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強制的な結婚
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マユが住む世界では、女性が社会の中心に立つことが当然とされていた。
政治も経済も文化も、すべての場において女性の意思が優先され、結婚も例外ではなかった。自由恋愛などというものはごくわずかしか存在することはなく、結婚は社会の制度に従う義務でもあったのだ。
しかし結婚後の女性は、一度だけ夫を交換できるという権利が与えられていた。
性格の不一致、価値観の不一致によって相次ぐ離婚率の上昇について、由々しき事態であるということが連日報道されていたのだ。
夫交換。この権利を活用する女性は、少なくはなかった。
幸福を求める手段として、これは決して珍しい権利などではなく、むしろ生き延びるための知恵の一つでもあったのだから。
マユは大手企業に勤める、ごく普通の女性であった。
仕事は順調で、上司からも同僚からも信頼されていた。しかし恋愛や結婚に関しては、ほとんど縁がなかった。日々の業務に追われ、そのような相手を探す余裕もなく、恋愛どころか自分の心の余白さえもほとんど残っていなかったのだ。
***
ある春の日、会社から突然通知が届く。
赤い枠で囲まれた紙面には、ひどく冷たく事務的な文字が並んでいた。
『社員は配属先に応じて結婚を義務づけられることとする』
マユは、ごくりと息を呑む。
決まりだから仕方がないのだと、何度も自らにそう言い聞かせていた。
しかし心の奥には小さな不安と、わずかな期待が混ざりあう。まさかこの人生において、結婚相手まで勝手に決められるとは思ってもいなかったからだ。
通知によれば、マユの配偶者となる男は同じ部署で働くタケシだという。
背が高く面倒見の良い彼は、同僚たちからも評判で、マユも業務において何度も助けられたことがあった。
最初は、少なくとも結婚相手としては悪くないと思っていた。
「タケシさん、これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく。マユちゃんって、呼べばいいかな?」
「はい」
タケシも柔らかな笑顔で喜びを示し、二人の結婚は滞りなく進んでいく。
結婚当初の生活は、まさに理想的であった。
仕事から帰ると二人で食卓を囲み、休日には散歩に出かけ、映画館にも足を運ぶ。些細な会話や笑顔の交換が、忙しない日々の中で静かにマユの心を満たしていた。
「今日もお疲れ様。俺が作ったお弁当、残さず食べてくれた?」
タケシの笑みは柔らかく、まるで春の陽射しのようでもあったのだ。
「うん、美味しかった。ありがとう。明日は私が頑張って作るからね?」
マユは少し照れながら、そう答えた。
「ありがとう、楽しみだなー!」
タケシは表向きには完璧な夫であり、職場でも家庭でも頼れる存在であったのだ。
しかし共に暮らす日々が長くなるにつれ、彼の本性が少しずつ顔を出すようになる。
「あー疲れた。……えっ、飯ないの?」
その言葉に、家に帰ったばかりのマユは大きなため息をついていた。
「ごめん、私も今帰ってきたところで……。すぐに作るね」
「いいよ、ラーメン食べに行くから」
タケシのその声には以前の優しさはなく、どこか身勝手な響きがあった。
洗濯や掃除はほとんど手をつけなくなってしまい、弁当や料理もすべてマユ任せ。挙句の果てには、家政婦呼ばわりまでされてしまう始末でもあったのだ。
「もう、限界。耐えられない」
マユは、小さく呟いた。
言葉にできぬ怒りと哀しみが混ざり合い、胸が強く締め付けられる。
ついに日々の積み重ねが限界を超えてしまい、彼女は強く決意する。
「……あそこに、行ってみよう」
***
ある夜、マユはタケシが深い眠りについたことを確認してから、そっと家を抜け出していた。
向かう先は、“異世界夫交換所”。
かつて噂で聞いたその場所を、今こそ訪れるときがきたのであった。
そこは浮気や暴力、ギャンブルや性格の不一致など、様々な理由で妻に捨てられた夫たちが集まる場所でもあったのだ。
ここでしか、彼女は自らの未来を変えられないのだと思っていた。
「あの点滅信号の場所で、強く願う……」
スマートフォンを片手に、マユは施設の情報を調べていた。
そして、強く願う。
――夫を、捨てたいんです。
驚くべきことに、次の瞬間、目の前には看板のない大きな施設が音もなく建っていた。
恐る恐るその正面扉を押し開けた瞬間、マユは思わず息を呑む。
外観に反して建物の内部は宙に浮き、机や観葉植物はふわふわと揺れていた。
柔らかな光を放つ魔法陣が周囲を取り囲み、床や壁には不可思議な模様が刻まれ、まるでその空間全体が現実世界とは異なる時の流れを持っているかのようでもあったのだ。
「いらっしゃいませ」
受付の職員は、流れるように案内をはじめる。
「こちらで相談を承ります。どうぞ、お入りください」
部屋の中央には魔法で円が描かれ、緑色の光を放っていた。
その円の中心にある椅子に座ると、正式に相談がはじまった。マユは深呼吸を一つしてから、震える声でタケシのことを打ち明けた。
職員は、白い仮面を目元につけた女性であった。
「夫を、捨てたいんです。……もう、耐えられません」
職員は柔らかく頷いたものの、次の言葉でマユの心を凍り付かせてしまう。
「この施設では、必ず夫の交換が必要となってきます。具体的には、二つの選択肢があります。ひとつは、現在の夫タケシ様を魔法で更生させること。もうひとつは、全く別の男性をマユ様の夫として迎え入れることです」
マユは、言葉を詰まらせた。
タケシの性格を魔法で変えることはできる。しかしそのプロセスには時間がかかり、失敗する可能性もあるのだと職員は説明した。
更生を思い描くものの、その時間がかかるという点でマユの心は揺らいでしまう。
マユの心の疲れは、それほどまでに限界が近くもあったのだ。
「更生は、待てないかもしれません」
マユは、小さく呟いた。
しかしながら、全く別の夫というのもいかがなものか。
マユは痛む頭を押さえながら、どうにも答えを出すことができずにうつむいてしまう。
職員はそのようなマユの姿をしばらく見守った後に、ある提案をした。
「納得のいく決断をするために、一度家に戻ってどなたかに相談することも可能ですが……」
「すみません、そうします。今はすぐに、答えることができなくて……」
「大丈夫ですよ。ここにいらっしゃる皆様は、必ず最後に決断を下されます」
「わかりました」
「マユ様が強く願えば、扉は開かれます。またのお越しを、お待ちしております。」
政治も経済も文化も、すべての場において女性の意思が優先され、結婚も例外ではなかった。自由恋愛などというものはごくわずかしか存在することはなく、結婚は社会の制度に従う義務でもあったのだ。
しかし結婚後の女性は、一度だけ夫を交換できるという権利が与えられていた。
性格の不一致、価値観の不一致によって相次ぐ離婚率の上昇について、由々しき事態であるということが連日報道されていたのだ。
夫交換。この権利を活用する女性は、少なくはなかった。
幸福を求める手段として、これは決して珍しい権利などではなく、むしろ生き延びるための知恵の一つでもあったのだから。
マユは大手企業に勤める、ごく普通の女性であった。
仕事は順調で、上司からも同僚からも信頼されていた。しかし恋愛や結婚に関しては、ほとんど縁がなかった。日々の業務に追われ、そのような相手を探す余裕もなく、恋愛どころか自分の心の余白さえもほとんど残っていなかったのだ。
***
ある春の日、会社から突然通知が届く。
赤い枠で囲まれた紙面には、ひどく冷たく事務的な文字が並んでいた。
『社員は配属先に応じて結婚を義務づけられることとする』
マユは、ごくりと息を呑む。
決まりだから仕方がないのだと、何度も自らにそう言い聞かせていた。
しかし心の奥には小さな不安と、わずかな期待が混ざりあう。まさかこの人生において、結婚相手まで勝手に決められるとは思ってもいなかったからだ。
通知によれば、マユの配偶者となる男は同じ部署で働くタケシだという。
背が高く面倒見の良い彼は、同僚たちからも評判で、マユも業務において何度も助けられたことがあった。
最初は、少なくとも結婚相手としては悪くないと思っていた。
「タケシさん、これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく。マユちゃんって、呼べばいいかな?」
「はい」
タケシも柔らかな笑顔で喜びを示し、二人の結婚は滞りなく進んでいく。
結婚当初の生活は、まさに理想的であった。
仕事から帰ると二人で食卓を囲み、休日には散歩に出かけ、映画館にも足を運ぶ。些細な会話や笑顔の交換が、忙しない日々の中で静かにマユの心を満たしていた。
「今日もお疲れ様。俺が作ったお弁当、残さず食べてくれた?」
タケシの笑みは柔らかく、まるで春の陽射しのようでもあったのだ。
「うん、美味しかった。ありがとう。明日は私が頑張って作るからね?」
マユは少し照れながら、そう答えた。
「ありがとう、楽しみだなー!」
タケシは表向きには完璧な夫であり、職場でも家庭でも頼れる存在であったのだ。
しかし共に暮らす日々が長くなるにつれ、彼の本性が少しずつ顔を出すようになる。
「あー疲れた。……えっ、飯ないの?」
その言葉に、家に帰ったばかりのマユは大きなため息をついていた。
「ごめん、私も今帰ってきたところで……。すぐに作るね」
「いいよ、ラーメン食べに行くから」
タケシのその声には以前の優しさはなく、どこか身勝手な響きがあった。
洗濯や掃除はほとんど手をつけなくなってしまい、弁当や料理もすべてマユ任せ。挙句の果てには、家政婦呼ばわりまでされてしまう始末でもあったのだ。
「もう、限界。耐えられない」
マユは、小さく呟いた。
言葉にできぬ怒りと哀しみが混ざり合い、胸が強く締め付けられる。
ついに日々の積み重ねが限界を超えてしまい、彼女は強く決意する。
「……あそこに、行ってみよう」
***
ある夜、マユはタケシが深い眠りについたことを確認してから、そっと家を抜け出していた。
向かう先は、“異世界夫交換所”。
かつて噂で聞いたその場所を、今こそ訪れるときがきたのであった。
そこは浮気や暴力、ギャンブルや性格の不一致など、様々な理由で妻に捨てられた夫たちが集まる場所でもあったのだ。
ここでしか、彼女は自らの未来を変えられないのだと思っていた。
「あの点滅信号の場所で、強く願う……」
スマートフォンを片手に、マユは施設の情報を調べていた。
そして、強く願う。
――夫を、捨てたいんです。
驚くべきことに、次の瞬間、目の前には看板のない大きな施設が音もなく建っていた。
恐る恐るその正面扉を押し開けた瞬間、マユは思わず息を呑む。
外観に反して建物の内部は宙に浮き、机や観葉植物はふわふわと揺れていた。
柔らかな光を放つ魔法陣が周囲を取り囲み、床や壁には不可思議な模様が刻まれ、まるでその空間全体が現実世界とは異なる時の流れを持っているかのようでもあったのだ。
「いらっしゃいませ」
受付の職員は、流れるように案内をはじめる。
「こちらで相談を承ります。どうぞ、お入りください」
部屋の中央には魔法で円が描かれ、緑色の光を放っていた。
その円の中心にある椅子に座ると、正式に相談がはじまった。マユは深呼吸を一つしてから、震える声でタケシのことを打ち明けた。
職員は、白い仮面を目元につけた女性であった。
「夫を、捨てたいんです。……もう、耐えられません」
職員は柔らかく頷いたものの、次の言葉でマユの心を凍り付かせてしまう。
「この施設では、必ず夫の交換が必要となってきます。具体的には、二つの選択肢があります。ひとつは、現在の夫タケシ様を魔法で更生させること。もうひとつは、全く別の男性をマユ様の夫として迎え入れることです」
マユは、言葉を詰まらせた。
タケシの性格を魔法で変えることはできる。しかしそのプロセスには時間がかかり、失敗する可能性もあるのだと職員は説明した。
更生を思い描くものの、その時間がかかるという点でマユの心は揺らいでしまう。
マユの心の疲れは、それほどまでに限界が近くもあったのだ。
「更生は、待てないかもしれません」
マユは、小さく呟いた。
しかしながら、全く別の夫というのもいかがなものか。
マユは痛む頭を押さえながら、どうにも答えを出すことができずにうつむいてしまう。
職員はそのようなマユの姿をしばらく見守った後に、ある提案をした。
「納得のいく決断をするために、一度家に戻ってどなたかに相談することも可能ですが……」
「すみません、そうします。今はすぐに、答えることができなくて……」
「大丈夫ですよ。ここにいらっしゃる皆様は、必ず最後に決断を下されます」
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「マユ様が強く願えば、扉は開かれます。またのお越しを、お待ちしております。」
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