ある因習村に関する考察

赤紫

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第2節:糸を引く者

第5話:辰巳とき

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 翌日から桐生は蒼の生活圏を歩いた。大学、バイト先、よく行く店、友人。一年間の交友関係を洗い出す。地味な靴底の減る仕事だが、桐生の場合は聞き込みの裏で常にもう一つの感覚が動いている。会う人間ごとに匂いを読み、あの「古い気配」に触れた痕跡がないか探る。

 糸口はバイト先にあった。

 高円寺の商店街を一本入った路地の小さな喫茶店。「珈琲 たけうち」と色褪せた看板がかかっている。
 カウンター六席にテーブル三つ。午後の日差しが窓際に斜めに差し込んで、カウンターの上のガラスの砂糖壺を光らせている。壁には昭和の映画のポスターが何枚か。コーヒーの匂いとトーストの匂いが混ざった、時間の止まったような空間。蒼が一年のときから週三回ほど働いていた店だ。

 店主の竹内は七十代の男性。白髪を短く刈り、清潔なエプロンをかけている。桐生がカウンターに座って名刺を出すと、竹内はコーヒーを一杯淹れてくれた。代金を取ろうとしなかった。

「蒼ちゃんが来なくなってから寂しいよ。愛想がいいわけじゃないんだけど、あの子がいると場が落ち着くんだ。きちんとしてて、気が利いて。常連さんも懐いてたし」

 竹内はコーヒーカップを拭きながら話した。蒼のことを話すときだけ手が止まる。
 桐生は切り出した。

「今年の春、新しいパートの方が入りませんでしたか。年配の女性で」

 竹内の表情が一瞬揺れた。驚きではなく、記憶の底から何かを引き上げるときの微かな困惑。

「ああ、ときさんね、辰巳ときさん。家内の親戚筋の人でね。山形の山のほうから出てきて、東京に慣れるまで少し働きたいって。大人しくて真面目で、仕事も丁寧だった。蒼ちゃんとも仲良くしてくれてた」

「辰巳ときさんは、いつ頃からいつ頃までいました?」

「四月の半ばだったかな、来たのは。九月末に辞めた。『用事が済んだから帰る』って。少し急だったけど、まあそういう約束だったし」

 用事が済んだ。桐生はその言葉を頭の中で反復した。蒼が消えたのは十月三日。ときが去った直後だ。

「奥様のどういうご親戚ですか」

「それがね、家内に聞いたんだけど、『母方の従姉妹の嫁ぎ先の……』とか言ってて、本人もよく分からなくなっちゃったんだよ。『親戚には違いないんだけど、どこで繋がるんだったかしら』って首を傾げてた。まあ田舎の親戚なんてそんなもんだよ」

 親戚だとは思うが、どう繋がるか説明できない。根拠が系図ではなく「印象」にしかない。普通は逆だ。系図で繋がりを知っていて、顔は知らない。この場合は顔を知っているはずなのに、繋がりが出てこない。

 桐生は何気ない調子で次の質問を投げた。

「ときさんの顔、覚えてますか」

「覚えてるよ。毎日顔を合わせてたんだから。えーと、小柄で、髪は後ろで束ねてて……」

 竹内の目が宙をさまよった。カップを拭く手が止まった。何かを掴もうとして、指の間をすり抜けていくような表情。

「あれ? おかしいな。顔立ちの印象がぼんやりする。毎日見てたはずなんだけどね。歳のせいかな。ははは」

 笑ったが、目は笑っていなかった。自分の記憶の不確かさに戸惑っている。
 桐生は表情を変えずにうなずいた。

 次にバイト仲間に当たった。蒼と同じ時間帯にシフトに入っていた二十代の女性。店の外の自販機の前で話を聞いた。

「ときさん? すごくいい人でしたよ。物静かで、押しつけがましくなくて。蒼がしんどそうにしてると何も言わずに仕事を代わってくれて。蒼が『ときさんといると実家にいるみたい』って言ってました」

「ときさんはどんな様子でしたか。蒼さんと一緒のとき」

「休憩時間によくお茶飲んでましたね。ときさんが自分で調合したっていう薬草茶みたいなのを持ってきて。蒼が美味しいって。タッパーでおかずも持ってきてあげてた。煮物とか漬物とか。『田舎のお母さんみたいな人』でしたよ。蒼にとっては、たぶんお母さんの代わりだったんじゃないかな。蒼のお母さん、早くに亡くなってるって聞いてたから」

 タッパー。煮物。蒼の部屋の花柄のタッパーウェア。点が繋がった。

「ときさんの顔、覚えてる?」

 女性は一瞬きょとんとした。当然覚えているという顔で口を開き――そこで止まった。眉間に皺が寄る。

「えっと。小柄で、髪を束ねてて。あれ? 顔は……地味な感じ、としか。おかしいな、毎週会ってたのに。なんでだろう。ちょっと待ってくださいね……」

 女性はスマートフォンを取り出して写真フォルダを探り始めた。バイト仲間との集合写真が何枚かあるはずだという。しばらくスクロールして、首を振った。

「ない。ときさんが写ってる写真、一枚もない。半年も一緒に働いてたのに。撮らなかったのかな。撮ろうとしなかったのかな」

 竹内も、バイト仲間も、半年間ほぼ毎日のように顔を見ていた人間の顔が出てこない。身体的な特徴は言える。服装も言える。だが目鼻の造作になると霧がかかったように曖昧になる。そして写真が一枚もない。

 顔を覚えさせない人間。桐生は経験上、そういう人間がいることを知っていた。詐欺師の中にたまにいる。存在感を消す技術を持った人間。だが辰巳ときの場合は技術の範疇を超えている気がした。技術なら写真には写る。技術なら、意識して思い出そうとすれば思い出せる。ときの場合はそうではない。この女自身が「薄い」のだ。存在の濃度が低い。何かを身に纏っていて、それが周囲の認知を滑らせている。

 蒼の部屋で感じた残り香を思い出した。古い木と煤と灰。あれがこの女の匂いだとすれば、辰巳ときは何ヶ月もかけて蒼の生活圏に入り込み、食事を運び、茶を淹れ、自分の気配を蒼の日常に染み込ませていったことになる。

 桐生は商店街の雑踏を歩きながら考えた。辰巳とき。四月に現れ、九月に消えた。蒼が最も弱っている時期に、最も近い場所にいた女。偶然か。それとも。

 高円寺の夕方は人が多い。若い客が古着屋を覗き、老人がベンチに座り、自転車が狭い道をすり抜けていく。この雑多な街の片隅に、辰巳ときは半年間いた。誰の記憶にも顔を残さないまま。蒼の傍らにだけ、深く、確実に根を下ろして。

 不意に、あの匂いが鼻をかすめた。灰の匂い。古い木の匂い。商店街の雑踏の中に、一瞬だけ。振り返った。人混みの中に、小柄な後ろ姿が――。いや、見間違いだ。俺は疲れているんだ。桐生は首を振って歩き出した。
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