悪役貴族の俺、破滅回避したら勇者が引きこもって世界が詰みました

根古

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第26話 緊急事態

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 絶望とは、希望を打ち砕いた後に訪れることを言うのかもしれない。

 一体の強敵を倒した安堵感は、学院全体を包囲する無数の魔物の気配によって、瞬く間に霧散した。
 俺は拾い上げた「魔誘石」の欠片を握りしめ、背筋が凍るのを感じていた。

「ディラン様、これは……いったい……」

 アリシアが震える声で呟いた。
 聖女である彼女もまた、この異様な空気感に気付いたのかもしれない。

『ひぃっ……! な、なんですかこの数は! 魔物でいっぱいです!』

 ルーの悲鳴が脳内に響く。
 俺も同じ気持ちだ。
 現在、学院に残るのは大半が生徒たちだけ。
 頼りとなる教授たちはおろか、宮廷魔法師であるエルナも王城に呼び出されている。

「不味いな……」

 思わずそんな言葉が口をついた。
 流石にバグベア級の魔物を複数体相手取るのは、万全の状態でも不可能だ。

 唯一の希望はクライスがいることだろう。

「ディラン様……」

 アリシアも恐怖と疲労で顔はすっかり青ざめている。

「……アリシア様、商会の商品は持ってきていますか?」

 俺はゆっくりと尋ねる。

「……え? はい、そこまで多くはありませんが……」

 アリシアは戸惑いながらも頷き、聖具室に目を向けた。

「『癒しのポーション』と、『疲労回復の薬草茶』の見本がいくつか。あとは『心を清める香草セット』くらいですが……」

「ありがとうございます、それで十分です」

 俺は力強く頷く。

「まさか……戦うおつもりですか!?」

 アリシアの声は震えていた。
 その瞳は、止まれと訴えている。

「いえ、そういうわけではありません」

 俺はそれだけ答えて、聖具室へ足を向ける。
 整頓された棚の奥に、アリシア商会と書かれた木箱があった。
 蓋を開けると、薬草と瓶の混じった、独特の匂いが鼻をついた。

『ディランさん無茶です! 「常強」の魔法だってもう限界ですよね!?』

 ルーの声が脳内で跳ねる。
 無視だ。
 俺は「癒しのポーション」を掴み、歯で栓を引き抜いて一気に喉へ流し込む。
 焼けつくような熱が体中を駆け抜け、痛みが一気に引いていくのを感じる。

 だが、魔力の枯渇からくる倦怠感と、酷使した身体の芯に残る疲労までは癒やせない。万全には程遠いが、それでも、まだ戦える。

「ディラン様……」

 俺の行動に、アリシアが息を呑む。
 俺は彼女に向き直り、今度は『疲労回復の薬草茶』の包みを手に取った。

「アリシア様もこれを。お湯を沸かす余裕はありませんが、茶葉を直接口に含んでください。気休めかもしれませんが、何もしないよりはいい」

 アリシアは驚いた顔を見せたが、俺の真剣な瞳を見て、こくりと頷いてそれを口に含んだ。茶葉の苦みが、強張っていた彼女の表情をわずかに和らげる。

「……これからどうされるおつもりですか?」

 少し落ち着きを取り戻したアリシアが、俺へと問いを投げた。
 俺は教会の祭壇を見据え、彼女に問い返す。

「アリシア様、一つだけお聞きしたい。あなたの力で、この教会に『聖域』を張ることは可能ですか?」

「聖域……? すぐには難しいですが、魔力が戻れば……ですが、何のために?」

「ここを、皆の避難所にするんです。アリシア様の『聖域』ならそれが可能です。俺はその間に一人でも多く、ここまで連れてきます」

 俺は自分の考えを述べる。
 この絶望的な状況においては被害を最小限に抑えるしか打つ手がないのだ。
 『赦禍判金しゃかはんきん』も集団戦には効果は薄い――というか、そもそもクールタイム中で使えない。

 その提案にアリシアはジッと俺の目を見た。

「……分かりました。私の力が、皆さんの希望になるというのなら。魔力が回復し次第、この教会に『聖域』を展開します。ディラン様、無茶だけはしないでくださいね」

 アリシアは俺の覚悟を受け入れ、強く頷いた。
 その瞳にはもう迷いはなく、聖女としての慈愛と決意が宿っている。

「はい、必ず戻ります」

 俺は祭壇を背に立ち上がると、腰の剣を握り直した。

「ルー、敵の位置把握を頼めるか?」

 俺はルーに語りかける。
 今は少しでも自分の負担を減らすためだ。

『はい! 任せてください!』

 明るい声が響く。
 いつもは煩わしいと感じていたその声は、今は不思議と心強い。

「よし、行くぞ」

 扉を押し開けると、夜気がひやりと頬を撫でた。
 闇に沈んだ学院の敷地は、不気味なほど静まり返っている。

「鎮め、衣を解け。穏やかに還れ——『解強』」

 熱が引いていく。
 肉体を覆っていた見えない鎧が剥がれ落ちる感覚とともに、筋肉のこわばりが解け、膝が少し笑った。
 力は失われたが、頭は冴え渡る。

 その静けさの中で、俺は目を閉じた。
 意識の底に沈み、魔力をそっと外へと解き放つ。

 校内場所を脳裏に描く。
 校舎はもとより、離れにある訓練場、逃げ遅れやすい寮舎、そして図書棟――。


 学院全体を俯瞰で見る――そんな錯覚が脳裏をよぎる。
 校舎、寮舎、図書棟、訓練場。そこに満ちる無数の魔力の灯が一斉に浮かび上がった。

 今の俺なら学院中の魔力を感知できる。
 しかし、今のままでは反応が多すぎて返ってノイズだらけだ。

 そこから余計な情報を削ぎ落とす。

 強大なもの、微かなもの、激しく揺れるもの、ほとんど消えかけているもの……。
 それらが輪郭を持ち、まるで地図の上に散らばる光点のように整列していく。

 ……よし、捉えた。

 寮舎に十数名、図書棟に二人、校舎に散らばる数人。
 俺はひとつ息を吐き、目を開けた。
 優先すべき場所が、はっきりと見えた。

「――図書棟に向かう。ルーは魔物の気配は頼んだ」

 最も近く、そして最も孤立している。感知した二つの光は弱々しく、恐怖か消耗で動けなくなっている可能性が高い。

『はい!  小さい反応はいくつかありますが、大きい魔物は壁の内側にはいません!』

 心強い返事を聞きながら、俺は闇の中を駆け出した。
 向かうは、図書棟。感知した中で最も人数が少なく、孤立している場所だ。

 月明かりだけが頼りの学院は、不気味なほど静まり返っていた。
 時折、遠くの壁の外から地を這うような魔物の咆哮が聞こえ、地面が微かに震える。壁がいつまで持つか分からない。まさに時間との戦いだ。


 そうして数分で図書棟に到着する。

『ディランさん!』

 ルーの声が響く。
 その扉の前には一つの影があった。

「こんなところにまで……」

 ゴブリン。
 教会にいた個体よりは小柄だが、一般生徒たちにとっては脅威以外の何者でもない。
 なるほど、こいつがいるせいで半ば籠城みたいになっているのか。

 俺は腰の剣を静かに抜く。
 金属が鞘を擦る微かな音に、ゴブリンがこちらを振り返った。
 赤い瞳が闇の中で光る。
 低く唸り声を上げながら、握りしめた短剣を構えた。

「邪魔だ」

 俺は一歩踏み出す。
 現状「常強」は使えない、が教会で戦った個体に比べれば明らかに単調で動きも遅い。

 一気に距離を詰める。

 ゴブリンが短剣を振り下ろすのを、半歩下がって躱す。
 返す刃で袈裟懸けに斬り上げた。
 手応えはない。浅い。

 ゴブリンが後退しながら再び短剣を突き出してくる。

『させません!』

 その瞬間にルーがゴブリンの視界を奪った。
 咄嗟の出来事に無防備になった奴の胸部に、剣先を突き立てる。

「……ふぅ」

 ゴブリンの身体が崩れ落ちるのを確認し、俺は剣を拭って鞘に納めた。

「助かった」

『いえいえ、これくらいしかできませんから』

 ルーの謙遜とも本音ともつかない言葉に苦笑しつつ、俺は図書棟の重い扉に手をかけた。

「ディラン・ベルモンドだ。助けに来た。誰かいるか?」

 俺は声を潜めて呼びかける。
 返事はない。だが、魔力感知で捉えた二つの光は、間違いなくこの奥の書庫から発せられている。

 本棚の間の通路を慎重に進む。床にはパニックで落としたのであろう本が散らばっていた。
 一番奥の書庫、その巨大な本棚の裏手に回り込んだ時、衣擦れの音が聞こえた。

「……そこにいるのは分かっている。俺は敵じゃない」

 俺が再び声をかけると、本棚の影からおずおずと二人の男女が姿を現した。
 見覚えのある顔だ。同じ学年の貴族生徒。女子生徒の方は恐怖で顔が真っ白になっている。
 そして、男子生徒の方は――俺の顔を見て、驚きの表情を浮かべていた。

「ベルモンド……様?」

 男子生徒の声は、驚きと、それ以上に信じられないという困惑に満ちていた。
 まさか助けに来てくれたのが自分と同じ貴族の生徒だとは思いもしなかったのだろう。加えて言うならあの「玉砕王子」がだ。

「ああ。無事か? 怪我はないな?」

「は、はい……ですが、なぜここに……」

「見ての通りだ。学院は今、魔物の襲撃を受けている」

 俺は剣を握ったまま、冷静に状況を告げる。
 男子生徒は俺の言葉に顔を青くし、隣の女子生徒は小さく悲鳴を上げた。

「そ、そんな……じゃあ、外にいたあの魔物は……」

「俺が倒した。だが、壁の外にはあれが何百といる。いつ壁が破られてもおかしくない」

 絶望的な事実に、二人は言葉を失う。
 俺は彼らの肩を強く掴んだ。

「いいか、よく聞け。教会が一時的な避難所になっている。聖女アリシア様が、魔力が回復し次第、強力な結界を張ってくれるはずだ。今すぐここを出て、教会へ向かえ」

「で、ですが、外にはまた魔物が……」

「道中の安全は保証できない。だが、ここに籠城していてもいずれ見つかる。どちらが生き残る可能性が高いか、自分で判断しろ」

 俺は敢えて突き放すように言った。甘い言葉をかけている余裕はない。
 男子生徒は唇を噛み締め、やがて覚悟を決めたように顔を上げた。

「……分かりました。ベルモンド様、あなたは?」

「俺は他の生徒を探す。まだ寮舎にも取り残されている者たちがいるはずだ」

 その言葉に、男子生徒はハッとした表情を浮かべた。

「……感謝、します。この御恩は決して忘れません」

 男子生徒の真摯な言葉に、俺は小さく頷いた。

「礼はいらない。また教会で会おう」

 そうして二人を図書棟の出口まで送り、俺は次の目標である寮舎へと足を向ける。
 道中、一部の生徒たちが纏まって行動しているのが確認できた。
 どうやら俺以外にも避難誘導をしてくれている者がいるようだ。

 その事実に少しだけ安堵が広がる。
 このまま行けば、思っていたより早く――

『ディランさん! 大変です! 壁の東側で……!』

 ルーの声が響く。
 次の瞬間、学院の東側から巨大な爆音が響いた。
 地面が激しく揺れ、遠くの窓ガラスが砕ける音が夜に響く。

『石壁が……石壁が崩れました! 魔物が、魔物が中に入ってきます!』

 ルーの絶叫が脳内に響く。
 俺は振り返った。学院の東側で、確かに炎が上がっている。
 そして、その炎に照らされて――無数の影が学院内へと雪崩れ込んでいるのが見えた。
 戦場の霧は、晴れるどころか、さらに深く立ち込めようとしていた。
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