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幕間短編『いじめられっ子の教祖様』Side:伊賀 ――③
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【まえがき】
投稿休んでしまい申し訳ございません。
今夜本編も投稿します。
第三話『青空と蝉時雨』
早風は腑抜けた顔を正すと、すかさず腰を持ち上げる。
「みんな、起きろッ! 異常事態だ! 起きたやつは隣のやつを起こして! なるべく早く!」
(リーダーになった……)
勇人は思った。今の一瞬で彼は、リーダーになったんだ。本当の自分を、押し殺して。
「なんだ……?」
「んぅ……」
「何が起きて――って、はぁぁあ!? て、天使像じゃねぇか、セーフエリアのはずじゃ!」
うるさい松尾が起きてくれて助かった、と勇人は思った。
松尾の叫びが伝播して、次々にみんなが意識を覚醒させ始める。
「いじめっ子側が邪魔をしてきてる! おそらくそれぞれが協力して、ここで俺たちを一気に畳みかける気だ! もう、やるしかない! やるしかないんだ、ここで! だから、最後だ! これが最後だ! 力を貸してくれ、みんなッ!」
涙が出そうになって、飲み込んだ。
やっぱり、早風は凄い。憧れてしまうほど鮮烈で、眩しい。
「で、どーすんのよ、早風」
「まずは隊列を整えよう。それぞれのパーティーを組んで! 留守番組の二人はそれぞれ一人ずつパーティーに!」
「ぼ、ぼぼぼ、僕の位置に集まってください! ここなら、僕の斥候スキルがギリギリ全範囲に及びます!」
京介の位置にそれぞれが集まり、パーティーを組む。
早風は全員の顔を見回すと、ゆっくりと頷いた。
「……俺たちのパーティーが最前線を切り開く。だから勇人、君のとこは、遅れないで着いてきて」
「分かった……」
「じゃあ――行こう」
早風が一歩駆け出す。
しかし瞬間、京介が諫めるようん声を張り上げた。
「ま、まってくださいッ!」
全員が足を止め、顔をひきつらせたのは、明らかに京介の全身が震え、強張っていたからだ。
京介はにへらとおかしな笑みを浮かべた。あるいは、化け物でも見てしまったかのような。実際、彼には見えていた。
「か、囲まれて……ます……」
ぞろぞろと、天使像が目の前からやってくる。勇人があたりを見渡すと、ざわざわと闇が蠢いていた。あちらからも、こっちからも、次々と天使像が現れる。
「四方、全ての道が塞がれてる……。おびただしいほどの天使像が……セーフエリアを、埋め尽くしています……」
鼓動が早鐘を打つ。
モブキャラ、雑魚以下、クソ人間――いじめられっ子たちの生命が、それぞれの音を奏でて躍動する。
ある者は諦め、ある者は己の人生を悔やみ、またある者は復讐を志す。
その全てが、前を向いていなかった。
ただ、一人を除いては。
松尾がらしくもなく天井を見上げた。京介は震えたまま蹲り、涼子は早風の裾を掴む。巌はただただ泣き叫び、勇人は呆然と立ち尽くしていた。Aランクの佐藤までもが、歯をガタガタと震わせて腰を引かせていた。
ただ一人。一歩、足を踏み出す男がいた。
早風大亜。ただ、カメラマンになるのが夢だった、平凡な男子高校生。少し人よりも注目を買い、出来が良いだけ。
しかしここに来て、彼の”生命”は次のレベルへと踏み出そうとしていた。
ドッ、ドッ。
命を燃え尽くす音を響かせながら、彼の生命が躍動する。
そして――
彼の手の甲が淡く光る。人々を包み込むような、優しく穏やかな緑色の光。
人々は言った。ダンジョンは、神から与えられし試練だと。
であればそれは、試練を乗り越えし者の証。あるいは、乗り越えようともがく者にのみ顕現する、祝福の紋様。
幸運は勇者を好む。
であればそれは、まさしく神の寵愛。
――そして、早風大亜は”レベルアップ”する。
「顕現せよ……」
早風大亜に、カメラマンの才はない。擦り切れるほど写真を撮れど、賞に送れど、誰からも評価されなかった。
『僕、早風大亜の夢は、カメラマンになって、世界にあるたくさんの美しいものを、みんなと共有することです。そして、世界を平和にすることです。ただこの星に生まれただけで、幸せなんだって、みんな知れれば、世界は平和になると思うのです。』
――いつか発表した稚拙な夢。
あの頃の早風は知らなかった。知る由もない。彼は、確かに天才だった。その事も知らず、彼は思い馳せるように、願うように、いつも空に手を伸ばしていた。己に才があればと、そう嘆いた。月の、空の写真が好きなのは、それを手に収めると、届いたような気になれたから。
リーダーなど柄ではない。僕は、僕はただ――写真が撮りたい。こんなプレッシャー、耐えられない。僕のせいで、僕の指示で、また今日も人が死ぬ。ああ、そうだ。誰か、誰か……僕なんかに、僕みたいなクズを、頼らないでくれ――嘆いてまた、彼は空を塞ぐ天井を見ていた。
凡夫、取り繕った虚像塗れの少年は、そして己の才に気づく。
世界平和とは真逆の才に。
――冒険者の、才能に。
「奇跡魔法――【神の恩寵】」
囁くと同時、その場にいたすべてのプレイヤーの手の甲に、緑色の光がまとわりついた。
それは、支援職におけるバフスキルの最高到達点。
神の恩寵は、効果を受けた者の能力を反比例的に最大で約100倍にする。その効力は――Dランクの冒険者を、強制的にAランクまで引き上げるほどの代物である。Sなら2倍、Aなら4倍、規格外なまでの支援スキル。
一方で、発動の代償は大きい。しかしその場にいる述べ14名、そのどれもがその恩恵を受けていた。
「な、なんだこれ……」
漲る力に、松尾は困惑するように呟いた。
早風は応える。
「神の力だ」と。
つーっと、目から血を伝わせながら。
その時伊賀勇人は、命の燃える音を聞いた。心臓に響くような、恐ろしい音だった。
勇人だけが気づいていた。早風に起きた、異変について。
「行こう……」早風は率先して前を歩く。「絶対に、生きてここから出るんだ。一人ではだめだ。必ずパーティーで背を補い合って。団子になればそう簡単にはやられない。落ち着いて、落ち着けば、大丈夫。大丈夫だから」
「いぃぃぃゃっほぉおおおおい!」
松尾が飛び出して先頭を走る。
「んのバカッ! 落ち着けってばッ!」勇人は後方を追い、なし崩し的に勇人たちのパーティーは最前線に躍り出た。
「んなっ!?」
意表を突かれたように早風が目を見開く。
一瞬で天使像に囲まれる。涼子が「ひゃぁぁあ!?」と素っ頓狂な声を上げるせいで、興が削がれた。
巌は涙を垂れ流しにしたまま走り、「ドゥモオオオ!」と体当たりで天使像を突き飛ばす。
「おまっ、なんだそりゃ……っ」
「……強すぎる……?」
松尾と勇人は、同じタイミングで違和感を覚えた。それは、天使像があまりにも弱く思えたからだ。その全てがのろまで、鈍くて、脆い。違う、天使像が弱いのではない。
”逆”だと気づいたのは、お互いが視界に入ったからだった。
勇人の視界で踊る松尾は空で踊るほどに機敏で、鮮やかで、松尾の視界に映る勇人は、天使像を跡形もなく切り刻むほどの歴戦の剣士だった。
「進めッ!」
ごふっ、早風の鼻から血が溢れ、耳からもぽたぽたと赤黒く溢れる。
「止まるなッ! 振り返ったらダメだ! そのまま突き進め、進むんだッ!」
息をつく暇もないほどの連戦。
観音像、天使像、天使像。一度に三体はまずマスト。まるで雪崩のように押し寄せるAランク魔物の大群を、次々と切り刻む途方もない時間。
汗粒が弾け飛び、それぞれの生命が交錯する、かけがえのない時間。
それが突然終りを迎えたのは、一瞬の出来事だった。
「やべっ」
一瞬の油断。ほんの一瞬の間に、パァンッ! と大げさな音を立てて近藤が弾け飛ぶ。天使像の一撃は、直撃すれば大岩をも粉砕する。アサシンであり隠密が取り柄の近藤は、もとよりこの混戦にはふさわしい役者ではなかった。
返り血で顔を赤く染める勇人は、花咲く血肉に視線を奪われる。未だ空を泳ぐ肉片をかきとばして、大量の天使像がやってくる。
誰かの泣き叫ぶ声が、遠くに思えた。
伊賀勇人の精神は、肉体は、とうに限界を迎えていた。
「っ!」
松尾が歯を食いしばる。勇人は泳ぐ視界で、再び乱れる戦場を観測した。
近藤が死んだことによって出来た”穴”。
それが、決定打だった。
水槽に出来た穴から水が吹き溢れていくように、近藤の死亡によって生まれた陣形の穴から一気に天使像が雪崩れ込む。
松尾が天使像の海に流され、一瞬で視界から消え去っていく。
「りょっ……涼子っ!」
咄嗟に勇人は声を張り上げた。泣き叫ぶ涼子が勇人に手を伸ばしながら、波にさらわれるようゆっくりと彼から遠ざかっていく。勇人の額を冷や汗が伝った。
気づけば、巌はすでに近くにはいなかった。
前後左右。見渡す限りを埋め尽くす天使像。
すでに、どこに進むべきか、それすらも不確かだった。
お前では届きえないと、天使たちがせせら笑う。
もがいた。死ぬわけにはいかないと。気が遠くなるほど天使像を斬って、斬った。
すでに、伊賀勇人は限界を迎えていた。
くらりと立ちくらみがして、己の流した血で足を滑らせる。
体が宙を舞い、心臓が縮み上がった。
天使像が、勇人の肉体を――
ドスッ。
鈍い音がして、勇人は目を開けた。驚いたからだ。己の肉体に、痛みが走っていないことに。
「よっ、勇人」
視界の中で、爽やかに早風が笑っている。その横腹に、天使像の拳を受けながら。
ぷしゅっ、と早風の毛穴から血が迸って、次の瞬間に目ん玉が飛び出した。更に別の天使像が、早風のみぞおちに拳を食らわせる。
しかし、早風は笑っていた。心底、幸せそうに。
「ごめんな、勇人」
早風は満面の笑みで天井を見上げた。彼が天井に何を見ているのか、勇人は知り得ないままだった。
「俺の代わりにさ。良いカメラマンに、なってよ」
「は、早風……」
「ん?」
「な、なんで……ご、ごめん、俺……」
「謝んのは勇人じゃなくて俺の方。ごめんな、勇人。俺、先に眠んね」
パァンッ!
勇人のすぐ目の前で、早風の肉体が弾け飛んだ。ひしゃげた肉片が、脳漿が、勇人の全身に飛んでくる。血の雨がふる中で、勇人はただ立ち尽くしていた。
緑色の紋様が消失する。
ドッと倦怠感が襲ってきて、その場で膝をつきそうになった。
発動者の喪失による、能力の失効。神の寵愛が消え失せる。
伊賀勇人はすでに一般人。能力だけでいえば、Dランクそこらの赤子同然だ。
どこかで悲鳴が聞こえてきて、伊賀勇人は蹲りそうになった。
あちこちで悲鳴が聞こえる阿鼻叫喚。すでに、勝敗は決していた。
(なんで……)
なんで? 頭に浮かぶのはそればかり。
取り囲む天使像を呆然と見上げながら、伊賀勇人は逡巡する。
(……なんで、早風は俺を残した……?)
早く楽になりたかった?
違う。勇人には確信があった。早風はたしかに弱くて脆い部分もあった。だがしかし、折れるような器ではい。諦めるような男ではない。
違う。
(俺は……残されたんだ)
――なんのため?
『もし、俺が死んじゃったらさ。勇人、その時は――』
(早風は……俺に何を託したかった?)
迫りくる拳を見つめながら、勇人はそれでも思考を止めなかった。
記憶が駆け巡る。夜、大の字になって寝転びながら、勇人の隣で、早風が天井に向かって手を伸ばしている。
「じゃあ……もう一つだけわがまま」甘える猫のような声で、早風が縋った。「俺が眠ったあとのことは、勇人に任せちゃってもいいかな」
死に際の早風が、再び勇人の脳裏に浮かぶ。
「――ごめんな、勇人。俺、先に眠んね」
凡夫・伊賀勇人が天才・早風大亜に託されたもの。
それは――
(――早風くんの持っていたもの、全て)
リーダーとして、支援者として、みんなを支えるプレッシャー。
(そんなの……そんなの……俺に、出来るわけ……)
出来るわけない。
――本当に?
蝉の鳴き声が、伊賀勇人の脳内を埋め尽くす。
あれは、中学二年の夏のことだ。伊賀勇人は、クラスメートの死体を山に埋めた。じりりと太陽の熱が、首筋を焼き焦がしていた。土に塗れた腕で汗を拭った。
しゃがれた老婆の声が、耳元で囁く。
「出来そうかい? 勇人」
「うん」蝉の雑踏が世界を埋め尽くす。「やるよ」誰に言うでもなく、伊賀勇人は呟いた。「俺がやる」
パンッ!
乾いた拍手の音が鳴って、伊賀勇人の意識は覚醒した。微睡みから目を覚ます。喝采の音と共に、世界を埋め尽くす蝉の鳴き声が消失する。
気づけば、伊賀勇人は手と手を合わせて神に祈っていた。天使像を、見据えながら。
凡夫、才能のないろくでもない青二才の彼は――小輪宗の、教祖である。
「どけ」
一瞬の静寂。
天使像が、即座に道を開けてく。
まるで、王を迎えるように。
それはスキルでも魔法でもない。
この世に存在する全生命を従える――暴力的なまでの、才能。
「んなっ!?」
「何が起きて……」
「は? え、えぇ、こ、これはぁ、なんですかぁああ!?」
「は、早風くんはっ……?」
天使像の山から、いくにんかの姿が現れる。数人は既に死んでしまったようで、天使像がひしゃげた腕を振り回して遊んでいた。
京介、巌、涼子、それからAランクの佐藤と、元Cランクの冒険者、現役Bランクの述べ6名。
「は、早風くんはっ」
「死んだよ」
「……えっ?」
涼子が絶句する。他の数人も、諦めるように項垂れた。
「でも、大丈夫だから」
6人は息を呑んだ。昨日までの彼ではないと、瞬時に誰もが察した。あの地獄で何を見たのか、何を掴んだのか。誰の想像も及びえなかった。
「ここからは……俺がやる。俺がやるよ。全部、やる。だから、着いてきて」
勇人は天使像の迎える道を走る。
凱旋にも親しかった。天使像は何度やってくれど、「どけ」の一言で蜘蛛の子を散らす。
「それ……なんだよ……」
勇人は答えなかった。思考が乱れるほどの疲労感と、頭痛。
能力を行使するたびに、命が燃える音がする。同じだと勇人は思った。早風も同じ領域にたどり着いて、適応出来ずに終わった。
――乗り越えなければ、俺も死ぬ。
伊賀勇人は知っていた。
己に教祖の才などないことを。勇人は薄々気づいていた。この無敵状態が、そう長くは続かないことを。
2層へと進み、止まること無く走り続ける。
視界が点滅する。どろりと目から血が溢れ出して、勇人は荒い呼吸を繰り返す。
脳が焼ききれるように痛い。
なんのために走っているのか。なんのために頑張っているのか。
もう、何もかも分からぬまま走っていた。
「動け」己の体に命令を下す「止まるな……」
伊賀勇人には、責務がある。
中2の夏、彼はクラスメートの死体を山に埋めた。
己が教祖となって、弟を教祖にさせぬため。
勇人は、本物の天才を知っていた。
心を蝕み、自然と冷や汗をかかせるような、暴力的な音色。
伊賀勇人の弟、伊賀古森は、紛れもないバイオリンの天才だった。
伊賀勇人は思い出す。あれは、決して特別な夜ではなかった。何気ない日常の一コマ。それが、隣の部屋から漏れ出る繊細な提琴の旋律に塗り替えられた。気づけば涙が流れて、音が止むと自然と続きを欲していた。
『にーちゃん、俺ね!』思い出すのは、中1の夏のこと。あの夏も、蝉のうるさい夏だった。『俺、バイオリニストになって、絶対世界回るから……一緒に世界回って、いろんな写真撮りたいね!』
「……腐らせて……たまるか」
下らない家のしきたり。廃れた宗教の、反吐が出るような伝統。何かももう、終わってしまえ。ずっとずっと、願っていた。
全部もう、終わってしまえ。
蝉の鳴き声とバイオリンの奏でる音律が、ぐちゃぐちゃに脳をかき乱す。
全身から冷や汗が溢れ出る。
3層。気づけば、天使像に再度囲まれていた。
「どっ」そこまで口にして、伊賀勇人は目を見開く。
もう、出来ない。これ以上能力を使えば、死ぬ。なんとなく察していた。
伊賀勇人はもう、限界だった。
しかし、何もしなくとも死ぬだろう。
であれば、少しでも可能性の高い方を。
「どけ」
それは、兄としての責務。あるいは、矜持だった。
天使像がまた道を開く。
走った。足がもつれても。ずっと、ずっと、蝉の鳴き声が耳元でこだましていた。バイオリンの音色を掻き消して、更に脳裏に強く響いた。土砂降りの雨のように、際限なく隅々まで響き渡っていた。
しかし4層へとたどり着いた瞬間、伊賀勇人は目を見開いた。
体が動かず、意識が少しずつ薄れていく。
誰かが叫んだ。
「勇人くんっ!」
「勇人っ!」
「まずい、来るぞ! 4層の魔物だッ!」
「ま、任せてください! 私がやりましょうッ!」
「さ、佐藤さんを軸に戦おう、やろう、僕らだけでも、最後までッ! た、たたた戦うんだ、無駄にしないためにッ!」
少しずつ、勇人の耳から世界が遠のいていく。
ミーンミンミン。無機質な蝉の声。伊賀勇人は、夢を見ていた。
カシャッ。シャッターをきる音が鳴る。その瞬間が、勇人は一番好きだった。
きっとそれは、彼も、早風も同じだった。
「勇人、いい写真撮るね」
今まで見せたこともないような無邪気な笑みで、早風が笑う。次の撮影をセットしながら。
「そうでもないよ。早風に比べたらまだまだ」
「でも、良い才能を持ってる。羨ましいな」
二人でテントを立てて、山奥で焚き火を囲みながら、静かに夜空に思いを馳せる。立てたカメラを置いたまま、良い写真が撮れれば良いと。この完成を待つ時間が、勇人はたまらなく好きだった。
「そうだ。今、ガンジョーさんが配信しててさ。新しいカメラマン、募集してるんだって……」
「へぇ、じゃあやるんだね? 勇人」
「……え? いや、無理だよ。俺なんかじゃ無理。それに、俺にはさ」
温かいココアをすすり、ほっと息を漏らす。
「やらなきゃいけないことが、あるから。だからカメラごっこは、ここでおしまい」
「それでいいの?」早風は笑った。よく見れば、彼の目玉は飛び出していて、しかし気づいても、勇人に動揺は少なかった。「勇人の夢ってさ、なんなの? やりたいこと、っていうか」
「俺の夢……?」
「そう。カメラマンになること? それとも、教祖になること?」
「俺は……そりゃなりたいけどさ、カメラマン。でも、古森の才能を腐らせるわけには……」
「勇人は? ……勇人本人の気持ちが、いちばん大事なんじゃないかな。違う?」
茶化すように早風が笑う。
勇人は、ポツリと呟いた。
「俺の、本当の……夢」
伊賀勇人は、気づいていた。ずっと、ずっと。だけど、気づかないふりをしていた。彼は教祖になどなりたくなった。家も慣習も何もかも捨て去って、自由なまま世界に飛び出して、恥も外聞もかなぐり捨てて、世界のすべてを赤裸々にカメラに収めたかった。
であれば、気づいたのなら、眠っている場合ではないだろう。
蝉の音色が、ぐちゃぐちゃにバイオリンの音色を掻き消していく。
「目、覚めた?」
伊賀勇人は目を覚ます。
「うん」
血の霧になった彼に答えて、勇人は立ち上がった。
天使像や観音像、阿修羅像に囲まれて、みんなが死ぬ気で戦っている。良い画になると、勇人は思った。
「俺は……俺の夢は、本当は、ごめん、古森、俺……ずっと――」
教祖になることでもない。弟を助けるなんて嘘だ。本当は、本当は、ずっと。
腕についたリングを優しく撫でる。
「――カメラマンに……なりたかった……」
瞬間、憑き物が取れたかのようにすっと体が軽くなった。
涙がこぼれ出る。しかし、勇人はうつむかない。歯を食いしばって前を向いた。
リングを撫でて、現在のptを確認する。
«現在のptは――13,705ptです»
(15,000ptまで……あと1,300……)
スキルスクロール購入画面にある、15,000ptで購入可能とされている『いじめられっ子サバイバー』中最高額スキル――【模倣】。勇人は即座に、今それが必要だと理解した。
画面をスワイプして表示を切り替える。
«現在の視聴者数は――12,748人です»
1000人集まれば100pt手に入る。
単純計算にして、残り13,000人……。
十分だ、と勇人は思った。
「みなさん、長らくお待たせいたしました」
勇人はリングについたカメラを戦うみなへと向け、にやりと笑う。
「本日の配信は――【いじめられっ子達が格上のAランクダンジョンに挑んでみた】……です」
投稿休んでしまい申し訳ございません。
今夜本編も投稿します。
第三話『青空と蝉時雨』
早風は腑抜けた顔を正すと、すかさず腰を持ち上げる。
「みんな、起きろッ! 異常事態だ! 起きたやつは隣のやつを起こして! なるべく早く!」
(リーダーになった……)
勇人は思った。今の一瞬で彼は、リーダーになったんだ。本当の自分を、押し殺して。
「なんだ……?」
「んぅ……」
「何が起きて――って、はぁぁあ!? て、天使像じゃねぇか、セーフエリアのはずじゃ!」
うるさい松尾が起きてくれて助かった、と勇人は思った。
松尾の叫びが伝播して、次々にみんなが意識を覚醒させ始める。
「いじめっ子側が邪魔をしてきてる! おそらくそれぞれが協力して、ここで俺たちを一気に畳みかける気だ! もう、やるしかない! やるしかないんだ、ここで! だから、最後だ! これが最後だ! 力を貸してくれ、みんなッ!」
涙が出そうになって、飲み込んだ。
やっぱり、早風は凄い。憧れてしまうほど鮮烈で、眩しい。
「で、どーすんのよ、早風」
「まずは隊列を整えよう。それぞれのパーティーを組んで! 留守番組の二人はそれぞれ一人ずつパーティーに!」
「ぼ、ぼぼぼ、僕の位置に集まってください! ここなら、僕の斥候スキルがギリギリ全範囲に及びます!」
京介の位置にそれぞれが集まり、パーティーを組む。
早風は全員の顔を見回すと、ゆっくりと頷いた。
「……俺たちのパーティーが最前線を切り開く。だから勇人、君のとこは、遅れないで着いてきて」
「分かった……」
「じゃあ――行こう」
早風が一歩駆け出す。
しかし瞬間、京介が諫めるようん声を張り上げた。
「ま、まってくださいッ!」
全員が足を止め、顔をひきつらせたのは、明らかに京介の全身が震え、強張っていたからだ。
京介はにへらとおかしな笑みを浮かべた。あるいは、化け物でも見てしまったかのような。実際、彼には見えていた。
「か、囲まれて……ます……」
ぞろぞろと、天使像が目の前からやってくる。勇人があたりを見渡すと、ざわざわと闇が蠢いていた。あちらからも、こっちからも、次々と天使像が現れる。
「四方、全ての道が塞がれてる……。おびただしいほどの天使像が……セーフエリアを、埋め尽くしています……」
鼓動が早鐘を打つ。
モブキャラ、雑魚以下、クソ人間――いじめられっ子たちの生命が、それぞれの音を奏でて躍動する。
ある者は諦め、ある者は己の人生を悔やみ、またある者は復讐を志す。
その全てが、前を向いていなかった。
ただ、一人を除いては。
松尾がらしくもなく天井を見上げた。京介は震えたまま蹲り、涼子は早風の裾を掴む。巌はただただ泣き叫び、勇人は呆然と立ち尽くしていた。Aランクの佐藤までもが、歯をガタガタと震わせて腰を引かせていた。
ただ一人。一歩、足を踏み出す男がいた。
早風大亜。ただ、カメラマンになるのが夢だった、平凡な男子高校生。少し人よりも注目を買い、出来が良いだけ。
しかしここに来て、彼の”生命”は次のレベルへと踏み出そうとしていた。
ドッ、ドッ。
命を燃え尽くす音を響かせながら、彼の生命が躍動する。
そして――
彼の手の甲が淡く光る。人々を包み込むような、優しく穏やかな緑色の光。
人々は言った。ダンジョンは、神から与えられし試練だと。
であればそれは、試練を乗り越えし者の証。あるいは、乗り越えようともがく者にのみ顕現する、祝福の紋様。
幸運は勇者を好む。
であればそれは、まさしく神の寵愛。
――そして、早風大亜は”レベルアップ”する。
「顕現せよ……」
早風大亜に、カメラマンの才はない。擦り切れるほど写真を撮れど、賞に送れど、誰からも評価されなかった。
『僕、早風大亜の夢は、カメラマンになって、世界にあるたくさんの美しいものを、みんなと共有することです。そして、世界を平和にすることです。ただこの星に生まれただけで、幸せなんだって、みんな知れれば、世界は平和になると思うのです。』
――いつか発表した稚拙な夢。
あの頃の早風は知らなかった。知る由もない。彼は、確かに天才だった。その事も知らず、彼は思い馳せるように、願うように、いつも空に手を伸ばしていた。己に才があればと、そう嘆いた。月の、空の写真が好きなのは、それを手に収めると、届いたような気になれたから。
リーダーなど柄ではない。僕は、僕はただ――写真が撮りたい。こんなプレッシャー、耐えられない。僕のせいで、僕の指示で、また今日も人が死ぬ。ああ、そうだ。誰か、誰か……僕なんかに、僕みたいなクズを、頼らないでくれ――嘆いてまた、彼は空を塞ぐ天井を見ていた。
凡夫、取り繕った虚像塗れの少年は、そして己の才に気づく。
世界平和とは真逆の才に。
――冒険者の、才能に。
「奇跡魔法――【神の恩寵】」
囁くと同時、その場にいたすべてのプレイヤーの手の甲に、緑色の光がまとわりついた。
それは、支援職におけるバフスキルの最高到達点。
神の恩寵は、効果を受けた者の能力を反比例的に最大で約100倍にする。その効力は――Dランクの冒険者を、強制的にAランクまで引き上げるほどの代物である。Sなら2倍、Aなら4倍、規格外なまでの支援スキル。
一方で、発動の代償は大きい。しかしその場にいる述べ14名、そのどれもがその恩恵を受けていた。
「な、なんだこれ……」
漲る力に、松尾は困惑するように呟いた。
早風は応える。
「神の力だ」と。
つーっと、目から血を伝わせながら。
その時伊賀勇人は、命の燃える音を聞いた。心臓に響くような、恐ろしい音だった。
勇人だけが気づいていた。早風に起きた、異変について。
「行こう……」早風は率先して前を歩く。「絶対に、生きてここから出るんだ。一人ではだめだ。必ずパーティーで背を補い合って。団子になればそう簡単にはやられない。落ち着いて、落ち着けば、大丈夫。大丈夫だから」
「いぃぃぃゃっほぉおおおおい!」
松尾が飛び出して先頭を走る。
「んのバカッ! 落ち着けってばッ!」勇人は後方を追い、なし崩し的に勇人たちのパーティーは最前線に躍り出た。
「んなっ!?」
意表を突かれたように早風が目を見開く。
一瞬で天使像に囲まれる。涼子が「ひゃぁぁあ!?」と素っ頓狂な声を上げるせいで、興が削がれた。
巌は涙を垂れ流しにしたまま走り、「ドゥモオオオ!」と体当たりで天使像を突き飛ばす。
「おまっ、なんだそりゃ……っ」
「……強すぎる……?」
松尾と勇人は、同じタイミングで違和感を覚えた。それは、天使像があまりにも弱く思えたからだ。その全てがのろまで、鈍くて、脆い。違う、天使像が弱いのではない。
”逆”だと気づいたのは、お互いが視界に入ったからだった。
勇人の視界で踊る松尾は空で踊るほどに機敏で、鮮やかで、松尾の視界に映る勇人は、天使像を跡形もなく切り刻むほどの歴戦の剣士だった。
「進めッ!」
ごふっ、早風の鼻から血が溢れ、耳からもぽたぽたと赤黒く溢れる。
「止まるなッ! 振り返ったらダメだ! そのまま突き進め、進むんだッ!」
息をつく暇もないほどの連戦。
観音像、天使像、天使像。一度に三体はまずマスト。まるで雪崩のように押し寄せるAランク魔物の大群を、次々と切り刻む途方もない時間。
汗粒が弾け飛び、それぞれの生命が交錯する、かけがえのない時間。
それが突然終りを迎えたのは、一瞬の出来事だった。
「やべっ」
一瞬の油断。ほんの一瞬の間に、パァンッ! と大げさな音を立てて近藤が弾け飛ぶ。天使像の一撃は、直撃すれば大岩をも粉砕する。アサシンであり隠密が取り柄の近藤は、もとよりこの混戦にはふさわしい役者ではなかった。
返り血で顔を赤く染める勇人は、花咲く血肉に視線を奪われる。未だ空を泳ぐ肉片をかきとばして、大量の天使像がやってくる。
誰かの泣き叫ぶ声が、遠くに思えた。
伊賀勇人の精神は、肉体は、とうに限界を迎えていた。
「っ!」
松尾が歯を食いしばる。勇人は泳ぐ視界で、再び乱れる戦場を観測した。
近藤が死んだことによって出来た”穴”。
それが、決定打だった。
水槽に出来た穴から水が吹き溢れていくように、近藤の死亡によって生まれた陣形の穴から一気に天使像が雪崩れ込む。
松尾が天使像の海に流され、一瞬で視界から消え去っていく。
「りょっ……涼子っ!」
咄嗟に勇人は声を張り上げた。泣き叫ぶ涼子が勇人に手を伸ばしながら、波にさらわれるようゆっくりと彼から遠ざかっていく。勇人の額を冷や汗が伝った。
気づけば、巌はすでに近くにはいなかった。
前後左右。見渡す限りを埋め尽くす天使像。
すでに、どこに進むべきか、それすらも不確かだった。
お前では届きえないと、天使たちがせせら笑う。
もがいた。死ぬわけにはいかないと。気が遠くなるほど天使像を斬って、斬った。
すでに、伊賀勇人は限界を迎えていた。
くらりと立ちくらみがして、己の流した血で足を滑らせる。
体が宙を舞い、心臓が縮み上がった。
天使像が、勇人の肉体を――
ドスッ。
鈍い音がして、勇人は目を開けた。驚いたからだ。己の肉体に、痛みが走っていないことに。
「よっ、勇人」
視界の中で、爽やかに早風が笑っている。その横腹に、天使像の拳を受けながら。
ぷしゅっ、と早風の毛穴から血が迸って、次の瞬間に目ん玉が飛び出した。更に別の天使像が、早風のみぞおちに拳を食らわせる。
しかし、早風は笑っていた。心底、幸せそうに。
「ごめんな、勇人」
早風は満面の笑みで天井を見上げた。彼が天井に何を見ているのか、勇人は知り得ないままだった。
「俺の代わりにさ。良いカメラマンに、なってよ」
「は、早風……」
「ん?」
「な、なんで……ご、ごめん、俺……」
「謝んのは勇人じゃなくて俺の方。ごめんな、勇人。俺、先に眠んね」
パァンッ!
勇人のすぐ目の前で、早風の肉体が弾け飛んだ。ひしゃげた肉片が、脳漿が、勇人の全身に飛んでくる。血の雨がふる中で、勇人はただ立ち尽くしていた。
緑色の紋様が消失する。
ドッと倦怠感が襲ってきて、その場で膝をつきそうになった。
発動者の喪失による、能力の失効。神の寵愛が消え失せる。
伊賀勇人はすでに一般人。能力だけでいえば、Dランクそこらの赤子同然だ。
どこかで悲鳴が聞こえてきて、伊賀勇人は蹲りそうになった。
あちこちで悲鳴が聞こえる阿鼻叫喚。すでに、勝敗は決していた。
(なんで……)
なんで? 頭に浮かぶのはそればかり。
取り囲む天使像を呆然と見上げながら、伊賀勇人は逡巡する。
(……なんで、早風は俺を残した……?)
早く楽になりたかった?
違う。勇人には確信があった。早風はたしかに弱くて脆い部分もあった。だがしかし、折れるような器ではい。諦めるような男ではない。
違う。
(俺は……残されたんだ)
――なんのため?
『もし、俺が死んじゃったらさ。勇人、その時は――』
(早風は……俺に何を託したかった?)
迫りくる拳を見つめながら、勇人はそれでも思考を止めなかった。
記憶が駆け巡る。夜、大の字になって寝転びながら、勇人の隣で、早風が天井に向かって手を伸ばしている。
「じゃあ……もう一つだけわがまま」甘える猫のような声で、早風が縋った。「俺が眠ったあとのことは、勇人に任せちゃってもいいかな」
死に際の早風が、再び勇人の脳裏に浮かぶ。
「――ごめんな、勇人。俺、先に眠んね」
凡夫・伊賀勇人が天才・早風大亜に託されたもの。
それは――
(――早風くんの持っていたもの、全て)
リーダーとして、支援者として、みんなを支えるプレッシャー。
(そんなの……そんなの……俺に、出来るわけ……)
出来るわけない。
――本当に?
蝉の鳴き声が、伊賀勇人の脳内を埋め尽くす。
あれは、中学二年の夏のことだ。伊賀勇人は、クラスメートの死体を山に埋めた。じりりと太陽の熱が、首筋を焼き焦がしていた。土に塗れた腕で汗を拭った。
しゃがれた老婆の声が、耳元で囁く。
「出来そうかい? 勇人」
「うん」蝉の雑踏が世界を埋め尽くす。「やるよ」誰に言うでもなく、伊賀勇人は呟いた。「俺がやる」
パンッ!
乾いた拍手の音が鳴って、伊賀勇人の意識は覚醒した。微睡みから目を覚ます。喝采の音と共に、世界を埋め尽くす蝉の鳴き声が消失する。
気づけば、伊賀勇人は手と手を合わせて神に祈っていた。天使像を、見据えながら。
凡夫、才能のないろくでもない青二才の彼は――小輪宗の、教祖である。
「どけ」
一瞬の静寂。
天使像が、即座に道を開けてく。
まるで、王を迎えるように。
それはスキルでも魔法でもない。
この世に存在する全生命を従える――暴力的なまでの、才能。
「んなっ!?」
「何が起きて……」
「は? え、えぇ、こ、これはぁ、なんですかぁああ!?」
「は、早風くんはっ……?」
天使像の山から、いくにんかの姿が現れる。数人は既に死んでしまったようで、天使像がひしゃげた腕を振り回して遊んでいた。
京介、巌、涼子、それからAランクの佐藤と、元Cランクの冒険者、現役Bランクの述べ6名。
「は、早風くんはっ」
「死んだよ」
「……えっ?」
涼子が絶句する。他の数人も、諦めるように項垂れた。
「でも、大丈夫だから」
6人は息を呑んだ。昨日までの彼ではないと、瞬時に誰もが察した。あの地獄で何を見たのか、何を掴んだのか。誰の想像も及びえなかった。
「ここからは……俺がやる。俺がやるよ。全部、やる。だから、着いてきて」
勇人は天使像の迎える道を走る。
凱旋にも親しかった。天使像は何度やってくれど、「どけ」の一言で蜘蛛の子を散らす。
「それ……なんだよ……」
勇人は答えなかった。思考が乱れるほどの疲労感と、頭痛。
能力を行使するたびに、命が燃える音がする。同じだと勇人は思った。早風も同じ領域にたどり着いて、適応出来ずに終わった。
――乗り越えなければ、俺も死ぬ。
伊賀勇人は知っていた。
己に教祖の才などないことを。勇人は薄々気づいていた。この無敵状態が、そう長くは続かないことを。
2層へと進み、止まること無く走り続ける。
視界が点滅する。どろりと目から血が溢れ出して、勇人は荒い呼吸を繰り返す。
脳が焼ききれるように痛い。
なんのために走っているのか。なんのために頑張っているのか。
もう、何もかも分からぬまま走っていた。
「動け」己の体に命令を下す「止まるな……」
伊賀勇人には、責務がある。
中2の夏、彼はクラスメートの死体を山に埋めた。
己が教祖となって、弟を教祖にさせぬため。
勇人は、本物の天才を知っていた。
心を蝕み、自然と冷や汗をかかせるような、暴力的な音色。
伊賀勇人の弟、伊賀古森は、紛れもないバイオリンの天才だった。
伊賀勇人は思い出す。あれは、決して特別な夜ではなかった。何気ない日常の一コマ。それが、隣の部屋から漏れ出る繊細な提琴の旋律に塗り替えられた。気づけば涙が流れて、音が止むと自然と続きを欲していた。
『にーちゃん、俺ね!』思い出すのは、中1の夏のこと。あの夏も、蝉のうるさい夏だった。『俺、バイオリニストになって、絶対世界回るから……一緒に世界回って、いろんな写真撮りたいね!』
「……腐らせて……たまるか」
下らない家のしきたり。廃れた宗教の、反吐が出るような伝統。何かももう、終わってしまえ。ずっとずっと、願っていた。
全部もう、終わってしまえ。
蝉の鳴き声とバイオリンの奏でる音律が、ぐちゃぐちゃに脳をかき乱す。
全身から冷や汗が溢れ出る。
3層。気づけば、天使像に再度囲まれていた。
「どっ」そこまで口にして、伊賀勇人は目を見開く。
もう、出来ない。これ以上能力を使えば、死ぬ。なんとなく察していた。
伊賀勇人はもう、限界だった。
しかし、何もしなくとも死ぬだろう。
であれば、少しでも可能性の高い方を。
「どけ」
それは、兄としての責務。あるいは、矜持だった。
天使像がまた道を開く。
走った。足がもつれても。ずっと、ずっと、蝉の鳴き声が耳元でこだましていた。バイオリンの音色を掻き消して、更に脳裏に強く響いた。土砂降りの雨のように、際限なく隅々まで響き渡っていた。
しかし4層へとたどり着いた瞬間、伊賀勇人は目を見開いた。
体が動かず、意識が少しずつ薄れていく。
誰かが叫んだ。
「勇人くんっ!」
「勇人っ!」
「まずい、来るぞ! 4層の魔物だッ!」
「ま、任せてください! 私がやりましょうッ!」
「さ、佐藤さんを軸に戦おう、やろう、僕らだけでも、最後までッ! た、たたた戦うんだ、無駄にしないためにッ!」
少しずつ、勇人の耳から世界が遠のいていく。
ミーンミンミン。無機質な蝉の声。伊賀勇人は、夢を見ていた。
カシャッ。シャッターをきる音が鳴る。その瞬間が、勇人は一番好きだった。
きっとそれは、彼も、早風も同じだった。
「勇人、いい写真撮るね」
今まで見せたこともないような無邪気な笑みで、早風が笑う。次の撮影をセットしながら。
「そうでもないよ。早風に比べたらまだまだ」
「でも、良い才能を持ってる。羨ましいな」
二人でテントを立てて、山奥で焚き火を囲みながら、静かに夜空に思いを馳せる。立てたカメラを置いたまま、良い写真が撮れれば良いと。この完成を待つ時間が、勇人はたまらなく好きだった。
「そうだ。今、ガンジョーさんが配信しててさ。新しいカメラマン、募集してるんだって……」
「へぇ、じゃあやるんだね? 勇人」
「……え? いや、無理だよ。俺なんかじゃ無理。それに、俺にはさ」
温かいココアをすすり、ほっと息を漏らす。
「やらなきゃいけないことが、あるから。だからカメラごっこは、ここでおしまい」
「それでいいの?」早風は笑った。よく見れば、彼の目玉は飛び出していて、しかし気づいても、勇人に動揺は少なかった。「勇人の夢ってさ、なんなの? やりたいこと、っていうか」
「俺の夢……?」
「そう。カメラマンになること? それとも、教祖になること?」
「俺は……そりゃなりたいけどさ、カメラマン。でも、古森の才能を腐らせるわけには……」
「勇人は? ……勇人本人の気持ちが、いちばん大事なんじゃないかな。違う?」
茶化すように早風が笑う。
勇人は、ポツリと呟いた。
「俺の、本当の……夢」
伊賀勇人は、気づいていた。ずっと、ずっと。だけど、気づかないふりをしていた。彼は教祖になどなりたくなった。家も慣習も何もかも捨て去って、自由なまま世界に飛び出して、恥も外聞もかなぐり捨てて、世界のすべてを赤裸々にカメラに収めたかった。
であれば、気づいたのなら、眠っている場合ではないだろう。
蝉の音色が、ぐちゃぐちゃにバイオリンの音色を掻き消していく。
「目、覚めた?」
伊賀勇人は目を覚ます。
「うん」
血の霧になった彼に答えて、勇人は立ち上がった。
天使像や観音像、阿修羅像に囲まれて、みんなが死ぬ気で戦っている。良い画になると、勇人は思った。
「俺は……俺の夢は、本当は、ごめん、古森、俺……ずっと――」
教祖になることでもない。弟を助けるなんて嘘だ。本当は、本当は、ずっと。
腕についたリングを優しく撫でる。
「――カメラマンに……なりたかった……」
瞬間、憑き物が取れたかのようにすっと体が軽くなった。
涙がこぼれ出る。しかし、勇人はうつむかない。歯を食いしばって前を向いた。
リングを撫でて、現在のptを確認する。
«現在のptは――13,705ptです»
(15,000ptまで……あと1,300……)
スキルスクロール購入画面にある、15,000ptで購入可能とされている『いじめられっ子サバイバー』中最高額スキル――【模倣】。勇人は即座に、今それが必要だと理解した。
画面をスワイプして表示を切り替える。
«現在の視聴者数は――12,748人です»
1000人集まれば100pt手に入る。
単純計算にして、残り13,000人……。
十分だ、と勇人は思った。
「みなさん、長らくお待たせいたしました」
勇人はリングについたカメラを戦うみなへと向け、にやりと笑う。
「本日の配信は――【いじめられっ子達が格上のAランクダンジョンに挑んでみた】……です」
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