碧の海

ともっぴー

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始まり

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***始まり(黒耀)****

「人間界?そんなもん見てどうすんだ?」
「えへへ、あのね、人間界ってすごいのよ。たくさんの植物があって、可愛い生き物がいて、それにね、水がキラキラしているんですって。あと、お空がね、とっても綺麗なの!」
「ふ~ん。」

興奮した様子で一気にしゃべる杏奈の方がすごそうだ。

「だから、ねぇ、黒耀も一緒に行ってみようよ。」
「え?やだよ。」

そんなの、即答だ。考える余地もない。だが杏奈も必死だったらしい。ギロリと俺を睨み付けると、大きく息を吸い込み、いかにも哀れっぽく声をあげて泣き始めた。

「おいっ、止めろってこんな道端でっ、ちょっ、おいってっっ」

指の隙間から慌てる俺を確認すると、ますます声をあげた。杏奈は背が低い。だから顔を両手で隠して泣くと、まるで俺が小さい子供を苛めているように見える。周りの目がだんだんと集まってくるのを嫌でも感じて焦った。くそっ、目立つのは困るんだ。

・・・折れるしかない。ため息をつき力なく声を掛けた。

「杏奈・・・行くから、黙ってくれ。」
「ん。」

杏奈はゴソゴソとハンカチで顔を拭いた。一応涙も流したらしい。だが、口の端はすっかり上がっていた。


***

人目つかない場所まで移動すると、杏奈はおもむろに持っていた袋から分厚い本を取り出した。さっきから何が入っているのだろうと疑問に思っていたので、ああ、と思った。どうやら見てみたい景色があったようだ。本には人間界の詳しい情報が写真付きでが載ってあった。杏奈は目当てのページを広げると、入念に位置を確認し、慎重に魔方陣を描いていく。

「準備万端かよ。」

描き終えると満足そうに頷き、中腰のまま俺の腕を引いた。

「出来た。行きましょ。」
「うおっ」

油断して構えていなかった俺は、体勢を崩したまま落ちていく。

「ぃてっっ、くそ。」

予定外に速い着地で、肘をしたたかぶつけた。

「わぁ!凄い!みてみてっ!」

無視かよ。思わず舌打ちした。だが、まぁ、なんというか、確かに見る価値はあるな。
杏奈がいう方を見ると、大きな水溜まりが広がっていた。その水面が、光に反射しキラキラと光っている。どこまで続いているのだろう。目で縁を辿っていくと、細長く伸びた端は枝を垂らした木々の中に隠されていた。

「湖っていうのですって。綺麗だわ。」

杏奈が囁くように言った。おや?と思って見ると、嬉しそうに指を指す。ああ、言っていた「可愛い生き物」か。魔界に生息している生き物とは違い、牙を出して襲ってくることも無さそうだ。湖の横で黙々と植物をちぎって食べている。だが俺は、生き物より湖の方に興味を持った。離れて見るとキラキラと光っていたのが、近付くとまた色を変える。透明で、青くて、鏡のようで。木で隠されている部分も気になって、ゆっくりと縁に沿って歩いてみた。杏奈の方を振り替えると、まだ「可愛い生き物」に夢中なようだった。

歩みを進めると、パシャ、と、水の跳ねる音がした。音まで透明で、耳障りがいい。さらに踏み込み、垂れる木の枝を持ち上げると、隠されていた湖の部分が現れた。楕円に広がるそこは、ひっそりと独特の雰囲気に包まれていた。迫る木々の間から溢れる光が、美しい。その時、またパシャ、と水の跳ねる音がした。ふい、と音の方に顔を向け、そのまま動けなくなった。


・・・綺麗だ・・

無意識に声が出た。自分でも驚いた。今までにこんな風に心を奪われたことがあっただろうか。湖の一番奥まったところで、1人の女が産まれたままの姿になって腰まで浸かり、澄んだ水をその白い肌に掬い、かけていた。もっと近寄りたい。が、近寄った途端に消えてしまうのではないかという考えがよぎる。暫く影に隠れて見ていたら、ふいに女は水から出てボロ切れのような布を纏い始めた。美しかった肌が、みるみる間に隠されていく。ああ、なんて勿体ないのだろうと、虚しく嘆いた。女が立ち去ってしまうのを、名残惜しく眺めていた。

「こんなところにいた。いなくなっちゃったかと、慌てたわ。」
「あ?ああ、悪い。」

突然杏奈の声がして、現実に引き戻された。夢だったのかもしれないと、思ってしまう。

「何?どうかした?」
「いや、何でもない。帰ろう。」

帰って、また明日来てみよう。




黒耀の横顔を見つめながら、杏奈はぎゅっ、と手を握り締めていた。


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