が、凍り付きかけていた俺の意識を現実に引き戻した。

 (まだだ……!)

 俺は懐に手を突っ込んだ。
 冷たい金属が指先に触れる。
 それは俺がこの瞬間のために隠し持っていた切り札――。

 『赦禍判金しゃかはんきん

 原作ゲームの隠しアイテム。
 コイントス一つで運命を左右する、原作ゲームでも隠し扱いのアイテム。
 表が出れば呪詛は解ける。だが、この場においては解けたところで何も意味はない。

 なら、狙うのは――裏。
 呪詛を付与し、敵の動きを止める。

 まさに博打。
 だが、この場に至ってはその限りではなかった。

 俺は確信を持ってその硬化を指で弾いた。
 きらりと光を反射し、金貨が宙を舞う。

 宙を舞う金貨が、ステンドグラスから差し込む最後の夕陽を浴びて、血のように赤くきらめいた。

「僕の邪魔を……するなぁぁぁっ!」

 刹那。背後から狂気に満ちたロイが飛びかかる。
 金貨の軌跡と、迫り来る殺意。その全てが交錯する――。

 ――カラン。

 金貨が床に落ち、甲高い音を響かせた瞬間、すべての音が消えた。
 宙を飛ぶロイの姿でさえ、空気の中に縫い止められたように見える。

 金貨は、ゆっくりと回転を止めて――

 表。

 赦しの面が、夕陽に照らされて黄金に輝いた。

『ああ!』

 事情を知るルーの声が響く。
 赦し――呪詛を祓う力。
 しかし、祓ったところで、バグベアもロイも目の前から消えてはくれない――

 ――本当なら。

 次の瞬間――バグベアが、喉を押さえて呻き声を上げた。

 次の瞬間、全身に刻まれていた呪紋が赤く燃え上がり、煙のように弾け飛ぶ。
 巨体が膝をつき、棍棒が床に落ちる。

「ああああああああっ!」

 ロイの雄叫びが、現実を裂くように響く。
 呆然自失とするバグベアとは対照的に、ロイの瞳はなお狂気に燃えていた。

 俺は床に落ちた金貨を踏み越え、振り返りざま剣を構えた。

 ロイの刃が閃く。
 紙一重で受け止めた衝撃が腕に響く。

 しかしそれだけだ。
 狂気に任せた力任せの剣筋は、あまりに隙だらけだった。

「ぐっ……!」

 俺はロイの剣をいなし、体勢を崩した彼の鳩尾に剣の柄を叩き込む。
 手首を捻り上げ、甲高い音を立ててロイの剣が石畳に落ちた。
 そのまま襟首を掴み、床に投げ捨てるように突き放す。

「う、あ……」

 苦しげの声で呻くロイは、憎悪と困惑が入り混じった瞳でこちらを睨みつけるだけだ。

 だが、俺の視線は既に彼を捉えてはいない。

 全ての意識は、膝をついたままの巨躯へと向かっていた。
 先程までの圧倒的な圧力が嘘のように霧散している。だが、それでもなお、その濁った瞳には原始的な殺意が残っていた。

「グル……ォ……!」

 獣じみた咆哮を上げ、バグベアが最後の力を振り絞って立ち上がる。
 憎悪の主を失い、力の源泉たる”魔”を著しく祓われた今、その動きはひどく緩慢だった。
 まさに好機。
 だが、俺の身体も限界に近い。身体強化の魔法が、維持しているだけでも魔力を削っていく。

「ディラン様……!」

 後方から、か細いアリシアの声が届く。
 彼女もまた、この好機を逃してはならないと理解しているのだろう。俺は彼女を、そして床に転がるロイを振り返ることなく、強く剣を握りしめた。

「これで……終わりだ!」

 地面を蹴る。
 弱々しく振り下ろされる棍棒を、今度は真正面から弾き返した。呪詛の力がなければ、ただの巨木に過ぎない。
 がら空きになった胴体へ、渾身の突きを繰り出す。

 ――硬い。

 瘴気で構成されていたホブゴブリンとは違う。分厚い筋肉と脂肪が、俺の剣の勢いを殺す。

「ぐっ……!」

 致命傷には至らない。バグベアが苦痛に顔を歪め、俺を振り払おうと巨腕を振るう。
 避けきれない。そう悟った瞬間、凛とした祈りの声が響いた。

「聖なる光よ、彼の道を照らしたまえ! 聖道!」

 アリシアが最後の力を振り絞って放ったのだろう。
 足元に光の軌跡が輝き、俺の身体を加速させる。
 巨腕は空振り、そして俺の剣は勢いそのままに、巨体へと突き刺さる。
 そして押し込み、捻り上げた。

「喰らえぇぇぇっ!」

 剣を引き抜き、返す刃で今度は喉元を横薙ぎに切り裂いた。
 黒い血飛沫が舞い、バグベアの巨体がゆっくりと後ろへ傾いでいく。地響きを立ててその身体が床に倒れ伏し、やがて塵となって消え去った。

 ……静寂が、教会を支配する。

「はぁ……っ、はぁ……」

 身体強化の光が消え、全身に鉛のような疲労がのしかかる。俺は剣を杖代わりに、その場に片膝をついた。

「ディラン様!」

 アリシアが震える足で駆け寄ってくる。その瞳には、安堵の色が浮かんでいた。

「ご無事で……本当によかったです……」
「アリシア様こそ……。ですが、見事な援護でした」

 俺が力なく笑いかけると、彼女はほっとしたように微笑み、そして視線を俺の背後へと向けた。
 そこには、全ての狂気が抜け落ちた顔で、呆然とこちらを見つめるロイの姿があった。

「ロイ様……」

 アリシアの声には、怒りや憎しみではなく、ただ深い哀れみの色が滲んでいた。
 聖女である彼女にとって、目の前の光景は、救うべき魂が道を踏み外した悲劇そのものなのだろう。

 彼がこれからどうなるのか。
 聖女を襲い、学院内で禁断の魔術を行使した罪は計り知れない。
 もはやフィリベール家の存続さえ危ういだろう。

『ディランさん、ディランさん! あれは一体何なんですか?』

 ここぞとばかりにルーが質問を投げかけてきた。
 彼女には一度救われた、無視するのも忍びない。

(赦禍判金の効果で表が出たら呪詛を払うって話はしたよな?)

『はい! だから私は裏が出るようにって願ったんですよ!』

(まあ、本来の使い方だな)

 戦闘時において、相手に状態異常を付与する。
 それが『赦禍判金』の本来の使い方だ。
 表の力は戦闘後の回復手段として使われることが多い。

(ただ、それは魔物相手、特に今回のバグベアのように、身体が魔力そのものから構成されている相手にとっては、全く意味が違ってくる。呪詛によって召喚され、憎悪を力の源泉とする存在にとって、その根幹たる「呪い」を祓われることは、存在そのものの基盤を破壊されるに等しいからな)

『なるほど、それをディランさんは分かってたんですね』

(まあな)

 これは隠しアイテムならではの隠し要素だ。
 普通のプレイヤーなら気づかないし、RTAをするようなプレイヤーであっても再現性が乏しく実践はしない。
 この世界、引いては俺ならではの解決手段だった。

『さすがです!』

 ルーの能天気な賞賛を聞き流す。それどころではなかった。
 俺の目は、バグベアが消え去った床に落ちていた、ある一点に釘付けになっていた。

「……これは」

 俺はふらつく足で立ち上がり、地面に落ちていた何かの破片を拾い上げた。
 指先ほどの、赤黒い鉱物の欠片。禍々しい魔力が微かに残っている。

「それはロイ様が、最初に床へ叩きつけた石の……」

 アリシアが補足する。

「なるほど……」

 俺は平静を装いながらも、内心で舌打ちをした。
 これは魔誘石まゆうせき
 原作においては、とある秘密結社が魔王復活の儀式のために製造している、強力な魔物誘引装置だ。
 しかし、原作のストーリーでも中盤以降にようやく登場するアイテムが、なぜこのタイミングで、一介の子爵家嫡男の手に渡っている?

 シナリオの崩壊が、俺の想像を遥かに超える速度と規模で進んでいるとしか思えない。

『ディランさん、なんだかこの石……すごく嫌な感じがします。それに瘴気がまだ晴れていないような……』

 ルーの言葉に、俺はハッとした。
 確かに――バグベアは倒した。ロイも正気に戻った。
 だというのに、この教会を満たしていた邪悪な気配は、消えていない。

 いや、違う。

 消えるどころか――濃くなっている。

 足元から這い上がるような寒気が、背骨を駆け上がる。

「……嘘だろ」

 喉の奥から、乾いた声が漏れる。
 一つや二つじゃない。
 数えるのも馬鹿らしくなるほどの魔物の気配が、学院全体を包囲するように――

 じわりと、迫ってきていた。
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