ある因習村に関する考察

赤紫

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第2節:糸を引く者

第7話:山形行き

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 十月二日か三日。蒼のアパートの大家がその日の蒼を見ていた。六十代の女性で、一階に住んでいる。桐生が訪ねると、玄関先のプランターに水をやりながら話してくれた。

「蒼ちゃんが荷物持って出ていくのを見たよ。リュックと大きめのバッグ。旅行かなと思ったけど。隣にあの人がいた。小柄なおばさん。前にも何回か蒼ちゃんを訪ねて来てた人」

「何回くらい来ていましたか」

「月に三、四回かねえ。夕方に来て、一時間くらいいて帰るの。手にいつも何か持ってた。買い物袋みたいなの。差し入れかね」

 タッパーだろう。桐生はうなずいた。

「出ていく日の蒼さんの様子は」

「いつもよりちょっと元気そうだった。笑ってたもん。最近あんまり笑わなくなってたから、ああ、よかったなって思った。あのおばさんと話しながらニコニコしてて。あたしに気づいて『行ってきます』って言ったの。『行ってきます』って。帰ってくるつもりだったのか、それとも口癖なのか。今になっては分からないけどね」

「そのおばさんの顔は」

 大家は首をひねった。

「小柄で、髪を後ろで束ねてて……。顔がね、『いつもぼんやりする』の。何回見ても、後で思い出そうとすると輪郭しか出てこない。あたしの目が悪いのかねえ」

 この人もそうか。

 桐生は警察の伝手を使い、駅の防犯カメラの映像を辿った。JR高円寺駅の改札を蒼が通る。隣に小柄な女性。中央線のホーム。東京駅の乗り換え通路。二人は並んで歩いている。蒼は終始落ち着いた足取りだった。周囲を気にする素振りもなく、逃げる人間の動きではない。どこかに向かう人間の、確信を持った歩き方。蒼の方がときよりも背が高く、ときが蒼を見上げて何か話しかけている場面もあった。蒼が笑っている。

 山形新幹線のホーム。二人が並んで乗り込む。蒼が先に乗り、ときが後から続く。ときの手が蒼の背中に軽く添えられている。母親が娘を見送る仕草に似ている。ときの顔はやはり不鮮明だった。同じフレームに映っている他の乗客の顔ははっきり見えるのに、ときの顔だけがぼやけている。ピントが合っていないのではない。顔の部分だけが、映像の中で「滑っている」としか言いようがない。

 桐生は映像を巻き戻して何度も確認した。ときの身体は映っている。服装も分かる。地味な色合いの上着に、黒いズボン。髪を後ろで一つに束ねている。だが顔だけが像を結ばない。駅の監視カメラは複数のアングルから撮影しているが、どのカメラでも結果は同じだった。
 山形駅。改札を出る二人が最後の映像だった。蒼が改札を通り、ときが続く。蒼はまっすぐ前を向いている。迷いのない足取り。ときが改札を抜けた直後、一度だけカメラの方を向いた、ように見えた。その一瞬、桐生はモニターの前で身体が強張った。不鮮明な映像の中で、ときの目だけが妙にはっきり映っていた。暗い目。深い目。こちらを見ている。カメラのレンズを通して、この映像を後から見る人間を見ている。そんな錯覚を覚えて、桐生は映像を止めた。数秒間、ときの目と見つめ合った。それからモニターの電源を切った。

 山形駅の改札を出た後、二人の足取りは完全に途絶えた。桐生は山形の知り合いの探偵に協力を頼み、駅周辺の防犯カメラ映像を可能な限り集めたが、改札以降の二人の姿はどこにも映っていなかった。レンタカーもタクシーもバスも記録がない。駅前のロータリーは常にカメラの死角がなく、歩いて出れば必ずどれかに映る。映っていない。改札を出た二人は、五メートルも歩かないうちに消えた。

 並行して辰巳ときの身元を追った。これが桐生の本業であり、得意分野だ。人間は必ず痕跡を残す。住所、電話番号、銀行口座、保険証、年金番号。現代社会で半年間生活すれば、どこかに記録が残る。残らない人間はいない、はずだった。

 喫茶店の雇用記録に載っていた住所に行った。都内の安いアパートの住所だが、該当する番地にアパートは存在しなかった。番地そのものがない。桐生は住民票の照会もかけたが空振り。携帯番号は解約済みのプリペイドSIM。コンビニで買える使い捨て。健康保険証のコピーが雇用書類に添付されていたが、記載されている番号を問い合わせると「該当なし」。保険証そのものが偽造だった。精巧な偽造ではない。番号がでたらめなだけだ。竹内はそれを確認しなかった。確認する必要を感じなかった。なぜなら「親戚だから」。

 辰巳ときという名前も、おそらく偽名だろう。この名前で登録された住民票は日本中どこにもなかった。半年間、東京の喫茶店で働き、蒼の部屋に通い、食事を届け、茶を淹れた女。その女が実在した証拠は、竹内と妻とバイト仲間の曖昧な記憶だけだ。写真は一枚もない。防犯カメラの映像には顔がぼやけた人影が映っているだけ。

 竹内の奥さんにもう一度会った。穏やかな七十代の女性。桐生は丁寧に尋ねた。

「ときさんを、どなたからご紹介されましたか」

 奥さんは目を瞬いた。

「紹介……。あの人が来たとき、親戚だと思ったのよ。確かにそう思ったの。玄関を開けたら立ってて、ああ、親戚の人が来たんだなって。でも、あれ? 誰かに紹介されたはず。電話があったはず。でも誰からだったかしら」

 奥さんは自分の携帯の着信履歴を遡ったが、該当する電話は見つからなかった。困惑した顔で「おかしいわねえ」と何度も繰り返した。

 嘘をついているのではない。困惑しているのだ。自分の記憶が頼りにならないことに戸惑っている。

 辰巳とき。住所は偽物、電話は使い捨て、書類は全て偽造。顔を覚えている人間がいない。写真が一枚もない。親戚だと認識していた人間すら、その根拠を説明できない。この女の周囲にいた人間は全員、ときに関する認知が曖昧になっている。いたはずなのに顔が出ない。紹介されたはずなのに電話の記録がない。

 桐生はこれまで何百件と人探しをしてきたが、こんな「消え方」をする人間は初めてだった。逃げているのではない。隠れているのでもない。『最初からいなかった』かのように、周囲の認知と記録から滑り落ちていく。

 蒼の残り香を改めて思った。あの安堵。あの温かさ。そしてときの気配——古い木と灰の匂い。東京にいた半年間、ときの残り香は薄いながらも追えた。バイト先に。蒼の部屋に。駅の改札に。しかし山形から先は、ときの匂いも蒼の匂いも、何かの内側に吸い込まれたように霧散していた。四方に拡散するのではなく、ある一点に収束して消える。その一点がどこなのかは、桐生の感覚をもってしても読み取れなかった。壁がある。厚い壁。七年前、秋田の山中で感じたのと同じ壁だ。
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