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52.悲しみを超えた愛
ケベンディ侯爵家の貴賓室。
重いベルベットのカーテンが付いたアーチ型の高い窓からは、夕暮れ時の陽光。
高い天井は複雑な金メッキの装飾品で飾られ、クリスタルのシャンデリアが陽光を反射してキラキラと輝いていた。
精緻な彫刻が施されたオーク材のソファは、第2王女たるフローラ殿下が輿入れされる際、王太后マルギット陛下より賜った逸品だそうで、お部屋の重厚感をより際立たせている。
そのソファに、わたしと向かい合って腰を降ろす、ヨランダ・モラウス=メラン夫人こと、
アルパード殿下の元ナーサリーメイド、ヨラーンの語る自らの半生は、実に数奇に満ちたものだった。
「……私が処刑される寸前に、髭面の男が耳元に口を寄せました」
顔を青ざめさせたまま、感情の昂ぶりを抑えたような口調で、淡々と語るヨラーン。
「処刑される前に、嬲り者にされるのではないかと、ひどく身構えたのを覚えています……」
もし、そんな不心得者がいるなら、わたしが即座に首を刎ねる。
と、わたしは思わず眉間にシワを寄せ、
ヨラーンは、すこし申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「けれど、男は……『死体置き場でも、決して喋ってはいけない』とだけ囁くと、サッと立ち去ってしまいました……」
男の言葉の意味が解らないまま、処刑場に運ばれたヨラーン。
処刑用の斧が頭の上を通って、
カツーン、
と、石畳を打った。
同時に背中を蹴り倒され、堅い石畳の上に転がされた。
――決して喋ってはいけない。
髭面の男の囁きを思い出し、目をつむり、口を堅く閉じて寝転がっていると、
身体を雑に持ち上げられて、どこかに運ばれ、冷たい石の台座に寝かされた。
やがて、訳も分からず目を堅く閉じ続けるヨラーンの胸元から、甘くてどこか青々とした、爽やかな花の香りが漂う。
フローラルなだけではなく、スパイシーなニュアンスも混ざり合う奥行きある香り。
花言葉は――、悲しみを超えた愛。
わが国で、冥府での安寧を祈って死者に捧げる花、ヒヤシンスが自分の身体の上に置かれたのだと、ヨラーンは覚った。
閉じたまぶたの裏には、近衛兵に拘束される自分を救けようと、涙ながらに訴える幼い王子の泣き顔が浮かぶ。
慈愛に満ちた声で、
「罪を犯した者をかばうようでは、立派な国王にはなれませんよ。アルパード殿下」
と、新しいメイド長が、王子にやさしく説き聞かせていた。
自分を慕い、身分を超えて仲良くしてくれた、心やさしい王子に涙を流させてしまったことに、ふかい後悔を感じながら、
ヨラーンは冷たい台座の上で、ヒヤシンスの香りに包まれ横たわり続けた。
どれほど時が過ぎたか、
今度は身体をすっぽり覆う肌触りの堅い布がかぶせられ、誰か大きな身体をした男の肩に担ぎ上げられた。
「……まだ、口を開いてはいけない」
囁き声は、あの髭面の男のものだった。
理由は解らないけれど、どうやら私の命は救けられたらしい。
だけど、これからどうなるのか。
どこか異国の娼館にでも売り飛ばされるのか?
男のぶ厚い肩が、自分の腹を揺さぶる鈍い痛みに耐えながら、布に覆われた真っ暗闇のなか、必死で口を閉じ続けた。
そして、丁寧な手付きで床に降ろされ、布をはぎ取られた夜の闇に包まれた部屋が、
この、ケベンディ侯爵家の貴賓室だった。
アーチ型の高窓からさし込む、うすい月明かりが照らすツヤのない黒髪。
前のメイド長が、ヨラーンを抱き締めた。
「……私は、エミリー姉様やイルマと違い、三姉妹の中で唯一、祖母の王太后マルギット陛下と仲が良かったのです」
と、フローラ殿下が寂しげに笑った。
「祖母と母フランツィスカ陛下の間は、いつもピリピリしていましたが……、祖母は本当は母と仲良くしたいことも知っていました。けれど、とても不器用な人で……」
王宮で100年続く嫁姑戦争と、フランツィスカ陛下は仰られていた。
それぞれのご出自、カールマーン公爵家とトルダイ公爵家のプライドもあって、互いに打ち解ける機会を持てずにいたのかもしれない。
「母はいい顔をしませんでしたが、私はよくアルパードを連れて、祖母の宮殿に遊びに行っていました。……その祖母のメイド長が、この私のメイド長にそっと報せてくれたのです。ヨラーンが処刑されることになった……、と」
「王太后陛下のメイド長が……」
「……母王妃の裁可はすでに降りており、祖母がそれを覆せばさらに関係が悪化すると懸念したのでしょう」
慌てた黒髪のメイド長は、フローラ殿下に取り縋るようにして訴えた。
エミリー殿下からあれほど頼まれていたのに……、と。
自分に忠義を尽くしてくれるメイド長の訴えを聞き、フローラ殿下は王宮に人をやって、獄吏に金を握らせた。
そして、処刑は滞りなく執行されたと偽らせ、ヨラーンを密かに救け出した。
「自分の宮殿で遊ぶアルパードとヨラーンの姿を目にしていた祖母は、眉をひそめながらも、母があまり会わせてくれない可愛いけれど内気な孫の、笑顔を見せてくれるのだからと、目をつむっていたのです」
「……私が、増長しておりました」
と、ヨラーンが唇を噛んだ。
「私は王子殿下のお気に入りなのだと。私は特別なのだと。……まるで、自分が王族のひとりになったかのように錯覚するほど、増長しておりました」
ヨラーンの表情には、若き日の過ちを悔いる苦悶に満ちていた。
「……立場を弁えた上で、アルパード殿下と楽しく遊ばせていただく術は、いくらでもあったというのに……」
「そうですか……」
「それでいて、カールマーン公爵家のエルジェーベト様が王太后宮殿におみえのときには大人しくふる舞う……、狡さも、私にはありました……」
処刑場からは救出されたヨラーンだけど、わが国にいる限り、罪人であることに変わりない。
アルパード殿下のためというよりは、黒髪のメイド長の自責の念を癒すためにヨラーンを救出したフローラ殿下は、
ヨラーンを密かに、エルハーベン帝国の領邦国家のひとつに逃がす。
そのことを、母フランツィスカ陛下にも、姉エミリー殿下にも打ち明けなかった。
ヨラーンの処刑がアルパード殿下のお心に深い傷を負わせたことを、フローラ殿下がお知りになられたのは、8年後、妹のイルマ妃殿下がソルフエゴ王国に輿入れされた後のことだった。
「……国政には関与せず、アルパードともたまにしか会わなくなっていた私は、いつもニコニコと楽しげな弟の異変にまったく気が付いていませんでした」
第2王女位を保持されているとはいえ、輿入れしたケベンディ侯爵家の家政もある。エスメラルダ様と弟君の子育てもあっただろう。
〈ご実家〉である王宮、それも内廷での出来事に、疎くなられるのはやむを得ない。
「ただ……、隣国ソルフエゴに輿入れするイルマが、そっと、耳打ちしてくれたのです。アルパードを見守ってほしいと」
「イルマ妃殿下が……」
8年は長い。アルパード殿下は6歳から13歳におなりだ。
しかも、エミリー殿下とイルマ殿下によって、お立ち直りになられた後のこと。
ご自分が密かに逃したヨラーンのことを、いまさら蒸し返すべきか、フローラ殿下が躊躇われたお気持ちもよく分かる。
ヨラーンの生存は、アルパード殿下には伝えられなかった。
「……念のため調べさせたら、そのときヨラーンは既に帝国の領邦、フィルボ王国の王妃にまで登り詰めていたのです」
「フィルボ王国……」
帝国の権門メラン家の、主要領邦だ。
カタリン様が帝都で開かれている社交の場に国王と王妃が姿を見せたと聞いていたけれど……。
まだ顔を青ざめさせたままのヨラーンが、重い口を開いた。
「……フローラ殿下のお計らいで、私は帝国のはるか南東に位置するクロインベルク家に逃がしていただきました」
わたしの受けた王太子妃教育で聞き覚えのあるその家は、帝国の内戦〈パン窯戦争〉で没落した元伯爵家で、かつてケベンディ侯爵家から妃を迎えたことがある。
その縁で、現在でも折に触れて贈物を交わしているらしかった。
「いまは商家となったクロインベルク家の商館で、私はヨランダと名前を変え、共通語を覚え、メイドとして働かせていただけることになりました」
亡命したとはいえ、ヨラーンは平民。在地貴族化することは難しい。
メイドとしての働き口を紹介してもらえただけでも、手厚い方だろう。
「……自らの過ちで、おやさしいアルパード殿下に涙させてしまったことを悔いない日はありませんでした」
「そうですか……」
「家族にも別れを告げられず、異国でひとり……。望郷の念を募らせた私は、商館の前にある花壇の手入れを願い出て任せてもらいました」
「ええ……」
「……ヴィラーグ王国のような立派な花の種や球根は手に入りませんが、心を込めて花を育てているときだけは悔恨と寂しさを忘れることができました」
ミア夫人が驚いたように、わが国では見かけの荒っぽい漁師でも家で花を育てる。
経緯はどうあれ、異国で孤独に暮らすヨラーンの心を、花が慰めたことだろう。
「その花壇が、ひとりの老人の目に留まりました。いつも荷馬車を引いて、商館に野菜を売りに来る老人。……山あいの人口600人くらいの寒村だけを領地とする、領邦君主モラウス伯殿下でいらしたのです」
「モラウス伯……」
「会うたびに私の花壇を褒めてくださるモラウス伯殿下は、3年後、私を養女に迎えたいと申し出てくださいました」
領邦君主も大小様々だ。殿下の尊称を許されるほどの伝統ある君主でも、自ら荷馬車を引いて野菜を売りに来る。
たとえ600人の寒村を治めるだけであっても〈モラウス伯国〉と呼ばれる。
ただ、そんな領邦君主に子がいなければ、養子をとるのにも苦労するだろう。
「天涯孤独の身ではお断りする理由もなく、またモラウス伯殿下の温和なお人柄にも惹かれ、私は養女としてモラウス伯国に入りました」
「ええ……」
「領民というか、村人たちからも歓迎してもらい、私は薔薇の栽培を始めました」
「薔薇……」
「はい。モラウス伯国の土地は痩せていて、君主も村人たちも貧しい。一頭の馬を大切に荷馬車を引かせ、君主みずからが乏しい産物を売りに行く……、という有り様だったのです」
薔薇には痩せた土地で育つ品種がある。
そうした品種は丈夫で、栽培に手間がかからない。
花屋のあるエルハーベン帝国なら、売ることもできるのだろう。
そして、帝国貴族は式典で薔薇を使いたがると聞く。貧しい寒村なら、ちょっとした副収入になったのではないか。
「……やがて、伯位を譲っていただき、私はモラウス女伯となりました。けれど、帝都にのぼる資金にもこと欠き、皇帝陛下への臣従礼を執れたのは4年後です」
ここでわたしが驚くポイントは、ヨラーンが伯位、つまり領邦君主に即位して、4年もの間、帝国が放置していたことだ。
その間、正式な帰属が曖昧なまま、モラウス伯国は〈なんとなく帝国領〉だったことになる。
もちろん、ラヨシュ様をワルデン公に就けたとき、わたしもその隙を突いたのだけれど、
世の中、ほんとうに色んな国がある。
「ヴィラーグのようには参りませんが、わたしなりに品種改良した薔薇を献上し、皇帝陛下への臣従が許されました」
「ええ……」
「その薔薇にフィルボ国王がいたく感心してくださり、私を茶会に招いてくださったのです」
もとの出自はともかく、現在はれっきとした帝国の領邦君主であるモラウス女伯。
若きフィルボ国王と恋に落ち、熱烈に求婚されるまで、そう時はかからなかったそうだ。
「モラウス伯国はフィルボ王国の援助を受けられることになり、私はモラウス女伯兼フィルボ王妃になりました」
身分秩序に厳しいわが国では、考えられない成り上がりエピソード。
まるで物語のなかの出来事のようで、目のまえの人物が実際に体験したことだとは思えない。
けれど、実際、ヨラーンこと、ヨランダ・モラウス=メラン王妃が身に付けるドレスは上等で、金の装具も立派だ。
「……そして、最近になって、帝都でナーダシュディ公爵家のご令嬢……、公女殿下が花壇を造営されていると耳にして、懐かしさのあまり、夫にせがんで、足を運ばさせてもらったのです」
「……そうでしたか」
「ものすごい賑わいでした」
「ええ、カタリン様……、カタリン殿下の社交術の賜物でしょう」
「……恥ずかしながら、その場で私は初めてアルパード殿下のご受難を知りました」
帝国は広い。
カタリン様、ジュゼフィーナ様、グンヒルト様と、みな様がアルパード殿下の解放に向けて運動してくださっていても、
まだ、捕囚の事実そのものを知らない貴族や平民がいるのもまた、事実だろう。
「……私はヴィラーグ王国に戻れば罪人。もとの身分を隠し、カタリン殿下にお会いするのはとても心苦しかったのですが……」
「ええ……」
「帝都の邸宅に人が集まるのは、カタリン殿下の魅力だけではございません」
「……ん?」
「……言葉を選ばず、ご無礼を申し上げれば、カタリン殿下はむしろ添え物」
「添え物……」
「私が、フローラ殿下にご迷惑をかけてしまうかもしれないと思いつつ、それでも密入国までして、ガブリエラ陛下にどうしてもお伝えしなくてはならないと覚悟したのは……」
ヨラーンは、わたしをまっすぐに見た。
伝えたいことがある。けれど、伝わるかどうか自信がない。
そう訴える強い視線に、わたしはハッと気が付いた。
「そうか……、花か」
「……ご賢察の通りです」
帝国を動かす強力な武器は、わたしの側でいつも可憐に咲き誇っていた。
ヨラーンはその〈感覚〉を伝えるため、危険を承知でわたしに会いに帰って来てくれたのだ。
アルパード殿下を救うために。
重いベルベットのカーテンが付いたアーチ型の高い窓からは、夕暮れ時の陽光。
高い天井は複雑な金メッキの装飾品で飾られ、クリスタルのシャンデリアが陽光を反射してキラキラと輝いていた。
精緻な彫刻が施されたオーク材のソファは、第2王女たるフローラ殿下が輿入れされる際、王太后マルギット陛下より賜った逸品だそうで、お部屋の重厚感をより際立たせている。
そのソファに、わたしと向かい合って腰を降ろす、ヨランダ・モラウス=メラン夫人こと、
アルパード殿下の元ナーサリーメイド、ヨラーンの語る自らの半生は、実に数奇に満ちたものだった。
「……私が処刑される寸前に、髭面の男が耳元に口を寄せました」
顔を青ざめさせたまま、感情の昂ぶりを抑えたような口調で、淡々と語るヨラーン。
「処刑される前に、嬲り者にされるのではないかと、ひどく身構えたのを覚えています……」
もし、そんな不心得者がいるなら、わたしが即座に首を刎ねる。
と、わたしは思わず眉間にシワを寄せ、
ヨラーンは、すこし申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「けれど、男は……『死体置き場でも、決して喋ってはいけない』とだけ囁くと、サッと立ち去ってしまいました……」
男の言葉の意味が解らないまま、処刑場に運ばれたヨラーン。
処刑用の斧が頭の上を通って、
カツーン、
と、石畳を打った。
同時に背中を蹴り倒され、堅い石畳の上に転がされた。
――決して喋ってはいけない。
髭面の男の囁きを思い出し、目をつむり、口を堅く閉じて寝転がっていると、
身体を雑に持ち上げられて、どこかに運ばれ、冷たい石の台座に寝かされた。
やがて、訳も分からず目を堅く閉じ続けるヨラーンの胸元から、甘くてどこか青々とした、爽やかな花の香りが漂う。
フローラルなだけではなく、スパイシーなニュアンスも混ざり合う奥行きある香り。
花言葉は――、悲しみを超えた愛。
わが国で、冥府での安寧を祈って死者に捧げる花、ヒヤシンスが自分の身体の上に置かれたのだと、ヨラーンは覚った。
閉じたまぶたの裏には、近衛兵に拘束される自分を救けようと、涙ながらに訴える幼い王子の泣き顔が浮かぶ。
慈愛に満ちた声で、
「罪を犯した者をかばうようでは、立派な国王にはなれませんよ。アルパード殿下」
と、新しいメイド長が、王子にやさしく説き聞かせていた。
自分を慕い、身分を超えて仲良くしてくれた、心やさしい王子に涙を流させてしまったことに、ふかい後悔を感じながら、
ヨラーンは冷たい台座の上で、ヒヤシンスの香りに包まれ横たわり続けた。
どれほど時が過ぎたか、
今度は身体をすっぽり覆う肌触りの堅い布がかぶせられ、誰か大きな身体をした男の肩に担ぎ上げられた。
「……まだ、口を開いてはいけない」
囁き声は、あの髭面の男のものだった。
理由は解らないけれど、どうやら私の命は救けられたらしい。
だけど、これからどうなるのか。
どこか異国の娼館にでも売り飛ばされるのか?
男のぶ厚い肩が、自分の腹を揺さぶる鈍い痛みに耐えながら、布に覆われた真っ暗闇のなか、必死で口を閉じ続けた。
そして、丁寧な手付きで床に降ろされ、布をはぎ取られた夜の闇に包まれた部屋が、
この、ケベンディ侯爵家の貴賓室だった。
アーチ型の高窓からさし込む、うすい月明かりが照らすツヤのない黒髪。
前のメイド長が、ヨラーンを抱き締めた。
「……私は、エミリー姉様やイルマと違い、三姉妹の中で唯一、祖母の王太后マルギット陛下と仲が良かったのです」
と、フローラ殿下が寂しげに笑った。
「祖母と母フランツィスカ陛下の間は、いつもピリピリしていましたが……、祖母は本当は母と仲良くしたいことも知っていました。けれど、とても不器用な人で……」
王宮で100年続く嫁姑戦争と、フランツィスカ陛下は仰られていた。
それぞれのご出自、カールマーン公爵家とトルダイ公爵家のプライドもあって、互いに打ち解ける機会を持てずにいたのかもしれない。
「母はいい顔をしませんでしたが、私はよくアルパードを連れて、祖母の宮殿に遊びに行っていました。……その祖母のメイド長が、この私のメイド長にそっと報せてくれたのです。ヨラーンが処刑されることになった……、と」
「王太后陛下のメイド長が……」
「……母王妃の裁可はすでに降りており、祖母がそれを覆せばさらに関係が悪化すると懸念したのでしょう」
慌てた黒髪のメイド長は、フローラ殿下に取り縋るようにして訴えた。
エミリー殿下からあれほど頼まれていたのに……、と。
自分に忠義を尽くしてくれるメイド長の訴えを聞き、フローラ殿下は王宮に人をやって、獄吏に金を握らせた。
そして、処刑は滞りなく執行されたと偽らせ、ヨラーンを密かに救け出した。
「自分の宮殿で遊ぶアルパードとヨラーンの姿を目にしていた祖母は、眉をひそめながらも、母があまり会わせてくれない可愛いけれど内気な孫の、笑顔を見せてくれるのだからと、目をつむっていたのです」
「……私が、増長しておりました」
と、ヨラーンが唇を噛んだ。
「私は王子殿下のお気に入りなのだと。私は特別なのだと。……まるで、自分が王族のひとりになったかのように錯覚するほど、増長しておりました」
ヨラーンの表情には、若き日の過ちを悔いる苦悶に満ちていた。
「……立場を弁えた上で、アルパード殿下と楽しく遊ばせていただく術は、いくらでもあったというのに……」
「そうですか……」
「それでいて、カールマーン公爵家のエルジェーベト様が王太后宮殿におみえのときには大人しくふる舞う……、狡さも、私にはありました……」
処刑場からは救出されたヨラーンだけど、わが国にいる限り、罪人であることに変わりない。
アルパード殿下のためというよりは、黒髪のメイド長の自責の念を癒すためにヨラーンを救出したフローラ殿下は、
ヨラーンを密かに、エルハーベン帝国の領邦国家のひとつに逃がす。
そのことを、母フランツィスカ陛下にも、姉エミリー殿下にも打ち明けなかった。
ヨラーンの処刑がアルパード殿下のお心に深い傷を負わせたことを、フローラ殿下がお知りになられたのは、8年後、妹のイルマ妃殿下がソルフエゴ王国に輿入れされた後のことだった。
「……国政には関与せず、アルパードともたまにしか会わなくなっていた私は、いつもニコニコと楽しげな弟の異変にまったく気が付いていませんでした」
第2王女位を保持されているとはいえ、輿入れしたケベンディ侯爵家の家政もある。エスメラルダ様と弟君の子育てもあっただろう。
〈ご実家〉である王宮、それも内廷での出来事に、疎くなられるのはやむを得ない。
「ただ……、隣国ソルフエゴに輿入れするイルマが、そっと、耳打ちしてくれたのです。アルパードを見守ってほしいと」
「イルマ妃殿下が……」
8年は長い。アルパード殿下は6歳から13歳におなりだ。
しかも、エミリー殿下とイルマ殿下によって、お立ち直りになられた後のこと。
ご自分が密かに逃したヨラーンのことを、いまさら蒸し返すべきか、フローラ殿下が躊躇われたお気持ちもよく分かる。
ヨラーンの生存は、アルパード殿下には伝えられなかった。
「……念のため調べさせたら、そのときヨラーンは既に帝国の領邦、フィルボ王国の王妃にまで登り詰めていたのです」
「フィルボ王国……」
帝国の権門メラン家の、主要領邦だ。
カタリン様が帝都で開かれている社交の場に国王と王妃が姿を見せたと聞いていたけれど……。
まだ顔を青ざめさせたままのヨラーンが、重い口を開いた。
「……フローラ殿下のお計らいで、私は帝国のはるか南東に位置するクロインベルク家に逃がしていただきました」
わたしの受けた王太子妃教育で聞き覚えのあるその家は、帝国の内戦〈パン窯戦争〉で没落した元伯爵家で、かつてケベンディ侯爵家から妃を迎えたことがある。
その縁で、現在でも折に触れて贈物を交わしているらしかった。
「いまは商家となったクロインベルク家の商館で、私はヨランダと名前を変え、共通語を覚え、メイドとして働かせていただけることになりました」
亡命したとはいえ、ヨラーンは平民。在地貴族化することは難しい。
メイドとしての働き口を紹介してもらえただけでも、手厚い方だろう。
「……自らの過ちで、おやさしいアルパード殿下に涙させてしまったことを悔いない日はありませんでした」
「そうですか……」
「家族にも別れを告げられず、異国でひとり……。望郷の念を募らせた私は、商館の前にある花壇の手入れを願い出て任せてもらいました」
「ええ……」
「……ヴィラーグ王国のような立派な花の種や球根は手に入りませんが、心を込めて花を育てているときだけは悔恨と寂しさを忘れることができました」
ミア夫人が驚いたように、わが国では見かけの荒っぽい漁師でも家で花を育てる。
経緯はどうあれ、異国で孤独に暮らすヨラーンの心を、花が慰めたことだろう。
「その花壇が、ひとりの老人の目に留まりました。いつも荷馬車を引いて、商館に野菜を売りに来る老人。……山あいの人口600人くらいの寒村だけを領地とする、領邦君主モラウス伯殿下でいらしたのです」
「モラウス伯……」
「会うたびに私の花壇を褒めてくださるモラウス伯殿下は、3年後、私を養女に迎えたいと申し出てくださいました」
領邦君主も大小様々だ。殿下の尊称を許されるほどの伝統ある君主でも、自ら荷馬車を引いて野菜を売りに来る。
たとえ600人の寒村を治めるだけであっても〈モラウス伯国〉と呼ばれる。
ただ、そんな領邦君主に子がいなければ、養子をとるのにも苦労するだろう。
「天涯孤独の身ではお断りする理由もなく、またモラウス伯殿下の温和なお人柄にも惹かれ、私は養女としてモラウス伯国に入りました」
「ええ……」
「領民というか、村人たちからも歓迎してもらい、私は薔薇の栽培を始めました」
「薔薇……」
「はい。モラウス伯国の土地は痩せていて、君主も村人たちも貧しい。一頭の馬を大切に荷馬車を引かせ、君主みずからが乏しい産物を売りに行く……、という有り様だったのです」
薔薇には痩せた土地で育つ品種がある。
そうした品種は丈夫で、栽培に手間がかからない。
花屋のあるエルハーベン帝国なら、売ることもできるのだろう。
そして、帝国貴族は式典で薔薇を使いたがると聞く。貧しい寒村なら、ちょっとした副収入になったのではないか。
「……やがて、伯位を譲っていただき、私はモラウス女伯となりました。けれど、帝都にのぼる資金にもこと欠き、皇帝陛下への臣従礼を執れたのは4年後です」
ここでわたしが驚くポイントは、ヨラーンが伯位、つまり領邦君主に即位して、4年もの間、帝国が放置していたことだ。
その間、正式な帰属が曖昧なまま、モラウス伯国は〈なんとなく帝国領〉だったことになる。
もちろん、ラヨシュ様をワルデン公に就けたとき、わたしもその隙を突いたのだけれど、
世の中、ほんとうに色んな国がある。
「ヴィラーグのようには参りませんが、わたしなりに品種改良した薔薇を献上し、皇帝陛下への臣従が許されました」
「ええ……」
「その薔薇にフィルボ国王がいたく感心してくださり、私を茶会に招いてくださったのです」
もとの出自はともかく、現在はれっきとした帝国の領邦君主であるモラウス女伯。
若きフィルボ国王と恋に落ち、熱烈に求婚されるまで、そう時はかからなかったそうだ。
「モラウス伯国はフィルボ王国の援助を受けられることになり、私はモラウス女伯兼フィルボ王妃になりました」
身分秩序に厳しいわが国では、考えられない成り上がりエピソード。
まるで物語のなかの出来事のようで、目のまえの人物が実際に体験したことだとは思えない。
けれど、実際、ヨラーンこと、ヨランダ・モラウス=メラン王妃が身に付けるドレスは上等で、金の装具も立派だ。
「……そして、最近になって、帝都でナーダシュディ公爵家のご令嬢……、公女殿下が花壇を造営されていると耳にして、懐かしさのあまり、夫にせがんで、足を運ばさせてもらったのです」
「……そうでしたか」
「ものすごい賑わいでした」
「ええ、カタリン様……、カタリン殿下の社交術の賜物でしょう」
「……恥ずかしながら、その場で私は初めてアルパード殿下のご受難を知りました」
帝国は広い。
カタリン様、ジュゼフィーナ様、グンヒルト様と、みな様がアルパード殿下の解放に向けて運動してくださっていても、
まだ、捕囚の事実そのものを知らない貴族や平民がいるのもまた、事実だろう。
「……私はヴィラーグ王国に戻れば罪人。もとの身分を隠し、カタリン殿下にお会いするのはとても心苦しかったのですが……」
「ええ……」
「帝都の邸宅に人が集まるのは、カタリン殿下の魅力だけではございません」
「……ん?」
「……言葉を選ばず、ご無礼を申し上げれば、カタリン殿下はむしろ添え物」
「添え物……」
「私が、フローラ殿下にご迷惑をかけてしまうかもしれないと思いつつ、それでも密入国までして、ガブリエラ陛下にどうしてもお伝えしなくてはならないと覚悟したのは……」
ヨラーンは、わたしをまっすぐに見た。
伝えたいことがある。けれど、伝わるかどうか自信がない。
そう訴える強い視線に、わたしはハッと気が付いた。
「そうか……、花か」
「……ご賢察の通りです」
帝国を動かす強力な武器は、わたしの側でいつも可憐に咲き誇っていた。
ヨラーンはその〈感覚〉を伝えるため、危険を承知でわたしに会いに帰って来てくれたのだ。
アルパード殿下を救うために。
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