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第2節:糸を引く者
第4話:残り香
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蒼のアパートは高円寺駅から徒歩十分ほど、住宅街の奥にあった。古い木造アパートの二階の角部屋。築四十年は超えているだろう。あまり若い女性が好んで選ぶような物件ではない。
外階段の鉄がところどころ錆びていて、踏むたびに乾いた音がした。遥人が合鍵で扉を開けると、人がいなくなって三週間分の冷えた空気が漏れ出す。十月下旬の午後。部屋の中は外よりもひんやりしている。1Kの六畳一間にミニキッチン。中は割と今風にリフォームされているみたいだ。
桐生はまず靴を脱がずに玄関から全体を見渡した。几帳面な部屋だ。本は揃えて並び、キッチンの調味料は等間隔に置かれ、シンクの水切りかごには茶碗が一つだけ伏せてある。だが「きちんとしていた」のは過去の話で、数ヶ月前から生活の手触りが変わった痕跡がいくつかあった。
テーブルの上に就職情報誌が数冊。付箋が途中まで貼られているが、最後の日付は七月。そこで何かが途切れている。エントリーシートの下書きらしきノートも開きっぱなしで、途中から白紙のまま。冷蔵庫はほぼ空で、賞味期限を二ヶ月過ぎた牛乳パックが一つだけ。シンクに洗い物がないのは律儀に洗ったからではなく、そもそも料理をしていないからだ。
ゴミ箱を覗く。コンビニ弁当の容器、スーパーの惣菜パック、ペットボトルのお茶。一人暮らしの女子大生の、食事を作る気力を失った生活の残骸。
その中に、場違いなものが一つ——花柄のタッパーウェア。プラスチック製のどこにでもある保存容器だが、蒼の持ち物ではなさそうだった。蒼の食器は白い無印良品で統一されている。このタッパーは藤色の花柄が蓋にあしらってあり、年配の女性が使いそうなデザインだった。蓋を開けると、内側に煮物の匂いがうっすら残っている。里芋か、大根か。誰かが蒼に手料理を届けていたのだろうか。
本棚に移る。柳田國男、宮本常一、五来重。民俗学のゼミらしい並び。折口信夫、赤坂憲雄。私物らしい文庫本も数冊あったが、しおりの位置はどれも前半で止まっていた。読む気力もなくなっていたか。テーブルの隅にゼミのレジュメが数枚重ねてあり、蒼の手書きの書き込みが几帳面な字で入っていた。最後のレジュメの日付は七月。就活と同時期にゼミからも足が遠のいていたことが分かる。
クローゼットを開けた。服が半分ほどに減っている。残っているのはスーツや冬物のコートなど、旅行には不向きなもの。動きやすい服――パーカーやジーンズの類――が持ち出されていた。どこか山に行くための服を選んでいるようだった。
押し入れの中に段ボール箱が三つあった。中を見ると、蒼の私物が丁寧に詰められていた。アルバム、ぬいぐるみ、文庫本。箱の蓋にマジックで「兄へ」と書かれている。整理された荷物。これは、後始末を済ませた人間の部屋だった。
壁にはスケッチが一枚だけ画鋲で留められていた。A4のコピー用紙に鉛筆で描かれた風景。谷の地形のようにも見える。両側に稜線のようなものがあり、底が深く暗い。写実ではなく、記憶の中の像を手探りで紙に写し取ったような曖昧な線。だが何度も描き直した跡があり、本人にとっては重要な何かだったことが分かる。
パソコンは持ち出されていた。スマートフォンだけが残されている。遥人が警察用に撮っていた検索履歴のスクショを見せてくれた。ほとんどは就活関連とSNS。元彼のアカウントを見に行った形跡が六月に集中し、七月以降は止んでいる。
九月に入ってから様子が変わっていた。山の写真ばかり検索している。「出羽山地」「東北 山 秋」「山形 深い谷」。画像検索で繰り返し開いている写真の構図がどれも似ていた。深い谷を上から見下ろす角度。ある特定の風景を探しているような執拗さがある。「山形 集落 山奥」という検索もあった。
画像フォルダには自分で描いたスケッチの写真が数枚保存されていた。すべて同じモチーフ、山と谷。壁の絵の別バージョンだ。描くたびに少しずつ精度が上がっている。夢の中の像が夜ごとに鮮明になっていくかのように。
そして一枚だけ異質な絵があった。二本の木が上のほうで融合し、アーチを作っている。木の根元に人影のようなものが小さく描かれている。タイムスタンプは失踪二日前の深夜二時。目が覚めてすぐ、消えないうちに描き留めた――。そういう切迫感が線の一本一本に滲んでいる。
目で見るものは見た。次は桐生にしかできないことだ。
「少し一人にさせてください」
遥人を廊下に出し、部屋の中央に立つ、そして目を閉じる。呼吸を落とし、余計な思考を捨てる。自分の匂いを消す。空っぽになる。それから、部屋に残っているものを受け取る。
蒼の残り香が空気の中にまだあった。三週間前の気配が壁や床に染みついて残っている。
残り香は時間とともに薄れるが、消えはしない。特に感情の強い場所には長く残る。蒼がこの部屋で過ごした最後の数日間の気配がまだここにある。
通常の失踪者には色がある。桐生はそれを視覚ではなく、皮膚で受け取る。恐怖で逃げた人間は冷たく鋭い青。衝動的に出た人間は熱い赤。混乱した人間は匂いが四方に散って方角が定まらない。DVの被害者は恐怖と安堵が交互に瞬く。借金で逃げた人間は焦げたような匂いがする。
蒼のそれは、どれでもなかった。
温かく安堵に近い。逃げた人間ではなく、『向かった』人間の匂い。しかもその安堵の底に、桐生が今まで感じたことのない層があった。諦めと希望が溶け合って区別がつかない。
東京を投げ出した匂いではない。もっと根源的な、何かを長い間探していて、それがようやく見つかった。そういう匂いだった。
方角は明確。北北東。迷いのない、強い引き。蒼はそちらに向かった。
そして、もう一つ。蒼の残り香の上に、『もう一人分の気配』が重なっていた。薄いが確かにある。一度や二度ではない。何ヶ月もかけて、この部屋に自分の気配を染み込ませていった人間がいる。
その気配は蒼のものとは異質だった。静かで、温かくて、古い。年齢のことではない。時間の厚みを帯びている。山の中の古い家で嗅ぐ囲炉裏の匂い。何百年も使われた柱の匂い。雪に閉ざされた冬の室内に溜まる煤と人の体温。そしてその奥に……灰。線香でもタバコでもない。もっと乾いた、骨の灰みたいな匂い。
桐生は目を開けた。額に汗が浮いていた。こめかみが微かにずきずきする。読み取りの後には必ずくる反動だ。
「宮城さん。妹さんのところに頻繁に来ていた人はいますか。年上の女性で。五十代か六十代」
遥人は首を傾げた。
「聞いたことないです。なんでそんなことを?」
桐生は答えず、ゴミ箱の花柄のタッパーを指した。
「これ、誰のか分かりますか」
「蒼のじゃないと思いますけど……」
手作りの惣菜、年上の女。蒼の部屋に染みついた古い灰の匂い。糸の端が一本、指に触れた気がした。
外階段の鉄がところどころ錆びていて、踏むたびに乾いた音がした。遥人が合鍵で扉を開けると、人がいなくなって三週間分の冷えた空気が漏れ出す。十月下旬の午後。部屋の中は外よりもひんやりしている。1Kの六畳一間にミニキッチン。中は割と今風にリフォームされているみたいだ。
桐生はまず靴を脱がずに玄関から全体を見渡した。几帳面な部屋だ。本は揃えて並び、キッチンの調味料は等間隔に置かれ、シンクの水切りかごには茶碗が一つだけ伏せてある。だが「きちんとしていた」のは過去の話で、数ヶ月前から生活の手触りが変わった痕跡がいくつかあった。
テーブルの上に就職情報誌が数冊。付箋が途中まで貼られているが、最後の日付は七月。そこで何かが途切れている。エントリーシートの下書きらしきノートも開きっぱなしで、途中から白紙のまま。冷蔵庫はほぼ空で、賞味期限を二ヶ月過ぎた牛乳パックが一つだけ。シンクに洗い物がないのは律儀に洗ったからではなく、そもそも料理をしていないからだ。
ゴミ箱を覗く。コンビニ弁当の容器、スーパーの惣菜パック、ペットボトルのお茶。一人暮らしの女子大生の、食事を作る気力を失った生活の残骸。
その中に、場違いなものが一つ——花柄のタッパーウェア。プラスチック製のどこにでもある保存容器だが、蒼の持ち物ではなさそうだった。蒼の食器は白い無印良品で統一されている。このタッパーは藤色の花柄が蓋にあしらってあり、年配の女性が使いそうなデザインだった。蓋を開けると、内側に煮物の匂いがうっすら残っている。里芋か、大根か。誰かが蒼に手料理を届けていたのだろうか。
本棚に移る。柳田國男、宮本常一、五来重。民俗学のゼミらしい並び。折口信夫、赤坂憲雄。私物らしい文庫本も数冊あったが、しおりの位置はどれも前半で止まっていた。読む気力もなくなっていたか。テーブルの隅にゼミのレジュメが数枚重ねてあり、蒼の手書きの書き込みが几帳面な字で入っていた。最後のレジュメの日付は七月。就活と同時期にゼミからも足が遠のいていたことが分かる。
クローゼットを開けた。服が半分ほどに減っている。残っているのはスーツや冬物のコートなど、旅行には不向きなもの。動きやすい服――パーカーやジーンズの類――が持ち出されていた。どこか山に行くための服を選んでいるようだった。
押し入れの中に段ボール箱が三つあった。中を見ると、蒼の私物が丁寧に詰められていた。アルバム、ぬいぐるみ、文庫本。箱の蓋にマジックで「兄へ」と書かれている。整理された荷物。これは、後始末を済ませた人間の部屋だった。
壁にはスケッチが一枚だけ画鋲で留められていた。A4のコピー用紙に鉛筆で描かれた風景。谷の地形のようにも見える。両側に稜線のようなものがあり、底が深く暗い。写実ではなく、記憶の中の像を手探りで紙に写し取ったような曖昧な線。だが何度も描き直した跡があり、本人にとっては重要な何かだったことが分かる。
パソコンは持ち出されていた。スマートフォンだけが残されている。遥人が警察用に撮っていた検索履歴のスクショを見せてくれた。ほとんどは就活関連とSNS。元彼のアカウントを見に行った形跡が六月に集中し、七月以降は止んでいる。
九月に入ってから様子が変わっていた。山の写真ばかり検索している。「出羽山地」「東北 山 秋」「山形 深い谷」。画像検索で繰り返し開いている写真の構図がどれも似ていた。深い谷を上から見下ろす角度。ある特定の風景を探しているような執拗さがある。「山形 集落 山奥」という検索もあった。
画像フォルダには自分で描いたスケッチの写真が数枚保存されていた。すべて同じモチーフ、山と谷。壁の絵の別バージョンだ。描くたびに少しずつ精度が上がっている。夢の中の像が夜ごとに鮮明になっていくかのように。
そして一枚だけ異質な絵があった。二本の木が上のほうで融合し、アーチを作っている。木の根元に人影のようなものが小さく描かれている。タイムスタンプは失踪二日前の深夜二時。目が覚めてすぐ、消えないうちに描き留めた――。そういう切迫感が線の一本一本に滲んでいる。
目で見るものは見た。次は桐生にしかできないことだ。
「少し一人にさせてください」
遥人を廊下に出し、部屋の中央に立つ、そして目を閉じる。呼吸を落とし、余計な思考を捨てる。自分の匂いを消す。空っぽになる。それから、部屋に残っているものを受け取る。
蒼の残り香が空気の中にまだあった。三週間前の気配が壁や床に染みついて残っている。
残り香は時間とともに薄れるが、消えはしない。特に感情の強い場所には長く残る。蒼がこの部屋で過ごした最後の数日間の気配がまだここにある。
通常の失踪者には色がある。桐生はそれを視覚ではなく、皮膚で受け取る。恐怖で逃げた人間は冷たく鋭い青。衝動的に出た人間は熱い赤。混乱した人間は匂いが四方に散って方角が定まらない。DVの被害者は恐怖と安堵が交互に瞬く。借金で逃げた人間は焦げたような匂いがする。
蒼のそれは、どれでもなかった。
温かく安堵に近い。逃げた人間ではなく、『向かった』人間の匂い。しかもその安堵の底に、桐生が今まで感じたことのない層があった。諦めと希望が溶け合って区別がつかない。
東京を投げ出した匂いではない。もっと根源的な、何かを長い間探していて、それがようやく見つかった。そういう匂いだった。
方角は明確。北北東。迷いのない、強い引き。蒼はそちらに向かった。
そして、もう一つ。蒼の残り香の上に、『もう一人分の気配』が重なっていた。薄いが確かにある。一度や二度ではない。何ヶ月もかけて、この部屋に自分の気配を染み込ませていった人間がいる。
その気配は蒼のものとは異質だった。静かで、温かくて、古い。年齢のことではない。時間の厚みを帯びている。山の中の古い家で嗅ぐ囲炉裏の匂い。何百年も使われた柱の匂い。雪に閉ざされた冬の室内に溜まる煤と人の体温。そしてその奥に……灰。線香でもタバコでもない。もっと乾いた、骨の灰みたいな匂い。
桐生は目を開けた。額に汗が浮いていた。こめかみが微かにずきずきする。読み取りの後には必ずくる反動だ。
「宮城さん。妹さんのところに頻繁に来ていた人はいますか。年上の女性で。五十代か六十代」
遥人は首を傾げた。
「聞いたことないです。なんでそんなことを?」
桐生は答えず、ゴミ箱の花柄のタッパーを指した。
「これ、誰のか分かりますか」
「蒼のじゃないと思いますけど……」
手作りの惣菜、年上の女。蒼の部屋に染みついた古い灰の匂い。糸の端が一本、指に触れた気がした。
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