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第2節:糸を引く者
第8話:休学届
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それから一週間、桐生は山形行きを検討した。現地に行けばもう少し辿れるかもしれない。蒼の残り香は山形駅までは追えた。覆われてはいるが、完全には消えていない。あの壁の手前まで行けば何かが分かるかもしれない。七年前は壁の前で引き返した。今回は……。
だがその考えを振り払うように、遥人から電話が来た。
「すみません、桐生さん。依頼を取り下げさせてください」
声が変わっていた。三週間前の焦燥がない。平坦で、静かで、それでいてどこか遠い。電話の向こうで風の音がしていた。外にいるのだろう。
「妹から連絡がありました。元気にしてるそうです。しばらく自分を見つめ直したいって。もう大丈夫です」
「連絡があった。電話ですか」
「手紙です」
「差出人の住所は」
長い沈黙。風の音だけが聞こえている。
「書いてなかったんですけど、筆跡はあの子のものでした。間違いないです」
「消印は」
さらに長い沈黙。しばらくして遥人はこう言った。怒りや悲しみが消えて、代わりにあるのは、安堵だった。蒼の部屋で桐生が感じたのと同じ色の安堵。
「桐生さん。『あの子は自分でそこに行ったんです』。誰かに連れて行かれたんじゃない。あの子が選んだんです。だから、もういいんです」
声に迷いがなかった。事務所に来たときの遥人とは別人だった。あのとき、遥人は怯えていた。妹を失った恐怖で震えていた。今の遥人には恐怖がない。恐怖の代わりに何かが入っている。それが何なのか、桐生には分かった。分かったから背筋が冷えた。
「俺も少し考えたいことがあって。しばらく東京を離れます」
「宮城さん。あなた、ここ数日で誰かに会いましたか。誰かから手紙以外に――」
「ありがとうございました。本当に」
通話が切れた。
その日のうちに遥人のSNSアカウントが全て消えた。YouTubeチャンネルも非公開に。電話は着信拒否。桐生がマンションを訪ねると、もう引き払われていた。大家によれば「急に実家に帰ると言って」出ていったという。荷物は最小限しか持たず、家具はそのまま。退去届だけが丁寧に書かれてポストに入っていた。実家は山形県。
蒼と同じだ。蒼も荷物を最小限に絞り、後始末だけきちんとして、消えた。消え方が同じだ。消え方を教えた人間が同じだ。
遥人の声を反芻した。あの安堵は蒼の部屋で感じた残り香と同じ色をしていた。恐怖でも混乱でもない。『自ら向かっている』人間の声。手紙が最後の一押しだったのだろう。妹が安全だと知らせることで「探す理由」が消える。探す理由がなくなれば東京にいる理由もない。遥人も親がいない。土地に根がない。アカウントを消せば社会的に消える人間。条件はすべて揃っていた。最初から揃っていた。蒼だけではなかった。兄も含めて、最初から二人分だったのかもしれない。
事務所に戻った桐生はボイスレコーダーを回した。自分用の記録。依頼人のいない案件の、誰に聞かせるあてもない報告書。
「整理する。宮城蒼、二十三歳。W大学文学部。失恋と就活で弱っていたところに、バイト先を通じて辰巳ときという女が接近した。半年かけて信頼関係を構築し、蒼の唯一の拠り所になった。蒼はその間、山の夢を繰り返し見るようになった。十月、蒼はときと共に自発的に山形に向かい、消えた。辰巳ときの身元は一切追えない。顔を覚えている人間がいない。書類は全て偽造。三週間後、依頼人の兄宮城遥人も東京を引き払い山形に消えた。全てが自発的。暴力ゼロ、脅迫ゼロ。法的には事件性なし」
沈黙。窓の外で中央線が走る音。
「でも一本の糸が端から端まで通っている。誰がときを送り込んだ。ときの背後に何がある。山形の山の奥に何がある」
また沈黙。
「七年前と同じだ。あのときも、夢、山、消失。追い始めてから俺自身が夢を見た。深い谷、雪、そして温かい闇。行きたいと思った。追跡をやめたら夢は止んだ。今回も見ている、蒼さんの部屋に入った夜から。まだ二回だけだ。谷底から空を見上げる夢。空が細く暗い。怖くはない。むしろ温かさを感じる景色。二本の木の下に俺は立っている。俺はそれをくぐりたいと思っている。――やめろ」
声が低くなった。
「俺は探偵だ、見つけるのが仕事だ。だが見つけてはいけないものがある。追えば追うほど、向こうに引っ張られる。蒼さんの匂いの向こうにあるのは蒼さんじゃない。蒼さんを引き込んだ何かだ。この案件はここで閉じる」
ボイスレコーダーを止めかけて、止めた。
「――一つだけ追記する」
案件を閉じた後、桐生はW大学の学生課に問い合わせていた。身分は親族の代理人。確認したかったのは一点だけ。
「宮城蒼の休学届が、九月二十日付で受理されていた」
届の理由は「一身上の都合」。蒼の自筆の署名。窓口の職員は「ご本人が直接持ってこられました。特に変わった様子はなかったと思います」と答えた。
遥人は知らなかった。友人の奈津美も知らなかった。蒼は失踪の二週間前に、誰にも告げず大学を離れる手続きを済ませていた。アパートの家賃は三ヶ月分前払い。私物は段ボールに詰めて兄宛のラベルが貼ってあった。電気・ガス・水道の解約届はなかったが、それは兄に部屋を見つけてもらうための猶予だろう。衝動ではない。『準備されていた』。
ときの「うちに来ればいい」が九月の頭。休学届が九月二十日。約三週間。
「早すぎないか。おばさんの社交辞令を真に受けて三週間で休学届を書く二十三歳がいるか。いや、いない。普通はいない。だが蒼さんの中では、そ一言のずっと前から決まっていたのかもしれない。毎晩の夢、谷、二本の木。『帰っておいで』という声。ときの一言は最後のピースだっただけだ。もう帰っていい。あんたが帰りたかった場所に道がある、と」
長い沈黙。レコーダーの動作音だけが響く。
「蒼さんは自分の意志で休学届を書いた。自分の意志で荷物をまとめた。自分の意志で新幹線に乗った。自分の意志で笑って『行ってきます』と言った。『その意志がどこから来たものかを、俺はこれ以上追わない』」
停止ボタンを押す指が微かに震えていた。
窓の外では中央線の高架を電車が走り抜けていく。いつもの夕暮れ、いつもの音。だが北の空だけが少し赤かった。茜色の夕焼けが山形のある方角だけに滲んでいた。桐生はしばらくそれを見つめてからカーテンを引いた。
事務所の蛍光灯が白く光っている。影が少ない。影が少ない場所にいると少しだけ安心する。なぜそう思うのかは分からなかったが、今は分からないままにしておくことにした。
だがその考えを振り払うように、遥人から電話が来た。
「すみません、桐生さん。依頼を取り下げさせてください」
声が変わっていた。三週間前の焦燥がない。平坦で、静かで、それでいてどこか遠い。電話の向こうで風の音がしていた。外にいるのだろう。
「妹から連絡がありました。元気にしてるそうです。しばらく自分を見つめ直したいって。もう大丈夫です」
「連絡があった。電話ですか」
「手紙です」
「差出人の住所は」
長い沈黙。風の音だけが聞こえている。
「書いてなかったんですけど、筆跡はあの子のものでした。間違いないです」
「消印は」
さらに長い沈黙。しばらくして遥人はこう言った。怒りや悲しみが消えて、代わりにあるのは、安堵だった。蒼の部屋で桐生が感じたのと同じ色の安堵。
「桐生さん。『あの子は自分でそこに行ったんです』。誰かに連れて行かれたんじゃない。あの子が選んだんです。だから、もういいんです」
声に迷いがなかった。事務所に来たときの遥人とは別人だった。あのとき、遥人は怯えていた。妹を失った恐怖で震えていた。今の遥人には恐怖がない。恐怖の代わりに何かが入っている。それが何なのか、桐生には分かった。分かったから背筋が冷えた。
「俺も少し考えたいことがあって。しばらく東京を離れます」
「宮城さん。あなた、ここ数日で誰かに会いましたか。誰かから手紙以外に――」
「ありがとうございました。本当に」
通話が切れた。
その日のうちに遥人のSNSアカウントが全て消えた。YouTubeチャンネルも非公開に。電話は着信拒否。桐生がマンションを訪ねると、もう引き払われていた。大家によれば「急に実家に帰ると言って」出ていったという。荷物は最小限しか持たず、家具はそのまま。退去届だけが丁寧に書かれてポストに入っていた。実家は山形県。
蒼と同じだ。蒼も荷物を最小限に絞り、後始末だけきちんとして、消えた。消え方が同じだ。消え方を教えた人間が同じだ。
遥人の声を反芻した。あの安堵は蒼の部屋で感じた残り香と同じ色をしていた。恐怖でも混乱でもない。『自ら向かっている』人間の声。手紙が最後の一押しだったのだろう。妹が安全だと知らせることで「探す理由」が消える。探す理由がなくなれば東京にいる理由もない。遥人も親がいない。土地に根がない。アカウントを消せば社会的に消える人間。条件はすべて揃っていた。最初から揃っていた。蒼だけではなかった。兄も含めて、最初から二人分だったのかもしれない。
事務所に戻った桐生はボイスレコーダーを回した。自分用の記録。依頼人のいない案件の、誰に聞かせるあてもない報告書。
「整理する。宮城蒼、二十三歳。W大学文学部。失恋と就活で弱っていたところに、バイト先を通じて辰巳ときという女が接近した。半年かけて信頼関係を構築し、蒼の唯一の拠り所になった。蒼はその間、山の夢を繰り返し見るようになった。十月、蒼はときと共に自発的に山形に向かい、消えた。辰巳ときの身元は一切追えない。顔を覚えている人間がいない。書類は全て偽造。三週間後、依頼人の兄宮城遥人も東京を引き払い山形に消えた。全てが自発的。暴力ゼロ、脅迫ゼロ。法的には事件性なし」
沈黙。窓の外で中央線が走る音。
「でも一本の糸が端から端まで通っている。誰がときを送り込んだ。ときの背後に何がある。山形の山の奥に何がある」
また沈黙。
「七年前と同じだ。あのときも、夢、山、消失。追い始めてから俺自身が夢を見た。深い谷、雪、そして温かい闇。行きたいと思った。追跡をやめたら夢は止んだ。今回も見ている、蒼さんの部屋に入った夜から。まだ二回だけだ。谷底から空を見上げる夢。空が細く暗い。怖くはない。むしろ温かさを感じる景色。二本の木の下に俺は立っている。俺はそれをくぐりたいと思っている。――やめろ」
声が低くなった。
「俺は探偵だ、見つけるのが仕事だ。だが見つけてはいけないものがある。追えば追うほど、向こうに引っ張られる。蒼さんの匂いの向こうにあるのは蒼さんじゃない。蒼さんを引き込んだ何かだ。この案件はここで閉じる」
ボイスレコーダーを止めかけて、止めた。
「――一つだけ追記する」
案件を閉じた後、桐生はW大学の学生課に問い合わせていた。身分は親族の代理人。確認したかったのは一点だけ。
「宮城蒼の休学届が、九月二十日付で受理されていた」
届の理由は「一身上の都合」。蒼の自筆の署名。窓口の職員は「ご本人が直接持ってこられました。特に変わった様子はなかったと思います」と答えた。
遥人は知らなかった。友人の奈津美も知らなかった。蒼は失踪の二週間前に、誰にも告げず大学を離れる手続きを済ませていた。アパートの家賃は三ヶ月分前払い。私物は段ボールに詰めて兄宛のラベルが貼ってあった。電気・ガス・水道の解約届はなかったが、それは兄に部屋を見つけてもらうための猶予だろう。衝動ではない。『準備されていた』。
ときの「うちに来ればいい」が九月の頭。休学届が九月二十日。約三週間。
「早すぎないか。おばさんの社交辞令を真に受けて三週間で休学届を書く二十三歳がいるか。いや、いない。普通はいない。だが蒼さんの中では、そ一言のずっと前から決まっていたのかもしれない。毎晩の夢、谷、二本の木。『帰っておいで』という声。ときの一言は最後のピースだっただけだ。もう帰っていい。あんたが帰りたかった場所に道がある、と」
長い沈黙。レコーダーの動作音だけが響く。
「蒼さんは自分の意志で休学届を書いた。自分の意志で荷物をまとめた。自分の意志で新幹線に乗った。自分の意志で笑って『行ってきます』と言った。『その意志がどこから来たものかを、俺はこれ以上追わない』」
停止ボタンを押す指が微かに震えていた。
窓の外では中央線の高架を電車が走り抜けていく。いつもの夕暮れ、いつもの音。だが北の空だけが少し赤かった。茜色の夕焼けが山形のある方角だけに滲んでいた。桐生はしばらくそれを見つめてからカーテンを引いた。
事務所の蛍光灯が白く光っている。影が少ない。影が少ない場所にいると少しだけ安心する。なぜそう思うのかは分からなかったが、今は分からないままにしておくことにした。
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