悪役貴族の俺、破滅回避したら勇者が引きこもって世界が詰みました

根古

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第72話 動く身体

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 カイン――その名が喉の奥で渇いたように停滞した。

 目の前の男は、確かにカインだった。
 あの日、俺は彼の穏やかな死に顔を、その冷たくなった肌を、確かに確認したはずだ。
 だというのに、今、彼は研究室の入口に立っている。

「……なんで」

 喉の奥から漏れる声は、ひどく掠れていた。

「あの人って……」

 そしてリリアが、俺の後ろで息を呑む。
 彼女の反応で、決して俺の見間違いなどではないと確信する。

 だが――違和感があった。

 ゆっくりと、軋むように顔を上げたカインは、こちらを“見ている”はずなのに、焦点がどこにも合っていない。
 まるで、光そのものを認識できていないかのような濁った視線。

「カインさん!」

 俺は彼に呼びかける。
 すると僅かに顔をこちらに向けた。
 反応はある。だがあまりにも鈍い。

「ディ……ラン……?」

 掠れた声が、乾いた空気の中に沈んだ。
 まさか名前を呼ばれるとは思わず、心臓が跳ねた。

 だが、それは俺の知っているカインの声ではない。
 あの穏やかな響きも、低く安定した調子も、どこにもない。

「お兄さん……」

 リリアからも怯えたような声が聞こえた。
 ゴクリと喉を鳴らす。
 どれだけ姿形が同じでも、これは“カイン”ではない。
 その結論が脳内に浮かび上がった瞬間、全身に冷たいものが走る。

 カインは、もう一歩だけ前に出た。
 足取りはぎこちなく、歩くという動作そのものを忘れてしまったかのようだった。
 だが、確かにこちらへ向かってくる。

『ディランさん……これ……』

 ルーの声も震えていた。
 その様子から、俺と同じ結論に至っているようだ。

(……そうだな)

 俺はゆっくりと後退しながら、手を前に出す。
 カインの目が、わずかにこちらへ動いた。
 だが、その動きすら“誰かに紐で引かれている”ような不自然さ。

 そして――

「――っ!」

 カインの指が、あり得ない角度に折れ曲がりながら、こちらへ伸びてきた。

 人としての動きではない。
 関節が悲鳴を上げる音が部屋に響き、落ちかけた腕が、糸で吊るされたかのように跳ね上がる。

 その様は、まるで――操られた人形だった。

「……っ、リリア様!」

 声を上げると同時に、背後から爆音が鳴り響いた。
 かと思うと、眼の前のカインが後ろに弾き飛び、壁に叩きつけられる。

 思わず振り返る。
 リリアが、いつもの無邪気な笑顔を消し去り、片腕をカインに向けて突き出していた。
 彼女の華奢な手首には、銀色の腕輪型の魔道具が装着されており、その先端が淡い熱を帯びて煙を上げている。

「お兄さん、下がって!」

 普段の甘い声とは似ても似つかない、鋭く、張り詰めた声。
 宮廷魔法師である彼女の魔力で増幅された一撃は、常人なら即座に昏倒するほどの威力だったはずだ。

だが――

「……まだ立つ、のか」

 壁に叩きつけられ、ありえない角度に首を傾けたまま、カインはゆっくりと起き上がった。

 骨の軋む音が、静かな研究室にいやに鮮明に響く。
 背骨がずるりと蛇のように揺れ、片目だけがこちらを追っていた。

「……っ」

 それはもはや人の動きではない。
 死体が動いてる。
 その確信が胸の奥で固まった瞬間、俺の中で湧き上がったのは恐怖ではなかった。

 怒り。

(ふざけるなよ……)

 人の命を軽んじ、死んでもなおその身体を弄ぶなんて。
 誰が許せるものか。

 拳を握る。
 怒りで熱くなった血が、皮膚の下で脈打つ。

「お兄さん、気を付けて」

「ッ!」

 リリアの叫びと同時に、カインが床を蹴った。
 否――蹴ってはいない。
 つま先が床に触れた直後、糸で無理やり引き寄せられるように、質量だけがこちらへ飛んでくる。

「――っ!」

 反射的に腕を交差させる。
 だが、衝撃は想像を超えていた。

「ぐっ……!」

 腕が痺れ、視界が跳ねる。
 まるで丸太で殴られたような重さ。死体のはずなのに、筋力など残っているはずがないのに。

『ディランさんしゃがんで! 下!』

 ルーの警告に従い、身を低くする。
 直後、上空を何かが裂いた。

 ――カインの腕だった。

 肘から先が、鞭のようにしなり、空気を裂きながら通り過ぎた。
 骨が悲鳴を上げ続けている音が、生々しく耳にまとわりつく。

「リリア様!」

「分かってる!」

 リリアが再び腕輪に魔力を込める。
 指先を向けた瞬間、銀の輪が甲高く鳴り、青白い光が収束――

「――くらえ!」

 光弾が放たれた。
 情け容赦の欠片もない、殺傷前提の直撃弾。

 だが。

「っ……!?」

 カインの身体が、ありえない動きで“曲がった”。
 膝から下を置き去りにして、上半身だけが横へ滑る。
 まるで重力の方向を変えられたように。

 光弾は空を切り、壁に穴を穿つ。

「避けた……?」

 リリアが目を見開く。

 違う。
 避けたのではない。

(動かされている。 今のは反射でも技術でもない、“操作者が引いた”動きだ)

 瞬間、背筋に氷柱が落ちたような感覚が走った。

 ――これは死体が勝手に動いているのではない。
 ――“誰かが”この亡骸を戦闘用に操作している。

 カインの首が、音を立ててこちらへ戻る。
 口が大きく開いた。
 そこから漏れた声は、もはや声と呼べない。

「……ァ……ァアアァ……」

 喉が潰れたような、穴の奥をなぞるような声。
 それは“痛み”でも“苦しみ”でもない。
 ただの、命令を遂行するための駆動音のようだった。

「っ、来るよ!」

 リリアが叫ぶ。
 次の瞬間、床板が砕けた。
 カインの脚が沈みこみ、その反動で矢のようにこちらへ跳ぶ。

(速い、だけど――魔力の流れを、見る!)

 俺は魔力感知をカイン一人に絞り込む。
 やはりそうだ。
 ガーゴイルの時にも感じた、体表を覆う異質な魔力の流れ。

(右腕!)

 俺は咄嗟に右へ身を捻った。
 次の瞬間、右側を通過した“何か”が空気を裂き、俺の頬を掠める。

「……ッ!」

 皮膚が薄く裂け、熱い線が走る。
 見なくても分かる。今のは“腕”だ。

 カインの右腕――いや、“右腕を通る魔力”が、一瞬だけ不自然に膨らんだ。
 それは関節の動きとは無関係な“引き金”のような魔力波だった。

(やっぱり……! 関節じゃない、“魔力の糸”を先に動かしている!)

 そして――それは俺にとって“視える”。

 操作者は、肉体の限界を無視して魔力で関節を吊るし、
 必要に応じて向きを変え、角度を折り曲げ、
 当たる直前で“力点”を切り替えてくる。

 だから動きが速い。
 だから軌道が読めない。
 だからこそ――“魔力の流れ”さえ読めれば回避はできる。

 だが。

「く……ッ!!」

 避けても避けても、ぎりぎりで距離が詰まる。
 人体の可動域ではありえない角度と伸びで、腕が迫る。

「しつこ……!」

 リリアが腕輪を構えた。
 彼女の周囲の魔力濃度が一段階跳ね上がる。

「下がって!」

 リリアの叫びに、俺は即座に後退する。

 その瞬間――

 パァン、と乾いた破裂音が室内に響いた。

 リリアの足元から、青い魔法陣が花弁のように展開され、
 そこから生じた斥力の衝撃波がカインを真正面から吹き飛ばす。

「リリア様! 魔力を断つ道具はありませんか!」

 俺はリリアに叫んだ。

「魔力を断つ道具……? あるけど、使いにくいよ!」

「そんなこと言ってる場合じゃ――!」

 言い終える前に、吹き飛んだはずのカインが、床を転がる勢いのまま腕を振り上げた。

 ――いや、違う。

 転がっていない。
 床を転がった“後の姿勢だけ”が補正されて、無理やり形を整えられたような動き。
 もはや人としての身体は役目を終えている。
 今や彼の身体はただの攻撃のための道具だ。

 ――そんなものを相手にするなら、真っ当な“手段”を選んではいられない。

「リリア様!」

「分かった! ……けど、ちょっと下がって!」

 リリアが腕を振ると、研究机の下にあった金属ケースがふわりと浮かんだ。
 そのまま指先ひとつで蓋が弾け飛ぶ。

 内部には、七色の結晶が埋め込まれた細い棒状の魔道具が数本並んでいた。

 リリアが一本を掴み、軽く振ると、空気が裂けて白い火花が散る。
 その瞬間、俺の魔力感知が突然、歪んだ。
 だが同時にカインの右腕がぶらりと垂れた。

「効いてる……!」

 リリアが息を呑む。

 だが、カインは止まらない。
 胸元の黒い紋が脈打つたび、切ったはずの“糸”が再び巻きなおされるように、腕が起き上がる。

「……っ、早い!」

 関節を無視した動きが加速し、床を削りながら迫る。

(魔力の流れ……! 読める、でも――早すぎるっ……!)

 避けてもすぐ詰められる。
 人の身体では不可能な間合いの潰し方。

 リリアが震える声で叫ぶ。

「魔断符、行くよ!」

「……分かりました!」

 息を合わせるしかない。
 これを外したら、もう防げない。

 カインの身体が、糸に吊られた操り人形のように跳ね上がる。

 攻撃が来る。

(ここだ――!)

「リリア様、今!!」

「いけー!!」

 リリアが魔断符を叩きつける。

 空気が一瞬、完全に「無音」になった。

 そして――

 カインの動きが、ぴたりと止まる。

 床に片足をつけたまま、まるで時間を切り取られたように。

 その静止した姿の中で、胸の黒い紋だけが、ゆっくりと、脈動を続けていた。
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