貴族の次男に転生した俺はこの身分を手放して自由を求めて生きていく

陽花紫

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身分を手放す

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 あの日俺が床に落ちたのは、兄であるレオナルドの不注意によるものだった。

 けれど兄は、真実が明るみになることを恐れていた。
 そして、フランが俺を落としたのだと父と母に伝えたのだ。
 フランは、何も言うことができなかった。
 反論する術も、弁明する権利も与えられずに、ただうつむいたまま静かに罪を受け入れるしかなかった。

 そして、俺の前から消えた。
 理由の説明はなかった。
 午睡から目を覚ますと、そこにあるはずの温もりが消えていた。ただそれだけだった。
 フランは平民で、貧しい家族を養うために、必死の思いでこの屋敷の使用人になったと聞いていた。
 使用人たちは皆、彼を気の毒がっていた。
 あの優しい男がそんなことをするはずがないと、小声で囁き合っていた。

 けれど、それも一日だけだった。
 次の日には、皆、何事もなかったかのように仕事をしていた。
 まるでフランなど、最初から存在していなかったかのように。

 そこから俺は、長い年月をかけてこの世界を憎むようになっていく。
 何よりも、兄を。
 そしてこの家を、この血筋を。貴族がなんだ、家柄がなんだ。
 いくら地位や名誉があって金が腐るほどあっても、俺の心は一度も満たされはしなかった。

 父と母の言いなりに生き、次男である俺の意志など通ることはない。
 次期後継者であることが決まっていた兄は兄で、俺の気持ちなど考えもせずに。
 いつも勝手に部屋にやってきては、嫌がる俺の腕を引いてあちらこちらへと連れ回した。

「リオン、剣の稽古に行くぞ!」

 成長した兄は、俺よりもはるかに大きく逞しくなり、いつも剣を手にしていた。
 本を読んでいる最中だろうが、それは関係ない。

「早くしろ、師範を待たせてある!」
「わかりました、兄上」

 こうして今世でも、読み終えられない本だけが部屋に増えていく。

 俺の自由な時間は、いつしか消えていた。
 前世で渇望していたはずの自由は、この世界でもまた、俺の手からすり抜けていく。

 次男であるものの、俺もまた将来は兄の補佐になるようにと日々を慌ただしくおくっていた。
 その中でも唯一、本を読むひとときだけが今の俺の安らぎの時間でもあった。
 それでも、兄の声によってその時間さえも減っていく。
 いつしか本を開く気力も失せて、俺はただぼんやりと空を見上げるようになっていた。

 いくら努力をしても、決して誰も褒めてはくれなかった。
 そしてほんの些細な失敗でさえ、この家は容赦がなかった。
 あの傲慢で勝ち気な兄でさえ、父の平手を受けることが何度もあった。
 血の繋がりでさえ、それは守ってはくれなかった。
 その現実を目の当たりにして、俺はますます口を閉ざして、なるべく目立たぬようにひっそりと部屋にこもるようになっていく。

 日に日に、生きづらさを感じていくようになっていた。
 俺は少年となり、青年となり、気づけば成人を迎えていた。

***

 ある日。
 晩餐を終えたあと、俺は父と母にその申し出をしていた。
「この身分を、放棄したいのです」
 兄には、何も言わなかった。
 もし知られてしまえば、必ずうるさく騒ぎ立てるだろうから。

 父と母は、驚くほど俺に無関心だった。
 静かに聞き入れ、書類に目を通し、何も言わずにサインをしてくれた。
「……ありがとうございます」
 それだけを言って、俺は深く頭を下げた。

 この日をもって、俺は貴族ではなくなった。
 ただ一人の平民として。
 名前も変えて、ただのリオとして生きていくことになったんだ。

 きらびやかな装飾が施された衣服を脱ぎ捨てて、あらかじめ用意しておいた簡素な服に袖を通した。
 幸いにも、この茶色の髪と黒い目はこの世界ではどこにでもあるものだった。
 鏡の前で、生まれ変わった姿を見つめる。
 そこに映るのは、屋敷の息子でも、貴族でもない、ただの平民の男だ。

 ――これで、いい。

 夜が深まった頃、俺は裏門から屋敷を抜け出した。
 足早に、あらかじめ決めておいた待ち合わせの場所へと向かう。

 長い時間をかけて調べ尽くしたところ、この世界には俺のように身分を手放したい貴族のための、秘密の繋がりが存在することを知った。

 この胸には、確かな希望が生まれていた。

 時間を見つけては街へと降りて、俺はその施設に通いつめていた。
 そこで出会った友人や、信頼できる業者たち。
 皆、表向きは何気ないような顔をしていたけれども、それぞれに深い事情を抱えていた。
 家が没落する前に、身分を手放して自由になりたい人。
 平民に恋をして、同じ立場になりたい人。
 俺の家よりも遥かに位が高く、莫大な資産を持ちながらも、趣味の研究に没頭するため農家になったという変わり者までいた。

 その中で、特に俺と気が合ったのがアルベルトだった。
 没落寸前の家に生まれて、笑うしかない現実を背負った同年代の青年。

「同じ日に、自由になろう」
 そう、約束を交わしていた。
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