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第2節:糸を引く者
第6話:夢日記
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蒼の大学の同級生にも当たった。民俗学ゼミの仲間だという女性。名前は奈津美。ゼミ棟の横にあるベンチで、紙コップのコーヒーを手に話を聞いた。銀杏の葉が足元に散っていた。あの写真が撮られたのもこのあたりだろう。
「蒼が夏くらいから、バイト先のおばさんの話をよくするようになったんです。『ときさんに相談したらこう言われた』って。就活のこととか、これからどうしようとか」
「蒼さんは普段から人に相談するタイプ?」
「全然」奈津美は即答した。「あの子、絶対に弱み見せない子なんですよ。失恋のときも、私が気づいて聞いたら『大丈夫、もう終わった話だから』って笑って流して。でも目が笑ってないのは分かってた。就活も、私たちの前では何でもない顔してたけど、ゼミの先生に『エントリーシートが書けない』って相談してたの、後から聞きました」
弱みを見せられない子が、バイト先のおばさんにだけは素直になれた。それが何を意味するか。
「ときさんがね、『無理に合わないところに行かなくてもいい。あんたに合う場所はちゃんとある』って言ってくれたんだって、蒼がすごく嬉しそうに話してた。あのときの蒼の顔、覚えてます。なんか、ほっとした顔。ずっと緊張してたのが解けたみたいな」
桐生は黙ってうなずいた。蒼の弱みを整理する。恋人なし、就職先なし、家族は遠い。弱みを人に見せられない性格。そこに温かくて静かで何も求めない年上の女が現れた。手作りの食事、薬草茶。「あんたに合う場所がある」。母の代わりであり、友の代わりであり、逃げ場の代わり。全部をちょっとずつ。
蒼にとって辰巳ときは、唯一の拠り所になっていった。半年かけて、一つずつ、外の世界との繋がりを代替していった。
ときが蒼の心に入り込んでいった時期と重なるように、蒼の夢が始まっていた。
スマートフォンのメモアプリに「夢日記」と題されたフォルダが残されていた。遥人が保存していたスクショを桐生は時系列順に並べて読んだ。
七月、断片的な記述。
「変な夢。山を歩いてた。知らない山。でも道は分かった」
「雪が降ってた。すごく深い雪。でも寒くない」
「暗い場所にいた。洞窟みたいな。でも怖くなかった。むしろ落ち着いた」
蒼はどの夢についても「懐かしい」と書いていた。行ったことのない場所なのに。
八月になると夢の解像度が上がった。頻度も上がった。週に二、三回だったのが、ほぼ毎晩になっている。
「深い谷の底にいた。両側に山。空が細い。温かかった」
「谷の入口に大きな木があった。二本の木がくっついて、上で一つになってた。アーチみたいに。その下をくぐった。くぐったら、空気が変わった。外は秋なのに、中は春みたいだった」
「誰かがいる。顔は見えない。でも待っていてくれる感じがする。ここにいていいよ、って言われてる気がする」
「今日の夢は長かった。谷の奥まで歩いた。家がある。小さい家。中に明かりがついてた。入りたかったけど、目が覚めた。起きたくなかった」
八月下旬のメモで桐生の手が止まった。
「夜、何かの声が聞こえた。声じゃない。音じゃない。頭の中に直接来る感じ。言葉でもない。でも意味は分かる。怖くない。むしろすごく安心する。『帰っておいで』と言ってる気がする。どこに? 分からない。でも身体は知ってる気がする。ときさんの出してくれるお茶を飲んでるときと同じ感じがする」
最後の一文を桐生は二度読んだ。ときの茶と、夢の中の声が、蒼の中では同じ感覚として繋がっている。
九月に入ると就活サイトへのログインが完全に途絶えた。バイトは続けていた。ときがいるから。スマートフォンの検索は山の写真ばかり。友人との連絡が目に見えて減っている。
奈津美は「忙しいのかなと思ってた」と言ったが、忙しかったのではない。蒼の意識は少しずつ、ここではない場所に移っていた。
桐生は七年前を思い出していた。秋田の山村出身の男が東京で消えた案件。三十代、独身、技術系の派遣社員。蒼とは条件がまるで違う。安定した職があり、友人もいた。孤立していなかった。にもかかわらず、ある時期から毎晩同じ場所の夢を見るようになった。深い谷、雪、暗い入口。
男は友人に「俺、毎晩同じ夢を見るんだよ。すげえリアルな夢。起きてからもまだそこにいる感じが抜けない」と話していた。最初は笑い話だった。二ヶ月後、男は笑わなくなった。三ヶ月後、男は消えた。
桐生は男の匂いを追って秋田の山中まで入った。沢筋を遡り、獣道を辿り、紅葉が終わりかけた山のずっと奥まで。ある地点で匂いが突然消えた。消えたのではない。何かに覆われた。見えない壁のようなもので遮られて、それ以上追えなくなった。壁の向こうに匂いがあるのは分かる。だが手が届かない。
そしてそのとき、桐生自身が夢を見始めた。谷の夢、温かい闇の夢、二本の木が作るアーチの夢。三日続けて見て、四日目の朝に桐生は秋田を発った。追うのをやめたら夢は止んだ。あの案件と今回は構造がまったく同じだ。七年の間隔を置いて同じ手口が繰り返されている。同じ場所から糸を引いている誰かがいる。
そして決定的な証言が出た。
バイト仲間の女性が思い出したように言った。
「あ、そういえば。九月の頭くらいだったかな。蒼がシフト終わりにときさんと話し込んでて。片付けしながらちらっと聞こえたんですけど、ときさんが蒼に——『疲れたら、うちに来ればいいよ。山のほうだけど、静かでいいところだから。少し休めばいい』って」
桐生は「そうですか」と応じて礼を言った。声を平静に保つのに少し努力が要った。
店を出てから頭の中で時系列を組み立てた。ときは四月に来た。蒼が一番弱っている時期に、最も近い場所に入り込んだ。半年かけて信頼を得た。蒼の唯一の拠り所になった。夢が始まり、蒼の意識が内側に傾いていった。そして九月。「うちに来ればいい」。
それは誘拐ではない。勧誘ですらない。田舎のおばさんの親切だ。疲れてるなら休みにおいで。
だがその一言は半年間の仕込みの上に乗っている。あの一言を言うために、この女は東京まで来て、喫茶店で皿を洗い、タッパーにおかずを詰め、薬草茶を淹れ、蒼の話を聞き続けたのだ。全部が偶然に見える。全部が善意に見える。そして全部の中心に辰巳ときがいる。
桐生は手帳を閉じた。時系列を書き出したページを眺めた。四月、接触。五月から八月、関係構築。七月、夢の開始。九月、誘い。十月、消失。きれいな線が引ける。きれいすぎる線が。
「蒼が夏くらいから、バイト先のおばさんの話をよくするようになったんです。『ときさんに相談したらこう言われた』って。就活のこととか、これからどうしようとか」
「蒼さんは普段から人に相談するタイプ?」
「全然」奈津美は即答した。「あの子、絶対に弱み見せない子なんですよ。失恋のときも、私が気づいて聞いたら『大丈夫、もう終わった話だから』って笑って流して。でも目が笑ってないのは分かってた。就活も、私たちの前では何でもない顔してたけど、ゼミの先生に『エントリーシートが書けない』って相談してたの、後から聞きました」
弱みを見せられない子が、バイト先のおばさんにだけは素直になれた。それが何を意味するか。
「ときさんがね、『無理に合わないところに行かなくてもいい。あんたに合う場所はちゃんとある』って言ってくれたんだって、蒼がすごく嬉しそうに話してた。あのときの蒼の顔、覚えてます。なんか、ほっとした顔。ずっと緊張してたのが解けたみたいな」
桐生は黙ってうなずいた。蒼の弱みを整理する。恋人なし、就職先なし、家族は遠い。弱みを人に見せられない性格。そこに温かくて静かで何も求めない年上の女が現れた。手作りの食事、薬草茶。「あんたに合う場所がある」。母の代わりであり、友の代わりであり、逃げ場の代わり。全部をちょっとずつ。
蒼にとって辰巳ときは、唯一の拠り所になっていった。半年かけて、一つずつ、外の世界との繋がりを代替していった。
ときが蒼の心に入り込んでいった時期と重なるように、蒼の夢が始まっていた。
スマートフォンのメモアプリに「夢日記」と題されたフォルダが残されていた。遥人が保存していたスクショを桐生は時系列順に並べて読んだ。
七月、断片的な記述。
「変な夢。山を歩いてた。知らない山。でも道は分かった」
「雪が降ってた。すごく深い雪。でも寒くない」
「暗い場所にいた。洞窟みたいな。でも怖くなかった。むしろ落ち着いた」
蒼はどの夢についても「懐かしい」と書いていた。行ったことのない場所なのに。
八月になると夢の解像度が上がった。頻度も上がった。週に二、三回だったのが、ほぼ毎晩になっている。
「深い谷の底にいた。両側に山。空が細い。温かかった」
「谷の入口に大きな木があった。二本の木がくっついて、上で一つになってた。アーチみたいに。その下をくぐった。くぐったら、空気が変わった。外は秋なのに、中は春みたいだった」
「誰かがいる。顔は見えない。でも待っていてくれる感じがする。ここにいていいよ、って言われてる気がする」
「今日の夢は長かった。谷の奥まで歩いた。家がある。小さい家。中に明かりがついてた。入りたかったけど、目が覚めた。起きたくなかった」
八月下旬のメモで桐生の手が止まった。
「夜、何かの声が聞こえた。声じゃない。音じゃない。頭の中に直接来る感じ。言葉でもない。でも意味は分かる。怖くない。むしろすごく安心する。『帰っておいで』と言ってる気がする。どこに? 分からない。でも身体は知ってる気がする。ときさんの出してくれるお茶を飲んでるときと同じ感じがする」
最後の一文を桐生は二度読んだ。ときの茶と、夢の中の声が、蒼の中では同じ感覚として繋がっている。
九月に入ると就活サイトへのログインが完全に途絶えた。バイトは続けていた。ときがいるから。スマートフォンの検索は山の写真ばかり。友人との連絡が目に見えて減っている。
奈津美は「忙しいのかなと思ってた」と言ったが、忙しかったのではない。蒼の意識は少しずつ、ここではない場所に移っていた。
桐生は七年前を思い出していた。秋田の山村出身の男が東京で消えた案件。三十代、独身、技術系の派遣社員。蒼とは条件がまるで違う。安定した職があり、友人もいた。孤立していなかった。にもかかわらず、ある時期から毎晩同じ場所の夢を見るようになった。深い谷、雪、暗い入口。
男は友人に「俺、毎晩同じ夢を見るんだよ。すげえリアルな夢。起きてからもまだそこにいる感じが抜けない」と話していた。最初は笑い話だった。二ヶ月後、男は笑わなくなった。三ヶ月後、男は消えた。
桐生は男の匂いを追って秋田の山中まで入った。沢筋を遡り、獣道を辿り、紅葉が終わりかけた山のずっと奥まで。ある地点で匂いが突然消えた。消えたのではない。何かに覆われた。見えない壁のようなもので遮られて、それ以上追えなくなった。壁の向こうに匂いがあるのは分かる。だが手が届かない。
そしてそのとき、桐生自身が夢を見始めた。谷の夢、温かい闇の夢、二本の木が作るアーチの夢。三日続けて見て、四日目の朝に桐生は秋田を発った。追うのをやめたら夢は止んだ。あの案件と今回は構造がまったく同じだ。七年の間隔を置いて同じ手口が繰り返されている。同じ場所から糸を引いている誰かがいる。
そして決定的な証言が出た。
バイト仲間の女性が思い出したように言った。
「あ、そういえば。九月の頭くらいだったかな。蒼がシフト終わりにときさんと話し込んでて。片付けしながらちらっと聞こえたんですけど、ときさんが蒼に——『疲れたら、うちに来ればいいよ。山のほうだけど、静かでいいところだから。少し休めばいい』って」
桐生は「そうですか」と応じて礼を言った。声を平静に保つのに少し努力が要った。
店を出てから頭の中で時系列を組み立てた。ときは四月に来た。蒼が一番弱っている時期に、最も近い場所に入り込んだ。半年かけて信頼を得た。蒼の唯一の拠り所になった。夢が始まり、蒼の意識が内側に傾いていった。そして九月。「うちに来ればいい」。
それは誘拐ではない。勧誘ですらない。田舎のおばさんの親切だ。疲れてるなら休みにおいで。
だがその一言は半年間の仕込みの上に乗っている。あの一言を言うために、この女は東京まで来て、喫茶店で皿を洗い、タッパーにおかずを詰め、薬草茶を淹れ、蒼の話を聞き続けたのだ。全部が偶然に見える。全部が善意に見える。そして全部の中心に辰巳ときがいる。
桐生は手帳を閉じた。時系列を書き出したページを眺めた。四月、接触。五月から八月、関係構築。七月、夢の開始。九月、誘い。十月、消失。きれいな線が引ける。きれいすぎる線が。
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