紹介制のとある秘密の屋敷にて

陽花紫

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確かに宿るもの

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 その屋敷を後にした馬車の中で、リリーは窓の外の霧をぼんやりと見つめていた。
 街灯の光が霧に溶け、景色はまるで水彩画のように滲んでいたのである。
 その中で、心の奥底に灯ったものをどう説明すればいいのかリリーはわからなかった。

 ――ダリオ。

「リリー」
 アレインの声が、耳に入る。

 隣を見れば、その表情はいつもの柔らかさを保っていたものの、瞳の奥には疲労と不安がうっすらと影を落としていた。
「随分と、長い時間がかかっていたようだが……。一体、何を話していたんだい?」
 その言葉に、リリーは真実を告げることができなかった。
「ごめんなさい。あの場所での出来事は、誰にも言うなと言われているの……。それが、決まりなの」
「そうか。……わかったよ」

 馬車が街角を曲がるたびに、リリーの心は揺れていた。
 屋敷での出来事、仮面の男たち。そして、ダリオのあの瞳。
 思い出すたびに、胸の奥が切なく疼いていた。
 しかし、そのことを悟られてはいけないとリリーはアレインの目を見て問いかけた。

「……あなたは、何をしていたの?」
「私は、そのようなことは言われなかったよ?ただ、もう少し君を労わるようにと指導を受けていたんだ」
「そう、……」
 そしてアレインは、リリーの手を静かに取った。

「あれだけの大金をはたいたんだ。きっと、いつかは……授かることができると思うんだ」

 そのような言葉に、リリーは穏やかな笑みを浮かべることしかできないでいた。


 やがて夜は更け、馬車は自宅の門前へと差し掛かる。
 灯火が揺れる庭を抜け、アレインの屋敷の扉が開かれる。
 リリーは深く息をつき、胸の奥に溜め込んだものを静かに吐き出した。

***

 寝室に入ると、二人きりの静寂が広がっていた。
 ベッドの縁に座るアレイン。リリーはいつものように、その隣へと腰を下ろした。
 互いの距離は近いはずであるというのに、なぜだか交わす言葉は少なくもあった。

「今日は、疲れただろう?明日から、今日学んだことを試してみようと思うよ」
 そうアレインは、優しく声をかけた。
 リリーは笑ってみせるが、その笑みはほんの一瞬で、すぐに影が差してしまう。

 ――明日から、私はどのようにして夜を迎えればいいのかしら。

「そうね。それは、楽しみだわ」
 いつものように頬に口づけをして、灯りを落とし、ふたりは静かに横たわる。

 リリーは目を閉じ、静かに両手を腹部にあてた。

 ――ダリオ。

 明くる日の夜。
 アレインはリリーの身を労わりながら、優しくその身を抱いていた。
 リリーは何も言うことはなく、静かに互いの呼吸だけを確かめ合った。
 その刺激に物足りなさを覚えつつも、全ては夫のためにとリリーは目を閉じていた。
「リリー。愛しているよ」
「ええ、私も。愛しているわ。アレイン」

 アレインは腹部を撫でながら、満足げに微笑んでいた。

 言葉にせずとも、互いを思いやる気持ちが、静かに二人を繋いでいた。

***

 陽の光が、窓から柔らかく差し込んでいた。
 ある日リリーはベッドの縁に座り、その手のひらを腹部にあてていた。
 そこには、まだ誰にも明かすことができない秘密が宿っていたのであった。

 ――小さな命が、確かにここにあるのね。

 あの日出会ったダリオの温もりは、忘れようとしても忘れられることはできなかった。
 しかしリリーのその身の内で芽生えたものは、あの夜の行為そのものを超え、命として確かにその場所で息づいていたのであった。


 アレインは、静かに目を覚ます。
 いつものように頬に口づけをして、静かにリリーの髪を撫でていた。
「おはよう、リリー」
 アレインの声は、柔らかく穏やかなものであった。
 リリーは微笑み返すが、その口元は少しだけ震えていた。
「おはようございます。あなた」

 朝食を済ませたあと、庭に出たリリーは、爽やかに吹き抜ける風と遠くに響く小鳥の声に耳を傾けていた。
 何も変わらぬ日常であるというのに、自らの内側だけが、静かに、確実に変わっていくような気がしていた。

 ――私は、母になるのね。

 アレインはリリーの身に起きた変化に気づくことなく、ただ静かに微笑むだけであった。

***

 数日後、リリーは屋敷に訪れた医師によって確かな知らせを受けていた。
 小さな鼓動が、確かに彼女の胸の奥で響いていたのだ。
 その瞬間、涙が溢れていた。

 嬉しさと、安堵。そして、忘れられないあの瞳。
 アレインもまた、リリーの手を取って喜びの声をあげていた。

「リリー!ありがとう。本当に、ありがとう……!」

 強く抱きしめられた胸元に顔を埋めたその瞬間に、リリーは思った。

 ――この人に、私の全てを委ねましょう。

 夜になると、リリーはひとり寝室に座り、あの日の記憶を思い返していた。
 あの情熱的な指先、低く囁いた言葉、頬に残る感触。それは甘くほろ苦く、そしてあたたかな記憶として残っていたのだ。

 しかしこれからは、新しい命のために心を整えなければならない。
 アレインと育む未来。その中で、過去の余韻は美しい影として、そっと心に置いておくことに決めたのだ。

***

 日々は、ゆるやかに過ぎていく。
 リリーのその身は変化し、胸の奥には小さな鼓動が宿り続けていた。
 アレインは何も尋ねず、ただそばで寄り添った。
 それは愛そのものであるかのように温かく、揺るぎない支えでもあった。

 夜が、来る。
 静かに眠るアレインの横で、リリーは手を胸にあててひそやかに囁いていた。

「どうか、この子をお守りください……」

 リリーは、微笑んだ。
 甘く切なく、そして温かい未来をその胸に抱きながら。
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