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邂逅
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陰と陽の交わりは、人の性であり、おのずと生まれ出るもの。しかし、陽と陽が交わること、それすなわち天の意思【Omegaberthー陽性《ようせい》妊娠ー黒隆生《こくりゅうせい》・訳】
陰陽山《いんようざん》に、蝉の声が鳴りひびいている。永凛は、必死に山道を駆けていた。木々の合間を走り抜けるたびに、ほほをぴっ、と枝がかする。
そのたびに彼の肌には、糸のような赤い線が走っていた。浅黒い肌は、垢じみていて薄汚れて見える。鋭い目つきは、育ちの悪さを物語っている。
ぼろぼろの服は、やせ細った身体には合っていない。
「あー、しっつけーなあいつ。腐るほど金持ってるくせによ」
永凛は木にもたれ、息を吐いた。まあ、ここまでくれば大丈夫だろう。懐から戦利品を取り出し、ひひ、と笑う。
「これだけあれば、しばらく食うのに困らないな」
永凛が手にしていたのは、分厚い財布だった。振っても音がしないくらい、ぱんぱんに中身が詰まっている。にやにやしながら財布を振っていたら、近くで物音がした。永凛ははっとして身をかがめる。あいつが追いついてきたのだろうか?
ざく、ざく……。何かを掘るような音が聞こえてくる。永凛は、草木の合間から、様子を覗いてみた。男がひとり、木の根元に立っている。彼はスコップを地面に突き立てては、ざくりざくりと土を掘り返していた。
「なにしてんだ? あいつ」
何か埋めているのだろうか? もしかして、盗んだ金とか? 永凛は、地面を見ようと首を伸ばし、はっとした。男が地面から引きずり出したのは、死体だったのだ。この季節に死体を掘り出すなんて、気が狂っているとしか思えない。
ひどい匂いだろうに、男は構わずに死体を検分している。どうやら、ご同業のようだ。ちらりと男の顔が見えて、永凛はまたもはっとした。
その男は、驚くくらいに綺麗な顔をしていたのだ。すらりとした立ち姿は、彫像のように美しいが、女々しいわけでもない。それなりに膂力のありそうな背中をしているし、背も高い。身なりは質素だが、全身から気品が漂っている。
(すっげえ綺麗な追い剥ぎ……)
永凛は、まじまじと彼を見た。もしかして、没落貴族かなにかだろうか。永凛が身を乗り出すと、足元でぱきりと枝が鳴った。
ハッとしたのもつかの間、彼が振り向く。目が合って、永凛は慌てて立ち上がった。そのまま転がるように走り出す。男が追いかけてくる気配がした。
(大丈夫だ、追いつけやしない)
永凛は、足の速さに自信があった。なにせ、子供の時からかっぱらいやスリで生きてきたのだ。案の定、男の足音はすぐに聞こえなくなった。永凛は気を良くして、山道を一気に駆け下りようとした。と、いきなり足首がぐん、と引っ張られた。
「!」
足を取られた永凛は、勢いよく地面に倒れる。見ると、足首に何かが巻きついていた。半透明で、わずかに青みがかっている。まるで、おたまじゃくしのなりそこないのようだ。尻尾に似た部分が、ふよふよと揺れていた。
「なんだ、この、離せ!」
永凛は、おたまじゃくしを思い切り叩いた。おたまじゃくしはふにょん、と揺れ、その衝撃を受け流す。そうして、足首をぎりぎりと締め上げてきた。
「いだだだだ」
永凛は悲鳴をあげる。ふよふよのくせに、なんだこの強さは。
痛みに悶絶していたら、ふっと影が落ちた。顔をあげると、先ほどの男がこちらを見下ろしている。永凛は息を飲み、じり、と後ずさった。
近くで目にすると、その男は、本当に人形のような美しさだった。だが同時に、ひどく無表情で不気味でもある。こいつ──ただの追い剥ぎじゃない。そう思って、警戒心を強める。びびっているのを知られたくなくて、永凛は語気を強めた。
「こ、このおたまじゃくし、おまえのか」
「おたまじゃくし? 精霊のことか」
「精霊……?」
なんだ、それは。怪訝な顔をすると、
「知らないのか。五大家の者ではないようだな」
五大家ってなんだ。そう思っていたら、いきなり財布を奪われた。永凛は、かっとなって手を伸ばす。
「返せ! 俺のだ」
男は、財布の重さを手のひらで確かめた。冷たい眼でこちらを見る。
「不相応な大金だな……おまえ、スリか」
「だったらなんだ。てめえは追い剥ぎだろうが」
「身なりもきたないが、言葉遣いもひどいな」
「はっ、身なりがどうだろうが、どろぼうには変わらねえよ」
「生意気な」
男は永凛を投げ捨てるように放る。地面に倒れた永凛は、彼をきっ、と睨みつけた。男は無関心な眼で永凛を見下ろし、財布を放りなげる。
「エンジ」
男がそう呼びかけると、足に巻きついたおたまじゃくしがほどける。彼は顎をしゃくり、
「さっさと行け」
永凛は財布をぎゅっと抱き、だっ、と走り出した。
陰陽国。それが、永凛が住む国の名だ。四方を山で囲まれており、狭い国土にもまた山がひしめき合っている。なかでも陰陽山と呼ばれる山は、冷厳あらたかな山であると噂され、信仰の対象となっていた。その、信仰の山で盗みを働いた永凛は、山道を転がるように走っていく。
山を下ると、人々が住む扇状地が広がっている。入り口を間違えてはいけない。下流の生まれである永凛は、遠まわりで街へ向かわなければならないのだ。街の門を抜け、ひたすら歩いていくと、周りは永凛と同じく下流の民で溢れかえる。
永凛は財布をしっかり懐に抱えて歩く。盗みをした後は、盗んだ品を誰かに盗られないようにするのが肝要だ。足早に歩いていた永凛は、とある店の前で立ち止まった。
「おじさん、肉まん八つくれ」
そう言うと、店主はぎろりとこちらをにらんだ。
「八つ? 言っとくが値はまけねえぞ」
「金ならあるよ」
永凛は、懐に手を入れた。札を出すと、店主が眉をあげる。
「どこでかっぱらってきた」
「秘密」
にやっと笑うと、店主はふん、と鼻を鳴らした。肉まんを包み、釣り銭をくれる。
「ありがと」
永凛は肉まんが入った袋を抱え、走り出した。
永凛が住む街は、下陽扇《しもようせん》という名だ。陰陽山のふもとに扇型に広がっているため、そう呼ばれていた。
なだらかな傾斜を描く陽扇の地は、扇の持ち手部分から広がっている部分にいくにつれ、貧富の差が開いていく。上から上陽扇《かみようせん》、中陽扇《ちゅうようせん》、下陽扇《しもようせん》。永凛がすむのは、扇の端、一番貧しい地域だった。
肉まんを抱えた永凛は、柳揺れる川辺をかけていた。眼下に見えるのは、陽扇を割るように流れている扇川だ。橋の下へと駆け下りていく。頭を下げ、潜り込むと、子供たちが顔をあげた。
「にいちゃん、おかえりなさい」
にいちゃん、と呼ばれているが、実際はみな赤の他人だ。
「ただいま」
彼らはわらわらと凛映の周りに集まって、期待を込めた瞳でこちらをみる。
「ねえ、今日はどうだった?」
永凛はにっ、と笑い、肉まんの袋を掲げた。彼らがわあっと感嘆する。
「取り合うな、一人一個あるから」
袋は、あっという間に空になった。分けておいて良かった。永凛はもうひとつ袋を取り出し、子供たちをかき分ける。
「はい、柳じいさん」
隅の方で、本を読んでいた老人がこちらをみた。永凛が言うのもなんだが、柳はとても目つきが悪い。何百年も生きた老木のような肌をしている、頑固そうな男だ。
今は浮浪者にしか見えないが、おそらく上流の生まれだろう、と永凛は思っていた。子供たちに読み書きを教えたりしているし、色々なことに精通している。
永凛は赤ん坊のころ、この橋の下で柳に拾われた。彼がなぜ橋の下に来たのかは不明だ。詮索する気もない。柳は命の恩人。それで十分だ。
「またかっぱらいか、永凛」
「仕方ねえだろ、日雇いじゃこいつらを養えない」
「定職につけばいい」
「無理だね。貧民街の人間は、上の街では働けない。貧民街には定職なんてない。人を雇う余裕のあるやつは、ここには来ないからな」
永凛はそう言って、肉まんにかぶりついた。格差社会だなどと嘆くつもりはない。あるやつから奪ってやればいいだけの話だ。ふと、あの姿のいい男が脳裏に蘇った。
「なあ、じいさん。五大家って知ってる?」
永凛の問いに、柳がああ、と答えた。
「精霊使いの中で、力を持つ五家のことだよ」
「精霊、使い?」
永凛は、聞きなれない言葉に首を傾げた。そういえばあの綺麗な男も、精霊がどうとか言っていたな。柳は本をめくりながら、
「陰陽国には気ってものがある。それは天候や災害、国の行く末を知るために必要だ。精霊使いはそれぞれ、気を操って精霊を動かす。精霊を用いれば、雨を降らせることもできる」
永凛は感心した。あのおたまじゃくしもどきに、そんなことができるとは。
「へえ、いいな。精霊とやらが使えたら、スリもらくちんじゃねえか?」
「スリどころか、もし五大家に取り立てられたら、一生食うのに困らない」
「ふーん。五大家って、なんて名前」
「五陽の色からとって、緋、青、黄、白、黒家。長は緋家だ」
柳はそこで言葉を切り、
「とはいえ、黒家は事実上お家断絶だが」
「なんで?」
「さあな。そこまでは知らん。五大家は陰陽山の向こうに住んでいて、お目にかかることはまずない」
「なるほど。誰も顔とか知らないんだ」
柳がこちらをちらっと見た。
「なにか妙なことを考えてないか?」
「妙なことって? 羨ましいなあとしか思ってねえよ」
永凛はそう言って、肉まんにかぶりついた。
翌日、永凛は朝早く起きだし、川に入った。ごみ拾いをするためだ。基本的に、貧民街にごみという概念はない。なんであろうが再利用するのが貧乏人なのだ。
しかし、もっと上流の街ならば別だ。朝靄がかかる中、永凛はぱしゃぱしゃと水を漕ぐ。夏でよかった。冬の早朝にこんなことをするのはごめんだ。
水草に絡まっているがらくたを引き上げ、背中のカゴに入れた。上流の街から、ゴミが流れてくるのだ。中には、なかなかのお宝が混じっていたりする。カゴにたまったものを見て、永凛はにやっと笑った。
「大漁、大漁」
カゴを振ると、カチャカチャ音が鳴った。
★
「よってらっしゃい、みてらっしゃい、緋家の特別な魔除けだよ」
永凛は、ぱんぱん、と手を打ち鳴らした。台には緋毛氈を敷き、「魔除け」を並べてある。
といっても、ただ器が砕けたものにすぎないのだが。川で拾い集めたそれを丁寧に洗い、やすりで丸くする。それに「緋」という文字を書けばできあがりだ。
ここは上流の街にある市場で、許可を取れば誰でも商売ができる。人々は物珍しげにこちらを見るが、近寄ってはこない。
──なんだ、緋家の知名度って大したことねえな。永凛が落胆していると、
「緋家?」
男がひとり寄ってきた。肩に酒瓶を担いでいる。盛り上がった筋肉は屈強で、魔除けなどまったく必要なさそうだ。
「はい。どうですか、おひとつ」
男は魔除けをしげしげと見て、
「おめえ、緋家のもんか?」
ちげーよ。内心舌を出しながら、永凛は笑顔を浮かべた。
「はい! 緋永凛です」
「永凛?」
彼がぴく、と肩を揺らす。
「ちなみに俺は、燕蒼華(えんそうか)ってんだ」
「立派なお名前ですねえ」
「聞き覚えねえか」
有名な武人か何かなんだろうか。なんにせよ、こんな男は知らない。永凛は、すいません、勉強不足で、と答えた。
「おかしいな、緋家とはふかーい付き合いなんだが」
彼はそう言って、懐から朱塗りの小さな箱を取り出した。あの箱、見たことがある──永凛がそう思っていたら、蒼華が蓋を開いた。中からにゅっ、と出てきたのは、おたまじゃくしもどき。
「!」
「凛映なら知ってるが、永凛なんてやつは知らねえなあ?」
蒼華はそう言って眉をあげる。こいつ、緋家の関係者か……! 永凛は台をひっくり返し、だっ、と走り出した。がしゃん、という音に混じり、悲鳴が聞こえてくる。
「あっ、こら待て!」
男が追いかけてくる気配がする。永凛は全力疾走しながらつぶやいた。
「くそっ、なんで緋家のやつがこんなとこに……」
山の向こうに住んでいるのではなかったのか。永凛は必死に駆けていき、路地に入り込んだ。立てかけてあった竿を倒し、男を妨害する。男は竿をなぎ倒しながら追いかけてきた。
「ひっ」
永凛は思わず悲鳴をあげた。折れた竿を見てぞっとする。なんなんだ、あの男は。まるで猛獣だ。だが足はそう早くない。貧民街に入ってしまえばこっちのものだ。彼は下流の街には足を踏み入れたこともないだろう。
「ちくしょー、捕まえろ、ソウエン!」
男が鋭く叫ぶと、何かがひゅん、と飛んできて、ぬるっと首に巻きついた。
「!」
もがこうとしたら、後ろから押し倒された。
「っ、離せ!」
「よお、足が速いな、緋永凛サマ」
蒼華は永凛にのしかかり、歯を剥いた。食われる……! 永凛は直感的にそう思う。蒼華は永凛を食う──ことはせず、手に精霊を巻きつけ、拘束した。それから、米俵のように担ぎ上げる。じたばたともがくが、まったく敵わない。
「離せ、このクマ!」
「誰がクマだ。俺は名前に華が入ってんだぞぉ」
「何が華だ、雑草だろ!」
「生意気な餓鬼だなあ。うちのおっかない当主さまにお仕置きしてもらうか?」
「当主さま?」
永凛はハッとする。
「まさか、緋家に連れてく気か」
「嫌なら謝りな」
「なんでおまえに謝らなきゃならないんだ」
「生意気ー。こりゃお仕置き決定だな」
クマ、いや蒼華が歩き出す。
「離せええええええええ!」
永凛は青い空に叫んだ。
陰陽山《いんようざん》に、蝉の声が鳴りひびいている。永凛は、必死に山道を駆けていた。木々の合間を走り抜けるたびに、ほほをぴっ、と枝がかする。
そのたびに彼の肌には、糸のような赤い線が走っていた。浅黒い肌は、垢じみていて薄汚れて見える。鋭い目つきは、育ちの悪さを物語っている。
ぼろぼろの服は、やせ細った身体には合っていない。
「あー、しっつけーなあいつ。腐るほど金持ってるくせによ」
永凛は木にもたれ、息を吐いた。まあ、ここまでくれば大丈夫だろう。懐から戦利品を取り出し、ひひ、と笑う。
「これだけあれば、しばらく食うのに困らないな」
永凛が手にしていたのは、分厚い財布だった。振っても音がしないくらい、ぱんぱんに中身が詰まっている。にやにやしながら財布を振っていたら、近くで物音がした。永凛ははっとして身をかがめる。あいつが追いついてきたのだろうか?
ざく、ざく……。何かを掘るような音が聞こえてくる。永凛は、草木の合間から、様子を覗いてみた。男がひとり、木の根元に立っている。彼はスコップを地面に突き立てては、ざくりざくりと土を掘り返していた。
「なにしてんだ? あいつ」
何か埋めているのだろうか? もしかして、盗んだ金とか? 永凛は、地面を見ようと首を伸ばし、はっとした。男が地面から引きずり出したのは、死体だったのだ。この季節に死体を掘り出すなんて、気が狂っているとしか思えない。
ひどい匂いだろうに、男は構わずに死体を検分している。どうやら、ご同業のようだ。ちらりと男の顔が見えて、永凛はまたもはっとした。
その男は、驚くくらいに綺麗な顔をしていたのだ。すらりとした立ち姿は、彫像のように美しいが、女々しいわけでもない。それなりに膂力のありそうな背中をしているし、背も高い。身なりは質素だが、全身から気品が漂っている。
(すっげえ綺麗な追い剥ぎ……)
永凛は、まじまじと彼を見た。もしかして、没落貴族かなにかだろうか。永凛が身を乗り出すと、足元でぱきりと枝が鳴った。
ハッとしたのもつかの間、彼が振り向く。目が合って、永凛は慌てて立ち上がった。そのまま転がるように走り出す。男が追いかけてくる気配がした。
(大丈夫だ、追いつけやしない)
永凛は、足の速さに自信があった。なにせ、子供の時からかっぱらいやスリで生きてきたのだ。案の定、男の足音はすぐに聞こえなくなった。永凛は気を良くして、山道を一気に駆け下りようとした。と、いきなり足首がぐん、と引っ張られた。
「!」
足を取られた永凛は、勢いよく地面に倒れる。見ると、足首に何かが巻きついていた。半透明で、わずかに青みがかっている。まるで、おたまじゃくしのなりそこないのようだ。尻尾に似た部分が、ふよふよと揺れていた。
「なんだ、この、離せ!」
永凛は、おたまじゃくしを思い切り叩いた。おたまじゃくしはふにょん、と揺れ、その衝撃を受け流す。そうして、足首をぎりぎりと締め上げてきた。
「いだだだだ」
永凛は悲鳴をあげる。ふよふよのくせに、なんだこの強さは。
痛みに悶絶していたら、ふっと影が落ちた。顔をあげると、先ほどの男がこちらを見下ろしている。永凛は息を飲み、じり、と後ずさった。
近くで目にすると、その男は、本当に人形のような美しさだった。だが同時に、ひどく無表情で不気味でもある。こいつ──ただの追い剥ぎじゃない。そう思って、警戒心を強める。びびっているのを知られたくなくて、永凛は語気を強めた。
「こ、このおたまじゃくし、おまえのか」
「おたまじゃくし? 精霊のことか」
「精霊……?」
なんだ、それは。怪訝な顔をすると、
「知らないのか。五大家の者ではないようだな」
五大家ってなんだ。そう思っていたら、いきなり財布を奪われた。永凛は、かっとなって手を伸ばす。
「返せ! 俺のだ」
男は、財布の重さを手のひらで確かめた。冷たい眼でこちらを見る。
「不相応な大金だな……おまえ、スリか」
「だったらなんだ。てめえは追い剥ぎだろうが」
「身なりもきたないが、言葉遣いもひどいな」
「はっ、身なりがどうだろうが、どろぼうには変わらねえよ」
「生意気な」
男は永凛を投げ捨てるように放る。地面に倒れた永凛は、彼をきっ、と睨みつけた。男は無関心な眼で永凛を見下ろし、財布を放りなげる。
「エンジ」
男がそう呼びかけると、足に巻きついたおたまじゃくしがほどける。彼は顎をしゃくり、
「さっさと行け」
永凛は財布をぎゅっと抱き、だっ、と走り出した。
陰陽国。それが、永凛が住む国の名だ。四方を山で囲まれており、狭い国土にもまた山がひしめき合っている。なかでも陰陽山と呼ばれる山は、冷厳あらたかな山であると噂され、信仰の対象となっていた。その、信仰の山で盗みを働いた永凛は、山道を転がるように走っていく。
山を下ると、人々が住む扇状地が広がっている。入り口を間違えてはいけない。下流の生まれである永凛は、遠まわりで街へ向かわなければならないのだ。街の門を抜け、ひたすら歩いていくと、周りは永凛と同じく下流の民で溢れかえる。
永凛は財布をしっかり懐に抱えて歩く。盗みをした後は、盗んだ品を誰かに盗られないようにするのが肝要だ。足早に歩いていた永凛は、とある店の前で立ち止まった。
「おじさん、肉まん八つくれ」
そう言うと、店主はぎろりとこちらをにらんだ。
「八つ? 言っとくが値はまけねえぞ」
「金ならあるよ」
永凛は、懐に手を入れた。札を出すと、店主が眉をあげる。
「どこでかっぱらってきた」
「秘密」
にやっと笑うと、店主はふん、と鼻を鳴らした。肉まんを包み、釣り銭をくれる。
「ありがと」
永凛は肉まんが入った袋を抱え、走り出した。
永凛が住む街は、下陽扇《しもようせん》という名だ。陰陽山のふもとに扇型に広がっているため、そう呼ばれていた。
なだらかな傾斜を描く陽扇の地は、扇の持ち手部分から広がっている部分にいくにつれ、貧富の差が開いていく。上から上陽扇《かみようせん》、中陽扇《ちゅうようせん》、下陽扇《しもようせん》。永凛がすむのは、扇の端、一番貧しい地域だった。
肉まんを抱えた永凛は、柳揺れる川辺をかけていた。眼下に見えるのは、陽扇を割るように流れている扇川だ。橋の下へと駆け下りていく。頭を下げ、潜り込むと、子供たちが顔をあげた。
「にいちゃん、おかえりなさい」
にいちゃん、と呼ばれているが、実際はみな赤の他人だ。
「ただいま」
彼らはわらわらと凛映の周りに集まって、期待を込めた瞳でこちらをみる。
「ねえ、今日はどうだった?」
永凛はにっ、と笑い、肉まんの袋を掲げた。彼らがわあっと感嘆する。
「取り合うな、一人一個あるから」
袋は、あっという間に空になった。分けておいて良かった。永凛はもうひとつ袋を取り出し、子供たちをかき分ける。
「はい、柳じいさん」
隅の方で、本を読んでいた老人がこちらをみた。永凛が言うのもなんだが、柳はとても目つきが悪い。何百年も生きた老木のような肌をしている、頑固そうな男だ。
今は浮浪者にしか見えないが、おそらく上流の生まれだろう、と永凛は思っていた。子供たちに読み書きを教えたりしているし、色々なことに精通している。
永凛は赤ん坊のころ、この橋の下で柳に拾われた。彼がなぜ橋の下に来たのかは不明だ。詮索する気もない。柳は命の恩人。それで十分だ。
「またかっぱらいか、永凛」
「仕方ねえだろ、日雇いじゃこいつらを養えない」
「定職につけばいい」
「無理だね。貧民街の人間は、上の街では働けない。貧民街には定職なんてない。人を雇う余裕のあるやつは、ここには来ないからな」
永凛はそう言って、肉まんにかぶりついた。格差社会だなどと嘆くつもりはない。あるやつから奪ってやればいいだけの話だ。ふと、あの姿のいい男が脳裏に蘇った。
「なあ、じいさん。五大家って知ってる?」
永凛の問いに、柳がああ、と答えた。
「精霊使いの中で、力を持つ五家のことだよ」
「精霊、使い?」
永凛は、聞きなれない言葉に首を傾げた。そういえばあの綺麗な男も、精霊がどうとか言っていたな。柳は本をめくりながら、
「陰陽国には気ってものがある。それは天候や災害、国の行く末を知るために必要だ。精霊使いはそれぞれ、気を操って精霊を動かす。精霊を用いれば、雨を降らせることもできる」
永凛は感心した。あのおたまじゃくしもどきに、そんなことができるとは。
「へえ、いいな。精霊とやらが使えたら、スリもらくちんじゃねえか?」
「スリどころか、もし五大家に取り立てられたら、一生食うのに困らない」
「ふーん。五大家って、なんて名前」
「五陽の色からとって、緋、青、黄、白、黒家。長は緋家だ」
柳はそこで言葉を切り、
「とはいえ、黒家は事実上お家断絶だが」
「なんで?」
「さあな。そこまでは知らん。五大家は陰陽山の向こうに住んでいて、お目にかかることはまずない」
「なるほど。誰も顔とか知らないんだ」
柳がこちらをちらっと見た。
「なにか妙なことを考えてないか?」
「妙なことって? 羨ましいなあとしか思ってねえよ」
永凛はそう言って、肉まんにかぶりついた。
翌日、永凛は朝早く起きだし、川に入った。ごみ拾いをするためだ。基本的に、貧民街にごみという概念はない。なんであろうが再利用するのが貧乏人なのだ。
しかし、もっと上流の街ならば別だ。朝靄がかかる中、永凛はぱしゃぱしゃと水を漕ぐ。夏でよかった。冬の早朝にこんなことをするのはごめんだ。
水草に絡まっているがらくたを引き上げ、背中のカゴに入れた。上流の街から、ゴミが流れてくるのだ。中には、なかなかのお宝が混じっていたりする。カゴにたまったものを見て、永凛はにやっと笑った。
「大漁、大漁」
カゴを振ると、カチャカチャ音が鳴った。
★
「よってらっしゃい、みてらっしゃい、緋家の特別な魔除けだよ」
永凛は、ぱんぱん、と手を打ち鳴らした。台には緋毛氈を敷き、「魔除け」を並べてある。
といっても、ただ器が砕けたものにすぎないのだが。川で拾い集めたそれを丁寧に洗い、やすりで丸くする。それに「緋」という文字を書けばできあがりだ。
ここは上流の街にある市場で、許可を取れば誰でも商売ができる。人々は物珍しげにこちらを見るが、近寄ってはこない。
──なんだ、緋家の知名度って大したことねえな。永凛が落胆していると、
「緋家?」
男がひとり寄ってきた。肩に酒瓶を担いでいる。盛り上がった筋肉は屈強で、魔除けなどまったく必要なさそうだ。
「はい。どうですか、おひとつ」
男は魔除けをしげしげと見て、
「おめえ、緋家のもんか?」
ちげーよ。内心舌を出しながら、永凛は笑顔を浮かべた。
「はい! 緋永凛です」
「永凛?」
彼がぴく、と肩を揺らす。
「ちなみに俺は、燕蒼華(えんそうか)ってんだ」
「立派なお名前ですねえ」
「聞き覚えねえか」
有名な武人か何かなんだろうか。なんにせよ、こんな男は知らない。永凛は、すいません、勉強不足で、と答えた。
「おかしいな、緋家とはふかーい付き合いなんだが」
彼はそう言って、懐から朱塗りの小さな箱を取り出した。あの箱、見たことがある──永凛がそう思っていたら、蒼華が蓋を開いた。中からにゅっ、と出てきたのは、おたまじゃくしもどき。
「!」
「凛映なら知ってるが、永凛なんてやつは知らねえなあ?」
蒼華はそう言って眉をあげる。こいつ、緋家の関係者か……! 永凛は台をひっくり返し、だっ、と走り出した。がしゃん、という音に混じり、悲鳴が聞こえてくる。
「あっ、こら待て!」
男が追いかけてくる気配がする。永凛は全力疾走しながらつぶやいた。
「くそっ、なんで緋家のやつがこんなとこに……」
山の向こうに住んでいるのではなかったのか。永凛は必死に駆けていき、路地に入り込んだ。立てかけてあった竿を倒し、男を妨害する。男は竿をなぎ倒しながら追いかけてきた。
「ひっ」
永凛は思わず悲鳴をあげた。折れた竿を見てぞっとする。なんなんだ、あの男は。まるで猛獣だ。だが足はそう早くない。貧民街に入ってしまえばこっちのものだ。彼は下流の街には足を踏み入れたこともないだろう。
「ちくしょー、捕まえろ、ソウエン!」
男が鋭く叫ぶと、何かがひゅん、と飛んできて、ぬるっと首に巻きついた。
「!」
もがこうとしたら、後ろから押し倒された。
「っ、離せ!」
「よお、足が速いな、緋永凛サマ」
蒼華は永凛にのしかかり、歯を剥いた。食われる……! 永凛は直感的にそう思う。蒼華は永凛を食う──ことはせず、手に精霊を巻きつけ、拘束した。それから、米俵のように担ぎ上げる。じたばたともがくが、まったく敵わない。
「離せ、このクマ!」
「誰がクマだ。俺は名前に華が入ってんだぞぉ」
「何が華だ、雑草だろ!」
「生意気な餓鬼だなあ。うちのおっかない当主さまにお仕置きしてもらうか?」
「当主さま?」
永凛はハッとする。
「まさか、緋家に連れてく気か」
「嫌なら謝りな」
「なんでおまえに謝らなきゃならないんだ」
「生意気ー。こりゃお仕置き決定だな」
クマ、いや蒼華が歩き出す。
「離せええええええええ!」
永凛は青い空に叫んだ。
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「その花は、Ωを守る花ではない。喰らわれるのは君の方だよ」
花の中毒症状から救おうと手を差し伸べる竜仁。
彼は、祖母を苦しめたαの孫だと知りーー。
11月から更新します。
PRETEND【オメガバース】
由貴サクラ
BL
医者×MRのお仕事系オメガバース
※オメガバースの世界観をお借りしています
※毎日6時、18時更新予定【完結】
抑制剤領域大手のメルト製薬で学術の仕事をする新堂朔耶は、上司にこれまでオメガゆえに免除されていた職種である営業(MR)への異動を突然命じられた。
担当先は、アルファ・オメガ領域では最先端の大病院。ベータの和泉暁医師に初対面で、ハッキリと「その新人、本当に役に立つわけ?」と暴言を吐かれる。
カチンときた朔耶は、自分の本当の性を隠し、ベータとして和泉の信頼を得ようと努力を始めるが…。
異色設定を噛ませたオメガバースですが、お話は王道です。
性描写が入る回はタイトルに★印をつけるので参考になさってください。
ムーンライトノベルス、フジョッシー、エブリスタでも掲載しています
ちゃんちゃら
三旨加泉
BL
軽い気持ちで普段仲の良い大地と関係を持ってしまった海斗。自分はβだと思っていたが、Ωだと発覚して…?
夫夫としてはゼロからのスタートとなった二人。すれ違いまくる中、二人が出した決断はー。
ビター色の強いオメガバースラブロマンス。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
至高のオメガとガラスの靴
むー
BL
幼なじみのアカリちゃんは男の子だけどオメガ。
誰よりも綺麗で勉強も運動も出来る。
そして、アカリちゃんから漂うフェロモンは誰もが惹きつけらる。
正に"至高のオメガ"
僕-ヒロ-はアルファだけど見た目は普通、勉強も普通、運動なんて普通以下。
だから周りは僕を"欠陥品のアルファ"と呼ぶ。
そんな僕をアカリちゃんはいつも「大好き」と言って僕のそばに居てくれる。
周りに群がる優秀なアルファなんかに一切目もくれない。
"欠陥品"の僕が"至高"のアカリちゃんのそばにずっと居ていいのかな…?
※シリーズものになっていますが、どの物語から読んでも大丈夫です。
【至高のオメガとガラスの靴】←今ココ
↓
【金の野獣と薔薇の番】
↓
【魔法使いと眠れるオメガ】
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